特攻隊として戦地に散った多くの思いに触れ!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 昭和19年から終戦まで日本軍は

【神風特攻隊】を結成し命の攻撃隊として戦地に

若い若い多くの命が「天皇陛下のため」と教えられ

無念にも散っていきました。

元このような先人たちの礎の元に

今の日本があることを決して忘れてはいけないし無駄にすべきではない。

  特攻兵の多くはわが命より、残された家族、祖国のためにと

先陣として散るために生まれたような命のことだけは決して忘れるべきではありません

 日本のあるべき姿まで防衛予算の拡充で

国防軍化などさせるべきではありません。

誰の命が失われてもそれはふこうをうむだけのこと!

 特攻兵の遺書に振れたとき涙が止まりませんでした。

 日本は唯一被爆国です。

わが暮らしは多くの御霊の元にあるはずです。

 我々は平和憲法の元平和にくらっすことができていました。

     アサヒコムの引用です。

生きて帰った元特攻兵 恥じる息子に両親がかけた言葉

 73年前の晩夏、京都府亀岡市に生きて帰ってきた元特攻隊員の男性がいる。「もう

二度と会えない」と家族や友人と涙で別れ、死ぬ覚悟を決めて出撃の日を待ったが、そ

の5日前に終戦を迎えた。恥ずかしさでいっぱいの帰還だった。しかし、両親は18歳

の青年を大喜びで迎えた。

 男性は同市曽我部町に住む木内直(ただし)さん(91)。現在の同市千歳町の出身

で、パイロットは幼い頃からのあこがれだった。亀岡農学校に進学後も空への思いは消

えず、海軍飛行予科練習生(予科練)を志願。校長は「農学校からの受験は初めてだ」

と喜び、全校生徒の前で紹介した。

 心躍らせて鳥取県の美保海軍航空隊に入隊したのは1943年10月。だが、待って

いたのはバッターと呼ばれる「軍人精神注入棒」で尻を殴られる毎日だった。行進がそ

ろわない。ハンモックを時間内につるせない。そのたびに教官が「気合が抜けとる」と

バッターを振り下ろす。痛みで仰向けに寝られず、「なんでや」と忍び泣く仲間もいた

 44年5月、1週間の休暇が与えられ、「親兄弟に最後の別れをしてこい」と命令が

下った。七つボタンの予科練の制服を着て実家に帰ると父政一さん、母ミツエさんは驚

いた様子だった。「これが最後。もう帰れん」と伝えると、2人の目から涙があふれた

。両親が慌てて親戚を集め、「最後の写真」を撮った。

 配属先は鹿児島県の航空基地。我が物顔で飛ぶ米軍爆撃機B29の編隊に圧倒的な戦

力差を感じたが、そんな感想は口にはできない。出撃する特攻隊員の先輩を見送る度に

「自分も続かなくては」と気を引き締めた。精鋭機は失われ、「赤とんぼ」と呼ばれた

複葉の練習機で夜間の実戦訓練を繰り返した。敵機の攻撃を避けるためだったが、自機

の位置を見失って墜落する事故が続いた。

 45年の8月に入り、上官が言った。「お前が突っ込むのは20日や」。爆弾を積ん

だ「赤とんぼ」を特攻機としてあてがい、沖縄の海で敵艦に体当たりせよとの指示だっ

た。「一機一艦」を掲げ、死ぬために厳しい訓練を重ねてきた。「覚悟しているので何

も怖くはない。自分の番が来たんや、と思ったぐらいだった」

 終戦はあまりにも突然だった。「わしらが残っている。なんで負けたんや」。仲間同

士で泣きに泣いた。意気消沈する中、両親に最後の別れを告げた1年前の光景が頭をよ

ぎった。亀岡駅でも旧友たちが涙ながらに見送ってくれた。「生きているのがおかしい

ぐらいだ。恥ずかしい」。郷里を思うほど気持ちが塞いだ。

 夏が終わる頃、帰るはずのなかった亀岡に着いた。両親は木内さんを見るなり「よう

帰れた!」と声を上げた。自分を見送った集落の人々も帰還を喜んでくれた。敗戦を悔

やみ、生きて帰ることを恥とばかり思っていたが、郷里の人々の意識はまるで逆だった

。誰もが「早いこと戦争が終わって良かった」と感じていることに気づいた。

■「生きている間に経験残し…

mig

相手側の船や飛行機に命を引き換えに衝突する事を目的に編成された。

神風特別攻撃隊は、今から73年程前、昭和19年(1944)10月20日に最初の攻撃隊が編成

され、昭和20年(1945)8月15日の終戦まで続きました。

出典神風特攻隊の兄が妹に送った手紙が心に刺さる!

