ダウン症の書家、金沢翔子さん。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 ダウン症の翔子さんのお母さんの本 「涙の般若心経」にふれ

しょどうのみちをひらくことのできたすばらしさなのでしょうか・・・。

 翔子さんは仮死状態での誕生で血液交換しないと命の保証はないと告げられ

 お医者さんからは「ダウン症でもあり知能も歩くこともできません」その上での決断を父親に

告げられました。

父親は即答したといいます。

「生きる方向でよろしくお願いします」と

 泰子さんは言います。

賢い子でなければ美とは言えないと思って過ごしてきた。

翔子さんが生まれるまでは順風満帆の申し分のない人生であった。

翔子さんとの出会いは、まるで死刑を宣告されたかのような

苦しみの中から脱することなどできなかった。

しまいには翔子を産んだ罪に周囲に申し訳ないと

どれほどわが身を苦しめたことでしょう。

 泰子さんは翔子を連れて死ぬことばかり考えていました。

 翔子さんが3歳を過ぎるころまでは涙に明け暮れたといいます。

  そんな時テレビで【ダウン症のお医者さん】の話を

おぼろげの中に耳にしそれから泰子さんは目覚めたといいます。

 翔子さんを書家にしようと厳しすぎるほどの指導に当たり

現在の翔子さんの素晴らしい書家人生が開花されたのだとのことでした。

天才的才能を見出すことのできたお母さんにある種の運を感じます。

 泰子さんは人生の岐路の時いつも傍らに「般若心経」があったのだと話されてもいます。

 小学生の翔子さんに来る日も来る日も「般若心経」を

厳しく教え込んだといいます。

 翔子さんも涙の中でお母さんの思いにこたえ続けたとも語られています。

障碍者が生まれることで、まるで犯罪家族者のように追いつめられるほどの社会の視線を感じて

生きなければならないことだけは確かです。

だからと言って五体満足に感謝などできませんよね。

これはあたりまえのことなのですから・・・。

水俣病の本にも触れましたが

それは想像を絶するようなご家族のお苦しみが

生活の端々まですっかり根を生やしこんでもいます。

与えられた人生、静かに受け入れ、自分なりの咀嚼の人生でしかありませんが

小さな小さな、そよ風にも幸せ感じて過ごせることが

出来たならと思えています。

 ご近所のダウン症の美香ちゃんは

太陽の申し子ともいえるような

素晴らしい明るい笑顔にどれほど救われるかしれません。

美香ちゃんのお母さんいわく

外に連れ出すようになってとてもおしゃべりになったのだと。

障碍者のわが子を、心からしっかり抱きしめることのできるご両親が

多く存在することを心より願い続けております。

     山系より。

【話の肖像画ダウン症の書家・金澤翔子 母・泰子(3) 自分だけが苦しんでいた

ダウン症の子供は、みんな異常なほどに優しいんですよ。不思議です。

〈翔子さんの母、泰子さんにもう少し話を続けてもらおう〉

ダウン症の子は、通常より染色体が1本多いのです。私は長い間、染色体が1本多いことを嘆い

てきましたが、実はこの1本多い染色体が優しさをみせてくれているのではないか、と思うよ

うになりました。この優しさがみんなを癒やすんです。

翔子は普通学級からの転校を言われた後、自宅で半年ほど「般若心経」を書いて過ごし、結局、

遠くの学校の特別支援学級に移りました。登校初日、翔子は親の苦悩と心配をよそに、けろっ

として楽しそうに帰ってきました。その時、苦しんでいたのは親の私だけだった、と気が付い

たのです。自分の思う通りの子供でなかったから私は苦しんだ。世間体や子供の将来を悲嘆し

ていた。でも、翔子は障害を認識しておらず、何も苦しんではいなかったのです。

翔子は、ただ私の苦しみに寄り添い、慰めようと一緒になって苦しんでくれていたんです。本当

に優しい子です。そのあたりから、私自身も変わり、将来に少し希望を持てるようになったん

です。

〈そんな折、再び転機が訪れた。大黒柱の夫、裕(ひろし)さんが心臓発作で倒れ、そのまま他

界してしまったのだ。夫は52歳、翔子さんは14歳だった〉

貿易会社を経営していた夫が死ぬと、次々と借金の取り立てが現れ、通帳からアッという間にお

金が無くなっていきました。私は海外に赴き、会社の事業所を閉鎖し、事業も畳みました。頼

りにしていた私の妹も亡くなり、母娘の2人きりで、途方に暮れて引きこもりの状態になった

のです。

さらに、18歳で学校を卒業した翔子が作業所に入ろうとしていたとき、ちょっとしたトラブル

で入れなくなってしまいました。当時、「仕切り屋・翔子」というあだ名をつけられていたほ

ど、翔子は仕切りたがり屋でした。それも原因だったのでしょう。やることもなく、翔子は太

ってしまいました。

そんなときに思い出したのが、在りし日の主人の言葉でした。「翔子が20歳になったら個展を

やろう。そして、みんなに来てもらい、翔子がダウン症であることを公表しよう」。主人は、

自分では積極的に書道をする人ではなかったのですが、翔子の書の才能を誰よりも認めていま

した。

18歳だから、まだ間に合う−。一生懸命準備を始めました。生涯に一度だけ、翔子の個展を盛

大に開いてあげよう。結婚はできないかもしれないから、結婚式と披露宴のつもりで、思い切

って夫が残したお金を使って最高の展覧会とパーティーをやろうと決意したんです。夫も喜ん

でくれるだろう、という思いもありました。

そしてついに、翔子が20歳になったお祝いに、東京・銀座で最高の会場を借りて個展を開き、

豪華な図録を作りました。帝国ホテルで記念レセプションも開催しました。ここまでやれば、

私が倒れ、翔子が施設に入ることになっても認めてもらえるのではないか。そんな考えもあり

ました。

この個展がメディアに取り上げられて話題となり、多くの方に来ていただきました。翔子の書を

見た多くの来場者が涙を流していました。私も全力でやりきって満足でした。でも、それは始

まりにすぎませんでした。(聞き手 内藤泰朗)