死ぬのが怖い人。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。 故郷の山々は小雨の中です。

バックには「硬骨の人」が流れています。

青枝三奈さんは50半ばでお逝去されました。

 誰にだって終焉はやがてきます。

人昔であれば死について語ることなどありえませんでした。

 みこちゃんのおばさんが あの人が死んだからその次は「私の番」と怯え切っていま

した。

だけれどおばさんは倒れこむように突然亡くなりました。

 がんの患者はそれは壮絶な最後となりました。

 みこちゃんはどこか覚悟ができています。

虹の橋で亡き母との再開を願ってもいます。

「死ぬのが怖い」と思ったときに考えてみたいこと 石蔵 文信

逝きかた上手こちら、2回目はこちら)。

死んだ後に自分はどうなるのか、まったくわからないのも不安でしょう。それは誰もが

一度も死んだことがなく、既に死んでしまった方が「死」に関して語ることができない

からでしょう。

2020年に公開された『一度死んでみた』という映画のように、一度死んでも生き返れる

ような薬があればよいのですが、そんな都合の良い薬はできないでしょうね。

この「死んだらどうなるのか?」について、私の考えなどを書かせていただきます。

宗教の多くは、死んだ後の行き先を示してくれます。キリスト教徒やイスラム教徒なら

天国、仏教徒なら浄土というように、「何となく次がある」ので安心感もあるのでしょ

う。死んだ後の世界を示してもらえれば、信仰心の厚い人は死後の恐怖心が少ないのか

もしれません。

しかし、無宗教の方も少なくありません。そのため「死=無」になると考えてしまいが

ちです。

残念ながら私も死んだことがないので、死後の世界を語ることはできません。しかし、

信仰心のない方でも行ける場所があります。それは「あの世」です。天国などではあり

ませんが、「死ぬこと」=「この世からあの世に行く」と考えてみましょう。そう考え

てみると、少し気が楽かもしれません。

次に、亡くなってしまった知人や友人を想像してみましょう。

大阪に住んでいる私には、高校や大学の親しい友人が東京にいます。上京した際には時

々、夕食を共にすることがあります。しかし、新型コロナウイルスの蔓延で、ここ2年ほ

ど東京には行っていません。メールでは時々やりとりをしますが、あまり会えません。

親しい友人でも年に2~3回しか会いませんが、そこまで親しくなければ、数年以上会っ

ていない友人もいます。この年になると、そんな友人が亡くなったという話を時々、聞

きます。「生前に会っていたらなあ」と思うこともありますが、10年以上会っていない

友人など、何を話していいのかと悩みます。

そのようなときには「その友人はまだ東京に住んでいるんだ」とか「会う時間がないだ

けだ」と考えるようにしています。そう考えると、その友人の生死とは関係なく、「ま

だ遠くにいる」ようにも思えるのです。

よく考えてみると、家族と同様の付き合いをしている友人は、ほんの数人です。つまり

、私にとっては家族と数人の友人以外は、友人の生死はあまり関係がないということに

なります。逆に私に対しても多くの方がそのように思っているのではないでしょうか?

自分が死んでも友人の生活は変わらない

私がいなくなることによって大きな影響があるのは、家族ぐらいでしょう。親しい友人

も悲しんでくれると思いますが、彼らの生活が変わるほどのことはないと思います。そ

のように考えると、私は生きていることと死んでいることの境目はかなり低くなるよう

に思います。

『死ぬ瞬間の5つの後悔』は、多くの終末期の人を看取ってきたオーストラリア出身の介

護専門の著者(ブロニー・ウェア氏)が、その経験をまとめた本です。

ネットなどで紹介されている5種類の後悔を見ると、いろいろと示唆に富んでいて、考え

させられます。

そのなかでも「自分に正直な人生を生きればよかった」と悔いる人は多いのではないで

しょうか。確かに正直な人生は素晴らしいと思いますが、この世の中で、完全に自分に

正直な人生を送ったら、いろいろな人や組織と対立することになり、かなり迷惑をかけ

るのではないでしょうか?

