見取りは儀礼でなく。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

今日も しめっっぽい空気の中でむせそうです。

バックには「上を向いて歩こう」が流れています。

九ちゃんの人柄が伝わる声の響きでした。 血縁者はほとんどがんで苦しみぬいて旅立ちを羽化得ました。

 がんの苦しみだけは取り除きながら意志がもうろうとする中で母のもとに行けたな

らと

延命措置は家族のためにも自分のためにも

絶対反対です。

がん患う医師「死に目に会うことは重要ではない」 石蔵 文信

逝きかた上手

入院していますので、おそらく点滴や栄養チューブなどの最低限の延命処置は施され

ていると思います。

栄養補給をすると死期が少し長くなる

栄養補給をすると、死期が少し長くなる可能性があります。そのためにかなり長い期

間、家族が病室に詰めて、かなり疲労困憊している姿を見た看護師さんが「しばらく家

で休憩されたらいかがですか?」とアドバイスしたようです。

がんの末期には痛みや苦しみが伴うので、以前は病院で麻薬などを使った緩和ケアが

必要でした。しかし現在では開業医の先生のなかにも看取りをしてくれる方が多くなり

、経口の麻薬を使うとかなり有効な緩和ケアができます。

私の場合は最後には入院をせずに、緩和ケア医に頼んで自宅の1室で静かに旅立とうと

思っています。2021年末に私が経験したように、骨に転移したがんではかなりの痛みを

伴いますので、最終的には麻薬を使っていただくことになるでしょう。そして食事や水

分摂取もだんだん少なくなることも経験しました。

体はかなりしんどいですが、動かなければ特段大きな問題はなく、意識は次第に「ぼ

ー」としてくるのです。このときに痛み止めや麻薬を使うとかなり朦朧とした状態にな

り、それほど苦痛を伴わないのではないかと予想されます。

完全にそこまでの状態にならなかったので、「比較的楽ですよ」と気楽に言うわけに

はいきませんが、昨年の暮れはその一歩手前まで状態が落ち込みましたので、大体予測

がつきます。先述したように、がんの遺伝子に対する治療薬が奇跡的に効き、死の淵か

らよみがえってまいりました。

がんの終末期は、点滴や栄養補給などをしなければ、だいたい食事や水分を摂らなく

なってから1週間以内に亡くなることが予想されます。自宅で緩和ケア医に往診していた

だくことによって、たとえ亡くなっても診断書を書いていただけるので、警察沙汰には

なりません。

家族も24時間待機する必要もなく、朝と夕方ぐらいに顔を見てくれれば私は満足です

。その間に絶命しても、それは別に気にすることではありません。

「死に目」のことは気にしないでいい

家族には、私の「死に目」に立ち会うことはあまり気にしなくてよいと伝えています

。妻も娘も全員医師なので、患者さんの診療を第一に考えてほしいと思っています。

参考に私の母が亡くなったときの話をします。母は亡くなる1カ月ぐらい前から食欲が

なくなり、アイスクリームや水分などを少しは口に入れていました。しかしそれも次第

にできなくなっていました。

施設からは「点滴はチューブ栄養をしますか?」というような話もありましたが、す

べてお断りをしました。母の死が近いと感じた私は、足しげく施設を訪問しました。

亡くなる数日前までは、なんとなく会話らしいものが成立していました。ある日施設

から「状態がおかしいのですぐ来てほしい」という連絡をいただいたので、すぐに馳せ

参じました。そのときには母はすでに亡くなっていました。

その時間は13時ぐらいでしたが、のちほど死亡診断書をいただいたら、死亡時間が16

時になっていました。おそらく、そこの担当の先生が到着した時間ではないかと推測さ

れます。

母が正確には何時ごろ亡くなったか私にはわかりませんが、死に目に会うことができ

ませんでした。しかし最後にはいろいろな話ができて、自分なりに十分な看取りができ

たと思います。

「死に目」に会うことは大切かもしれませんが、もうそのときには既に意識はなく、

問いかけに反応することもありません。もし大切な人だと思うなら、少し元気なうちに

いろいろな話をしておくことが大切だと思います。

最近は、お見舞いや葬式にも行かなくなりました。

私の尊敬する先輩で社会学者で宗教家の、大村英昭先生の死に方のダンディズムをあ

らためてしっかり受け止めています。大村先生は大腸がんを患い余命1年以内と言われて

いましたが、結局5年ぐらいはお元気でした。

さすがに最後は体調が悪くなり、入院をされてお亡くなりになりましたが、大村先生

は元気なうちから私に「寝込んだら見舞いは不要」ときつく申しつけておられました。

さすがに気丈な方でも、がんの末期は辛いものです。家族以外にそのような姿を見せ

たいと思わないのも、1つの考え方でしょう。私も元気なうちは友人たちと会いますが、

寝込んでからは面会は拒否しようと思っています。しんどいときに友人たちに訪ねてこ

られても、疲れるだけですからね。

葬儀は人との別れを意識する儀式

さて、それとは別に、最近は訃報が届いても葬儀にはなるべく参加しないようにして

います。さすがに親族が亡くなったときは葬儀に出席しますが、そのほかの場合は、よ

っぽど親しい間柄でも葬儀には行かないようにと考えています。

平素友人なら、見舞いや葬儀の前にしっかりといろいろな話ができるはずです。そし

てよくよく考えてみると、そのような友人は2、3人しかいません。もうそういう友人た

ちとはすでにゆっくりと話をしましたので、私が急に倒れて亡くなっても、特に後悔す

ることはないでしょう。

私がお葬式に行かない理由の1つは、葬儀が完全な儀礼であること。そしてそれが最後

のお別れになることです。

勝手な想像ですが、葬儀に参加しなければ、その方はまだ私の頭の中では生きている

と感じるのです。特にめったに会わないような方に関しては、遠くで生きておられるの

ではないかと考えるようにしています。当然それほど親しくないので、わざわざ会いに

行って話をすることもありません。

葬儀は亡くなった方を見送るのに大切な儀式だと思いますが、8割以上の方は義理で参

加されているのが正直なところではないでしょうか。私の場合は、家族に看取られて旅

立っていけばそれで満足です。

有名な方は家族葬の後にお別れの会を開くこともあると思いますが、私にとってはそ

れはどうでもいいことです。でも、親しい友人たちが勝手にお別れの会をしてくれるの

までは、拒まないつもりです。

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