考えておきたい癌告知。
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
二人に一人は癌リスクはあるといわれています。
これの「告知」の在り方についてはケースバイケースということにもなります。
癌が発症しても早期発見による5年以上の生存保証も
その高度医療により延命治療は悲観的要因ばかりではないと思います。
ドクターのお話は一方的な説明に終始することが
つうれいではないのでしょうか?
病巣の説明と治療の選択がとうとうと説明されますが
薬のリスク要因と日常生活の情報まで
丁寧に説明いただけることは少ないように感じます。
ネット情報はたくさんありますがこれも納得するまでには
相当の選択がいることにもなります。 医者と向き合うとうまく思いを伝えられないことも多く
あります。
当地の病院では、癌末期であっても、
治療の万世紀に至る時点での隊員を告げられ
我が家で苦しい終焉を余儀なくされる例は少なくない。
個個に最終章の哲学もあるので、なるべくこれに沿っていただけるとありがたいものです。
告知に関しては人生の最終章の在り方もありますので御子ちゃん的には
そのまま伝えてほしいものです。
薬攻めで、食欲を低下させることだけは避けたいライフスタンスです。
胃がんから5年を経過した従妹は
食事はおいしくいただくようなことはないのだといいます。
食事時間も一時間かけて、丁寧に生き抜くためにと努力しています。
私は体を酷使してまで行きたいなどとは思えません。
痛みの中を、自然史を選択するのだろうと思います。
産経より。
【希少がんと共に生きる】「私、演技します」告知まで知らないふりを貫き通した妻 家族の支
えあってこそ
ステージ4の小腸がんと闘っている産経新聞政治部記者の坂井広志(47)は平成28年12月
13日、約10回にわたり嘔吐(おうと)を繰り返し、同日夜、強烈な腹痛に見舞われた。当
時、水戸支局でデスクとして働いていた坂井は部下に抱えられながら、水戸支局からタクシー
で帰宅した。
実はこの日、庶務の女性は日中の段階で坂井の異変に気付いていた。外出中だった当時の支局長
に顔色の悪さをメールで伝えていたのだ。そのことを坂井は夕方に知ったが、「大丈夫」とた
かをくくっていた。
夜になると坂井の体は限界に達し、痛みのあまり顔をゆがませながら、部下の原稿を見ていた。
部下の1人が支局長に電話をかけ、「デスクの様子がおかしいです」と連絡すると、支局長は
支局に戻り、帰宅を命じた。
坂井は玄関を開けるとすぐに倒れ、動くこともできずに「痛い、痛い」と叫んだ。慌てて駆け寄
った妻、三佐子(42)はすぐさまタクシーを呼び、以前から貧血の原因を調べてもらってい
た国立病院機構「水戸医療センター」(茨城県茨城町)に向かった。当時の様子を妻はこう振
り返る。
「その日、主人から『昼に弁当を食べた後から体調が悪化し、数回吐いた。何だかいつもと様子
が違うんだよね』という内容のメールが届いたんです。『だったら早めに上がらせてもらえば
』と返信したが、性格的に仕事を途中で切り上げて帰ってくる人ではない。しかし、よっぽど
辛かったのか、午後7時ごろに『今から帰る』とメールが入り、珍しいなと思ったんです。帰
宅した主人を見たとき、コンクリートのような顔色の悪さに『これはただごとではないな』と
直感しました」
そして、顔を見た瞬間、こんな思いが頭をよぎり、その勘は的中した。
「この人は当分、わが家には戻ってこれないだろうな」
× × ×
坂井が水戸支局に赴任したのは27年5月。その前から、妻はことあるごとに「口臭がひどい。
腐った魚のような臭いがする。体の中からくる臭いだから、どこか内科的な病気でもあるんじ
ゃないの?」と語っていた。
