傍聴席からの人間模様。

     ご機嫌いかがでしょうか。

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 平穏な時、もだえ苦しむとき、いろんな時を小鳥の冴え釣りとともに

うす曇りの師走は誰に伝えることもなく淡々と過ぎ去っていきます。

 私も母の一馬力で育った一人です。

ですから貧しさもよく知っているつもりです。

でもその貧しさを埋めるほどの母の愛に埋め尽くされていたと思います。

だから貧しさを苦しいなどと思うことはありませんでした。

近所の人が給食費を仮に来られても、気持ちよく用立てできる母に少々腹立たしい思いも感じて

きました。

 今ではそんな母の性格そっくりの自分になっていることにあきれてもいます。

 私は被告人とは考え方が少々異なります。

幼少時に出て行った父の存在など許すことはできなかったと思います。

不思議と貧しさにも独立心にも慣れ切っている今の自分は

北風にもとても強い体質になっています。

与えられた環境に感謝しなければなりませんですよね。

家族の三位一体には感動です。

どうか訪れる日々がこころおだやかでありますように・・・。

家族が機能していればこそ、乗り越えられる苦難坂も

笑ってやり過ごせることも家族有ればこそと思っています。

親を負担なく見ることが当たり前に思われる社会を願っています。

     東洋経済より。

「一緒に死のう」親子3人が入水した絶望の川 母の殺人と父の自殺幇助に問われた女の述懐

朝日新聞デジタル版連載「きょうも傍聴席にいます。」。毎回大きな反響を呼ぶ人気連載が新書

『きょうも傍聴席にいます』としてまとまりました。記者が見つめた法廷の人間ドラマをお届

けします。

「一緒に死のう」

認知症の母を長い間二人で介護していた父と娘。病気で自分も体が不自由になった父は、娘に言

った。「一緒に死のう」。娘は両親を車に乗せ、川へと向かった――。

2016年6月20日、さいたま地裁の201号法廷。母に対する殺人罪と父の自殺を幇助(ほうじょ)

