『かあさんの歌』にに触れ。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 お母さんの愛は無限大であり、子供に対する接し方は偉大なものがあります。

 みこちゃんも母の懐の恩恵を限りなく受けて育ったと思っています。

母の写真に振れる時、いつも母の憂いを秘めた顔に接することは

なぜか多く会った記憶があります。

 人生を謳歌しきったかのような満面の笑みの母は

娘時代だけであったような気がしております。

写真はなぜか内面までも映してしまうような気さえしています。

  母は逢坂で恋愛し、戦禍にあったこともあって父親からは

食べるに困らない農家の暮らしを進められたけれども

母は都会暮らしを捨てる気はしなかったけれども

親の言うことが聞けなければ感動といわれ

やむなく価値観の違う父のもとに嫁ぎました。

それは昭和19年のことでした。

 母は農家の暮らしも知ることなく不自由のない暮らしから

農家暮らしを余儀なくされることになり

どれだけ苦労を重ねただろうと思います。

 母は農作業に加え会社員としての暮らしも頑張っていました。

冬になると、あかぎれだらけのカサカサの母の手は当たり前でした。

いつも、いつ寝ているんだろうと不思議に思えたものでした。

 母は洋裁、編み物、食卓、農作業も丁寧にやっていたように思います。

 貧しさ、多忙,を乗り切るエネルギーは

読書と、習字ではなかったろうか

 みこちゃんが母の元を離れたときには、年に何回か届く小包と

「何かあった時に使いなさい」と

身体をいたわる手紙が添えられていていつも涙がこみあげていました。

ないお金を工面してくれた母の様子が痛いほど伝わり

そのお金に手を付けられない自分がありました。

それにいつも母のお手製のカステラが添えられていました。

これも母は時間がなくて夜に作っていたのを思い出します。

 母は子供の前では暮らしの不足を何一つ語る人ではありませんでした。

 母は草花のように楚々として生き抜いた人だと思っています。

 人生の終末前には、痛み止めの力を借りて、兄弟の末っ子のためお墓参りと、兄弟の一人一人にセーターを編み届けてそれから寝床を

離れることなく胆管癌としての生き急ぐ死を58歳の生涯の幕引きまでも

桜散る4月11日に旅立ってしまいました。

母の生涯は貧しさと忙しさの中を駆け抜けただけの

人であったように思います。

「母さんの歌」には限りない母の愛とあまり幸せ間を見出せなかった写真が今も

みこちゃんのとげとなって心の悲鳴にも似たものが去来しております。!

 母の唯一の親孝行は、父の先々を案じた母の思いを

かなえてあげただけです。

 母の愛は海よりも深く

そしてどこまでもどこまでも… …。

 母とあの世で会えたなら

母が歌いみこちゃんがオカリナの一つも更けたならば・・・。

そして来る日も来る日も母の心に振れ続けることができたならと

妄想してますおばばです。

これもかあさんの歌に振れて改めてこの思いを増幅させているところです。

お母さんありがとう。

きっときっとあえるよね!

母さんの歌

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(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo

作詞・作曲:窪田聡、唄:倍賞千恵子 他

1 かあさんは夜なべをして

  手ぶくろ編んでくれた

  こがらし吹いちゃ つめたかろうて

  せっせと編んだだよ

  故郷(ふるさと)の便りはとどく

  いろりの匂いがした

2 かあさんは麻糸つむぐ

  一日つむぐ

  おとうは土間(どま)で 藁(わら)うち仕事

  おまえもがんばれよ

  故郷の冬はさみしい

  せめてラジオ聞かせたい

3 かあさんのあかぎれ痛い

  生味噌をすりこむ

  根雪もとけりゃ もうすぐ春だで

  畑が待ってるよ

  小川のせせらぎが聞える

  なつかしさがしみとおる

《蛇足》 昭和33年(1958)発表。

 作詞・作曲者の窪田聡(本名:久保田俊夫)は昭和10年(1935)東京生まれ。戦争中は長野県の信州新町疎開していました。現在は岡山県瀬戸内市牛窓に在住。

 窪田聡は、進学校として知られる開成高校に進みましたが、太宰治に心酔してデカダン(頽廃的)な生き方に憧れ、授業をさぼって映画・たばこ・酒に耽溺する日々を送っていました。

 やがて進学の時期が来ました。同級生たちのほとんどが有名大学をめざすなか、彼は文学で生きていく決意を固め、親が準備してくれていた入学金・授業料をもって家出してしまいます。

 安下宿に隠れ住んで、就職しましたが、そのかたわら、音楽が好きだったので、中央合唱団の研究生になりました。しかし、給料が少なく、食べていくのがやっとの生活で、文学に邁進するどころではありません。

