23歳の若さでがんによりメサレタ京大院生。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

 今日もやみまなく降り続く雨のスタートです。

この暑さの中、静かに秋の気配が忍び寄る日々にほっこりさせられます。

 みこちゃんの家計は100%のがん家計です。

したがって覚悟もしていますが

19歳の若さで命の余命を診断されるなんてなんて不条理なのか…

この不条理にやり切れません。

まだ、社会人としてのスタートもなすこともなく

「生きたい」と声を限りに願い続けながら旅立たれた惜しむばかりの人生にン阿弥陀あふれる思いでした。

今日も眠れない一日になりそうです。

比一日とあの世会談は近づいてもいます。

時を丁寧に生きる努力は

残された者の宿命でもあります。

 みこちゃんは高齢で社会のお荷物なのに今もって生かされています。

変われるものなら変わってあげたいもの…

享年23歳の京大院生が遺した痛切なる「生きた証」 古田 雄介

(2021年3月18日「グッドバイ」/ヨシナシゴトの捌け口)

「ヨシナシゴトの捌け口」(https://yoshinashigoto.hatenablog.jp/)というブログが

ある。京都大学に入学した山口雄也さんが、日々の随想を書きつづろうと1学年の夏に開

設した。しかし、その数カ月後にがんの発症を告知され、図らずも闘病ブログとしての

色彩を帯びるようになる。

山口さんは後に闘病専用のブログ「或る闘病記」(https://fight.hatenablog.jp/)も

開設。最終的にはTwitterhttps://twitter.com/Yuya__Yamaguchi)と、亡くなる3カ月

前に始めたnote(https://note.com/yuya__yamaguchi/)を合わせ、発信源は4つとなる

。それらを使い分け、ベッドから起き上がれない状態になっても発信を続け、息を引き

取る1週間前まで「声」を残していった。

深い思索とあけすけな心情をつづった山口さんのページは多くの反響と共感を呼んだ。

新聞やテレビで取り上げられ、2020年7月にはNHK記者の木内岳志さんとの共著『「がん

になって良かった」と言いたい』も刊行している。一方で、最晩年は強い言葉が物議を

醸したりもした。その痕跡はいくつかの発信源に残っている。いや、後述するが、山口

さんが意図的に残している。賛否が分かれる痕跡。故人のサイトにそれが残されていた

とき、どう向き合えばいいのだろう? 山口さんが残した「声」から考えていきたい。

山口さんが身体の異変を感じたのは2016年11月。 風邪をこじらせて肺炎になり、精密検

査を受けたところ縦隔原発胚細胞腫瘍という希少がんが見つかった。病名をスマホで検

索すると、「5年生存率40~50%」と出た。後日主治医からも同様の数字が伝えられた。1

0月に19歳になったばかりでのがん宣告。12月初旬、動揺する心境をブログにつづってい

る。「どうして自分なのか」<全く理解できない。どうして自分なのか。><勿論これ

までは、自分の描く人生に「死」など存在していなかった。存在しえなかった。10代で

死を意識しながら生活する方がおかしい。><この世に生を受けたものは必ず死ぬ。こ

の自然の摂理は十分に理解していた。しかしながら、自分の人生の延長線上に「死」が

存在するということには気づかなかった。>(いずれも、2016年12月2日「無題」/ヨシ

ナシゴトの捌け口)それでも「死んでたまるか」と気持ちを強く持ち、入院生活に入る

。「或る闘病記」はこのときに始めた。「入院生活のあれこれをユーモアを交えてつづ

っていこう」と、「ヨシナシゴトの捌け口」よりもくだけた調子で、病院内の様子や病

状、しゃっくりが止まらなかったり髪が抜けたりといった抗がん剤の副作用などを軽い

トーンで伝えていく。<僕の身体の中にピノコがいるというのは本当です。 僕の場合

は 縦隔原発胚細胞腫瘍 非セミノーマ 奇形腫・卵黄嚢種混合型 ↑ これですこれ

です!握りこぶしより少し大きいくらいの腫瘍の中に、胚細胞から分化した様々なもの

(髪の毛、脂肪、骨、歯など)が詰まってるんですよね。肺とか心臓とかの近くにそん

なものがあるなんて。つくづく人間の身体って不思議だなぁと思います。>(2017年1月

11日「ブラック・ジャック」/或る闘病記)幸い抗がん剤治療の効果は順調に現れ、4カ

月後には腫瘍の摘出手術を受けることができた。リハビリを経て、退院できたのは5月の

終わりだ。同じ大学の付属病院だからキャンパスは近い。その日はそのまま1限目の講義

に出ている。すでに2学年前期の日程が始まっていたが、入院中も可能な限り講義に出席

していたから講義の内容は理解できた。<大学を卒業する前に死ぬと思っていて、もう

