ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
おはようございます。
日本列島 寒気の中にすっぽり覆われてみたい。
あと 10日もすれば お雛様です。
歴史上の人に触れ何かと学びにしたいものです。
ペリーの来航は 刺激的でもありました。
渋沢栄一の大成功は「良い独りよがり」の賜物だ LEON.JP
混乱期こそ、貪欲に最先端を学ぶ
「幕末の志士といえば、数々の小説からもファンが多いのが坂本龍馬。薩長同盟や大政
奉還に貢献した人物として知られています。
彼が幕末の混乱期に活躍できたのは、とことん最先端の科学を学ぼうという気概があっ
たから。土佐から江戸へ遊学し、入門した佐久間象山のもとでは西洋流砲術を、その後
、勝海舟には海軍について学んでいきます。時はペリー来航によって、日本が大きく揺
らいでいた頃。オランダ語も習得し、弾道計算や武器の設計図まで引け、国際情勢にも
明るかった龍馬は、株式会社の祖とも言われる亀山社中や土佐海援隊を立ち上げ、次々
と新たな事業をはじめます」
「近年、龍馬の業績と言われるものは彼がいなくても実現していたとの解釈から、教科
書から外そうという話も出たようですが、
歴史に学ぶときに重要なのは、“何をしたか”ではなく、“何をしようとしたか”だと
思います。どういう行動をしていたのか、そしてどういうところで悩み、どこで失敗し
、結果につながらなかったのか。そこから私たちが学べることは多いはずです。わずか3
3歳の若さで暗殺され、短い生涯の中では成し遂げたというより、やりたくてもなしえな
かったことのほうが多かったことでしょう。龍馬が目指したのは、幕府でも薩長でもな
く、第3の道を行くこと。のちの明治政府が国の目指す方向として示した「五箇条の御誓
文」の“広く会議をおこし、万機公論に決すべし(人々の声を大事にし、優れた意見を
取り入れて政治を行うこと)”が表すように、その他大勢の声なき声をどう代弁するか
、それが彼の考える第3の道だったのです。幕末のように大きな転換期にこそ、ひるんで
歩みを止めるのではなく、最先端の知識を貪欲に学び、自分のものとする。その気概と
知識の蓄積がさまざまな人を刺激し、自分が成し遂げられずとも人を動かす力になるこ
とを、龍馬が教えてくれているのかもしれません」自分が信じるものへ向かっていった
渋沢栄一◆タイプ04?渋沢栄一歩みを止めなければ、答えは導き出されるもの「第一国立
銀行など500もの企業を設立・経営し、“日本資本主義の父”とも称されたのが渋沢栄一
です。でも彼は若い頃に、攘夷蜂起のために高崎城を乗っ取り、横浜の外国人を皆殺し
にする計画を練った過激な一面もありました。そんな彼が、最後の将軍となる一橋慶喜
の家臣となり、フランスで見識を深め、帰国後は財界を率いることになります。ある意
味、この転向はすごいですよね(笑)。その理由の1つが、いい意味で彼が独りよがりだ
ったこと。自分の能力があれば、時の将軍の気持ちさえも変えられる、と強く思い込ん
でいたのでしょう。独善的だったからこそ、自分が信じるものへ向かっていける。だか
ら180度異なる考えにも転向できたのだと思います。彼のその力を育てたのは幼少期の学
び方、捗遣り(はかやり)主義にあると思います。当時の勉強は『論語』などを暗唱す
るのが一般的でしたが、栄一の先生(栄一の従兄・尾高惇忠)は『南総里見八犬伝』や
『三国志』『水滸伝』など、子どもが読みたがるものや楽しいと思うものを積極的に読
ませていました。子どもですから、途中でわからない単語が出てきます。しかしそこで
止まらず、例えばXやYといったん置き換えておき、そのまま読み進める。好きな本です
からどんどんと読んでいくうちに、次第にその言葉の意味がわかってくるものです。数
学でいう代入のような考え方ですね。わからないことはいったん保留しておいて、周辺
の情報を集めていくことで答えを導き出していく。それが、捗遣り主義です」「彼の大
きな功績の1つが、公債証書を発行し廃藩置県を実現したこと。明治4年、それでやっと
本当の明治維新が完成しました。新政府にとって藩は、江戸時代の行政区分ですから切
り替えたかったものの、当時の藩には商人への莫大な借金がありました。さらに、各々
の藩士の家禄(いわゆる給料)もどうすればいいのか、明治政府は解決策をもっていな
かったのです。そこで栄一は、フランス留学で学んだ公債の仕組みを実践しました。明
治政府が藩政の頃の借金証書や家禄を公債証書に換え、支払いを待ってもらう間は利息
を払います。これもフランスで公債の仕組みを知り、100%の理解はできずとも、帰国後
まず静岡で銀行と商社を作り、実務の中で理解を深めていったからこそできたことでし
