死が語れる今だからこそ…
ご機嫌いかがでしょうか。 視界ゼロのみこばあちゃんです。
おはようございます。
まるで殺人的な毎日に閉口…
ラジオのどこかで、カラスがセミを加えセミが鳴いている姿を発見し
「セミに生まれなくてよかった」との投稿に
なんだかとっても悲しく見たくない状態…
昔は死について語られるようなことはなかったように思う。
ブログで、お母さんがいろんな投稿文を書くことで、子供にも言えない闘病の苦しみ
までも、ブログに徒労していたことで、「母はきっとブログに書き続けることで
人生の終止符が打てたのだと思う」と書きそのお礼が述べられていました。
そのブログを毎日トワいはず友拝見していたみこちゃん
死の直前までつづられていたその時のご様子は少し食べてもすぐ吐き出すので苦しくて
苦しくてたまりません。
「今日うこれ以上書くことはあまりにも苦しくてかくことができません
そのようなブログが最後であったと思います。
それから、一か月もの月もたたないうちに家族からの野辺の送りが投稿され
家族が言われるようにブログが支えていたのだと知り
みこちゃんも死の直前まで投稿できたならと思いを新たにもしています。
輪廻転生があるのかどうかはわかりませんが人生のエンでぃぐに際し、だれか傍らに
寄り添い続けてほしいとはボッチのわずかな願いとも言えます。
わが友は運転免許を返納してからの日々はまるで
坂を転げ落ちるかのように人格まで変貌しコールがあるたびに「長く行き過ぎたよう」
との悔やみ節で電話が切られさみしくもあり、いろんな心理描写を想像してみるも
これが死に向かうステージとするならばや国など立ちようもないが傍らにあり続けたい
ものだと自問自答。
死が至近距離を意識するようになるとその痛みを超えて得体の不安がよぎり精神をざわ
ざわさせるのではと想像してみたりもします。
今では「命の姉妹方」なる講座まであるというから驚きです。
自分の意思通りのえんでぃぐが迎えられる人ばかりではありませんよね。
大半があの無機室る病棟で、命のちゆーぶに囲まれながらの死が用意されていることで
しょう。
彼岸、無、来世「故人」が書き残した本気の死後観 古田 雄介