 そのころ、共産党系の人たちが中心になって進めていた「歌声運動」に多くの若者たちが惹きつけられていました。窪田もその1人で、楽しそうにロシア民謡を歌う人びとの姿が、彼の目にはまぶしく映りました。

 とうとう彼は、文学を捨て共産党に入党してしまいます。

 母親から小包が届き始めたのは、そのころのことでした。両親の意を受けた次兄が、彼の下宿を探し当てたのです。小包には、彼の好きな食べ物や手編みのセーター、ビタミン剤などとともに、「体をこわさないように」といった母親の手紙がいつも入っていました。

 高校の同級生たちの多くが有名大学に入り、高級官僚や一流企業の社員になっていきましたが、彼はアコーディオン一挺を抱えて、全国を歌声指導しながら回る生活を続けていました。この歌は、そうした生活のなかで、母親への思いと疎開時代に見た田舎の光景とが重なって生まれた歌です。

 「かあさんの歌」ではありますが、2番の「おとうは土間で藁うち仕事」の部分に、自分の勝手な生き方を黙認してくれた父親への気持ちも込められています。

 以上は窪田自身がいろいろなところで語ったり、書いたりしたことです。

 1番の出だしは、一般には「かあさんが」と歌われていますが、原詞は「かあさんは」なので、それに従いました。また、各聯、真ん中の2行は母親の手紙文であることを示しています。

 2番の「藁うち仕事」については、『もずが枯木で』の蛇足をごらんください。3番の「あかぎれ」は、冬期に手足の皮膚が乾燥して荒れ、弾力がなくなって割れ目ができる一種の皮膚病ですが、栄養状態が向上した現代では、ほとんど見られなくなりました。

 根雪は、降り積もった雪の重みで地面に凍りつき、暖かくなってもなかなかとけない雪。

 山国信州では、根雪がすっかりとけて春になると、梅、桃、こぶし、桜、杏、リンゴなどの木の花やオオイヌノフグリ、スミレ、タンポポなどの草花がいっせいに花を開きます。梅が終わってしばらくして桜……というふうに順繰りに咲くのではなく、ほぼ同時期に先を争うかのように咲くのです。

(二木紘三)

2007年8月 9日 (木)|固定リンク

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コメント

大変参考になりました。

又、窪田氏は現在ライブハウス?のような

物をお持ちだと風の便りに聞きましたが

ご存知ありませんか?

投稿: さとのあき | 2007年8月18日 (土) 21時01分

田舎から都会へ出てきたのは38豪雪とよばれ故郷の福井では2メートル余りの雪が降ったときです。下宿で空腹と寒さで打ちのめされていたとき、母の手紙が私にとって、あったかい手袋になりました。

投稿: 越野利栄 | 2007年9月15日 (土) 22時56分

私は福井県若狭の生まれで、38年豪雪のときは高校3年生でした。敦賀駅から学校まで2キロくらいありましたか、通学生が延々とと一列に並んで歩いていたことを思い出します。越前では敦賀よりも多く降り、家が押しつぶされ、ただひとり生き残った坊やが福知山の親戚にもらわれていったというニュースがありました。そのお子さんも今はもう50歳近くなっていらっしゃるんですね。

投稿: 佐野 教信 | 2007年11月18日 (日) 20時58分

久保田俊夫の甥っ子でございます。叔父の曲を紹介いただきありがとうございました。

歌われる「かあさん」は私の祖母にあたるわけですが、逝去から二十年近くが経ちました。それでもなお、このように歌として人目に触れる機会があることに、感謝、といいますか、深い感慨を抱く次第です。

>さとのあき さま

今更書いてもお目に留まることはなかろうかと思いますが、窪田聰は現在、記事本文にもあるように岡山県牛窓町に在住しておりまして、市民活動のようなものと、音楽活動を平行しておるようでございます。たいそうのんびりした土地柄だそうで、ライブハウスといったハイカラ(笑)なものをやっているとは、今のところ聞き及んでおりません。

投稿: 久保田弥代 | 2007年12月14日 (金) 04時42分

 まことに申し訳ございませんが、私の母のことを述べさせていただきます。

 『赤い靴』でも、母のことは触れさせていただきました。昭和31年の父死去の前から、女手一つで私たちを育ててくれました。(昭和47年夏頃郷里から、現居住地に母とすぐ下の妹を呼び寄せました。)

 (以下、我が身の恥をさらします)。私はその大恩に何一つ報いておりません。それのみか、親不孝の私は、元気な頃の母に悪態をついたり、怒鳴ったり、こづいたりしたこともありました。