社会には出られないと思っていて、大学に通う意味さえ分からなくなっていたけれど、

結局前期より後期の方が成績が良かった。今を全力で生きようと思ったんです。患者と

してではなくて、1人の人間として生きようと思ったんです。>(2017年3月20日「手術

前日」/或る闘病記)退院から1年以上過ぎた2018年7月、「或る闘病記」に新たな記事

がアップされた。<405日ぶりに、闘病記を再開する。これは、白血病ステージIVと診断

された、少し気の強い20歳大学生の、或る闘病記だ。ひとつ、聞きたいことがある。こ

んな人間のことを、あなたはどう思うだろう。どうしてまた病気に、とか生きるの辛そ

う、とか確かに、そう思われても仕方ない。でも、そういう感情を持っているのなら、

ここで捨てて欲しい。僕の人生は、僕の尺度が決める。>(2018年7月6日「Fight, agai

n.」/或る闘病記)白血病との長い闘い3学年に上がった5月頃から気だるく体調が悪い

日が続き、6月下旬には歯茎から出血し、悪寒が止まらないに状態になった。病院での診

断結果は急性リンパ性白血病。即座に入院となり、再び病床で闘病記をつづり、大学の

単位取得のためのレポートをまとめる日々を余儀なくされる。再び元の生活に戻れたの

は11月になってからだ。骨髄バンクで適合するドナーが見つかり、骨髄移植を受けたこ

とで復帰できた。しかし、それは白血病との長い闘いの始まりだった。再発の可能性が

高いと主治医から知らされたのは半年後の2019年4月。新しい治療法が確立するのを待つ

か、ハプロ移植というリスクが大きい治療法を選ぶかの2択を迫られる。主治医からは移

植を受けないと「1年は持たない」とはっきり告げられた。山口さんは後者を選び、その

移植が可能な兵庫県にある大学病院に入院することになった。新しい病院での日々を「

或る闘病記」では努めて明るく書く一方で、「ヨシナシゴトの捌け口」では苦しみを吐

露している。ハプロ移植の前日と当日の投稿が対称的だ。<はい皆さんナマステ~(受

験期なので頭がおかしいです)(中略)最近めっきり暑くなりましたね!僕は病室で24

時間エアコンかけてます!(というか消せないみたいです)>(2019年6月2日「移植前

夜」/或る闘病記)<どうして。心の奥底から悲鳴だけが木霊していた。生きたい、生

きたい、生きたい。僕は土下座しながら、藁でもいいから落としてくださいと、そう必

死の形相で叫んでいたのだ。神に、主治医に、ドナーに、献血者に、家族に、そして自

分自身に。「僕はこんなところで死にたくないんです、まだどうしても死ねないんです

。21年しか生きてないんです。お願いですから助けてください。」>(2019年6月3日「

震えるサイン、震えぬ芯」/ヨシナシゴトの捌け口)移植はうまくいき、8月に退院。週

2で大学の講義にも出られるようになったが、10月に白血球数の急落と重度の肺炎で再入

院し、再移植が検討される状況になった。翌月に突然正常値に戻って退院。さらにその

翌月に免疫不全による感染症で入院すると、白血病の再発が告げられた。医師でも予想

がつかないほどめまぐるしく変わる状況に山口さんは疲弊し、処方された薬をゴミ箱に

捨てるなどの自暴自棄に陥る。ブログを更新する気力も失った。そんな精神状態が続い

たある日、主治医から肺炎の完治とともに再発したがん細胞が消滅したと告げられる。2

020年2月になっていた。大学は卒業論文が書けずに留年した。安定した出勤ができず、

区役所でのバイトも辞めざるをえなかった。中学と高校の陸上部で鍛えた筋肉と体力は

大きく落ち込んだ。けれど、再び日常に戻ってこられた。23歳の誕生日も自宅で迎える

ことができた。3度目の再発<6月3日、二度目の移植からちょうど一年。色々あったけれ

ど生き延びた。(中略)どれだけ自分が頑張ろうと、素晴らしい医療体制と医療制度が

なければ今頃死んでいた。この国の医療は世界に誇れるものだと思う。>(2020年6月3

日」/Twitter)3度目の再発がわかったのは2020年12月のこと。翌年2月の治療説明で余

命宣告を受けたと、Twitterで伝えている。再びハプロ移植を受けるなら「成功率は経験

的には1割未満」で、緩和ケアを選べば春が終わる頃に穏やかな最期が迎えられるという

。ここで山口さんは前者を選ぶ。3度目の移植は3月末となった。冒頭で引用した文章は

、このとき「ヨシナシゴトの捌け口」にアップしたものだ。1年振りの更新であり、結果

的に最後の更新になった。記事の終盤、残された人たちに将来届く手紙を書こうとして

手が止まったという下りがある。そこに山口さんの叫びが刻まれている。<どうして俺

はこんなもの書いているんだ? どうして俺は死ぬ準備なんかしなきゃならないんだ?

