シベリア抑留者の手記。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです

 安倍総理平和憲法を架へ日本の姿を変えようとしています。

多くの防衛機器を装備することが平和への

一里塚とは思経ない巫女ちゃんです。

そこで下記にシベリア抑留者の手記を載せました。

○寒星や■兵たりし日は遠し

○流星や異國の丘に見し記憶

北方鎮護の誇りは、やがて「異国の丘」の屈辱に耐えなければならなかった。

○蓬萌ゆ飢をしのぎし日は遠し

食える野草は総て目にとまる餓鬼の道であった。

○落ち葉ふむ音のとどきて嘶【いなな】けり

愛馬は主人の足音も聴き分けた。行軍中五分間休憩でも先ず水飼い、「馬は活兵器」と

愛護されたが、武装解除と共に嘶きが荒野に消え、軍馬や軍犬には復員がなかった。

○牛曳いて枯野を急ぐこともなし

貴重な体験シベリア抑留 

新潟県 髙橋■郎 

シベリア抑留は貴重なる体験であると信ずるものである。この体験を後世に伝えること

は最も大切である。再びこのようなことがあってはならないからである。戦争を体験し

ない国民に知らしめなければならないと思う故に、体験者は自己の貴重な体験を黙して

語らざることなく広く国民に知らしめなければならないと、体験者の一人として痛切に

思う次第である。

何事も原因なくして結果はない。シベリア抑留問題も第二次世界大戦の結果生じた、史

上かつてない悲惨にして苛酷な戦争が終結してから起きた出来事であった。シベリア抑

留問題が単なる戦争の悲劇として忘れ去られてしまわれては、また再びこのような戦禍

が起きてしまうおそれがあると思われるため、このシベリア抑留体験記を書くことにし

た。 冒頭に、シベリアの捕虜という不名誉な言葉が巷間に言われているが、これは誤

りである。なぜならば、第二次世界大戦において日本は、我が国との不可侵条約を一方

的に破棄し侵攻して来たソ連軍と交戦中、昭和二十年八月十五日、無条件条約を受諾し

た。我が国は天皇陛下の玉音によって、武器を放棄して戦いをやめよ、耐え難きを耐え

、忍び難きを忍べと命じたのである。軍はこの命により戦いをやめ、武装解除を受け、

敵の軍門に下ったのである。戦争が終結したのであるから祖国に帰還せしめなければな

らないものを、ソ連は不法に酷寒の地シベリアへ強制連行して抑留し、銃剣を突きつけ

て強制重労働せしめたのである。

故にシベリア抑留者は不名誉の捕虜でなく、祖国のために不法に抑留されたものである

ということを後世に明確に伝えなければならないものである。

我が国は明治三十七、八年の日露戦争において世界一を誇るロシア陸軍を打ち破り、続

いて日本海の海戦において三十余隻のロシア艦隊をわずか十余隻の艦隊によりこれを撃

沈せしめ、東洋の一小国が一躍世界の

強国となったが、これにより軍人がおごり高ぶり、ついに政治の実権を握るに至った。

日露戦争中国東北部、旧満州の権益を得て、これを足場として、眠れる獅子と言われ

ている、国土も人口も我が国の数十倍といわれている中国に戦争を挑み、泥沼の戦いに

追い込まれ、ついに破局に至った。にもかかわらず、更に米・英・仏の列強を敵にまわ

し無謀な戦いを行い、ドイツと共に第二次世界大戦を引き起こし、数百万の尊い人命を

失い、国土は焦土と化し、再び立つことが出来得ないまでの苦境に追い込まれた。そし

ポツダム宣言を受諾し、遂に無条件降伏という無残な敗戦を喫してしまった。父祖が

血と汗で得た権益をすべて失い、東洋の一小国であった徳川時代に戻ってしまったので

ある。これは国運として片付けてしまえない無残な敗北であった。

敗戦の原因は軍隊にあって、結果としてシベリア抑留という史上かつてない悲惨な苦闘

屈辱を受けることになったが、軍部さえあのような無謀な戦いを起こさなかったらこの

ような事は起きなかったのである。 小生は、昭和十八年十月五日召集となり、同年同

月二十日、会津若松東部第二十四部隊(歩兵第二十九連隊)から満州第一三八七部隊に

転属となり初年兵教育を受けることになった。軍隊というところは階級的格差が極端で

あり、階級は一ツ星の二等兵から十八階級もある。入隊後初年兵教育が終わる一期検閲

