赤い風船。
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
おはようございます。
今日の花言葉は あなたと共に痛いです。
本当にかくありたいもの……
総理はおっしゃいます。
「オリンピックを やめることは簡単
だけれども前向きに立ち向かうことこそ有機」とおっしゃってもいます。
5時近くになると「おはよう早起きどり」のさえずりがあちこちから聞こえます。
朝の空気を感じて過ごせる健康に感謝しながら過ごしています。
加藤登紀子の歌に触発される一人でもあります。
75歳の今も健在で歌い続けるコンサートに人生の最後の思い出として行けたならと思っ
ています。
だけどもうチケットは完売なのでしょうね。
中でも赤い風船の歌がとてもインパクトがあります。
この歌はフランスの映画から生まれた市なのでしょうが
その社会的背景は皆無です。
赤い風船 手にもって
走ったり ころんだり 笑ったり
いつもひとりで たわむれている
可愛い坊やは 空が好き
赤い風船 手をはなれ
青空にふわふわと 飛んでった
坊やびっくり 追いかけようと
大きな通りに 飛び出した
赤い風船 空の上
泣きながら 街の中 追いかけて
坊や車に ひかれて 死んだ
可愛い坊やは 死んだ
赤い風船 手にもって
何かしら 楽しそうに歌ってた
あどけない歌 かわいい声も
今ではどこにも 聞こえない
赤い風船 ゆらゆらと
青空を さまよって 探してる
どこへ行ったの 可愛い 坊や
可愛い坊やは もういない
可愛い坊やは もういない
日本で最初の女性シンガー・ソングライター加藤登紀子。1943年生まれ、今年75歳を迎え
るが、今も精力的にコンサート活動を行ない、全国を回り、歌を届けている。加藤は196
5年、東京大学在学中にシャンソンコンクールで優勝し、デビューを果たし、翌66年に「
赤い風船」で、「日本レコード大賞」の新人賞を受賞。 日本が高度成長期に入り、人々
の生活、価値観、あらゆることが変わろうとしている時代に、加藤の歌は人々の心を癒
し、時に鼓舞させた。日本と世界の社会の空気、時代と人々の“気分”を切り取り、歌
で伝え、歴史を語ってきた。そんな加藤にインタビューする機会に恵まれた。キャリア5
3年の目に映る、音楽シーンの過去と現在、そして未来に残すべき歌について話を聞いた
。
ビートルズ登場前と後
「たいていのミュージシャンは、ビートルズからスタートしてる。でも私はビートルズ
が登場する前からなの。すごくシンボリックにいうと、戦争のちょっと前に生まれた世
代と、終わってから生まれた人の気持ちの違いが、ビートルズが来日する前の世代と来
日した後の世代の違いとシンクロしてる。ビートルズ以前なんて、知らなくていいとい
う気分が、過去のことなんて知らなくていいという空気にそのまま置きかわったのね。
ビートルズの登場で、ヨーロッパからのヒット曲は姿を消しましたね。私が中学高校の
頃は、映画も演劇もヒットソングも、イタリア、フランスが流行発信源でした。それを
ビートルズが一掃し、英語圏のものが中心になって、映画もアメリカ発のものに変わっ
ていく、その変わり目が68年です。68年にベトナム戦争が激化し反戦運動が世界に広が
った。戦争がらみの映画がどんどん出てきました」。
「世界も日本も社会が激しく動いた1968年から50年。当時、世界中で歌われていた歌と歌
手の背景をきちんと残すべきだと思った」
『ゴールデン☆ベスト TOKIKO’S HISTORY』(4月18日発売)『ゴールデン☆ベスト TOK
IKO’S HISTORY』(4月18日発売)
68年は日本も世界も激しく動いた年でもある。1月は日本で東大紛争が始まり、3月に
はベトナム・ソンミ村大虐殺事件が起こり、4月はアメリカでキング牧師暗殺事件が勃
発。5月にはフランス・パリで5月革命、8月はチェコスロバキア(当時)の民主化運動
“プラハの春”にソ連が軍事介入、10月には日本で、国際反戦デーで学生達が新宿駅を
占拠するなど、世界で政治運動が大きな盛り上がりをみせた。その68年から50年という
今年、当時世界中で歌われた歌と、歌手の背景をきちんと残すべきだという思いに駆ら
れ、 ベスト盤『ゴールデン☆ベスト TOKIKO’S HISTORY』(ソニー・ミュージックダイ
レクト)を4月18日に、20日には自伝『運命の歌のジグソーパズル』(朝日新聞出版)を
発売する。さらに21日からは東京・Bunkamuraオーチャードホールを皮切りに、コンサー
ト『TOKIKO’S HISTORY「花はどこへ行った」』をスタートさせる。
「1968年からちょうど50年という節目をステップに伝えていくのは、すごくチャンスだ
なと思いました。例えば映画『紅の豚』の中で、ジーナ(=加藤登紀子)が<さくらんぼ
