原子爆弾、なぜ投下したのか?
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
あの熱い真夏の朝、悲劇は起こるべくして起こった!
アメリカが核の威力を見せつけるべくして起こした原爆投下
これは人類の最大の汚点… …
日本の原爆投下の実態からも、北朝鮮が我がコクの存続をかけ、核を
手放せないでいることもまた、事実上の意思表示
敗戦から74年今なお、原爆の後遺症で、苦しみ続けておられるお人もある中
日本も9条の改憲論が浮上し、あるべき姿まで
大きく変えようとしている安倍政権
日本は唯一の被爆国
このような凄惨な悲劇を二度と産まないためにも
何十万もの市民が4000度近い高熱の被害者として
核に苦しみぬいて核に大切な命が奪われた
安倍総理は、原爆の被害者の式典に多く参列し
言葉は誠に美しい調べのようである。
が、総理の言葉から核兵器禁止条約に触れるものは言及することはなかった。
太平洋戦争において、まるで肉弾のように敵地に飛び込んでくる兵士に
アメリカ兵の中には、精神がむしばまれた人も数多くあるともいわれています。
戦争は、古来から累々とやむことはなかった歴史。
「戦争反対」の声は誰にも届かないかもしれない。
何も動かすことはできはしない。
だけれども、小さな小さな声が、いつの日か平和の道に続くと信じて
叫び続けたいものです 「戦争反対」と
戦争に至ると、両国で交わした条約までも無効にしてしまう…。
核による大量殺りく兵器の向こうに
どのような平和がもたらされるといえるのか…。
アメリカは歯医者の日本に、なぜ原爆を 糖化する必要があったのか
日本がぼろぼろにむしばまれているようで、正直しり込みしたくなる。
敗戦の年の日本は、戦えない日本でもあったはず。
事はそう簡単な話ではありません。
さて、第二次世界大戦の終盤、いったい何があって原子爆弾は投下されたのでしょうか・
・・?
第二次世界大戦の頃、世界では大きく分けて2つの戦争が行われていました。
第二次世界大戦主に「ドイツ」と「アメリカ&イギリス&ソ連」の連合軍が戦っていた
、ヨーロッパの戦争。
もう1つが、主に「日本」と「アメリカ」が戦っていた太平洋戦争です。
どちらの戦争も、1945 年にはドイツと日本の敗戦で終結する事が決定的となっていまし
た。
特にドイツは西からアメリカ&イギリス、東からはソ連に攻め込まれていて挟み撃ちに
なっている状態であり、日本より先に敗北する事が明らかでした。
そのため、アメリカとイギリスとソ連の連合3ヶ国は1945年の2月、占領したドイツや東
ヨーロッパの国々を、終戦後にどう扱うか決める会議を行います。
この会議を「ヤルタ会談」と言います。
ヤルタ会談ヤルタ会談では、主に東ヨーロッパの国々の処遇が話し合われていて、敗戦
したドイツをどのように管理するかについてはそれほど話されなかったのですが・・・
ドイツの領土については「それぞれの国が、自分が占領している地域をそのまま管理し
よう」という形で取り決められました。
しかし、それが悲劇を生んでしまいます。
「ドイツの分裂」です。
ヤルタ会談の頃から、アメリカとソ連の対立は徐々に始まっていました。
ソ連は資本主義を否定してどんどん支配地域を広げようとしていた社会主義国であり、
アメリカはそれに危機感を感じていた資本主義国です。
社会的・政治的に、互いに協調できる相手ではありません。
ただ、この頃はドイツや日本という共通の敵がいたために、両者は手を結んでいました
。
しかしドイツは 1945年の5月 に降伏。
これによりドイツの国土は各国が「分割統治」する状態となり、その直後からアメリカ
とソ連の緊張が高まり始めます。
ソ連は占領したドイツに社会主義の国を作ろうとし、アメリカやイギリスはそれを防ご
うとします。
両者は睨み合いを続ける状態となりますが、「ヤルタ会談」で分割統治の形と約束がす
でに出来てしまっていた以上、ソ連の占領地が社会主義陣営に飲み込まれることは時間
の問題でした。
こうして、のちにドイツは社会主義の「東ドイツ」と、資本主義の「西ドイツ」にムリ
ヤリ分けられてしまいます。
もともと資本主義の国であったドイツを半分ほど社会主義に取られてしまった事は、ア
メリカやイギリスなどの資本主義陣営にとっては「失敗」と言えました。
また、ヤルタ会談ではもう1つ、アメリカとソ連にとって重要な取り決めが行われてい
ました。
ソ連の「対日参戦」です。
アメリカが日本との戦いをさらに優勢に進めるため、ソ連に「参戦して援護してくれ!