 仕事は次々に変わるわ、30になっても40になっても嫁ももらわず(いえ、もらえなかったのです)、母が「欲無しバカ」と嘆いたほど金銭欲などは薄いし(貧乏していても平気だし)…。

 親戚、知人からすっかり信用を失ってしまいました。しかし、そんな不肖の息子をただ一人母だけは、最後まで信じてくれていました。皆様どなたもそうでしょうけれど、私にとって母は、本当にありがたい「世界一の母」でありました。

 貧農出身の母は、もって生まれた貧乏性に加えて、出来の悪い息子を持ったがために、70過ぎまで掃除の仕事などを続けました。「もう、やめなよ」と言っても、聞きませんでした。

 長い間の心労がたたったのでしょう。平成9年6月、脳梗塞で倒れました。私が今の業務を開業して、間もなくの頃でした。当時75歳でしたが、本当にしわくちゃの小柄な婆さんになっていました。しかし病気によって心労から解き放たれたのか、入院後の方がしわが取れて、若返ったようでした。

 ある日病院を訪ねると、私を認めるなり、まるで童女のようなあどけない笑顔で、にっこり笑うのです。長い間母と共に暮らしてきましたが、そんな無邪気な笑顔は初めてでした。いかに母の心労が大きかったか。胸が締めつけられる思いでした。

(その後脳梗塞が再発し、半ば植物人間化してしまいました。)

 母は産みの親であると共に、私の命の恩人でもあります。

 父が存命中の太郎村の家でのこと。私が6歳頃の春先、家から十メートルほど下流吉野川の水際に、一株の福寿草が咲いているのを見つけました。私はそれを採ろうと思って、土手の上からそろりそろりと降りていきました。しかし、ツルンと足をすべらして、川にドブンと入り込んでしまいました。時あたかも雪解けの季節。川は黄濁しだいぶ増水しておりました。私はとっさにススキか何かの枯れ草の束をつかみ、私を強い勢いで押し流そうとする濁流に抗(あらが)いながら、「おかちゃー。助けでけろ!」と大声で叫び続けました。家の中にいた母は、何事かと慌てて飛び出してきて、間一髪私を救い上げてくれました。もし母が助けてくれなければ、私はとっくにこの世にいない命でした。

 そんなことも、愚か者はスッカリ忘れていたのです。母が倒れて後『そういえば、あんなことがあったなあ』と、初めて思い出したのです。

 母入院後半年余り経った、翌平成10年2月。諸般の都合で、自宅介護をすることにしました。当時はまだ「介護保険法」が施行されておらず、世間一般はまだ自宅介護という通念があまりない頃でした。しかし私は、昔太郎村の家で、母が父を介護していたのを見ていましたから、別に大層なことだとは思いませんでした。

 以来、6年余り続けました。「要介護度5」でしたから、逆にそんなに手のかからない病人でした。母は私が息子であることも分からなくなっていましたから、張り合いはありませんでしたが…。私としては、これ以上ない親不孝のせめてもの償いのつもりでしたが、そんなことぐらいで償いきれるものでも、大恩に報いられるものでもありません。

 ともあれ「悲哀の中に聖地あり(オスカー・ワイルド)」。救いようのない愚か者の私も、この経験から「大切な何か」を少しは学ぶことができました。

(なお母の介護に当たって、主治医の先生、看護師さん、市役所の方々、ケアマネージャーさん、ヘルパーさん、入浴サービスのスタッフの方々…。実に数十人以上の方々に、その都度我が家に来てサポートしていただきました。これらの方々のお力がなければ、とても私一人では介護を続けることは出来ませんでした。)

 生前も死後も全く世間様に知られることのない、無学な母でした。ですから皆様。申し訳ございませんが、母の名前をここに記させてください。母は「大場ノヱ」と申します。大正の生まれですから、当時の慣習でカタカナですが、漢字では「野枝」でしょう。みちのくの野にひっそりと生えた木か草花かの、一枝。いかにも母にふさわしい名前でした。出来れば、郷里にそのまま住み続けさせてやるべきでした。

 平成16年4月2日。母ノヱ逝去。享年82歳。ごく内輪で葬儀をすませました。4月5日午前。母を荼毘に付すべく向かった、当日は朝から大快晴でした。その年は丁度その頃が桜の満開でした。途中相模川のほとりの道を通りました。数百メートルほど桜並木が続き、特に二百メートルほどは道の両側から全体を覆い、さながら満開の桜のトンネルの趣きです。対岸の海老名市の桜並木も見事でした。

 余りにも報われなかった母には、およそ似つかわしくないほどの「最後の花道」になりました。

(なお、同年5月下旬帰省し、親族立会いのもと、父が眠る太郎村の当家の墓所に納骨致しました。)

 お読みいただき、大変ありがとうございました。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月 2日 (水) 19時42分

蛇足も読み応えがあり。。。またコメントも。。。泣かせました。

母とはそういうものですねぇ?

