helpマーク、社会の常識になってほしいもの!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 春の花々に加え、野菜たちの柔らかい双葉の芽生えにも

心が奪われます。

 御子ちゃんにとって、これからのシーズンは恐怖の連続です。

 年に一度は必ずと言っていいくらい救急車のお世話になる季節です。

 職場の健康診断においても、ヘモグロビンの平均値が人の3分の1しかなくて

doctorからはいつも「よく生きられているね!」といつも言われ

検査入院を勧められますが、これは断り続け現在に至ってもいます。

 骨髄の働きがどこかブレーキになっているのではと思ってはいますが

これは息が絶えるその日まで、納得のいき方ができたならそれで満足です。

意識が途絶えるその時期の苦しみと言えば、冷や汗やら気分がワクワクするなどのもだえ苦しみたくなるほどの症状にいつも悩まされています。

これも御子ちゃんの持ち物と覚悟もしています。

お人にご迷惑にならぬよう、これからの外出にはブレーキがいります。

 体調に配慮しての外出時も、意識不明状態は何度か起きてしまいます。

このような時のお助けマークはとっても助かります。

 ぜひ普及されることが望まれます。

     東洋経済より。

「ヘルプマーク」を知っていますか? 余命宣告を受けた34歳女性が広げる「マーク」

白い十字とハートのマークがくっきり浮かぶ、ストラップつきの真っ赤なシリコン製プレート。電車内などで、バッグにこれをつけている人を見かけたら席を譲るなど、思いやりのある行動をしてほしい。

すでに19万個配布している

プレートの名は、『ヘルプマーク』。義足や人工関節、難病などで外見からはわからないものの、病気や障害があるか、妊娠初期など、援助や配慮が必要な人のためのものだからだ。

同マーク誕生のきっかけは、人工関節を使用する東京都議が、都議会で支援の提案を行ったことによる。

「内臓疾患などで、助けが必要でも外見からはわからない人がいる。こうした人が優先席に座っていると、“健康そうなのに”と、冷たい目で見られることが多い」

この提案を受けて、2012年に東京都発の福祉マークとして作成されたのが、このマークだった。現在、バッグにつけて周囲に気づいてもらうための前出のシリコン製のものと、災害時や緊急時に助けを求めるのに使うカードやシールタイプ製の2種類がある。

東京都福祉保健局障害者施策推進部共生社会推進担当課長の島倉晋弥さんによると、2018年2月現在、ヘルプマークを導入、配布しているのは、都道府県レベルでは以下の19自治体。まずは、そもそもの発祥である東京都を皮切りに、京都府和歌山県徳島県青森県奈良県・神奈川県・滋賀県大阪府岐阜県・栃木県・広島県・北海道・秋田県愛媛県島根県兵庫県鳥取県静岡県(導入順/市町村レベルでの導入は含まず)。

「2017年8月末の段階ですでに19万個のシリコンタイプのヘルプマークが配布されており、東京だと、都営地下鉄の駅務室や都バスの営業所、都立病院などで、自己申告のみで無料で受け取ることができる」と島倉さん。

その他の自治体では役所の福祉課等で配布されることが多いが、申請や障害者手帳での確認を必要とする場合もあるので、まずは在住の自治体に問い合わせてほしいとアドバイスする。

昨今、特に東京では、駅構内のポスターや地下鉄車内のトレインチャンネルなどでこのマークを目にする機会が増えてきている。とはいうものの、認知度がまだそれほど高くない点が課題だ。

事実、前出・東京都福祉保健局の島倉さんも、「私どもに来るご意見などを見ても、ヘルプマークを持っている方からの、“一般の人への認知がまだまだ足りていない”との声が多い」と語っている。

こんなヘルプマークの普及に、余命宣告を受けながらも懸命に取り組んでいる女性がいる。名古屋を拠点に普及活動を続けている、小崎麻莉絵さん(34)がその人だ。

黒のスーツが実によく似合う。バッグにつけたヘルプマークを見ることなしに、彼女が難病を抱えているとは、誰も想像できないだろう。

すべての始まりは、2014年、7月初旬のことだった。自動車販売会社勤務やレストラン検索サイトの営業職などを経て、愛知県名古屋市にホームページの制作会社を設立した小崎さんは、自営となって以来、すっかりごぶさたしていた健康診断を受けてみようと思い立った。