とりあえず歯科に行ってみたが原因は歯ではなかった。水戸医療センターの担当医は口臭とがん
との因果関係を否定したが、28年12月19日に手術をした後、口臭はピタリと止まった。
なぜもっと調べなかったのか−。悔やんでも悔やみきれないが、自分ががんにかかるとは思っ
てもおらず、自身の良好な健康状態を過信していたのは間違いない。
気付いたときには、がん細胞は小腸の内側から外側に顔を出し、腹膜に無数のがん細胞が散らば
っていた。切除した検体を病理検査にかけなければ腫瘍が良性か悪性かは断定できないが、執
刀医は悪性、つまりがんの可能性が高いと悟っていたようだ。
約10センチ開腹したが、さらに開腹して腹膜のがん細胞を取ることはしなかった。きりがない
ことと、切除した部分を早期に回復させ、化学療法(抗がん剤治療)をできるだけ早く始める
ためだった。
× × ×
手術から約1週間すると坂井の体から痛みは徐々に抜け、元気になっていった。そんなある日、
巡回にきた執刀医に坂井は「病理検査の結果はまだ出ないんですか? きっと良性ですよね」
と笑みを浮かべながら聞いた。だが、執刀医はにこりともせず、目をそらした。
妻にこのことを話すと「すぐ分かるわけないよ。今、詳しく調べているところなんだから」と受
け流した。だが、妻はすでにこのとき、がんの可能性が極めて高いことを執刀医から聞いてい
た。
手術したその日の夜、妻が水戸医療センターで執刀医に「少し時間をください」と言うと、約2
時間、時間を割いてくれた。今後の夫へのケア、治療方法、私の望みは東京に戻り、東京で治
療をさせたいことなど、自身の思いをすべて打ち明けた。話し合いの結果、がんの告知は退院
日の28年12月28日に執刀医から行われることが決まり、妻は自分に言い聞かせるように
執刀医にこう語った。
「私、演技しますから」
1人で病院にいる夫に退院前に告知したら、精神的に落ち込み、立ち直れないかもしれない−。
退院日の告知を決めたのは、そんな配慮からだった。
× × ×
がんを1人で乗り切るのが困難なのはがん患者であれば多くの人が思うことだろう。家族の支え
があってこそ、前向きに生きることができるのは間違いない。告知を終えると、妻は坂井にこ
う語った。
「実はこの話を(執刀医から)聞くのは2回目なんだよね。もう国立がん研究センター中央病院
(東京都中央区)に通えるように、動いているから」
告知直後、坂井が最初に流した涙は死への恐怖からだった。だが、この言葉を聞いた途端、妻が
必死で夫を支えてくれようとしてくれている姿に再び涙があふれてきた。
このとき妻は「これからどうするか。夢ではなくこれが現実なんだ。ならばその現実をしっかり
受け止め、とにかく主人が生きる力を失わず、しっかり前を向いていけるよう支えてあげるこ
とだな」と心の中でつぶやいた。看護師から「ご主人、大丈夫ですか?」と声をかけられたと
きには「大丈夫です。これは私に与えられた試練です」と気丈に答えた。
退院日の一昨年12月28日夜、水戸医療センターを出ると、すでに辺りは暗くなりつつあった
。土地柄、冷風が吹きすさむ中、妻は駐車場に向かいながら、夫にこうつぶやいた。
「これから闘いが始まるね」
(政治部 坂井広志)
がん告知の引用文。
三橋 直樹(37歳)埼玉県所沢市・自営業
癌である事実を、しかも手の施しようもない末期の癌であることを、父に伝えるべきか否か。
それを決めなければならなかった。母と二人の弟、前の年に結婚したばかりの妻、そして、二
十五歳という年齢だった私の五人で。
その日、母と私は、父の病状について担当の医師から詳しい話を聞き、外科的な手術によって
も、抗癌剤や放射線治療によっても、癌が治癒する見込みはなく、父の余命は三カ月から長く