した罪に問われた女(47)が被告として証言台に立った。髪を後ろで一つに束ね、白いシャツ

に黒のズボン姿。

裁判長:「起訴状の内容に間違いはありますか」

被告:「ないです」

起訴状などによると、被告は2015年11月21日午後6時ごろ、埼玉県深谷市利根川に親子3人で

軽乗用車ごと入水。母(当時81)を?れさせて殺害し、父(当時74)の自殺を手助けしたとされ

る。

冒頭陳述や被告人質問から事件をたどる。

被告は三姉妹の末娘として生まれた。父は被告が幼いころに家出。母が身一つで3人を育てるの

は厳しく、次女は養子に出された。被告は高校を中退した後、すしチェーン店などいくつかの

職を転々とした。20年ほど前、父が家に戻り、被告と両親の3人で暮らすようになった。

2003年ごろ、60代後半になっていた母は認知症パーキンソン病だと診断される。父と被告に

よる介護生活が始まった。当時被告は菓子製造会社で働いていたが、仕事と介護の両立は厳し

く、精神的に不安定になって無断欠勤をし、事件の約3年前には退職。以後、一家は月給18万円

ほどで新聞配達をしていた父の収入に頼るようになった。

被告人質問で弁護人は当時の母の様子を尋ねた。

弁護人:「どんな会話を?」

被告:「会話にはなりません。何年も前から私が娘とわかっていません。『どちら様?』とか『

こんちくしょう』とか暴言を言われたこともありました」

弁護人:「介護をやめたいと思ったことは?」

被告:「認知症だから仕方ないと思いました。認知症になる前は明るい母で大好きでした。認知

症になってからも大好きでした」

母と三女の関係は

被告の二人の姉が、情状証人として出廷し、母と三女の関係について語った。

長女:「母との絆は深く、献身的な姿勢はまねできなかった。私は父を『お父さん』と呼べなか

った。妹をうらやましく感じました」

次女:「三姉妹で妹は一番母に似ていました。いつも二人は一緒。密度の濃い関係に映りました」

被告は真っ赤になった鼻にハンカチをあてた。涙が落ちるのを防ぐかのように天井を見上げた。

二人の姉は「介護に対する不満、愚痴は一切聞かなかった」と口をそろえた。

2014年9月ごろ、母は寝たきりの状態に。父も仕事の傍ら、入浴や排泄(はいせつ)の介助をか

いがいしくしていたという。被告は法廷で父について「一家の大黒柱。大きな存在でした」と

語った。

だが、2015年9月ごろ、父が頸椎(けいつい)圧迫により体調を崩した。徐々に症状は悪化し、

11月に入ると新聞配達で使うバイクの運転が難しくなった。食事やトイレも、一人ではできな

くなり、11月12日、退職。一家の収入が途絶えた。

5日後、被告は市に生活保護を申請した。検察側によると、受給が認められれば月20万円弱が支

払われ、母の介護支援や父の医療扶助なども受けることができたはずだ、という。

だが、翌日、父は言った。「死にたいんだけど、一緒に死んでくれるか。お母ちゃんだけ残して

もかわいそうだから3人で一緒に死のう」

検察側は被告人質問で当時のやりとりについて尋ねた。

被告:「すぐに『いいよ』と答えました」

検察官:「止めようとは思わなかったんですか」

被告:「あまり自分自身、死への恐怖心がなかったんです。当時は死にたがっていたんだと思い

ます」

検察官:「説得しようとは思わなかったのですか」

被告:「全然考えませんでした。お金の関係は何とかなるという認識でした」

検察官:「父も手術すればよくなるはずだし、心中しなくても大丈夫と思うのが普通だが?」

被告:「よくなるとは思えないくらい症状が悪かったんです。父も手術しても寝たきりになるか

もしれないと言っていました」

検察官:「なぜ心中しようと思ったのか?」

被告:「父は、すべてがなくなって解放される。楽になる。体調悪化の苦しみ、生活保護の調査

を受けたこと、母の介護。すべて込みで楽になる。私については……わかりません。今は、父

に(心中を)言われなければ死ぬつもりはなかった、と思います」

検察官:「母を死なせたことについては?」

被告:「私と父が(死んで)楽になり、残された母が施設に入っていじめられたらかわいそう。

家族だから一緒じゃないと意味がない、と父に言われました」

惨めで、死にたい気持ちが高まった

「懇願」の翌19日、市役所の職員が自宅を訪れた。生活保護に関する面接だった。生い立ちや

家族の状況について聞かれた、と被告は説明した。

被告:「今までの人生、高校を中退し、仕事を転々としました。親子で同じような人生を歩んで

いるなあと思った。惨めで、死にたい気持ちが高まりました」

心中を言い出した父は「(手術を受ける予定の)30日までに心中できれば」と言っていた、と

いう。しかし被告は「行くのを早めるよ」と言った。

被告:「死ぬのを早めたのは私です」

事件当日の21日。なお「明日にしよう」とためらう父に被告は往生際が悪いと腹を立て、「そ

んなんじゃ置いていくよ。死ぬ気あるの」などと迫った。昼過ぎ、両親を車に乗せ、以前家族

で行ったことがあった群馬県の草木ダムへ。

被告:「ダムへ車でダイブできればそこでもよかったんですが、適当な場所がなくて。父は『列

車に突っ込もう』とも言っていましたが、遺族に巨額の賠償が請求されるって聞いていたので

、やめました」

自宅近くの利根川付近に戻り、暗くなるまで待って、川へ。直前、父の「ごめんね」という声が

聞こえた。車ごと川に入ったが、水深1.1メートル付近で車が前に進まなくなった。足元から水

が車内に入ってきた。

被告:「母は『冷たいよ、冷たいよ』と何度か言っていました」

被告は運転席側のドアを開け、母、父の順に外へ引っ張り出した。

被告:「母は『死んじゃうよ、死んじゃうよ』って手足をバタバタさせました。私は『ごめんね

、ごめんね』としか言えなかった」

父とはいつの間にか離れてしまった。

被告:「父には突き放された感じがしました。周りが暗くて、探せなかった」

両親の命は失われた

母だけは離すまいと服を強く握った。すると、動きが止まった。自分の口にも水がどんどん入っ

てきた。苦しい。吐く。楽になる。また、苦しくなる。流されるうちに、右足が浅瀬をとらえ

た。一人でうずくまり、空を眺めたり、歌を歌ったりして夜を明かした。両親の命は失われた。

被告人質問の終盤、裁判員や裁判長から質問が続いた。

裁判員:「事件の結果についてどうお考えですか」

被告:「父は具合が悪くなる一方で、自分を惨めに感じているだろうなと思っていた。父が死に

切れたことはよかったと思っている」「申し訳ないですが、私と母が死んで、今ここ(証言台

)にいるのが父だったら、その方が残酷だった。生き残ったのが私でよかったと思います」

裁判長:「重大な行為をした自覚はあるのか」

被告:「生き残ったが故に、この罪に問われていると思います」

6月21日の論告求刑公判。

検察側は「他に取り得る手段があり、犯行を思いとどまる機会もあった。事件の重大性に向き合

っていない」と懲役8年を求刑。

一方、弁護側はこう訴えた。「心中のきっかけは経済的な面ではない。生きる支えを失った父の

姿を見て、被告は死んだ方が幸せだと思った。母を巻き込んだのは、大事に大事にしていたこ

との裏返しだ」。執行猶予付きの判決を求めた。

最終の意見陳述。被告は時折嗚咽(おえつ)を漏らしながら、声を絞り出した。

「今思えば、私と母は相似形の親子でした。父も含めれば三位一体の関係だった」

「いつの日か世間に出て、『あのとき一緒に死んでいればよかった』と思う場面があるかもしれ

ないが、何があっても生きていくことが、両親への供養になると思っています」

「これからもどうか見守っていてください」

「姉の証言がありましたが、私も実際、父を『お父さん』と呼んだことはありません。きょうは

両親の月命日で……私のわがままなんですけど……」

涙で鼻がつまる。一呼吸置いて、こう言った。

「お父さん、お母さん、こんな私ですけど、これからもどうか見守っていてください」

6月23日の判決は懲役4年の実刑。「社会的な援助を受けて生きることもできた。生命を軽視し

ていたと言わざるを得ない」。献身的な介護、深い親子関係を認めながらも、執行猶予は付けな

かった。

宣告後、裁判員と裁判官からのメッセージが告げられた。

裁判長:「仲良く暮らしたときのお父さん、お母さんの顔を忘れることなく、毎日を大切に生き

てください」

「ありがとうございました」。被告は深々と頭を下げた。

検察、弁護側双方とも控訴せず判決は確定した。

2016.8.5?(金子智彦)

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