まで普通は三カ月であるが、これが終わると星一ツ増えて二ツとなり一等兵となる。二

年兵になっても成績の良い者でないと上等兵になれず、三年兵になってやっと上等兵

なる。下士官曹長まで兵と共に同一兵舎に起居しており、曹長も古参となれば営外居

住となるようであった。将校は立派な■瓦造りの官舎に居住しており、兵、下士官は頭

のつっかえる掘っ立て小屋同然の建物で両側は土盛りがしてある。中に入ると幅六、七

メートルで中央に一メートル三十センチくらいの板敷き廊下となって、引出しのないテ

ーブルのような粗末なものが置いてある。これは食事を分配するテーブルなどに使われ

ていた。廊下をはさんで両側に、二メートルほどの廊下より三十センチも高い板敷きに

コーリ

ャンガラで作ったアンペラのようなものが敷いてある。この上置いてあるゴツ ゴツし

たズックのような長方形の寝袋のようなものに乾草を詰めたものがマットレスのかわり

で、ここが兵士の起居する場所であった。各人一人に毛布が六枚支給されていた。これ

は就寝の際、使用するものであった。このような兵舎に起居し初年兵生活が始まったの

である。十月二十日というのに満州では氷が張って、北風が木一本ない枯野の原を寒々

と吹いていた。兵舎の北側に物干し場があり、樹木一本もなく物淋しい風景である。出

征する際駅頭で村人達が大勢で日の丸の小旗を振って「万歳万歳」と見送ってくれ、決

意を新たに入隊したのであるが、こんなはずではなかったと張りつめた気持ちが抜け、

憂鬱な気持ちになるのであった。

やがて初年兵教育が始まって一カ月ほどたったある日の日曜日であった。銃後の内地か

ら慰問袋が送られて来た。あけて見ると、マカロニーが入っていた。軍隊は一膳めしで

ある。日曜のほかは間食は上がらない。激しい屋外での演習で働き盛りの二十五歳であ

っ た小生は毎日空腹をこらえて過ごしていたので、慰問袋のマカロニーが宝物のよう

に見えたのであった。早速受け持ちであり教育助手である班付上等兵のところへ行き「

上等兵殿、内地から送られて来た慰問袋を開けてみましたらマカロニーが入っておりま

した。どのようにしたらよくありますか」と申し出たところ、上等兵は、「せっかく内

地から送られて来たものだ、飯盒で煮て食べろ」との指示。早速指示通り飯盒に入れて

ペーチカの上に上げて置いたが、石炭が粉炭でなかなか火力が上がらない、もう間もな

く就寝点呼となるところからペーチカの焚き口の所に置いていたところ、間もなく週番

士官の少尉が下士官を伴い颯爽とやって来た。週番下士官が「点呼」と号令をした。内

班長の熊坂軍曹が「総員何名異常なし」と報告した。

週番士官は注意深く内務班を見回していた。班内を通り過ぎようとしたとたん、 「や

や、これは何じゃ、天皇陛下の一類兵器を」と言い「熊坂あとでわしのところへ来い」

と言って立ち去って行った。焚口にあった飯盒を見て週番士官は大げさに言い残して行

ったので

あった。点呼も終わり消灯ラッパが鳴り、一日の激しい訓練も終わり心身ともに疲れて

唯一の休憩場となる。日曜日であったが、就寝時となる頃も、洗濯や訓練で破れた被服

の繕い物などをしたりして初年兵には暇がなかった。やっと床に就く頃、週番士官の所

から熊坂班長が帰ってきて、青ざめて怒りをふくんだ顔となり、班全員に正座せしめた

のである。余程週番士官に厳しく注意されたことが推察された。二時間近く正座し、も

う夜中になっていた。同年兵はうらめしそうに小生の顔を見ているような気がしたが、

小生は班付上等兵の指示によってやったことであり、まさか軍の使用している飯盒がそ

んな大切なものとは思っていなかった。そんなに大切な飯盒なら平素の使用を禁止すべ

きであると思った。しかしよく考えてみるとペーチカの焚口に置いたのがまずかったの

かもしれない。石炭の火力が強いので直接火に接すると損傷するおそれがあるからだ。

正座はとけたが別に小生には何のとがめもなかった、まだ一カ月の初年兵であったから

であったが、それからが大変であった。すっかり目をつけ られてしまい、事ごとに制

裁が飛んで来たのであった。とんだ慰問袋をもらってしまった。慰問袋が転じて制裁袋

となってしまったのである。

態度が悪いと言って前ささえを長時間させられ、額から脂汗が流れたり、また、ある時

