歴史上のゆがめられた偉人、東条英機

   ご機嫌いかがでしょうか。

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 学校において、洗脳教育の実体はなかったと

いえる人物はどれほどあろうか。

 歴史においても、伝え知らされなかった

ゆがめられた教育はなかったといえるのだろうか?

 私は、東条英機、その人を大きく誤解したままで

あの世に旅立つことになっていたことでしょう!

 東京裁判も教科書でなく独自に精げて良き学びとしたいものです。

深夜便の優しい調べが、眠りにといざなってくれています。では、では

ごめんくださいませ。

   永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。

在任中に大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦。権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣参謀総長を兼任した。

敗戦後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。その後、連合国によって行われた東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。

(wikiより抜粋)

何と『敗戦の責任』を取る為に、彼は自殺をはかっていた訳だが、アメリカ軍に助けられて、『極東軍事裁判』(東京裁判)のスケープゴートにされた訳だな

日本を不景気に追い込んだりしても、誰も責任を取らない現在の日本の官僚や政治家とは大違いだな

これだけでもおじちゃんは、『東条英機』氏が現在の役人や政治家より優れていると思うんだよ

では、彼の人生の足跡を追って見よう

全部は紹介しきれないから、重要部分のみをピックアップして行くぞ!

>1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。

このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという。

1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった。同年12月1日に陸軍中将に昇進。

(wikiより抜粋)

何と軍隊内部のスパイ(コミンテルンの回し者・現在の左翼)を一掃し、かつ主戦派の人達を一掃している

二・二六事件が主戦派の暴発から来ているのは学校で習った人達も居ると思うが、その主戦派の行動を抑止して一掃する事に彼は成功しているんだよ?

この事実からも『東条英機』氏が決して主戦論者(戦争推進派)じや無かった事が分かるよな?

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>1941年(昭和16年)10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。

(wikiより抜粋)

この事を持って『東条英機』氏が主戦派だとする言説が有るけれども、おじちゃんはそうは思えない

この当時のアメリカの悪辣な外交戦略やアメリカ本国における日系人の『強制収容所収監』、原油や廃鉄の日本への禁輸(当時の日本はくず鉄を輸入して加工していた)をアメリカが国際連盟を利用して世界中にやらせるなど、東条英機氏が言う通り『譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です』と言うのはもっともな意見何だよ?

一方向からだけ見て、この発言の中身を『主戦論』と決めつけるのはおかしいと思わないかな?

彼は中国で国民党軍や八路軍(現在の中国共産党)が、満州で行っていたテロ活動や『盧溝橋事件』の様に中国側の卑怯なやり方を体験して来て居るんだよ

ましてやその中国やソ連に味方して、日本を陥れようとするアメリカに対して腹を立てるのは当たり前では無いのかな?

勿論国民の大多数も、中国やソ連アメリカに腹を立てていた

学校ではまるで、日本政府が国民を扇動して開戦に至った見たいな話に成っていると思うけど、実際は連合国(イギリス・アメリカ・オランダ等)やソ連・中国のやり口にほとほと腹を立てて居たのが現実何だよ

決して東条英機氏や日本政府が扇動した結果では無いんだ

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>東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。

天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちにあらため、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す。

さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の二つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。

(wikiより抜粋)

と言う様に、彼は陛下のご意見を汲んで、ひたすらに戦争回避に努力したんだぞ?

学校では教わらなかった筈だ

ましてや、昭和陛下が開戦に反対なさっていた事も、おそらく教わって無いのでは無いかな?

東京裁判』の判決とは違って、東条英機氏は戦争回避に必死に努力なさっていたんだぞ?

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>しかし、日本側の提案はアメリカ側の強硬な姿勢によって崩れ去ってしまう。

11月末、アメリカ側は『ハル・ノート』を提示し、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の中国からの即時全面徹兵だけでなく、満州国の存在さえも認めないという最強硬な見解を通告してきた。

ハル・ノートを目の前にしたとき、対米協調をあくまで主張してきた東郷でさえ※1「これは日本への自殺の要求にひとしい」「目がくらむばかりの衝撃にうたれた」といい、東條も「これは最後通牒である」と認めざるをえなかった。

これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至る。

※2『対米開戦決定を上奏した東條は、天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから幾度も上奏中に涙声になったといわれ、また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。』

こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。

(wikiより抜粋)

※1を見ても分かる通り、アメリカの強硬姿勢が『大東亜戦争』(太平洋戦争)を引き起こした原因何だよ

さっきも書いた通り、日本は追い詰められ、さらには譲歩に譲歩を重ねてもなを、アメリカは譲らなかった

これが日本の責任なのかな?

