「巡礼日記」亡き妻と歩いた600キロの本に触  垣添忠生れ

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 癌治療に40年かかわってきた作者は

妻のがん、わずか四ミリのがんを救うこともできず

七年前に40年連れ添った大切な命を失ってしまった。

子供はいなかったけれどその暮らしの一つ一つ、ともに見た素晴らしい風景が

走馬灯のようにおもいだされ精神的にも追い詰められて拭い去れない悲しい日々が離れることは

なかった

 そのような心理状態の時朝日新聞の社長が巡礼から帰ったその精悍で迫力ある姿に接し

苦悩と悲嘆に別れを告げなければ

いつまでも立ち直ることなどできないとの思いもあった。

巡礼の旅に出ることにした。

この線タック紙は、一番困難な盛夏を選ぶことにした。

 人生の選択の際も、いつも困難を選択してきた経緯がある。

 巡礼とは聖職的宗教的意味合いが多いいが、退職後運動を兼ねて挑戦する人も

少なくないと聞かされている。

                                        妻絵の

慰霊の念が強かった。

 あえて悪条件を受け入れての巡礼の出発であった。

 身体的にも自信がないわけではなく、事前準備も

それなりにできてもいた。

 にもかかわらず二週間ほどは身体の各所が痛み

じりじりと照り付ける酷暑にも惨敗状態で

「もうかえろう」と何度思ったかしれない。

遍路道にはそこここに小さな思いやりが感じられ

またいたるところで日ごろでは感じることのない【お接待】のおもてなしに出会い

言葉を失うほどの感激に感謝の気持ちでいっぱいであった。

                   巡礼を 思い立った同機には

妻絵の鎮魂の祈りを込めて遍路の旅に出ようと思っても来た。

妻の慰霊が7年の節目を誘ったのかもしれない。

巡礼から20日ほど経った頃より、筋肉の痛み、あせもで夜も眠れぬ日は続いていたけれど

そんな頃より少しづつ体が順応できるようにもなっていった。

それまでは、精神力もほとんどピーク状態であったし

何しろものを考える脳が機能を断念していたのである。

景観にさえ、目を奪われることはなかった。

20日を過ぎるころには少しづつ過酷な条件になれ始め、体の痛みもなくなり

20キロを超える歩行にもゆとりをもって宿に着くことができるようにもなっていった。

今回最後の33番札所金剛福寺を目指すころには、季節の移ろい、アスファルトに多くの昆虫た

ちの死骸などにも心を奪われるまでのゆとりもできていた。

 この600キロの遍路の旅は取り合えづ中断することになった。

目的は妻への鎮魂の祈りではあったが

遍路の半ばごろより妻への感謝の気持ちに自然の流れとして変わっていった。

今では妻が傍らにあって、絶えず見守り続けてくれているように思えている。

 遍路の旅を通して健康な肉体にこそ健全なる精神が宿ることを

改めて認識できたとは作者の言葉。

この本に接し、死者との別れは誰にでもある。

その悲しみ苦悩は誰もの登竜門でもある。

老いて連れ合いを体験すると

その悲しみを乗り越えるランドマークは必要でもありまた時の流れが

死者に対する悲しみを 気が付けば自然に吸収してくれてもいる。

 お四国における遍路でのおもてなしに出会った人は少なくなかろう。

そのような無償のおもてなしに出会う機会など

通常生活においては少ないはずである。

酷暑にいただくいっぱいの冷水はのど越しだけではなく

心の渇きまで救ってくれるのではないのでしょうか。

では、通常生活においてどれほどの相手に対する思いやりの心が

手向けることができているのだろうかと深く反省することができたら

どれだけこの社会が明るく豊かな気持ちになれるのであろうかと

深く思いを致した感想を持った本でもありました。