は頭部を数回殴打されたりした。目から火が出ると言われるが、このときは、目の上が

チカッと火が出たような感じがした。

頭部に三本の筋がこぶとなってできた。このことは終生忘れることができない。屈辱的

な制裁を受けた感じで、いまだに忘れられないのである。小生が初年兵教育当時の分隊

は五十人ほどであり、分隊長は軍曹で、班付として兵長一人、上等兵三人であった。そ

れに頭の弱い二年兵が一人で、あとは初年兵ばかりであった。同年兵には警察官から召

集を受けて入隊してきた者も何人かいたが、小生のように感情的に制裁を受けた者はな

かった。軍隊というところは警察官であった者に対しては特別視していたようであった

。貴様は地方では警察として威張っていたが軍隊ではそうはいかぬと、ことごとく憎悪

の目で見られてしまった。

初年兵教育は十月二十日から四カ月間の厳冬の期間で、満州では零下二十度から三十度

にもなった。屋外で訓練を受けたのであるが、なまやさしいものではなかった。多少の

吹雪でも訓練は行われた。あるとき訓練が終わり夕食後、兵器の手入れをしていたが、

剣ザヤの中の雪がとけて水滴となって■びるおそれがあるところから、銃についている

■杖という細い一メートルほどの金属に布切れをつけて剣■の中を拭き取るべく突っ込

んだところ、布切れが外れて残ってしまい、どうしても取り除くことができなかったの

で、そのまま剣を押し込んで就寝点呼を受けたところ、班付兵長はこれを見ていたもの

と見えて、剣をよこせといってこれを取り、抜こうとしたが抜けないところから、いき

なり剣で数回殴打された。班付上等兵が持ってこいと言ったので持って行ったところ、

ドライバーでネジを廻すと簡単に布切れがとれたのであった。初年兵の悲しさ、わから

ないままこのような苛酷な制裁を受ける結果となった。どうして思いやりの心情で教え

てくれなかったのか、大切な頭部を剣■のまま数回殴打し なければならないのか、軍

隊というところは暴力が許されるのであろうか、 もしこれがため傷害致死という重大

な事件が起きたならどのようなことになるのであろうかと考えて■然とした。

三十歳に近い召集兵で妻子があった初年兵が入浴して帰って来て、タオルを二つ折りに

して針金に掛けた際、隣の戦友との差が三センチほどあったとして、ビンタをはられて

■がはれあがり便所の中で泣いていた。余程ひどく殴打されたものと見えて■がはれあ

がり、歯ぐきから血がにじんでいた。彼は飯を食うことが出来ないと言って手で■をお

さえていた。こんなことまでせずともと、粗暴な教育に怒りさえ感じたのであった。

しかしこれらのことは日常茶飯事のことであったのである。これらの殺伐とした軍隊生

活の中では豊かな人間関係は失われていた。強固たる団結をもって戦いに立ち向かわな

ければならない軍隊の教育から逸脱していた。暴行傷害など、我が国刑法で禁止されて

処罰されることが軍隊ではまかり通り、平然と行われてい

た。暴力によって制圧し、絶対服従という問答無用の封建的なやりかたであった。文明

国として近代的なところは見受けられなかった。常に天皇陛下を持ち出し、無理なこと

でも押し通すという旧態依然の方式が敗戦の原因ともなったことであった。

初年兵教育が終わって昭和十九年三月初旬、二ツ星の一等兵に全員なって各部所につき

憲兵志願や幹部候補生、下士官志願などに出る者もいたが、小生は軍隊そのものに期

待は持てなかったので、召集兵としての任務に忠実であることを期し、西東安貨物■の

警備に軍曹一人、上等兵二人、一等兵五人、合計八人で分遣隊として出向することにな

った。

勤務は貨物■の警備であった。糧秣や馬糧などの野積みが数十棟連なって並んでおり、

常に糧秣受領の友軍の車両が絶えなかった。また軍用列車の通過駅にもなっており、重

要な地点であった。警備勤務は、立

■、動■、警戒と一時間ごとに三時間を八回で一昼夜

二十四時間交代となって勤務していた。三月とはいえ、満州の夜はまだ零下十五度から

二十五度ともな り、一時間の立■も容易ではなかった。深夜の立■は身体が冷えて僅

か一時間が苦痛であった。

ある日、銃を構えて警戒していたが、下腹部がきりきりと痛んで立■に耐えられなくな

