やっと、死が語れる時代にと… …
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
おはようございます。
この年代だからこそ死について,従妹、がんサバイバでもあり一つ年上の姉を二年前
に乳がんの進行癌で見送りもしていて死について語ることはそれなりに多くもなってき
た。
倒産を境に、兄弟からは、お金の都合などで疎遠を余儀なくされながら
なおかつ、兄弟に手術の応援とサポート依頼ができる従妹が
末っ子の甘え体質かどうかわからないけれど
そのような行動は、みこちゃんにはとてもできず
私に唯一できることがあるとしたなら、いとこの命の
傍らに常にいつづけることと、経済のサポートしかない。
一度ならずに度までの死をくぐりぬけたことによる、その覚悟と弱さが、どこか同居し
ているような気もしている。
その強さと弱さが同居しているみたいな従妹。
みこちゃんといえば両親や、親戚従妹たちの若い死にかかわり
どちらかといえば、生ある限り死は平等におとずれるものだと自覚している。
今の時点で言えることは死は、闘病の先にあるのだと想定も
それなりにシミレーションもでき、死は怖いものでもなく
少しでも苦しみの少ないendingが迎えられたならとひたすら願う。
頼るべき人もいない中での死はそれなりの覚悟がないとよみへの旅立ちなどはあり得な
い。
母は入院時には救いようもない末期がんでの入院生活。わずか一か月の闘病ののち
の死であった。
兄弟がかわるがわる、寄り添ってくれそのたびに「ごめんなさい」の連発。
母は、限りある命を意識しながら心の移ろいなど
きっと誰にも話すことなく自己完結していたのであろう…
、ただ最後には弱弱しい声で「みいちゃん、お爺さんを頼む」と消え入るような最後の
言葉
みこちゃんはきっと、あの無機質な病棟で意識が遠のきながら
endingを迎えることでしょう。
これは私の運命そのもの…
私の親友は、90歳を目前に「長く行き過ぎたような気がする」と時折メールをいた
だき、その向こうにある日々の苦しみが垣間見えるような気がして
添える言葉もなくみこちゃんの暮らしを一言二言、メールしておく。
車の免許を、返納してからのメンタルの衰えときたら
まるで急転直下。
死が近くにある限り問われていることは
毎日を、自分なりに精一杯あるべきだと提言しているようにも思えたりもしている。
今心のままに生きられている幸せに感謝しながら母に会えることを信じて生きていけ
てます。
良い時代だと思えることは、死を たぶうしすることなくしゃべることの時代がやっ
と来たのだと安堵もしている。
コロナ禍の影響でさまざまなイベントが中止・延期となる中、あるイベントに人々が吸
い寄せられている。死についてカジュアルに語る「デスカフェ」というイベントだ。
思わずギョッとしてしまう名称。その実態は「死」を考えたい人なら誰でも参加できる
話し合いの場だ。死別経験の有無は関係ない。
6月27日にオンラインで開催されたデスカフェに筆者も参加してみた。この日の参加者は
6名だった。
死についてカジュアルに語るイベントの実態
Web会議サービス「Zoom」の画面上で初めて会った相手と、およそ2時間「死」について
語る。冒頭、主催者から「まずは黙想しましょう」と声を掛けられ、目を閉じた。
守らなければならないルールは3つだけ。「一人一人が自分の考えを表現できる場をつく
る」「特定の結論を出そうとしない」「カウンセリングや悩み相談にならない」。
「死について話す」以外にテーマはない。プライバシーに配慮してハンドルネームを使
用できる。「Zoom」の音声マイクを切り替えて、一度に話すのは1人だけ。沈黙の時間も
大切だ。
少しの沈黙の後、参加者の発言を機に「死」に付随する話題が流れ始める。終了後は、
不思議とすっきりとした気持ちになった。
「デスカフェは毎回、自分の心模様に変化があって面白い」――。そう感想を語ってく
れたのは、今回が3回目の参加となるHさん(55歳)だ。
参加したいと思ったきっかけは、自身のがん体験だった。14年前に乳がんを発病。治療
を続けて一度は落ち着いたものの、5年前に再発した。
「再発・進行がんは多くの場合、治らず、治療はエンドレス。再発がわかったときは、
死への恐怖からずっと泣いていたし、当初は『明日にも死ぬのではないか』と思ってい
た」