小崎さんが言う。

「会社員をしていると、1年に1回、かならず健康診断がありますよね。でも自営になると、そういう発想はなかなか持てません。

それで久々に病院に出かけて検査を受けて、その3日後ぐらいだったかな、病院から“血小板とヘモグロビンの数値がおかしい。総合病院で検査を受けてください”という電話をいただいたんです」

今から思えば、異常を思わせる出来事はたびたびあった。電車で立っていて意識を失い、気がつくと知らない人のカバンの上に倒れ込んでいた。だが、すぐに意識を取り戻すことができた。

「だから、“疲れが出たか、飲みすぎたのかなあ”と思っていました」

彼女は、この緊急連絡を2週間も無視してしまう。7月下旬、危機感などさらさらない状態で出かけた総合病院で、初めて事態の深刻さを自覚する。

「その日に“今日から入院してください”と。“だったら仕事の案配だけとってきていいですか?”と聞くと“ダメです”。“入院に必要なものを取りに行きたい”と言っても、“それもダメ”。そこで初めて、“そんなにひどいんだ……”と自覚しました」

余命宣告と両親への報告

1か月の検査入院を経た8月18日、31歳の誕生日の前日に、小崎さんは自分が最悪の状態にあることを知る。

「先生が、“病名は骨髄異形成症候群(MDS)です。血液が正常に作れなくなる難病で、余命は5年3カ月ほどです”と……」

MDSにはよく似た病気が何種かある。小崎さんはそのいずれなのか??それを診断するための1カ月の入院だったが、その中でも、もっとも最悪なものこそが、MDSであると聞かされていた。

「だから先生に、“すごい誕生日プレゼントですね……”と言った記憶がありますね」

そう語りながら、小崎さんがアハハと笑う。その横で、取材に駆けつけてくれた親友の長尾富美子さんが、そっと涙をぬぐう。ただならぬ状態にあるというのに、本人がいちばん明るい。長尾さんが言う。

「いつも本人より、私のほうが泣いているんです。検査以前から“体調がイマイチよくない”とか言うのは聞いていました。ですが、いきなり入院とは……。ちょうど、株式会社に改組して2年目のことで、誕生祝いを兼ねたパーティーの司会をやることになっていたんですが、結局パーティーはできませんでした」

なによりもつらかったのは両親への報告だったと小崎さん。

「“人前で泣くな!”と言って私を育てた母は、“あんたがそんな簡単に死ぬわけないわ!”と言いながら、グッとこらえていましたね。父は、伝えたとたん出て行って、コーヒーとシュークリームを買ってきてくれました」

強いショックを受けると人は、思いがけない行動に出るものらしい。そしてその行動には、しばしば真情が出る。

血液疾患病棟では、免疫の問題で外出ができない。父のそれは、大のスイーツ好きのわが子が甘味に飢えているだろうとの親心であり、娘への真情が行動となってあふれ出たものであった。

31歳目前での余命宣告は、小崎さんにその後の人生を考え直させる契機となった。MDSにも治療法とされているものがある。骨髄移植がそれである。

「骨髄移植がないと、完治の可能性がない病気なんですが、それでかならず治るかというと、そうでもない。治療中に亡くなることもあるし、再発や合併症になる人もいます。移植を待つ患者の間では、“20%の奇跡(生存率20%)”と言われているんです」

ヘルプマークとの出会いと現状

骨髄バンクへの登録をしたところ、マッチするドナーが見つかった。検査入院後の1年4カ月の自宅療養と入院で、波はあるものの、日常生活を送れる体調は保てていた。

20%の奇跡に賭けて骨髄移植を受けるべきか、ギリギリの段階まで今の生活を継続すべきか……。小崎さんは後者を選んだ。

「自分はどういう人生を過ごすんだろうと考えたんです。今は身体が動くので、そんな元気な状態で、死ぬかもしれない選択をするのは自分の人生にベストかな??と」

2015年7月に職場復帰。睡眠は1日3時間という発病前の仕事ぶりを、大きくチェンジさせていく。

仕事は体調を第一にして出社も極力少なくした。経営者として業績悪化を心配したがそれでも売り上げは落ちなかった。それどころか、入院先まで商談に来てくれる顧客まで現れた。長尾さんが言う。