り、衛兵司令の軍曹に申し出て交代してもらい、休ませてもらった。痛みが止まって、

深夜のことであり、衛兵所も暖かかっ

たので、ついうとうとしてしまった。とたんに、「起

きろ」とどなりつけられて起きたところ、いきなりビンタが飛んで来た。■をしたたか

殴打された。「貴様、腹の痛い者がイビキをかくことが出来るか」とえらく叱り飛ばさ

れたのであった。僅か三十分ほどのことであったが、厳しいやりかただと思った。温ま

るとついうとうとするのである。そのようなときはイビキをかくこともある。何もビン

タを張らずとも口頭で注意すればよいと思った。怠けるつもりでイビキをかいたなら納

得するが、これくらいのことでと、軍隊の厳しさを痛切に感じた。

やがて警備勤務も慣れてくるとともに初めて見る大陸の春がやって来た。名も知れぬ花

が一面に咲き乱

れ、雁、白鳥、鶴などの渡り鳥が飛来し、まさしく極楽浄土のような観を呈するのであ

る。冬枯れの荒涼たる原野が一変して花園となり、鶴などは逃げようともしない。満州

は開拓したならば王道楽土となる。日本は狭いと思うのであった。

四カ月ほどで歩■勤務も交代となり、東安に帰隊した。入隊して八カ月も過ぎて軍隊と

いうか雰囲気にも慣れてきた。苦あれば楽ありで、今度は、東安で最も大きい貨物■で

、本隊と言うべき貨物廠の経理部将校が詰めている事務所の門番のような、地方の守衛

のような勤務であった。二人勤務で将校に敬礼をするのが任務のようなものであった。

また、将校の寝具などの整理整頓するのも任務であった。二人勤務であったが、歩■勤

務のような一昼夜勤務でなく、朝出勤して夕方帰るという勤務で雑役も兼ねており、楽

な勤務であった。われわれ兵隊はゴツゴツしたズックのような厚い袋の中に乾草を入れ

たマットのような敷布団一枚に毛布六枚という寝具であったが、将校ともなれば立派な

ベッドに羽根布団に毛布 で、それも高級品ばかりであった。この一面を見ても当時の

我が国の軍隊がいかに贅沢な待遇を受けていたかを知ることが出来る。銃後の人々が物

資が欠乏して配給制度で苦しんでいる最中に、このような贅沢をしてよいのだろうかと

思った。われわれがソ連に抑留されていた際、ロシア人が、ジャポンスキーはクーシャ

チ(食うこと)ばかり考えて、マシンナー(機械)を作ることをしなかったから戦争に

負けたと言っていたが、実際その通りであると思った。どんなに軍部がおごり高ぶって

いたかがうなずけられたものである。軍人勅諭に「軍人は質素を旨とすべし」とあるが

、これに反していた。礼儀も信義も失われていた。すべての点において軍人精神五カ条

の勅諭に反してしまっていた。

このようなことでは戦いに勝つはずはない。すっかりスターリンに日本を破る時はこの

時であると見抜かれてしまい、僅か一週間の戦いで火事場泥棒のように関東軍六十万が

五カ年間過ごすことができるという膨大なる糧秣をはじめ、すべての物資を占領された

。そ

ればかりでなく、人さらいのごとく六十万という人員を抑留され、そのため我々は地獄

の苦しみを受けるに至ってしまったのである。

昭和十九年夏頃、ソ・満国境に近い虎林にわれわれ一三八七部隊員は移駐した。虎林は

ソ連軍が不法侵攻して来た突破口となった所である。その先の虎頭はソ連兵が国境守

備しているのが見えた。満州の夏は内地日本と同じ、夏は猛暑であった。特に虎林は風

はなく蒸し暑く、虎林熱に冒され命を取られることがあった。耐熱演習が一カ月も続け

られた。軍服の内側は汗でぐっしょりであった。生水は一切厳禁である。井戸水である

が沸かさなければ飲めない。これを聞かずに飲んだならいっぺんに腹をやられてしまう

。苦しい演習が続けられたが、ようやく涼風が立つ秋、虎林貨物

■の満人労務者が物品持ち出しする警戒監視の任務

に、満服を着て就いた。警官の現職から召集となった同年兵と二人で、その長は一般人

から召集となった兵長であったが、彼には一目おいていたので精神的には楽な気持ちで

あった。気の毒に思ったのは、徴用され て来た満人労務者が期間を勤めあげて帰る際

新品の満服を持ち出そうとしたのを発見したので、同じ満人に引き渡したところ、目を

そむけるような折檻を加え余罪や仲間の名前を自白せよとしたが、彼は絶対仲間の名は