彼らにとって「大切な人」が、未来の日本で立派に生きられるよう、戦い散っていかれ

たのです。

そして戦時中、自分の死を前にした彼らが、何よりも大切にしたこと。それは、自分の

命ではなくて、家族や弟や妹や、恋人など、自分が大切に思う人の命だったということ

出典神風特攻隊の兄が妹に送った手紙が心に刺さる!

若き特攻隊が大切な人に宛てた涙必須の手紙たち

◆大石伍丁・妹への手紙◆

静ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送りしたお金、こんな

に喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに供へなくてもよいから、

必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。

兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、こ

れからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月おくります。では元気で、をぢ

さん、をばさんによろしく。兄ちやんより

出典今日われ生きてあり

◆大石伍丁・遺書◆

なつかしい静ちやん!おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。こ

の手紙がとどくころは、沖なは(縄)の海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で

、幼ない静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい

兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であづけてゐたいうびん(郵便)通帳とハンコ、

これは静ちやんが女学校に上るときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも

木下のをぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。

兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。もうプ

ロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ち

やん。がんばれ!

出典今日われ生きてあり

◆相花信夫・遺書◆

「母を慕いて」

母上様御元気ですか

永い間本当に有難うございました

我六歳の時より育て下されし母

継母とは言へ世の此の種の母にある如き不祥事は一度たりとてなく慈しみ育て下されし

有難い母

尊い

俺は幸福だった

ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺

幾度か思い切って呼ばんとしたが何と意志薄弱な俺だったろう

母上お許し下さい

さぞ淋しかったでしょう

今こそ大声で呼ばして頂きます

お母さん

お母さん

お母さんと

出典知覧特別攻撃隊 - SAMURAI

◆茂木三郎・遺書◆

mig

僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。

お母さん、良く顔を見せて下さい。

しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。

十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。

お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。

それが僕の別れのあいさつです

出典最後に大声で“お母さん”と呼ばせて下さい… - Spotlight(スポットライト)

◆小川清・遺書◆

お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。

思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。

全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟で

す。

あの悠々たる白雲の間を超えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何

れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大儀に生きる光栄の日は今を

残してありません。父母様もこの私の為に喜んで下さい。

殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈り

す。清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らし

ております。

清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。

出典小名木善行 ねずさんの ひとりごと

◆富澤幸光・遺書◆

お父上様、お母上様、益々御達者でお暮しのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺

盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で二十四歳を迎へる事にしました

靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真は○○で猛訓練時、下中尉に写して戴

いたのです。幸光を見て下さい。この拳を見て下さい。

 父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に

沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話

をするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官でもして大いに張切る心算です。母

上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待つてゐます。き

つと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来まし

た。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰

にも負けずきつとやります。

出典特攻隊員の鮮烈遺書全文 「母様と共に御奉公だよ」…母の写真を背に出撃

◆植村眞久・子どもへ◆

mig

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂

に入つたこともありました。 素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母

さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳も、お前の為に家に残して

あります。

素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるや

うにと思つて、お父様が考へたのです。 私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんにな

つて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、 若しお前が私を見知らぬまゝ死んで

しまつても決して悲しんではなりません。

出典歴史が眠る多磨霊園

お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ

、 必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思びます。

生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会

つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。

またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、

お母さんも亦、 御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さる

のです。 必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に

素子の身辺を護つて居ります。

優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた

時に、この便りを讃んで貰びなさい。

昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ

出典歴史が眠る多磨霊園

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◆水知創一・弟へ◆

愼二様

急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。

愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下

さい。

兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。

今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます

良い国にして下さい。

では元気でしっかりやって下さい。

創 一

出典特攻隊員の遺書