戦争中の障害による差別。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

世界的には100人に一人がコロナ感染者ともいわれています。

もはや、コロナは社会病ともいわれます。

風景を 変えてしまったこのコロナ、一人一人にモラルが問われてもいます。。

さし湿った年末、健康に感謝しながら次世代に一歩を 進めたく思っています。

 コロナもひっ迫する一方の日々でもあります。

 戦後75年が私たちに豊かな経済と暮らしをもたらせてもくれました。

ここにきて疫病で苦難を敷いてもいますが、耐えがたきを絶え過ごした戦争経験者には

頭が下がります。

 日本丸羅針盤が見えにくいほどのこの社会

一人一人に求められているものは忍耐と共助ではないかと思っています。

 戦時中に障碍者となり差別を受けざるを得なかった人もなんと多いいことか…

 政府の保証も少ない中で、耐えがたきを絶えて過ごしてきた人…

 もう60年以上前のことだ。それでも、あのときの視線は、いまも忘れられない。

 岐阜県大垣市の柘植忍さん(91)は16歳のとき、全身にやけどを負い、右目を失った

。だからこそ、むしろ勉強に励んだ。大学院まで進み、先生や同級生たちにいやな思い

をさせられた記憶はない。

 就職活動だけが違っていた。けががあるから、だめなのか――。

 戦争が原因だった。

 1945年7月29日未明、大垣の市街地を米軍機が襲った。

 大雨のような音がして、近くにあったふとんをかぶった。とたんに体に衝撃が走り、

体が燃え上がった。必死に川に飛び込んだ。

 気づいたときには、救護所のベッドに寝かされていた。胴体以外、すべて包帯が巻か

れていた。ふとんごと焼夷(しょう・い)弾の直撃を受け、左腕は複雑骨折。鏡をみて

息をのんだ。

 やけどで、顔がまだら模様になっていた。油脂が右目に入った。摘出するしかなかっ

た。

 「学校に行きたくない」

 ともに教師だった両親に、そんな弱音を吐くとしかられた。治療や支援をしてくれた

人の存在を説かれ、弱音はやめると心に決めた。

 1年の休学ののち、学校に再び通い始めた。中学、高校と、同級生はやけどやけがのこ

とは何もなかったかのように接してくれた。名古屋大学の法学部に入り、修士課程まで

進んだ。大学でも、たとえば体育の教師は、「やれることはやった方がいい」と言って

、みんなと同じように授業を受けさせてくれた。

拡大する大学生の時の柘植忍さん=柘植さん提供

 しかし、就職活動はそうはいかなかった。岐阜県の教員採用試験のほかに、地方銀行

など民間企業も受けた。どれも、筆記は通るのに面接で落とされた。

 面接で直接、顔のことを言われ…

 今日のスタートメニュー

薩摩ご飯、玉ねぎとジャガイモあげの味噌汁

焼きサバと大根おろし ほうれん草の卵とじ、ピーマンと雑魚の炒め煮

ヨーグルト、バナナ

どうか今日が少しでも穏やかでありますように…