出さなかった。彼らが命がけで仲間の名前は出さずこれに耐えたことに感心させられた

ことであった。

抑留中反動を摘発すれば祖国へ帰してやるというソ連の誘いにのって戦友を売った抑留

者もいた日本人とは人間性においてその比ではなかった。

昭和二十年五月頃、虎林から東安の兵舎に帰って来たが別に何をすることもなく待機し

ていた。何か起きそうな不穏な予感のする毎日であった。その頃既に上層部ではソ連

の動向を予知していたものと思われる。状況は思わしくなく暗雲が迫りつつある気配が

してきたのである。そのような毎日の昭和二十年八月八日、移動することになった。勿

論、われわれ兵にはどこへ行くかは知らされなかった。うだるような真夏の暑さの最中

であった。東安を夕方出発した。真夜中に友軍の飛行機と異なる騒音のする飛行機が通

り過ぎた

と思ったら、ソ連の外相モロトフが戦争を布告してきた。嵐の前の静けさであった。夜

明け頃、牡丹江に着いたところ、戦闘帽に白鉢巻きの決死隊が国境に向かって前進して

行くのに、われわれは後方に下るとはと不思議に思っていたが、後で解ったのであるが

ソ連軍を包囲作戦にするということであったのである。

わが部隊は、昭和二十年八月九日、四平街に到着した。しかし、入る兵舎もなく、師導

学校に駐屯したのであった。翌日から東安で貨車積みした糧秣や部隊装備品などを受領

のため四平駅から運搬作業をすることになり、真夏の太陽がギラギラと照りつけるなか

、戦闘帽をかぶり、上半身裸となって、汗だくだくとなり輜重車にこれを積んで運搬し

た。四平駅では一般邦人や開拓団の避難民が列車に鈴なりとなって乗り込んで、列車は

次々ともうもうと黒煙を上げ、悲鳴をあげるがごとく、ボウボウと鳴り響き、ごったが

えしていた。まだソ連軍は姿を見せないが、やがて阿鼻叫喚の巷と化す戦場となり地獄

絵が展開されるのではないかと予想された。暗雲が漂うなか運搬作業は終わった。 い

よいよ戦闘状態に入ることになると覚悟を新たにした。異常心理となり待機していた。

急に敵の戦闘機が空から機銃掃射を、ドカドカン、ドカドカーンとあびせかけ殺気立た

せる。

そんな雰囲気が続くなか、天皇陛下の玉音がラジオから流れてきた。「耐えがたきを耐

え、忍びがたきを忍び」と悲痛な声での戦いをやめよという意味の言葉であった。ただ

茫然とするばかりであった。涙が■を伝い、力がいっぺんに抜けた。わが国は戦いに敗

れたのである。神国日本が宿敵の軍門に下ってしまったのだ。無条件降伏、武装解除

ある。夜に入るとソ連軍が侵入して来た。不穏な雰囲気が街を包んだ。夜が明けると婦

女子が「兵隊さん助けて」とわれわれが駐屯している師導学校に救いを求めて来た。ま

武装は解除していない。場合によっては、彼らと一戦を交えるかもしれない。古参兵

の態度が急に豹変し、階級的圧力に屈していたものが酒気を帯びて「いやー戦争に負け

てよかった」とどなり散らし、ウニの瓶詰などを投げつける始末である。将校や下士官

は身を隠す有様で

あった。夜が明けるとソ連兵が自動小銃を携えてウロウロと校庭に入って来たが、師導

学校であるので、われわれの姿を見て立ち去って行った。婦女子を狙って来たのであろ

う。三日三晩もゴーゴーと騒音を立てて、戦車や牽引車が四平飛行場に向かって集結さ

れた。これはソ連軍に引き渡すためのものであった。やはり奉天においてソ連軍を迎え

撃つ作戦であったのである。天皇陛下の玉音が一週間遅れていたら大激戦となり、もち

ろんわれわれも名誉の戦死を遂げたであろう。シベリアに抑留されて屈辱も受けること

はなかったであろう。

やがてわれわれは、四平街の児玉公園において、日露戦争の名将児玉源太郎大将の毫筆

による忠魂碑の前で武装解除を受けた。そのときの悔しさは、その場にあったものでな

いと味わうことは出来ない。部隊長はただうろたえるばかりであった。われわれ兵、下

士官は毅然としていたが、敗戦の惨めさをしみじみと味わわされたのであった。やがて

武装解除も終わり、公園から四キロも離れたところにある陽木林に集結するこ とにな

り、丸腰となって、ただ黙々と整然と行進して行った。見苦しいのは、身体の具合でも

悪かったのか、馬に乗っていた将校がおり、満人の少輩(子供)