」と要求していたのです。
しかし、これが次の問題を生む事となります・・・
さて、一方で太平洋戦争。
日本とアメリカの戦争も佳境に入っていました。
硫黄島や沖縄での上陸戦が始まり、日本の各都市も米軍の都市爆撃を受け続け、日本は
悲劇的な状態となっていきます。
神風特攻で炎上する空母ただ、この頃はアメリカ軍も少なからぬ被害を受けていました
。
硫黄島では日本軍の決死の抵抗によって他の戦線では受けたことのない被害を被り、ま
た日本軍の「神風特攻」といった常軌を逸した攻撃で、アメリカ兵は精神的にもダメー
ジを受けます。
特に沖縄の戦いでは、女子供を含む地元住民が決死の抵抗をしてきて、それを撃ち殺さ
なければならなくなったり、目の前で地元の一家が手榴弾で自殺をしたりするような事
が相次いだため、アメリカ兵の士気は激減、精神的に参ってしまう者も出始めます。
前線の司令部からは、優勢でありながら、上記の理由で一時後退の要請も出るようにな
りました。
しかし、アメリカの上層部はここで後退とか悠長なことは言っていられませんでした。
ソ連はヤルタ会談で取り決めていた東ヨーロッパの国々の扱いを無視して、それらの国
々をどんどん社会主義国化し、ソビエト・ロシアの属国にしていったからです。
アメリカが思っていたほど、当時のソ連は話の解る相手でも、甘い相手でもありません
でした。
そんなソ連が日本に参戦し、日本の領土を占領すれば・・・
それはドイツ分割の悲劇と社会主義の更なる拡大を呼び込むこととなります。
また、日本は太平洋に面した島国でしたから、ここがソ連に占領されると、太平洋方面
に艦隊を出撃させるための絶好の軍港・前線基地を与えることにもなります。
それはアメリカの戦略上、絶対に防がなければならない事態でした。
さて、ドイツの敗戦は、もう一つの大きな事態を呼びました。
「原子爆弾の研究者・研究資料の流出」です。
原子爆弾の理論は戦争が始まる前から提唱されていたので、各国で研究は行われていま
した。
そしてその研究がもっとも進んでいたのが、ドイツ、アメリカ、ソ連の第二次世界大戦
の主要3国です。
原子爆弾の圧倒的な破壊力はすでに予想されていたため、敵国に先に原子爆弾を作られ
てしまうと、政治的にも軍事的にも不利になります!
そのためアメリカは 1942年 から研究開発(マンハッタン計画)を開始、イギリスと共
に 1944年 の段階で、原爆を日本に落とす事をすでに合意していました。
そんな中、ドイツは原爆の完成前に敗戦。
そしてドイツの首都「ベルリン」を陥落させたのはソ連軍でしたから、ドイツの原爆の
研究者や研究資料の多くはソ連に持ち去られ、そのままソ連の核兵器開発を助ける結果
となります。
この事態に焦ったのがアメリカです。
実際にはドイツの原爆研究はそれほど進んでいなかったのですが、原爆の情報は最大の
極秘事項でしたから、ソ連が実際にどのぐらいまで研究しているのかはアメリカには解
りません。
ソ連より先に原子爆弾を完成させなければ、戦後の米ソの対立でアメリカは不利を免れ
ません。
ドイツの崩壊後、アメリカとソ連の関係はますます悪化していたため、「相手より先に
原爆を完成させる」ことは両国にとってさらに重要なものとなりました。
こうして「ヤルタ会談」後、アメリカとソ連の緊張がどんどん高まるなかで・・・
1945年7月、アメリカとソ連の2度目の会談が行われることになりました。
これを「ポツダム会談」と言います。
この会談では、主に敗戦が近い日本をどうするかが話し合われました。
ポツダム会談ソ連側は、「準備が出来次第、対日参戦を行う。 終戦後、各国が占領して
いる地域は、そのままその国が統治とする」という主張を行いました。
これはヤルタ会談の決定と同じもので、日本に領土を広げたいソ連としては当然の主張
と言えます。
特にソ連は、太平洋方面への理想的な軍港・軍事基地を建設できる、北海道の占領を望
んでいたと言われています。
しかしアメリカは、「ソ連の対日参戦は状況次第。 終戦後、日本は独立国家とする」と
いう主張を行います。
アメリカ側としては、ソ連に日本を占領して貰っては困る上に、日本はもともと資本主
義国であり、ソ連とも対立していたため、終戦後は資本主義陣営の味方に出来ると同時
にソ連に対する盾にもなる、と考えていたからです。
こうして両者の意見は対立。 会談は何日も続きます。
そんな時・・・アメリカは、ついに「核実験」を成功させます。
このポツダム会談の最中、アメリカ本国では原子爆弾の研究が最終段階を迎えていまし