の実る頃>を歌っていますが、あれはちょうど50年前のパリ・コミューンの事を歌って
います。50年の歴史というのがあって、そこで歌われている「さくらんぼの実る頃」な
んです。ポルコ・ロッソ(紅の豚)は、20世紀がスタートする頃に飛行機乗りに憧れてい
て、でも第一次世界大戦で精神的にもずたずたになってしまう。そしてまた第二次世界
大戦が始まろうとしている、戦争と戦争の谷間が『紅の豚』で描かれている時代です」
。
「もうこれで最後にしようと思って発表した「ひとり寝の子守歌」がヒット。人生そうい
うものなのかもしれませんね」
同じように、「百万本のバラ」、「ひとり寝の子守唄」、「ANAK」、「悲しき天使」な
どの曲の背景、意味もセルフライナーノーツに詳しく書き記されており、もちろん自伝
にも書かれている。当時も今も、加藤の歌へのモチベーションは、“怒り”と“やりき
れなさ”と“言い知れぬいとしさ”だという。「ひとり寝の子守唄」はある意味では私
にとって、もう終わりにしようと思った歌でした。歌手になって3年が経っていました
が、歌手である私が、私というのを自己実現できるのかという事に不安がいっぱいあっ
たんです。そんな時、彼(藤本敏夫氏)は拘置所にいて、その距離感が耐えられなかった
。それで、もう最後と思って出したら、ヒットして。人生そういうものなのかもしれま
せんね」。この曲が生まれた1969年は、加藤の恋人である学生運動の闘士・藤本敏夫氏が
、東京拘置所に収監されていた。その時に藤本氏の事を思い書いたのがこの曲だ。藤本
氏とは72年に獄中結婚し、大きな話題となった。この曲がヒットした事で、曲は職業作
家が作るものだった当時、“歌手が自分で曲を作るのは命取りだ”と言っていた、周囲
のスタッフが、手のひらを返したように“自分でどんどん書け”と言ってきたという。
シンガーとしての道に明かりを照らしてくれた、母の言葉とは?
画像
「その時に、母が“昨日今日で曲を作るようになった人が、立て続けにそんないい歌が
作れるはずがない。世の中にはいい歌がいっぱいあるんだから、それをしっかり選んで
歌ったらいいんじゃないの?”って言ってくれて、レコード会社のスタッフも納得し、
『日本哀歌集』(1971年)というアルバムを作って、それが大成功しました。だからシャ
ンソンのような、自分が好きな歌を選んで歌う時は本当に嬉しくて、自分で作った曲を
歌う時はいつもドキドキして、でもその両輪でやってこれた事が、私の歌手人生の中で
はラッキーでした。例えば「愛の讃歌」を歌う時の自分と、オリジナル曲を歌う時の自
分とではちょっと違います。名曲達の持つパワーに触発されるんです。その時代に生き
た人の思いや辛さが、そうやって素晴らしい歌を残してくれる。だから、私も私として
生きたものの証は残さなくてはいけない。だから自分のオリジナルを残すという想いと
、こんなすごい歌を残してくれた事に対して、歌手として応えたいという想い、その両
方の想いを抱えて今までやってきました」。
加藤は、ロシア文化の影響下にあった国際都市、満州・ハルビンで生まれ育っただけで
なく、帰国してからも亡命ロシア人の歌を聴いて育ったという。そして今年は、歌手と
しての生き方に大きな影響を受けた、ベトナム戦争を背景にしたアメリカのフォークソ
ング「花はどこへ行った」と改めて向き合う事で、自身の半世紀の歩みを振り返る事に
した。「花は~」の作者、ピート・シーガーは、ロシア革命に翻弄されるコサックの人
生を描いた、ロシアの文豪ショーロホフ作の『静かなドン』の中の、コサックの子守歌
からこの曲の発想を得ている。
「現代は未来も過去も時系列に関係なく同時に存在している時代。私のコンサートに過去
と未来を感じに来て欲しい」
画像
ロシア文化と“地続き”ともいえる、この『ゴールデン☆ベスト TOKIKO’S HISTORY』
に収録されている曲は、そんな加藤のまさに血となり肉となっている、未来に伝えたい
歌が収録されている。そして全国4か所で行われるコンサート『花はどこへ行った』で、
その想いを届ける。
「何かの時代の終わりのような感じもするけれど、それは何かの始まりの兆しかもしれ
ないという事が、余韻として残るようなコンサートにしたい。特に若い人に聴いて欲し
いです。やっぱり、現代は、過去のものを消すという消しゴム文化でもあると思います
。でも同時に、未来も過去も時系列に関係なく同時に存在してる時代でもあります。社
会全体としては、若い人たちが過去を知る機会があまりないし、古い文化の蓄積や文学
は、見向きもされないようなところがあります。そんな中でも音楽は、一番聴かれてい
る方だと思っています。ぜひ過去と未来とを感じに来て欲しいですね」。