に石を投げつけられている姿であった。武装解除を受けても馬に乗りわれわれを見下し

ている姿は憤りを感ずるものであった。われわれは白旗をかかげて自ら降伏したもので

はない、天皇陛下の命によって武装をいさぎよく放棄したのであるという誇りは内心堅

持していた。いかなることになっても大和魂を失うことなく後世の笑いものになっては

ならないと心に固く誓っていたのである。陽木林に一カ月ほど待機して内地帰還を待っ

ていた。

一般邦人や開拓団の人達が内地へ帰るので混雑することから、われわれはウラジオスト

ック港から帰還するとのことで、昭和二十年九月二十七日、満鉄四平駅から貨車に乗せ

られた。糧秣を積み込んだ上に乗り込み、ドラム缶を貨車の上にくくりつけ、これは入

浴用のものであったが、見場の良いものではなかった。われわれの列車の中間ほどに、

佐官級の上級将校や、頭

を丸めて戦闘帽をかぶり兵隊の軍服を着た明らかに婦女子と解る女子が二、三人、将校

の貨車に毛布などをカーテンに用いて仰々しく乗車していた。われわれの列車は、ソ連

兵の服装はしていたがモンゴル人の兵士が警備していた。彼等はソ連兵のように無法者

ではないようではあったが、これから先が案じられた。彼女達の消息はその後聞かれな

かったが、われわれがシベリアに抑留された際、同乗していた高級将校達は同じ収容所

に収容されていた。

貨車は一日走っては二日停車してなかなか進まなかった。約一カ月も列車の旅は続いた

。■はいろいろ言われてきた。日が経つに従って悪い■となってきた。

われわれは捕虜となりシベリアに送られるのだという悲観論が流れた。逃亡者が出て射

殺されたという。また、死亡者が出て沿線に埋葬されたとの話も伝わっていた。小生は

、陽木林で待機中ソ連兵が赤旗を兵舎の周囲に立てて警戒していたので、祖国へ帰す兵

隊にそのようなことをせずともよいはずと直感し、これはソ連軍がわれわれを拘束する

のであると思っていた。そ して次第にその線が濃厚となってきた。全く毎日が憂鬱な

日が続いた。しかし召集された以上、生命はいつ失うかわからない身であると覚悟を決

めて国を出てきたのだ、どうせ命はないものと決めるまでは、なんとも言いようのない

気持ちであった。

こうした満州の旅は一カ月余り続き、昭和二十年十月三十一日、ソ満国境を流れる大河

黒龍江を渡ってブラゴエシチェンスクに渡り、入ソの第一歩を踏み込んだのであった

ソ連アメリカ製のUSAのマークのついた鉄舟を横に並べ、大河黒龍江に鉄舟橋をか

けた(この一つを見てもいかにアメリカが物量を誇っていたかがわかった)。この鉄舟

の上に厚板を敷きつめて、その上をトラックや二頭立ての輜重車で占領品の糧秣をドン

ドン運搬していた。ソ連外交は実に巧妙であった。共産主義国でありながら、資本主義

国と提携したのである。

満州の膨大なる糧秣を二頭立ての輜重車やトラックで必死になってソ連軍が自国へ搬入

している姿を見て、この糧秣はわが国銃後の農民が汗水を流して勝ってほ

しいと供出したものである、僅か一週間で火事場泥棒のように占領してしまうと思うと

、悔し涙がぐっとこみ上げてくるのをどうすることもできなかった。

いよいよ国境を離れようとして鉄舟橋を渡らんとした際、隊伍を組んで進行中、ソ連

がずかずかと小生のもとに来て、やにわに腕時計を奪わんとした。小生は「何をするか

」と一喝した。大声で怒鳴ったので彼はたじたじとした。後尾にいたわれわれに付いて

いたソ連の歩■が飛んで来て、口論となった。時計を奪わんとしたソ連兵はすごすごと