アメリカは最初から日本と戦争する気だったんだよ

この交渉を前にした、東条英機氏の言葉を見てみよう

>「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」

(wikiより抜粋)

まったくその通りだとは思わないかな?

彼は国民の多大な犠牲を無駄にはしたくなかったんだよ?

この事だけでも、彼の優しさや正義感の強さが伝わって来るんだよ

勿論安全保障上や経済的側面の心配をしていた事も、文面から分かる

政治家として二流だったとは決して言えないのでは無いかな?

おじちゃんは今の政治家何かより百万倍優れていると思うぞ

さらには※2の部分の様に、責任を果たせ無かった事を泣いて詫びている

こんな人が果たして極悪人なのかな?

今年になって某地方議員が政務活動費ごまかして、泣いて記者会見したのとは訳が違うからな

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>東條は組閣の際に自らの幕僚を組閣本部に参加させないなど、軍事と政治の分離を図る考えを持っていた。

これは軍事と政治が相互に介入を行うことを忌避する考えによるものであった。

(wikiより抜粋)

この様にシビリアンコントロールにも気を配り、軍が暴走して政治介入する事を防いでいるんだよ

さらに『大東亜会議』(大東亜共栄圏発足会議)後の発言

>「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、※『いずれも領土および主権の尊重を規定しております。』また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」と述べている。

(wikiより抜粋)

※の部分でも分かる通り、何処が『侵略戦争』何だ?

アジア開放の為の戦争と、少なくても当時の日本政府と日本人は思って戦って居たんだよ

第二次世界大戦前まで、アジア諸国を植民地化し、現地民を奴隷の様に扱っていた連合国側とは大違いだよな?

だから大東亜会議に出席した各国代表からも、高い評価をされているんだよ

そして終戦を迎えて後の『東京裁判』における東条英機氏の様子

>東條の国家弁護は理路整然としており、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料にもとづいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと巧みに主張するなどして、キーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであった。

※また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と明確に証言し、この証言が天皇免訴を最終的に確定することになった。

日暮吉延によれば、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする。

(wikiより抜粋)

な?全ての責任を一身に背負い、さらには一切の『自己弁護』をしていない・・・

おじちゃんは、こんな高潔な精神を持った人物を、極悪人とは到底思えないんだ

自分に当てはめて考えて見れば、全ての責任を背負って言い訳をしないと言う事が、どれほど凄い事か分かると思う

おじちゃんは、そこまで出来る自信は無い

何かしらの言い訳をしてしまう様な気がするんだよ

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>戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。

さらには、自分を戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、絞首台に勇んで立っていったと言われる。

(wikiより抜粋)

凄過ぎて何も言えなくなってしまうよ・・・

東条英機』と言う人物の凄みに圧倒されてしまう

こんな人が今の政治家や官僚にいるかな?

おじちゃんはいないと思うぞ!!

こうして見てみると、『東条英機』と言う人物が、如何に歴史の改ざんの中で酷く歪められてしまったかが分かって来ると思う

少なくてもおじちゃんは、非常に『尊敬』する人物の一人だ

戦争遂行と言う難しい行為をこなし、誰にもその責任を押し付ける事なく静かに責任を取って死刑に処せられる・・・

君達にこんな事が出来るかな?

おじちゃんは出来ない

学校で教わった歴史が真実とは限らない!

皆も『東条英機』氏の真実を覚えておいて欲しい

最後に彼の残した逸話を引用しておこう

>非常な部下思いであり、師団長時代は兵士の健康や家族の経済状態に渡るまで細かい気配りをした。

>女性に対し禁欲的であり、それを親族に対しても徹底した。次妹の息子・山田玉哉(陸軍中佐)が末妹の嫁ぎ先で戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ彼を官邸に呼びつけ殴打した。東條の目には涙が浮かんでいたという。

>首相秘書官を務めていた鹿岡円平が、重巡洋艦那智」艦長としてマニラ湾で戦死すると、家で飼っていた犬に「那智」と名づけて鹿岡を偲んでいたらしい。

>1941年(昭和16年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた。

>日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた。

>部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた。

>何代もの総理大臣に仕えた運転手に、「歴代総理のうちでだれが一番立派だったか」と聞いたところ、「東條閣下ほど立派な方はおられない」と答えた。

理由は「隅々まで部下思いの方だったから」ということで、『あることをすれば、どこの誰が困り、面目を失するか』と相当の気配りをしていた人物だから案外と人気があった。それ故に総理のときには陸軍大臣を兼任し、最後には参謀総長まで兼任できるだろうと答えた。

(wikiより抜粋)

どうだったかな?こんなに立派な方は、中々いらっしゃる物では無いぞ

戦後GHQが始めた洗脳教育計画と左翼によるデタラメ史観がいかに酷い物か、理解してもらえるとおじちゃん嬉しいよ