小児がん【命の輝き】。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 オレンジの日の出、小鳥のさえづり

蜂たちがいそがしげに羽音を立てて

時としてみこちゃんの周りを

離れようとしません。

これも追い払うことなく、じっと耐えていると

やがて離れていきます。

258グラムで誕生した手のひらに乗るようなとっても軽い命。

昨日3340グラムにまで成長し元気に痰飲の日を迎えられました。

どうぞ大きく羽ばたきあらゆる希望の星として巣立ってほしいものです。

  命のカレンダーは人さまざま!

これをどのように受け入れ消化するかはその人のもの。

生後2か月で小児がんとなり、短い歳のあまりにもひどすぎる命の旅立ちもあります。

これを受容されたご両親の思いは、いかばかりかしれません。

           子どもの苦痛を自分の身に重ね置く母親の思い

けなげなわが子が、がんの病魔と闘う姿に

やりきれないご両親のお気持ち。

わが命、時をいたずらに過ごしてきたような気がして身がすくみそう… …

 百歳をくるしみぬいてのお迎えもあることでしょう。

 みこちゃんは思う。

どのような状態での病からのエンディングであろうと

後悔のなきよう過ごしたうえでの

苦しみであってもそれは耐え抜けるとの強い意志だけは蓄えています。

 小児病棟の子供たちは、人に対する思いやりは素晴らしいものがあると聞きます。

それはひとえに自分もくるしみぬいた上からの

支えることのできる愛といえるのではなかろうか?

小児がん外科医 - 君たちが教えてくれたこと (中公文庫) | 松永 正訓 |本 ...

短編ドキュメントです。

 松永先生はプロローグで述べておられます。

 小児がんで短い命を萌えつくした子供たちは

決して不幸ではありません!

それは命が燃え尽きるその瞬間まで輝き続けているということです。

自らも苦しくやり場のない闘病生活の中にあっても

人へのいたわりと思いやりは健全である。

 走り抜けるかのような命であっても決して不幸な子供とは思わないでいただきたい。

 お医者さんはおっしゃっています。

小児がんの生存率はむかしはわずか20パーセント

今では70パーセントにまで改善しました。

 小児がん発症児の生涯は小児がんからの脱却はできないと…

 医師の視点から13 14トリソミー症候群にも先生の著書に触れてあります。

トリソミー症候群は染色体の異常児として

短命の命の生モアことを書き記されています。

そこここに奇形が生じています。

それはまるで人間の姿とは思えないほどの生命の運命です。

松永先生は深く深く命について掘り下げられておられます。

トリソミーとして生まれたならば、脳の働きがなされないために

あらゆる欠損機能があちこちで吹き上がるように

常態化するため、医者の関係者としては

積極的な治療が避けられてきた命の在り方もあると述べられています。

 先生も随分思い命と一喜一憂なされた中から

家族とともにある医師として開業医の道を選択されてもいます。

二度のがん、放射線治療、そして――体に刻まれた後遺症。

親は、子は、くり返される試練をどう乗り越えたのか?

生存確率20%――命の代償は「左足」

優希の左足は硬く伸び、膝も足首も石膏で固められたようにまがることがない。

そして、明らかに右足より細く短い。

この障害はがんの治療の過程で人為的につくられたものだ。

そして、元には戻せない障害を刻みこんだ人間は、私だった。

(プロローグより)