立ち去って行った。これが二回目である。ハイルン駅で用便中も時計を狙われたことが

あったが、にらみつけたら奪われなかった。

先が思いやられた。大河黒龍江は、アムール河とも言うが、日本一の信濃川の三倍もあ

る、その名のごとく底知れず黒ずんでとうとうと果てしなく流れていた。

われわれは夕暮れ迫る頃、黒龍江を渡り入ソして、ブラゴエシチェンスク郊外に夜営す

ることになった。林の中で、材木の倒木などが散乱しており、焚火をしたのであるが、

シベリアの夜は零下となり、凍りつくよ うな寒さが身にしみて、これから先どうなる

のだろうと不安が募るばかりであった。携帯食の乾パンをかじりながら焚火を取りまい

て車座となっていたのであるが、夜が更けるにつれてますます寒気が加わり、背後は冷

えて眠れるものではなかった。くるりと向きをかえても同じことで、ついに一睡もせず

夜が明けた。輜重車に装具を積んで出発した。太陽が出ると凍結した土が溶けて車がめ

り込んで走らない。やっとのこと、ブラゴエシチェンスクの街にたどりついた。マーリ

ンケ(子供)らが寄って来て、ジャポンスキー・サムライ・ハラキリ・マツオカバンザ

イ・マツオカハラショーとののしり、市民はさげすみの目で見ている中を敗残兵そのも

ののごとく行進して行くのであった。

戦後半世紀が過ぎた。我が国も戦争を知らない世代となってきて、毎日のように凶悪犯

罪が発生し、尊い人命が殺傷され、報道機関が世間をにぎわしている。

これはどうしたことであろう。このようなことでは世の中が乱れ、再び戦火の嵐が吹く

のではないかと懸念されるものである。

昭和二十年十一月三日、アムール鉄道(シベリア鉄道でモスクワ―ウラジオストック

運行)に乗り、今度は満鉄のように一日走っては二日止まるというようなことなく、バ

イカル湖の駅に停車した以外はほとんど僅かな時間しか止まらずに猛スピードで走り、

一週間後の十一月十日、シベリア第一の都市で人口六十万と言われているイルクーツク

に到着したのである。イルクーツクの駅に下車しスイトンを作っていたが、マーリンケ

(子供)が蝟集してきて、外套のポケットに手を突っ込んでうるさくまつわりつくので

、ポケットに入れてあった乾パンを地上に投げつけたところ、ワーッと言って芋虫にア

リがたかったように折り重なってむらがる姿を見て、これはよほどソ連では食料が切迫

しており、ほとんど配給にも事欠くような現状であると見受けられた。このような有様

であったので、抑留されたわれわれにも満足に食料を支給できなかったのである。到着

の夜は駅付近の倉庫のような所に一泊して、翌日の昭和二十年十一月十一日、イルクー

ツクの郊外でイルミジョウという所の収容所に収容された のであった。

イルクーツクはもう白雪の舞う冬に入っていた。イルクーツクの街は古く、アンガラ川

のほとりにヨーロッパ風の街並みをした近代的な建物が立ち並び、モスクがところどこ

ろにアラビア風の風景を見せていた。

革命当時、ツァー(皇帝)の姫が革命軍に追われ、アンガラ川に身を投げ亡霊となって

人々を悩ませたという。アンガラ川の水は透明度が高く水量も多いが、この川に橋がか

かっており、近代的な立派な橋であった。橋の上から眺めると風光明媚の観を呈してい

る。

シベリア出兵当時は日本軍がこのイルクーツクまで進駐して来たと言われている。われ

われが収容された第六収容所は、橋を渡って更に四キロメートルほど南方に丘の上に建

っていた。収容所は間口十メートル、奥行五十メートルほどで、中央が二メートルほど

