長期病床からの心の葛藤。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

今日は穏やかな文化の日です。

日の出が6時20分と遅くなっています。

富士山も雪防止をいただくようになりました。

瀬戸内の島々はその寒さも穏やかと言えるのではないか…

 従妹はお金の価値観がみこちゃんとはどこか違う

従妹イワク「お金はまわりまわって帰ってくるもの」的な考え

従妹の兄弟も楽な生活ではないと思うけれど

年に4万円はお供えするのだという…

みこちゃんも苦しい中からお供えしています。

それは決してあまり余ったお金ではない。

そのおうちから、これと何にもいったことはしてもらってもいなかった。

むしろ、廃業に際し 多額の負担もしてきたつもり…

このような価値観の基本理念を埋めることには何か苦痛も伴う。

これも広い視野で受け止めたいとは思うけれど。

 病床にありながら「愛の言葉」に淘汰するにあたっては

苦しみの中からカチットった愛の言葉と理解しました。

 病床が長ければなbyほど自分の支えも大変かとご推察します。

それは同じ病を持つものとしての理解でもあります。

どうかこれからの生活が心豊かな日々でありますようにと願わずにはいられません。

【朝晴れエッセー】愛をことばに・10月31日 (2021年10月31日)

長く病床にある自分は、親として一体何ができるのだろう。

子供たちとたくさん出かけることが夢だったが公園で遊ぶこともできない現実…。回復

がなかなか見込めない現状から未来を考えると、ついつい卑屈になってしまう。

だが、そんな私でも何かできることがきっとあるはずだ。そう考えて見つけた答えが、

愛の言語化だった。

膝に乗せたり、一緒にお風呂に入れなくても、「大好き」ということだけは、繰り返し

言葉にして子供に伝えてきた。

もちろん叱ることもあるし、病んだ身のため具合が悪くなって余裕がなくなれば、子供

に苛々して悔し涙を流す日もある。

そんなときも、後でしっかり謝って、「大好きだよ」とずっと伝えてきた。

そのおかげか最近は、「パパは俺のこと、本当に好きなんだな!」と言ったり、「もう

知ってるって!」と笑いながらしゃべるようになった。長年まき続けた愛の種が、無垢

(むく)な土壌に確実に実っているようで心底うれしくなった。

働けない私は、自分の存在価値に疑問を持ってしまう。だが、子供たちはそんなことに

関係なく、私をかけがえのない存在としてずっと家族に迎え入れてくれている。

そんな子供たちのためにも、これからも愛を言語化していきたい。やがて子供たちが大

きくなり、うざく思うこともあるだろう。しかし親に愛された記憶が、巣立った後の彼

らの力になると私は信じている。

だから、これからも精いっぱい人生を生き抜いて、自分なりの父親像を全うしていきた

い。