ても半年だと説明を受けた。
「ご本人に告知するかどうかは、医師の判断では難しいところです。ご家族が決めた方針のも
とで、私たちスタッフは最大限の努力をします」
私を除く全員が、告知に反対をした。どのようにしても死を免れないのであれば、知らないほ
うが本人の幸せではないか。意見を集約すれば、そういう方向性だった。私もそれに反対する
ほどの確たる見解を持っていたわけではない。
しかし、私の心のどこかに、告知すべきだという動かし難い信念があった。告知は父が残りの
人生を有意義に過ごすための不可欠な前提なのではないか。
父が不在の家族会議。いつもであれば父が下すはずの最終的な判断は、長男である私に委ねら
れている雰囲気だった。私は自分の意思を通した。
翌日、二人だけの病室で、胃潰瘍の可能性があると仮の病名を告げられていた父に、本当の病
名を明かした。父はそれを聞いて、
「やっぱりそうか」とだけつぶやいた。
日が暮れかけて暗くなった病室のベッドの上に、私の前で涙を流す父の初めての姿を見た。
「それで、あとどれくらいだ?」
しばらくして父は、普段の威厳を取り戻して訊いた。
私は事実をありのままに話そうと心を決めてきていた。だが、その言葉を耳にした途端、気持
ちが揺らぎ、とっさに嘘をついた。
「つらいかもしれないけど、抗癌剤と放射線の治療を根気よく続ければ、治る可能性が高いっ
て」
「わかった」
と、父は私の目を見据えて言った。
担当の医師とスタッフは、私たちの意をくんで、抗癌剤と放射線と痛み止めの治療にあたって
くれた。だがそれも、父が日に日に痩せていくのを、食い止めることはできなかった。もとも
とが頑強な体格だっただけに、誰よりもその変化に戸惑ったのは父だったはず。
ところが本人は、そのことに一言も触れることなく、治療の進み具合を私たちに事細かく熱心
に説明し、足腰がよわるのが一番いけないからと言って、毎日一時間近く病院中を散歩した。
退院後に必要になるであろう物を買いそろえておくようにも父は指示した。
実際に、長くてと言われた半年を過ぎても父は持ちこたえていた。私たち家族は時折、ひょっ
としたらこのまま奇跡的に治ってしまうのではないかと真顔で話をしたりした。
そんな矢先だった。初秋の早朝、病院から電話があり、駆けつけた。
ベッドの上の父は呼吸をするのがやっとの様子で、目もほとんど開かないようだった。それで
も喉の奧からどうにか声を出し、母に感謝の言葉をかけると、弟二人には、「お母さんを頼む
」と言った。
私の妻には、とぎれとぎれだが、比較的明瞭な声で、「ありがとう。これからも家族で一緒に
」と語りかけた。結婚してまだ日の浅い妻への気遣いだった。
最後に私が、枕元で父の手をとった。すると、これが死に際した人の力かという強さで私の手
を握りかえし、一度息を整えるようにしてから、声を落として言った。
「お前にはまだ負けない」
私は棒で打たれたような気がした。快復に向けた頑なまでの父の態度の理由が、その言葉で一
気に腑に落ちた。まったく父らしいやり方の種明かし。
私があの時、とっさについた嘘など、父は先刻お見通しだったのだ。嘘を百も承知で、治るこ
とを信じている自分を淡々と演じていた。演じ続けてくれていた。
仮に最初は私の嘘を信じたとしても、次第に頬がこけ、眼窩の落ちくぼんでいく自分の相貌を
鏡で直視して、いつまでも死期を悟らなかったはずはない。
父の渾身の演技に、私たち家族は、そうでなければつらく、沈鬱だったであろう看病から解放
された。
それにしても、末期癌の痛みに耐えながら、それをおくびにも出さず、一時にせよ快復の可能
性すら家族に期待させた父の意志の力。
父から私は、覚悟のありかたを教わった気がする。時間と命をかけた遺言として。