この歌を聴いてみたのには訳がありました。中一の頃の担任の先生がこの歌を歌われたのです。その先生のおかぁさまは再婚されて先生には父親の違う弟さんもいらしたらしいです。そういう背景を知っていたので先生が”かぁさんの歌"を歌われた時非常に感銘を受けたのでした。

そして聞いてみると母とはありがたいものだと、大場様の気持ちに重なるものを私も思い泣けてきました。

そういう泣かせる母を持ったことに感謝を持たねばなりませんね。

投稿: sunday | 2008年4月 3日 (木) 08時02分

大場様 お母様のご命日の日のコメント、しみじみと読ませて頂きました。そして、はっきりと申し上げることが出来るのは大場様のお母様は、息子さんと最後の日まで一緒に暮らすことが出来たことを喜んでいらっしゃるでしょう、と言うことです。

私自身母への思い、それは亡きあと悔いることが多かったのですが今自分自身が母として子供に対する気持ちは、最後に「有難う」と言って別れることだけです。親が子供に求めることは、元気に自分の人生を生き抜いて欲しい!と言うことだけなのですから・・・

このサイトで何度も聴いている曲があります。外国民謡、歌曲の

部門の「谷間のともしび」と言う歌です。

  たそがれに我が家の灯、窓にうつりしとき

  我が子帰る日祈る、老いし母の姿

  谷間灯ともし頃、いつも夢に見るは

  あの日あの窓恋し、ふるさとの我が家

我が子帰る日祈る年老いた母、それが今の私かも知れません。

亡き人は、思い出して上げることでその中にまた生き返ることが

出来ると聞いたことがあります。大場様のお母様も、苦しみのない世界で、大場様がお元気にご自分の人生を生き抜いてくれることをきっと祈りつづけていらっしゃいますよ。桜のピンクのトンネルを通って大空に旅立ったお母様、懐かしむことが何よりのご供養となると信じています。

投稿: れいこ | 2008年4月 3日 (木) 12時37分

 れいこ様。sunday様。このたびは、私の『母さんの歌』の拙文にご感想をお寄せくださり、まことにありがとうございました。

 『赤い靴』の時もそうでしたが、例によって極めて個人的なことですし、また母を語る場合、私自身の恥ずかしい部分にも触れざるを得ないものですから、ずいぶん迷いましたが、結局は「母への溢れる想い」の方が勝り、コメントさせていただきました。

 それと、「母」は「父」と共に、人類共通の最重要の「元型的イメージ」なわけですから、例え個人的な母の思い出であっても、何がしかの普遍的な琴線に触れえるのではないか、との確信のようなものもございました。

 このたび図らずも、ご年配の方そしてお若い方の両方の世代の方からのご感想を賜り、私の考えもまんざらではなかったのかなと、意を強く致しました。

 本文中に加えることはできませんでしたが。『母さんの歌』そのものが、私どもの太郎村での思い出に結びついております。特に歌の2番。病気で倒れる前の父が、根雪に閉ざされた冬の間の生活のしのぎのために、土間で「藁打ち仕事」をして「蓑(みの)」などを作っていたこと。また母は、畑で採れた大豆を煮込み、囲炉裏端でそれを藁の中に詰め込んで自家製の納豆を作っていたことなど…。懐かしく思い出されます。

 なお、本文中で、私の親不孝ぶりを強調するあまり、生前の母に対してひどい虐待を繰返していたんじゃないのか?というご疑念をお持ちになられた方もおいでかもしれません。仕事などがうまくいかない時、母につらく当たったことがあったということで、そうしょっちゅうではありませんでした。普段は仲のいい親子関係でしたので、ご了承賜りたいと存じます。

 但し、35~45歳の10年間くらいが、私の半生のどん底の時期で、やることなすこと裏目裏目。それが母が倒れる直前の晩年と重なり、『おふくろには、何一ついい思いをさせてやれなかったなあ』という、悔恨の想いが一段と強いのです。

 ところで、sundayさん。そして若い世代の方々。今後とも、二木先生のご造詣の深い解説、また(私のはともかく)年長の方々の含蓄のあるコメントをよく味わって、ご自身の血肉としていただきたいなと思います。それと共に、さらに幅広く知性を磨いていただき、貴重な「無形の文化遺産」を、次の世代にしっかり引き継いでいっていただきたい。そう心から念願致します。