私も「夫源病(ふげんびょう)」のカウンセリングで、夫の上から目線やモラハラで苦

しんでいる妻を診察してきました。あまりにも夫に気を使いすぎて、自分の人生を見失

っている妻も多くいます。

そういう方は、もう少し自分の気持ちに正直になってもいいと思いますが、あまりにも

正直になりすぎると家庭が崩壊する恐れが高いのではないでしょうか??学校や会社組織

などでは、ある程度自分を「殺して」いかなければ、人間関係が成り立たないと思いま

す。そのため私は「ほどほどに自分に正直に生きればいい」と思っています。

「働きすぎなければよかった」というのもあるでしょう。私自身も循環器内科の医師と

して忙しく働いていたため、家族をないがしろにしてきました。妻の献身的な努力によ

って何とか家庭崩壊は免れています。

そのことにようやく気づき、50歳を過ぎてからは、家庭を中心に生活をするようになり

ました。また60歳を過ぎると、孫の世話をするために大学を早期退職しました。このよ

うな判断は自分なりに良かったと思いますが、それでも遅かったと思っています。

多くの方は働きすぎて、家族を失う直前に問題に気づくに違いありません。私の外来で

も「妻が離婚を言い出したので何とかしてほしい。自分の態度を改めるつもりだ」と言

う夫もいますが、もう「時既に遅し」です。もっと早く、妻が離婚を決断する前のサイ

ンを出しているときに気づくべきだったと思いますが、一般に男性はかなり切羽詰まら

ないと気づかないようです。

「思い切って自分の気持ちを伝えればよかった」については、「自分に正直な人生を生

きればよかった」によく似ていると思います。

多くの人が素直に自分の気持ちを伝えることができないと思っているのではないでしょ

うか??しかし、それも人生です。そのとき自分の気持ちを伝えることができなかったか

ら、別の人生が開けているといえるでしょう。私は、自分の気持ちを伝える必要もない

と思っています。特に、家族に関しては日ごろの行動でわかってくれるはずです。

流されながら生きている人が大半

「幸せをあきらめなければよかった」という後悔も多くの人にあるものだと思います。

ほとんどの人は「幸せに生きよう」と頑張ります。良い就職をして、良いパートナーを

選び、良い家庭を築いて幸せになろうとするのは当たり前のことだと思っている人も多

いでしょう。

しかし、多くの方はそのような気持ちがあっても、実際に思い切った行動ができないと

思います。なんとなく流されながら人生を過ごしている人が大半でしょう。私もその1人

です。結果的に良い仕事に恵まれ、家族にも恵まれましたが、それほど必死になって頑

張った記憶はありません。

若いころ、工学部から再受験して医学部に入ったのも、薬局を経営していた親類のすす

めです。今の妻と知り合ったのは、大学のテニス部の先輩後輩の間柄でした。しかし、

医者になって大阪大学で勉強したいと考えたのはかなり強い意思があったと思います。

その後は大学の人事に乗っかって病院を転々としました。

しかし、40歳のときにどうしてもアメリカに留学したい気持ちが強くなり、後のことを

考えずに渡米しました。これは幸せになろうと努力したわけではなく、「どうしてもや

りたい」という意思が強かっただけです。

どちらにしても家族に迷惑をかけましたが、今では思い切って行動したことが良かった

と思います。両方ともある程度成功したので後悔はありませんが、もしそれでひどい目

に遭っていたら多分後悔したに違いありません。人間はうまくいけば後悔せず、うまく

いかなかったときに後悔をするのではないでしょうか?

「幸せをあきらめなければよかった」に関しては、最後まで夢を追い続けることで対応

できそうな気がします。死ぬ間際で後悔のない人などいないので、大いに後悔して死に

ましょう。

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