石牟礼道子作、『苦海情土』

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 亡き作家石牟礼道子

この人の人柄には多くの作家も語っておられる。

弱い人の立場になって考えられる作家でもあった。

 水俣病を後になり先になりしながら、支え続けた作家でもある。

 その代表作に水俣病をテーマにした『苦海情土』

」がある。

これを読み進めるにあたっては長編でもありあまりにも悲しすぎる

 当時の新聞では「魂の抜けたミルクのみ人形」と表現するほどである。

母親は憤りを隠さない。

娘は生きています。魂のもとに生きています。

このような表現が使われるほどに水俣病の症状は重症でした。

だけれども生命に対する表現には憤りさえ覚えます。

本当に運命の不条理そのものでしかありません。

 今の豊かさは多くの魂の犠牲の中にあることだけは記憶に止めおきたいものです。

この作品は生々しい場面に苦しくなってしまう。

 有機水銀を飲み込んだ魚を摂取したこと水俣病すなわち

中枢性有機水銀による中毒症でその症状は運動機能、視覚言語にまで

症状が出る。

水俣を取り上げた作品です。

化学工場による弊害は水俣に限ることではない。

 「苦海情土」の引用文です。

おそらく今『苦海浄土』を読む人で、福島第一原子力発電所の事故を連想しない人はいないだろ

うと思います。東京電力の対応の問題が浮き彫りになり、原発は必要なのか様々な議論を呼び

起こしましたね。

今から60年ほど前、九州の工場で有機合成の原料アセトアルデヒドが製造されていました。当

時の日本の化学工業にとってなくてはならないものであり、人々の生活のための産業だったと

言えるでしょう。

ところが、周辺の地域で体の変調を来す者が増え、後に工場の廃液にはメチル水銀化合物が含ま

れていて、汚染された魚介類を摂取した人々の中枢神経系に中毒性疾患を引き起こしたこと

分かりました。

水俣病です。公害と認定されたもののどの患者を水俣病と判断するか、症状にあわせてどう補償

するべきかの話し合いは遅々として進まず、患者たちは長く続く裁判にも苦しめられ続けるこ

ととなります。

『苦海浄土』は、その水俣病についての記録文学。患者たちからの聞き書き、裁判をめぐる動向

、様々な資料の引用からなる本文二段組みかつ750ページの大作で、読み通すにはかなりの

力がいりました。

「世界文学全集」にたった一冊だけ収められた日本の巻ということからも分かるように、編者の

池澤夏樹は『世界文学リミックス』の中でこの作品を、「戦後日本文学第一の傑作だと思う」

と評しています。

単なる聞き書きではない文学的豊穣さをこの作品から感じ取ったのでしょう。ただ、淡々とした

記録ではなく、患者の悲惨な生活が生々しく描かれているだけに、読んでいて苦しくなる作品

でもありました。

 ある家では、うら若いきりょうよしが、全身紐のようにねじれて縁の下にころげ落ち、一人で

は起き上がれない事態になり、失禁も月のものも隠しおおせない家々はほかにもざらにあった。

 時代から忘れられた村の古道や渚辺を不自由な躰であちこちし、小学校への道さえ覚えられな

い子らを抱えてきて、大方の者は特急列車なるものにはじめて乗せられ、ここまで辿りついた

のだ。その歳月をどういえばよいか。

「すなわち患者の方々には誠意をもって円満な解決を計ることを……」

 またもやどっとヤジがあがる。お互い何をいっているのか聴きとれない。

 人それぞれの重層化した歳月が円型劇場のような会場の中で波立ち、渦をつくってまわりはじ

めた。ただただ眺めるだけの観客もいたことだろう。チッソの従業員も幹部も右翼も警備員も

、ことの成りゆきについてひたすら身をひき、内心忸怩たる念いをひそめ、あるいは無知な漁

民らがと思ってきたにしても、それ自体、凝縮したこの一幕の重要な劇的要員となっていたの

である。心も躰も全員中腰になっている中で、中心はやはり舞台の上にあった。患者たちが身

動きする度に骨のきしる音がした。(442ページ)

