シベリア抑留者の言葉。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

 バックにはバイオリンの演奏曲が流れてイます。

今日も暖かい朝が期待でき祖王です。

一日一生のつもりで動きたいものです。

死ぬ前に またウクライナを経験する人もいるのですね。日差しのきつさを 実感しています。

暮らしは苦しいけれど 人の思いやりも大切です。

 ウクライナに大切なお金を 寄付してきました。

シベリヤの抑留者は言葉にならないソ連体質に生きどうりを 禁じ得ないのでしょうね

「卑劣なやり方、許せない」シベリア抑留帰還者 95歳の庄子英吾さん ウクライナ

侵攻に (2022年03月27日)

ロシア軍のウクライナ侵攻という〝蛮行〟をめぐっては、日本も77年前に同じような

暴挙を経験している。ロシア前身国の旧ソ連は昭和20年夏、武装解除した旧満州国

将兵らをシベリアなどに連行し、約6万人が息絶えた。仙台市太白区の庄子英吾さん(

95)も抑留された1人。今回のウクライナ侵攻で庄子さんは戦友の命を奪ったソ連

行為が思い起こされ、怒りで唇をかみしめる。

「何ら話し合いもなく、突然武力を持ち込むことは論外だ。プーチン露大統領は正気の

沙汰ではないのではないか」

庄子さんは27日までに、産経新聞の取材にこう述べ、プーチン氏を非難した。高齢者

向け住宅で暮らす庄子さんはウクライナ侵攻の新聞記事は丹念に目を通す。市民への無

差別攻撃もためらわないロシア軍の無法行為と、シベリア抑留が重なるからだ。

「武器を捨て、丸腰になった者を帰国させるとだまして抑留し、悲劇を起こした。卑劣

といえるやり方は断じて許せない」

庄子さんは仙台市出身。昭和19年12月、下関港下関市)から朝鮮半島経由で満州

に渡った。満州国陸軍軍官学校で勉学と武道にいそしむ生活は20年8月9日、ソ連

日ソ中立条約を破って一変した。庄子さんも爆弾を背負い戦車に向かう自爆訓練を重ね

た。戦車砲も戦車もない。ソ連軍に対峙(たいじ)するには肉弾戦しかなかった。

8月15日、ラジオで玉音放送が流れた。終戦を知り、周りも自分も茫然(ぼうぜん)

自失、涙を流した。自殺を図った者は区隊長に諭され、思いとどまった。

ソ連軍の指揮のもと武装を解除した。日本が受諾し、ソ連も参加したポツダム宣言は武

装解除した日本の将兵は各自の家庭に復帰させると規定している。庄子さんも復員し、

再起を期すと誓った。

庄子さんらは帰国のためとされた貨車に乗り、満州国の新京(現・長春)を後にした。

ソ連兵も「トウキョウ、ダモイ(帰国)」とジェスチャーを交え、語りかけた。捕虜に

なるなど考えず、防寒対策も十分ではなかった。

満州を北上し、黒竜江を渡り、夜に対岸のソ連のブラゴエ駅に到着。鉄道はこの先、分

岐している。東に進めば極東ウラジオストク、西に進めばモスクワ。貨車は東の方角の

太陽に向かうか、どうか─。

翌朝、貨車は太陽を背に走っていた。

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「だまされた!」

同年10月、行きついた先はシベリアど真ん中の炭鉱の町、ブカチャーチャー。ロシア

語の呼び名は「悪魔の棲む所」。足元の水たまりは氷が張っていた。

庄子さんらは森林伐採から鉄道敷設、石炭の貨車積み込みに従事した。零下40~50

度になる極寒での作業は鼻が凍傷になっても、まひして気が付かない。手遅れになり指

を切断した戦友も数多かった。

食事も少量の大豆スープとわずかな黒パンのみ。育ち盛りの若者にはあまりに少なく、

庄子さんも骨と皮の見た目になっていた。

さらにシラミが苦しめた。みなが着替えの服はなく、シラミが大量発生し、発疹チフス

を媒介した。ある者は高熱で意識がもうろうとし、部屋を徘徊(はいかい)する。ある

者は「船が来た。国に帰る」と叫び、戸外に出て凍死した。大勢の戦友が両親や妻子の

名前を呼びながら倒れた。

庄子さんもチフスで1週間以上意識を失った。回復後の仕事は戦友の遺体を大八車に載

せ、2、3キロ離れた落葉松が立つ「墓地」に運び、埋葬することだった。棺おけはな

く、遺体はテント張りの小屋に安置される。カチコチに凍った遺体は何度も車から滑り

落ちては、拾い上げた。

23年9月、飢えと寒さに苦しんだ庄子さんらは帰国を果たす。入ソ当時、約200人

いた同期生は83人が亡くなった。旧友と平成初頭、遺骨調査団を結成し、シベリアに

渡った。落葉松が立つ墓地から戦友の遺骨を収集、千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田

区)に埋葬した。

庄子さんは長い間、抑留体験を家族にも封印していたが、平成20年代半ばから講演を

行い、戦争体験を文書でまとめている。シベリア抑留の事実が学校でろくに教えられて

いないと知ったからだ。

「俺は帰国の際、必ず迎えに来るからと約束した。その約束を果たすために遺骨収集に

参加して遺骨を千鳥ケ淵墓苑に合祀(ごうし)した。これらの英霊に95歳まで生かさ

れたと思っている。だから死ぬまで語り続け、書き続ける覚悟だ」

体の調子を崩し、しゃべることもかなわなくなったが、それでも無理を押し、ひらがな

の五十音表に指さしながら取材に応じる。

戦争には反対だ。だが、祖国を守る気概を持つべきだ。庄子さんは若者たちにこう思い

を託す。

「望むならば、殴られたら、殴り返す。この気迫だけは持ってほしい。それに耐え得る

体力と力を養ってほしい」(奥原慎平)

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2今日はお好み焼きを 楽しみたく思います。