バリトン歌手 失語症を乗り越えて!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 それぞれの人生

それぞれの真坂が

折り重なるようにわが行く手を阻むこともしばしば起きてしまう。

それでもなお一歩が歩める人と

そうでない人との幾道は全く異なってしまうでしょう。

 もう一歩も歩けないと嘆き悲しむ人もあるでしょう。

それはそれ

みんなあなたの人生の旅立ちそのもの。

 バリトン歌手の原口さんにとって、一番起きてほしくなかった失語症

それは彼の命にも匹敵するかのような病です。

 言葉との戦いは今であるからこそ笑って話せる苦難坂

言語中枢の破損を、努力に次ぐ努力で克服されたお姿は涙が吹き上がりそうです。

  やはり言語障害を抱えて、舞台に立ち続けておられた西城秀樹さん

その歌声には、人の心の琴線を揺さぶらずにはおられない

お腹の底から湧き上がるほどの、心の歌が

胸から離れることがなかったことが思い出されます。

 それって、地を這うような努力が人のハートに

ビンビン響いて、まさに魂の歌として聞かせていただきました。

このような体験は初めてでした。ル

     産経寄りの引用です。【負けるもんか】一度失った「歌声」 失語症乗り越

えた バリトン歌手、原口隆一さん

 ピアノの調べとともに響くバリトンの重厚な低音。背筋を張り、腕を広げ、前を見据

えるまなざしには力がみなぎっている。

 「病気を経験した今の方がいい声が出るんです」

 自宅に併設されたスタジオで、歌手の原口隆一さんはそう笑顔で話すと、近くコンサ

ートで披露するという日本歌曲を朗々と歌い上げた。ピアノや音響機器を備えたホーム

スタジオの壁には、オペラの舞台で衣装に身を包んで歌う姿のパネル写真などが並ぶ。

迫力は今も写真と比べて遜色ない。26年前に脳梗塞による失語症を発病。声楽家とし

て大切な「言葉」を失った。

 国内外のステージ活動や武蔵野音楽大で指導に明け暮れていた平成5年秋のこと。昼

食後、うめき声を上げて自宅ベッドに横たわっていたのを妻の麗子さんと長女の川副晶

子(かわぞえ・あきこ)さん(58)が発見した。当時の記憶はないが、「もう死ぬの

かな」と言っていた。

 一命は取り留めた。でも医師から名前を聞かれても答えられない。声は出ても意味の

ある言葉が出てこない。「あいうえお」すら言えない。聞く方も理解できたのは簡単な

あいさつ程度で、テレビを見ても音声が「ザー」という雑音で耳に入ってきた。それで

もこのときはまだ楽観的に考えていた。「そのうち朝起きたら治っているだろう」

■ ■ ■

 付いた病名は「解離性動脈瘤(かいりせいどうみゃくりゅう)」。梗塞を起こしたの

は左脳側頭葉の言語をつかさどる領域で、失語症と診断された。何が起こっているのか

理解できなかった。

 退院後は失った言葉を一から覚え直した。ごみ箱は家族との意思疎通のために筆談で

使った紙で、すぐいっぱいになった。覚えても覚えても記憶から言葉がこぼれ落ちる日

々。歌える曲も一つとしてない。もどかしくて、手から血が出るほど何度も自室の壁を

たたいた。ときには何時間も叫び、妻に「一緒に死んでくれないか」と切り出したこと

もあった。

 「自分に歌を捨てることはできない」。この気持ちが死の淵から自身を救った。歌の

おかげで今の自分がある。まもなく武蔵野音大から誘いを受けて仕事に復帰、学生らと

接すると徐々に歌への情熱が沸き起こる。授業のやり方も忘れたが、学生が過去に自分

の授業を録音したテープを聞いて指導方法を“学んだ”。

 暗譜で何とか1曲は歌えるようになった発病から3年後。本格的に歌唱レッスンを始

めた際、以前にも師事したことがある指導者から「(病気前と)全然声が変わらないね

」と言われ、感激で涙が出た。「もう一度、舞台に立ちたい…」

■ ■ ■

 発病から7年後、ついにリサイタルの舞台に上がった。必死に一から覚え直したシュ

ーベルトの歌曲「白鳥の歌」とアンコールの計20曲を歌い切った。「燕尾(えんび)

服に袖を通すと、自然と口に歌詞が上った」。鳴り響く観客席のスタンディングオベー

ション。「いろいろな思いがよぎった」。泣きながら手を振り返した。

 その後は全国ツアーを行う傍ら、地元住民を対象に健康目的のレッスン講座を始めた

。これまでプロのステージで活躍してきたが、身をもって声楽が健康に良い影響をもた

らすことを実感していた。「声楽になじみのない人にも自分の歌を直接伝えられるよう

になった。病気にならなかったら考えもしなかったこと」

 昨年に病後を支えた麗子さんを亡くした。同年は喜寿の77歳を迎え、これを区切り

に引退するつもりだった。しかし、大学や市民講座の教え子に請われ、再び舞台に上が

ることを決断。歌える曲目も限られているが、麗子さんとともに父を支え続けた晶子さ

んは「それでも父にしか伝えられないことがある。父にとって歌は生きることそのもの

だから」と背中を押した。

 現在も完治したわけではなく、ときどき言葉に詰まる。だが、取材で過去を振り返る

際に、当時を思い出して歌い出す姿はまるで舞台のよう。「80歳まで」と再び引退時

期を定めているが、「声が出る限りは、もっと歌いたくなるかな」とも笑う。言葉を一

度失ったからこそ、より長く、より多くの人に自分の歌を伝えたいと願っている。(福

田涼太郎)

 はらぐち・りゅういち 昭和15年10月20日生まれ、78歳。鹿児島県・奄美

島出身。武蔵野音楽大声楽科を卒業後、オーストリア政府給費生として国立ウィーンア

カデミー音楽院に留学、卒業。1968(昭和43)年、マリア・カナルス国際音楽コ

ンクールで名誉賞。バリトン歌手として多くのリサイタルに加え、オペラ「魔笛」や「

フィガロの結婚」など数々の舞台に立つ。一方、母校で助教授として後進の指導に当た

り、後の著名な声楽家を多く指導。

     わが心のエッセンシャル。

束縛があるからこそ、

私は飛べるのだ。

悲しみがあるからこそ、

私は高く舞い上がれるのだ。

逆境があるからこそ、

私は走れるのだ。

涙があるからこそ、

私は前に進めるのだ。

- Gandhi -