物語を楽しむ読書をしたい方にはおすすめできませんが、「四大公害病の一つ」など教科書的な

理解しかされていない水俣病の恐ろしい現実が描かれた作品なので、多くの方に読んでもらい

たい気はします。

情報の隠蔽などがあったにせよ会社が悪かったというだけでは済まない問題を孕んでいるのが公

害。まず産業自体は人々の生活のためなわけですから、快適な生活を求めれば必ず出て来る問

題でもあります。

そして、水俣が工場から恩恵を受けていたこと。財政的にもそうですし、都会から人の流れがあ

ることで地域は間違いなく活性化しました。ある意味では工場なしではやっていけない部分も

あるわけです。

安全のために便利な生活を捨てられるのか、もしもなにかが起こってしまった時、補償されるな

らどんな風に補償されるべきなのか。原発事故が起こった今だからこそ、読まれるべき本なの

かも知れません。

作品のあらすじ

〈わたし〉が山中九平少年と出会ったのは、1963年の秋のことでした。老人のように曲がっ

た腰を持つ少年は、目が見えないので、両手に持った棒きれを使いながらでなければ、歩くこ

とが出来ません。

石ころを拾い上げては棒きれで打つ、野球の練習をする九平の姿を見ていた〈わたし〉は、同じ

年齢の息子がいるだけに「激情的になり、ひきゆがむような母性」(13ページ)を感じさせ

られたのでした。

16歳になる九平は水俣病ですが、市役所衛生課が病院に来るよう言っても、「いやばい、殺さ

るるもね」(21ページ)とかたくなに拒否し続けます。家族はみな病院に行ったまま帰って

来なかったから。

まず手足の異常から症状が出る水俣病。ボタンがとめられずうまく歩けなくなるのです。次第に

言語もうまく発せられなくなるのでした。

住人たちの間で水俣病の症状が現れ出した頃、漁師たちは不漁に悩まされていました。ボラもえ

びもコノシロも鯛もめっきり取れなくなったのです。網についてくるのはベットリとしたドベ

(泥土)ばかり。

魚が岩にあたり、体をひっくり返して泳ぐ姿を目撃するようにも。

 そしてあんた、だれでん聞いてみなっせ。漁師ならだれでん見とるけん。百間の排水口からで

すな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊りが、座ぶとんくらいの大きさになっ

て、流れてくる。そして、はだか瀬の方さね、流れてゆく。あんたもうクシャミのでて。

 はだか瀬ちゅうて、水俣湾に出入りする潮の道が、恋路島と、坊主ガ半島の間に通っとる。そ

の潮の道さね、ぷかぷか浮いてゆくとですたい。その道筋で、魚どんが、そげんしたふうに泳

ぎよったな。そして、その油のごたる塊りが、鉾突きしよる肩やら、手やらにひっつくですど

が。何ちゅうか、きちゃきちゃするような、そいつがひっついたところの皮膚が、ちょろりと

むけそうな、気色の悪かりよったばい、あれが、ひっつくと。急いで、じゃなかところ(別の

ところ)の海水ばすくうて、洗いよりましたナ。昼は見よらんだった。(51ページ)

やがて国の調査が入るようになり、住人らの病気の原因が工場の廃液であることが分かっていき

ます。廃液の中にはメチル水銀化合物が含まれており、それを飲んだ魚を食べた住民らに症状

が出たのでした。

杉原彦次の次女のゆりは17歳ですが、重度の水俣病で、もう身動きすら出来ません。新聞は、

魂のない”ミルクのみ人形”と書きました。

発症前、元気だった娘を思い、「木にも草にも、魂はあるとうちは思うとに。魚にもめずにも魂

はあると思うとに。うちげのゆりにはそれがなかとはどういうことな」(148ページ)と納

得できない母親。

健康な人が水俣病になることが多かったですが、母親は無事でも生まれてきた子供が水俣病にお

かされていたというケースもありました。

 山本富士夫・十三歳、胎児性水俣病。生まれてこの方、一語も発せず、一語もききわけぬ十三

歳なのだ。両方の手の親指を同時に口に含み、絶えまなくおしゃぶりし、のこりの指と掌を、

ひらひら、ひらひら、魚のひれのように動かすだけが、この少年の、すべての生存表現である。

 中村千鶴・十三歳、胎児性水俣病。炎のような怜悧さに生まれつきながら、水俣病によって、

人間の属性を、言葉を発する機能も身動きする機能も、全部溶かし去られ、怜悧さの精となり

、さえざえと生き残ったかとさえ思われるほど、この少女のうつくしさ。

 水俣病の胎児性の子どもたちが、なにゆえ、非常にうつくしい容貌であるかと、子どもたちに

逢う人びとはいう。それは通俗的な容貌の美醜に対する問いばかりでもない。

 松永久美子をはじめとして、手足や身体のいちじるしい変形に反比例して、なにゆえこの子た

ちの表情が、全人間的な訴えを持ち、その表情のまま、人のこころの中に極限のやわらかさで

、移り入ってしまうのだろうか。(210ページ)