 どうして俺はここから出られないんだ? どうして俺には普通に生きる権利がないん

だ? どうして、どうして、どうして・・・・・・!このとき、僕は自分が死ぬことをまだ全

く受け入れられていないのだと気付いた。自分の感情を押し殺しながらここまできて、

結局その反動でもっと生きたくなって、もっともっと生きたくなって、それでも死ぬ運

命を受け入れなければならないのだと自分に言い聞かせていただけだと気が付いた。死

ぬ準備だとか、遺された人間の哀しみがどうとか、そんなもの本当は全部投げ出してし

まって、もう自分の家に帰って温かい布団で寝たかった。そして朝起きたら病気はすっ

かり治っていて、悪い夢でも見ていたのかなぁなんてとぼけて、今日は一日暇だけど何

をしようかと思いながらまた二度寝をする、そんな普通の生活に心の底から戻りたかっ

た。頭の中がぐちゃぐちゃになって、あらゆる思い出が走馬灯のように交錯しあって、

気が付けば僕は暗闇の病室で涙が枯れるほど泣いていた。そのまま意識が遠のいて、僕

はレターセットをベッドサイドテーブルに広げたまま、深い眠りに落ちた。>(2021年3

月18日「グッドバイ」/ヨシナシゴトの捌け口)山口さんは2020年8月に国家公務員総合

職採用試験(大卒・工学区分)に合格している。この投稿に前後して、卒業論文を提出

し、京都大学大学院への進学も決めた。自暴自棄になったりした時期もあるが、長期的

にみると山口さんは社会で生きることを諦めなかった。その意思の強さの根底には、つ

ねにこの思いがあったように思える。亡くなる2カ月前に投入した「最後の秘策」「自分

の感情を押し殺しながらここまでき」 た、もうひとつの反動だったのかもしれない。こ

の時期を境に、山口さんは吹っ切れたようにネットでのコミュニケーションを割り切る

ようになる。noteを始めたのはその一環だ。当時Twitterのフォロワーは2万人近くに膨

らんでおり、ブログの記事も万単位で読まれるようになっていた。すると、「余命宣告

を受けてどんな気持ちですか?」など、心ないリプライやコメントが届くようになった

。そうした読者に届かないところで発信したい。そこでnoteの有料公開機能に目を付け

た。<そして何より、もう本当にだめになってしまった時に、弱音を吐ける場所を作っ

ておきたかったのです。(上2つのブログは、ありがたいことに何万人もの方々に見てい

ただいているのですが、その分どうしても弱音を吐きづらいという思いが、ずっとあり

ました。)>(2021年3月21日「もうひとつの闘病記」/note)安心できる場ができた半

月後の4月初旬、何万人が見る「或る闘病記」で思い切った投稿をする。結果的にこのブ

ログの最終投稿記事となった。<誰かの命を救ってみたい!!! と思ったことありま

せんか。ありますよね。なければ人間じゃないですよまじで(笑) (中略)毎日のよ

うに輸血されて命をいただいている身で、調子に乗った猿みたいな出しゃばった書き方

をするのもどうかなと思ったのですが、なんだかんだこういうテイストで書いた方がド

キッとして伝わりやすいので、今日はこのテンションで献血のお願いに参りました。>

(2021年4月8日「祈りの献血、命の輸血」/或る闘病記)悪ノリの文体が炎上、その真

意は献血への協力を広く伝える内容だが、全編で挑発的な悪ノリの文体を貫いており、

たちまち炎上する。多くの読者から注意された冒頭の2行は後日取り消し線が引かれ、全

面撤回して謝罪する追記が加えられている。しかし、あえて削除せずに残している。他