ょう。それから、独善的ながら柔軟性を持っていた点も、渋沢栄一のすごいところです
。助言を冷静に聞き、理解し受け入れる能力もある。だから思考を変えられる。先の見
えない時代では、時にこれまでとは異なる考えを受け入れることも必要になるでしょう
。まさに、渋沢栄一の通ってきた道が参考になるのではないでしょうか」「タイプの違
う4名の偉人を紹介しましたが、人それぞれに性格や気質がありますから、ぜひ自分に合
う歴史上の人物を参考にしてみてください」と加来先生。仕事で、人生で迷ってしまっ
たときに、偉人の選択に倣ってみてはいかがでしょうか。
歴史に学ぶときに重要なのは、“何をしたか”ではなく、“何をしようとしたか”だと
思います。どういう行動をしていたのか、そしてどういうところで悩み、どこで失敗し
、結果につながらなかったのか。そこから私たちが学べることは多いはずです。
わずか33歳の若さで暗殺され、短い生涯の中では成し遂げたというより、やりたくても
なしえなかったことのほうが多かったことでしょう。
龍馬が目指したのは、幕府でも薩長でもなく、第3の道を行くこと。のちの明治政府が国
の目指す方向として示した「五箇条の御誓文」の“広く会議をおこし、万機公論に決す
べし(人々の声を大事にし、優れた意見を取り入れて政治を行うこと)”が表すように
、その他大勢の声なき声をどう代弁するか、それが彼の考える第3の道だったのです。
幕末のように大きな転換期にこそ、ひるんで歩みを止めるのではなく、最先端の知識を
貪欲に学び、自分のものとする。その気概と知識の蓄積がさまざまな人を刺激し、自分
が成し遂げられずとも人を動かす力になることを、龍馬が教えてくれているのかもしれ
ません」
自分が信じるものへ向かっていった渋沢栄一◆タイプ04?渋沢栄一
歩みを止めなければ、答えは導き出されるもの
「第一国立銀行など500もの企業を設立・経営し、“日本資本主義の父”とも称されたの
が渋沢栄一です。でも彼は若い頃に、攘夷蜂起のために高崎城を乗っ取り、横浜の外国
人を皆殺しにする計画を練った過激な一面もありました。
そんな彼が、最後の将軍となる一橋慶喜の家臣となり、フランスで見識を深め、帰国後
は財界を率いることになります。ある意味、この転向はすごいですよね(笑)。
その理由の1つが、いい意味で彼が独りよがりだったこと。自分の能力があれば、時の将
軍の気持ちさえも変えられる、と強く思い込んでいたのでしょう。独善的だったからこ
そ、自分が信じるものへ向かっていける。だから180度異なる考えにも転向できたのだと
思います。
彼のその力を育てたのは幼少期の学び方、捗遣り(はかやり)主義にあると思います。
当時の勉強は『論語』などを暗唱するのが一般的でしたが、栄一の先生(栄一の従兄・
尾高惇忠)は『南総里見八犬伝』や『三国志』『水滸伝』など、子どもが読みたがるも
のや楽しいと思うものを積極的に読ませていました。
子どもですから、途中でわからない単語が出てきます。しかしそこで止まらず、例えばX
やYといったん置き換えておき、そのまま読み進める。好きな本ですからどんどんと読ん
でいくうちに、次第にその言葉の意味がわかってくるものです。数学でいう代入のよう
な考え方ですね。わからないことはいったん保留しておいて、周辺の情報を集めていく
ことで答えを導き出していく。それが、捗遣り主義です」
「彼の大きな功績の1つが、公債証書を発行し廃藩置県を実現したこと。明治4年、それ
でやっと本当の明治維新が完成しました。新政府にとって藩は、江戸時代の行政区分で
すから切り替えたかったものの、当時の藩には商人への莫大な借金がありました。さら
に、各々の藩士の家禄(いわゆる給料)もどうすればいいのか、明治政府は解決策をも
っていなかったのです。
そこで栄一は、フランス留学で学んだ公債の仕組みを実践しました。明治政府が藩政の
頃の借金証書や家禄を公債証書に換え、支払いを待ってもらう間は利息を払います。こ
れもフランスで公債の仕組みを知り、100%の理解はできずとも、帰国後まず静岡で銀行
と商社を作り、実務の中で理解を深めていったからこそできたことでしょう。
それから、独善的ながら柔軟性を持っていた点も、渋沢栄一のすごいところです。助言
を冷静に聞き、理解し受け入れる能力もある。だから思考を変えられる。先の見えない
時代では、時にこれまでとは異なる考えを受け入れることも必要になるでしょう。まさ
に、渋沢栄一の通ってきた道が参考になるのではないでしょうか」
「タイプの違う4名の偉人を紹介しましたが、人それぞれに性格や気質がありますから、
ぜひ自分に合う歴史上の人物を参考にしてみてください」と加来先生。仕事で、人生で
迷ってしまったときに、偉人の選択に倣ってみてはいかがでしょうか。北風がほほを
たたきつけてゆきます。。