た。
アメリカの大統領「トルーマン大統領」は、これをポツダム会談の切り札にするべく、
開発を急ピッチで行うことを要請。
こうして会談が終わる前の 7月16日、世界初の核実験「トリニティ実験」が実施されま
す。
これによって事実上、原子爆弾が実用化。
ついに最強の破壊兵器を人類は手にすることとなってしまいます。
さっそくトルーマン大統領は、ソ連側に対し実験の成功と核兵器の実用化を通告。
しかしソ連の代表「スターリン書記長」は、まったく動じませんでした。
彼はスパイ活動などにより、その事実をすでに承知の上だったからです。
結局、「ポツダム会談」はソ連側のペースで進み、アメリカは全くいいところなく終了
。
ポツダム会談によって「8月中にソ連は対日参戦を行う。 各国が占領している地域は、
そのままその国が統治とする」という、ほぼソ連側の主張が全面的に通ったものが決定
されました。
会談後、アメリカのトルーマン大統領は「カゼひいてて体調最悪だったんだよ~」とか
言い訳していますが、もう後の祭り。
また、元々ソ連の対日参戦を要求したのはアメリカでしたから、「お前から来いと言っ
て準備させたくせに、今さら来るなとか言うなよ!」とソ連側に言われると、言い返せ
なかったのもあったようです。
この結果、アメリカは「8月のソ連の本格参戦前に、日本を降伏させなければならない
」という「タイムリミット」が出来たことになります。
ポツダム会談が終わったのが8月2日。
「8月中にはソ連軍が日本に進攻を開始する。 ソ連に占領された地域は終戦後にそのま
まソ連領となる」
このため、アメリカは速攻で日本に降伏を促し始めます。
ですが当時の日本は「本土決戦」を盾に、出来るだけ有利な条件で終戦しようという外
交戦術を取っていました。
そのため好条件を引き出そうと、のらりくらりと交渉を引き延ばします。
アメリカにとっては最悪です。
ですが、アメリカには切り札がありました。
「原子爆弾」です。
アメリカのトルーマン大統領は、ポツダム会談中の 7月26日 には、すでに原爆投下の指
示を出していました。
どのみちソ連に対して原子爆弾の存在をアピールするには、実際に投下する必要があり
ます。
アメリカ国内ではこの頃、「威圧目的なら投下する都市に事前通告した方がいいんじゃ
ないか?」とか、「使用可能な事をアピールするだけなら人のいない所に落とせばいい
じゃないか」という意見も出ていたのですが、上層部は全て拒否。
やはりその効果を国内外に見せる必要があると判断されたようで、開発側から「実戦デ
ータが欲しい」という声もあったようです。
(原爆投下地の候補には広島と長崎の他に、新潟と京都があったのですが、新潟や京都
が候補だったのは地形が平坦で、効果を計りやすいためだったようです)
きのこ雲こうして・・・ 7月末には準備が始まり、8月6日、広島への原子爆弾投下が実行
されます。
一瞬にして都市は完全な焼け野原となり、10万人以上の一般市民が死亡します。
一方、ソ連もアメリカが終戦を急いでいることは当然知っていました。
そのためポツダム会談中から日本侵攻の準備を急ピッチで進めます。
日本とソ連は当時「日ソ中立条約」という不可侵条約を結んでいましたが、ソ連はそれ
を一方的に破棄。
8月8日の深夜、ソ連は日本に宣戦布告、8月9日 には進攻を開始!
中国にあった日本の占領地「満州」での一斉攻撃を開始します。
再び都市は一瞬で全滅し、5万人以上の一般市民が死亡することとなります。
8月6日 から 8月9日 までの米ソの動きは非常に急なので、「原爆投下」を巡って、両者
が急いで動いていた事が解ります。
8月14日、北海道の北の諸島、俗に言う「北方領土」でソ連軍が進攻を開始、現地の守備
部隊と交戦に入ります。
そしてソ連の参戦と2度の原爆投下により、ついに日本政府は 8月15日、無条件降伏を
決定。
太平洋戦争は終わることとなるのですが・・・
ソ連は、日本の敗戦を聞いても進攻を止めませんでした。
ここで止まるとアメリカの思うつぼ、さらに「ここまで準備して進攻開始したばかりな
のに、今さら止められるか!」というのがあったようで、諸外国の非難を受けても無視
して侵攻を継続、そのまま北方領土を占領してしまいます。
しかし、さすがに終戦しているためそれ以上は進むことは出来ず、北海道を制圧するこ
となく、ソ連軍も侵攻を停止。
それなのに、大量の核をなぜに投下しなければならなかったのか?
核軍縮、日本の「橋渡し役」に厚い壁 賢人会議