にも取り消し線や追記を加えた箇所はあるが、やはり初回の情報をページ上から取り下

げた痕跡はない。1週間後、noteに「権謀術策、最後の秘策」というタイトルの有料記事

をアップし、あれは狙った炎上だったと弁明した。献血人口の少ない若年層に献血の必

要性を強く訴えるために、読者層が被る自らのアカウントに火を付けたのだと。この頃

、生存確率1割未満と言われたハプロ移植を受け、血圧低下や、鮮血と黒い血が混じった

下血など体調の急変を繰り返していた。Twitterでは「ここまでかな」「為す術ない」「

天命を待つのみ」と諦観をこぼすつぶやきが増えていった。しかし、「最後の秘策」を

肯定する姿勢は最後まで変えなかった。2021年6月6日の朝、山口さんは23年と8カ月の生

涯を閉じる。筆者が初めて山口さんへダイレクトメールを送ったのは2021年3月の終わり

。その後のやりとりを通して、死と向き合う存命の人の「声」として、この連載で紹介

することに同意してもらっていた。しかし、筆者が献血記事の真意を図りかねているう

ちに山口さんの体調が悪化したこともあり、計画は中止させてもらった。この記事は、

改めてご両親に了解をいただいて公開している。献血記事はどこか様子が変だ。挑発的

な調子を除いても、他人に干渉するより自分なりに生きるほうを優先する山口さんの生

き方から、唐突に外れているようにみえる。だから、ダイレクトメッセージで「noteの

弁明記事(権謀術策、最後の秘策)が真意です」と説明されても腑に落ちなかった。し

かし、時間を空けて向き合ったとき、山口さんのこれまでの生き方と通底している部分

に気づいた。社会で生きることを諦めなかった姿勢とは強くリンクしている。体調や検

査データが絶望的な状況を裏付けていくなかで、それでも社会で生きたい。社会に強く

関わりたい。それを実現できる残された手段が、あの献血記事だったんじゃないか――

?賛否が分かれる痕跡とはどう向き合う?もう確認することはできない。ただ、推測が

正しかったとしても、全面的に肯定することはやはり難しい。そこで冒頭の疑問に戻る

。故人のサイトに賛否が分かれる痕跡が残されていたとき、どう向き合えばいいのだろ

う?とりあえず言えることは、その痕跡だけで評価するのは危険ということだ。目立つ

痕跡だけで人物やサイトを断じたり、目立つゆえにあえて目をそらしたりするのは、向

き合うのとは真逆の行為となる。手間はかかっても、残された他の「声」に耳を傾ける

ほうが短絡的にならずに済む。とりわけ山口さんは大量の声を残している。深く内面を

思索する文章は「ヨシナシゴトの捌け口」に多いが、相手を強く意識した言葉はTwitter

や「或る闘病記」などに多い。どちらも故人の人となりを知る手掛かりとしてはかけが

えがない。山口さん自身、ネット上に声を残すことに意識的だった。2021年3月末、死を

覚悟して更新する山口さんにどれだけ先の未来まで残したいのか尋ねたところ、こう返

ってきた。「僕ははてなブログやnoteを使っていますが、それがヤフーブログのように

突然終了されてしまうような可能性もあるなとは常々思っています。恐らく何十年か後

には無いでしょうね、、、(※筆者中:各発信源の)優先順位というのは無いですが、

書いたものはやっぱり全て恒久的に残したいです。100年でも200年でも。」恒久的に残

したいけれど有限であることを承知している。その山口さんの声は、今のところ十分に

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