「生存の可能性は、二十%くらいと思って下さい」

夫婦は表情を強ばらせたが、何も言わなかった。再び静まりかえった部屋の中で、父親

が尋ねた。

「いつからですか? 治療を始めるのは」「明後日です。よろしいですか?」「分かりまし

た。よろしくお願いします」

二人は言葉を噛みしめて、堪えている、そんなふうに私には感じられた。――<本文より

>   

二度のがん、放射線治療、そして―体に刻まれた後遺症。親は、子は、くり返される試

練をどう乗り越えたのか?娘・優希の「がん」に挑み続けた家族の闘いと再生を主治医が

描く渾身のノンフィクション。   

あーちゃんとママ

「あーちゃんの話をすると止まらなくなっちゃうんです」

と、それは嬉しそうにあーちゃんと過ごした日々のお話をしてくださいました。

ママにとってのあーちゃんは、まるで姉であり、友達であり、付き合いたての恋人のよ

うだったそうです。

あーちゃんが学校から帰ってくるとママは帰ってきたことが嬉しくて「おかえりー」と

両手を広げて待ち構えています。

だからおかえり・ただいまのギューは毎日。

お互い一緒にいるだけで幸せで、くだらないことを言ってはクスクス笑っているから、

まるでバカップルみたいな親子だったそうです。

そんな感じなので、お母さん同士が集まった時に、子供がいろいろ大変だという話を聞

くと「うちの子はそういうの全然ないなー」って思っていたそうです。

「誰かが毎年『はい、今年の分』とか言って台本を渡してくれているんじゃないかなー

、予想以上に可愛いことばかりやってくれるんですもん」と愛おしそうにおっしゃいま

した。

ママはあーちゃんのしぐさや言葉の全てが大好きで、いつも愛情いっぱいの眼差しであ

ーちゃんを見守っていたのだろうと思いました。

また、ママにとってのあーちゃんは癒しでしかなかったので、感情的に怒ってしまうよ

うなことは無く、出てくる言葉は「あーちゃんってすごいねー」でした。小さな子供だ

けど「人として」尊敬していたから。だから毎日褒めるところばかり見つけてはそれを

伝えていたそうです。

あーちゃんとママ

あーちゃんからしたら、自分が少し頑張ったことにママが大喜びしてくれるから、もっ

ともっと頑張ろう!と思うのでしょう。

「どうやったらママは喜んでくれるかな」といつも思っていたようです。

子供は大人と違い話し合いで解決することができないので、子育てはやはり大変です。

でも、あーちゃんのママのようにストレスがほぼ無く子育てができるのは、たっぷりの

愛情に加え、ここに居てくれていることに感謝を持って関わっていたからなのだろうと

思います。

そしてその気持ちをきちんと伝えること。

だから子供も素直にその愛を受け、同じようにその愛を返すから愛情がループして良い

関係を作っていけたのかもしれません。

病気が発症してから

あーちゃんとご家族での旅行

病名と余命を告げられてからは、少しでも長く一緒にいたくて、放射線治療抗がん剤

治療をし、前例のない治療にも取り組んでくれる病院など、望みのある病院はすべてあ

たったそうです。

副作用にも耐え、途中治療が効いて元気になる「ハネムーン期」にはメイク・ア・ウィ

ッシュ(難病の子供の夢を叶える機関)を利用してディズニーランドのティンカベルル

ームに宿泊したり、投薬中に海外旅行にも行きました。

でもそんな時間は長くは続かず、再び病状が悪化してきてしまいました。

闘病生活

在宅治療に関して、一時帰宅さえダメだという病院が多い中、自宅看護の許可をもらえ

る病院を探しました。

在宅治療が認められない理由として、生命に関わる難病のため、病状が急変した場合の

対応は時間が勝負である場合が多いからです。

訪問看護師、訪問医がなどがすぐに駆け付けられるのは必須の条件で、他にもたくさん

の条件が揃わないと看護ができないからなのです。

24時間休めない看護は、ご両親にとって肉体的にも精神的にも辛いもの。

でも、ママは一緒にいることを選んだのです。

再発してからの病気の進行はとても早く、最初に手足から麻痺がはじまり、次に食べ物

を飲み込めなくなり、声を出すことが困難になり、体勢の維持ができなくなり、目が見

えなくなってきて(※人によっては初期から)、息を吸うのが辛くなっていきます。

話せないし、動けない。

大人だってそんな状況耐えられないと思う中、あーちゃんは誰かに当たったり卑屈にな

ることがありませんでした。

「こう考えたら辛くないはず」と前向きに考えらえる力を持っていたのです。

話ができなくなってきてからは、iPadで文字を打って、それを音声にするアプリで意志

の疎通を行っていました。

視界が2重に見えるようになると、iPadを打つのも大変です。

それでも「あきらめたらそこで終わり」と言いながら文字をタップすることをやめませ

んでした。

実はそれは、少し元気がなくなったママに、元気を出してほしくて言った言葉だったそ

うです。

手が動かなくなる寸前まで毎日「ママ大好き」という言葉だけは言い続けていました。

魔法の言葉「大好き」は、あーちゃんにもママにもパワーをもたらす言葉だったのだろ

うと思います。

在宅治療になってから、毎日のようにお友達が遊びにきてくれました。

あーちゃんの横でワイワイ騒いで帰っていきます。

あーちゃんは声が出なくて瞬きでしかイエスと言えない状態でしたから、「疲れちゃう

ならお友達や先生を呼ぶのをやめるよ」と言ったら、iPadで「こんな状態でも友達が来

てくれるのがありがたい。楽しかったよ」と言うのです。

あーちゃんが楽しい気分になるのならと、お友達がくることを拒みませんでした。

指が動かなくなってからは、意志を伝える手段がなくなり、痛いとか痒いとか、体がだ

るいとか、そんなことも伝えられなくなります。

苦しそうだと思うから痰を吸うけど、本当はどうなのか分からず、「きっとそうだろう

な」でお世話をしていきます。

最後の時

亡くなる時は、パパも訪問医も訪問看護師もいる中でゆっくりと亡くなっていきました

卒業式が終わった次の日、学校のバタバタが終わった一番良いタイミングでした。

まわりの人たちの迷惑がかからないように、大切な人たちが側にいるちょうど良いタイ

ミングで天国に旅立つなんて『最後まであーちゃんだったね』とみんなが言ったそうで

す。

あーちゃん1年3ヶ月の軌跡

亡くなったばかりで心も体もボロボロのママが必死の想いでお作りになったものです。

病気は本当に辛いけど気持ちは明るく。頑張り屋でやさしいあーちゃんとママの深い

愛が伝わってきます。