の廊下とも言うべき通路になっている。廊下をはさんで両側は二段構えの板敷きとなっ

ており、この板敷きが各人の起居する場所であった。畳一畳に二人というスペースで、

板の上に着のみ着のまま就寝するという有様で

あった。この建物は四棟あって、一個大隊八百人ほど収容されたのである。極寒の地で

あるので建物の両脇は土盛りがしてあり、明かり窓が取ってある。中央に暗い電灯が二

個とペーチカが設置されている。まだできたばかりで、すべて丸太や板も松で生木であ

った。

収容所の周囲は二重に有刺鉄線が張りめぐらされて四隅に望楼が立ち、ソ連兵が警戒監

視している。重罪を犯した凶悪犯人の収容所のようである。収容所の出入口にはソ連

の衛兵所があって二十四時間厳重に警戒監視を続けていた。

われわれを収容した目的は、当時ソ連では五カ年計画で行われていた年間三万台製作す

る自動車工場建設のためのものであった。■瓦造りのもので、一部鉄柱が立っていた。

工場附属の火力発電所の基礎工事がはじめられ、製材工場などが開始されたばかりであ

った。

収容されても食糧の支給はなかった。われわれが携帯した食糧は全部食べ尽くしてしま

ったが、ソ連ではまだあるとして支給しなかった。収容されて四、五日 経って、耐え

られる者は使役に出るように言われ、小生と五人ほどで使役に出た。ソ連兵の歩■が詰

めている建物のペーチカに使う■瓦を運ぶ作業であった。現場に行って見ると、倉庫の

中にキャベツがトラック一台分ほど積んであり、歩■のスープ用のものであった。空腹

でふらふらしていたので歩■に手まねで食べてよいかというと、よいと言うので、たち

まち十個ほど食べてしまった。歩■は■然としていた。

昭和二十年十一月二十日頃から作業に出ることになった。ソ連兵の歩■宿舎を建てるた

めの穴掘り作業であった。シベリアでは十一月も下旬ともなれば零下二十五度から三十

度にもなる。土は凍土となり、一メートル以上は鉄より硬く凍結している。この土をロ

ームと言って長さ一・五メートル、直径三センチほどの鉄棒を、ドスン、ドスンと凍土

に打ち下ろすのであるが、ピーンとはね返ってなかなか掘れるものではない。これを一

メートル立方を掘るのが一日のノルマであった。防寒具で身を包み、自由もきかない。

シベリアは太陽がなかなか出ない。どんよりとした曇りの日

が多い。バイカル湖の方から霧のようなものが吹いてくると針をさされるような痛さで

ある。いても立ってもいられないほどの苦痛である。身体に力を入れて掘ろうとしても

、毎日与えられる食料は腹八分目どころか半分にも満たない。満州で過ごした体力がま

だあるので辛うじてこれに耐えられるが、一日八時間労働で昼の時間一時間休むことし

かできない。歩■もつきっきりである。手を休めると、マッセル(監督)が来て、ダワ

イダワイ(やれ、やれ)と足でけとばしたりする。わずか一時間がとても長く感ずる。

まさに生き地獄であった。一日の重労働が終わって収容所に帰っても水のようなスープ

に黒パン二百グラムである。着のみ着のまま横になって死んだようになって眠るのであ

る。

入浴は一カ月に一回、三キロもある街に日曜日に出かけ、バケツに二杯の湯しか貰えな

い。環境の悪さに虱がわいて、腹巻にゴマを振ったようになる。このようなことから体

力のある者でも次第に衰弱してきた。

このような状態が収容されて半年間も続いたのであ る。収容された翌年の五月頃、よ

うやく春めいた頃にこの地獄の作業も終わりほっとした。ソ連では日本軍が暴動を起こ

さないよう体力を消耗させる目的ではなかったかとさえ思われた。