「人柄でしょうね、心配していろいろな本を持ってきてくれたりする人が周りにいて。可愛がられる人なんです」

そんな職場復帰直後の通勤電車の車内で、小崎さんがヘルプマーク普及に取り組むきっかけとなった出来事が……。

「家から駅まで歩いて5分ほどだったんですが、その5分の道中が大変で……。ようやっと駅にたどり着き、電車に乗って優先席に座っていると、高齢の方から“ようそんなとこに座っとんな……”と」

そんなことが3回続くと、高齢の人たちが乗ってくるのが怖くなった。余命宣告されている身でありながら白い目で見られるやるせなさ……。

そんなとき、会社のスタッフから教えられたのが、ヘルプマークだったという。

東京までは取りに行けないと、ヘルプマークの規格をもとにプレートを自作、病気を伝える文章を添えてバッグにつけると、高齢男性から「頑張ってな」と言ってもらえた。

フェイスブックで体験を公開すると、切実なメッセージが押し寄せた。

「満員電車で押され、人工関節が壊れた経験があります」「視覚障害があるけれど、誰も気がついてくれない」など……。

そんなとき、古くからの友人からの言葉が、小崎さんの心を揺さぶった。

「麻莉絵ちゃん、こうしたことって、もっと広く知ってもらわないと意味ないんじゃないの――?」

普及活動

この言葉がきっかけとなり、2016年11月、小崎さんのヘルプマーク普及の活動が始まった。小崎さんの活動の第1歩は、名古屋市議会議員への働きかけからだったという。議会で河村たかし市長に質問してもらい、「こうしたものがあるのは非常に大事」とのコメントを引き出した。

2017年4月には、導入目指しての署名活動を開始。6月には、長尾さんも協力のもと名古屋城下の名城公園で開かれたイベントに便乗、ブースを設けて署名を呼びかけたところ、およそ800名の署名が集まった。

さらには知人4名がなんと1万131名もの署名を集めてくれた。受け取った河村市長からはこんな声が出た。

「こんなに持ってきたんか!?すごいなあ!」

こうした仲間たちの活躍、名古屋市役所の人々の協力もあって、同年10月には名古屋市がカードタイプのヘルプマークの導入を決定。小崎さんの自宅がある三重県も、この2月からカードタイプでの導入を実現している。少しずつでも着実に導入を決意する自治体が増えてくる中、小崎さんの役割も変化してきている。

「東京・大阪では、“ヘルプマークをつけていても優先席を譲ってもらえない”という声が多いんです。これからは、健康な人に知ってもらうことにも注力していきたいと思っています」

1日でも多く笑える日を

この間の2016年には、中高一貫校の教諭をしている紘成さんと結婚。ともに雪の中に立ち、署名活動にも参加してくれている。長尾さんが言う。

「余命宣告を受けた当時より、今のほうがずっと元気です。紘成さんの存在がすごく大きいんだと思います」

とはいえ、余命宣告を受けた身であることには変わりはない。病気が切迫すれば、躊躇なく骨髄移植にトライするつもりだ。だがそれまでは、1日1日を大切に、全力で生きていきたい。

「寿命って、長さよりも日々をどう過ごしたかのほうが大切なんだと思います。だから苦しかったり悲しかったりする日をできるだけ笑えるようにして、1日でも多く笑える日を作っていきたい――」

病気をしてから幸せを感じることが多くなったと小崎さん。MDSは健康というかけがえのないものを奪ったが、病気ゆえに得たものもあった。

その恵みに心から感謝しつつ、今日を懸命に、全力で生きている――。

<取材・文:千羽ひとみ?撮影:吉岡竜紀>