水俣病事件発生から二十年近くが経った、昭和四十四年六月十四日。廃液を流した会社チッソ

国の対応に納得できなかった水俣病患者の二十八世帯が、チッソを相手取り、熊本地方裁判所

に訴え出ました。

会社が潰れることは水俣市が潰れることだ、水俣市四万五千人と水俣病患者百人のどちらが大切

なのかという反対の声も聞こえてきます。

訴訟に至るまでには、様々な出来事がありました。互助会を作って、チッソと具体的な救済策を

話し合おうとしたのですが、交渉は遅々として進みません。やがて国からは、ある奇妙な知ら

せが届きました。

水俣病の紛争処理を厚生省にまかせるなら、委員の人選を一任し、委員が出した結論には、異議

なく従わなければならないというのです。そしてそのためにはそれぞれが確約書に署名しなけ

ればならないと。

公害として認定し、自分たち水俣病患者に力を貸してくれると思っていた国の思いがけない対応

に、互助会は戸惑いを隠せません。署名をするべきか、するべきでないか、対応をめぐる議論

は紛糾して……。

はたして、長く続くことになる水俣病の裁判の結末はいかに!?

とまあそんなお話です。時系列順の分かりやすい作品ではないので、もしかすると、水俣病の歴

史についてある程度調べておくか、参考になる本を横に置いて読み進めた方が、理解しやすい

かも知れません。

     山系より。

言葉を奪われた患者の魂、世界文学に 石牟礼さん死去

水俣病患者の苦しみや祈りを共感をこめて描いた小説「苦海浄土」で知られる作家の石牟礼道子

さん(90)が10日、亡くなった。

〈特集:石牟礼道子さん死去〉 〈特集:知る水俣病

 「苦海浄土」が出版された1969年は、水俣病患者がチッソに損害賠償を求めて熊本地裁

初めて訴えた年でもあった。

「うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとし

い)とばい」(第三章「ゆき女きき書」)、「わしも長か命じゃござっせん。長か命じゃなか

が、わが命惜しむわけじゃなかが、杢(もく)がためにゃ生きとろうごてござす」(第四章「

天の魚」)、「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わ

が要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」(

第四章「天の魚」)。

「(患者の家で)診察していると、遠慮がちに、邪魔にならんように見てるわけです、ニコォニ

コしてね」。プロの物書きとしてではなく、主婦として水俣病への関心を深めていった石牟礼

さんのことを、水俣病研究の第一人者で医師の故・原田正純氏はそう記憶していた。後に「苦

海浄土」として刊行される原稿は最初、水俣病の公式確認から4年後の60年、詩人の故・谷

川雁(がん)氏が主宰する機関誌「サークル村」に「奇病」として発表され、65年から雑誌

「熊本風土記」で「海と空のあいだに」の題で連載が始まった。方言へのこだわりを、石牟礼

さんは「人様を思いやる倫理の高さというか深さは、純然たる方言の世界」にあったと説明し

ていた。

ただ、この作品はいわゆるノンフィクションや聞き書き記録文学の類いではない。観察者の立

場ではなく、言葉さえ奪われた患者たちの魂を乗り移らせたかのように、「本人が心の中で語

っていること」を写し取り、聞き書き以上の「真実」をとらえた。「患者さんが口にしたくて

もできないことを私が言葉にしてさしあげた」のであり、「石牟礼道子私小説」(渡辺京二

さん)だった。

作家池澤夏樹さんが責任編集した「世界文学全集」(2011年、河出書房新社)に日本人作家

の長編として唯一収録したのは、「彼女を除いて戦後日本文学は成り立たない」(池澤さん)

と考えたためだ。「不知火の海の匂い濃い地方文学であるまさにその故に、普遍性を獲得した

世界の文学」(石牟礼さんと交流のあった世界的な免疫学者の故・多田富雄氏)でもあった。

(上原佳久)