オーム事件教祖三女が【止まった時計】の本で語るもの

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 オームの世界には、人間破壊の教義しかない。

 オームのことが世間に知られるようになったのは

坂本弁護士一家殺害により

その後のお母さんが一生懸命探し続けておられたご様子が

記憶に鮮明となって忘れることはできません。

 平成時代の大きな事件として24年の歳月が、事件を全く知らない人から

その事件の共謀テロまでもセピア色として

触れたくもない人までと様々です。

 そんな中、オームの教祖の三女として

 麗華さんは我が人生のあまりにも重くて深い、数奇な人生を背負うがゆえの

運命に翻弄されつつ、「死ぬべき」しかないとのはざまで揺れ動かされながらも

どこかでは「生きたい」との思いと戦う中で

実名と素顔を出すことにより父に対する思いの代弁者で

在り続けたいとも思えたのかと思います。

これは人として【障碍者】としての社会に対する受けとめ方に関してです。

 みこちゃんは、死刑にはなったけれどもこの事件の解明とオームといった教義が今な

お、社会の隅で生き続けているテロを含む怖さと宗教の在り方が

問われているようにも思えてなりません。

 今なお、アレフは松本の教義が脈々と

生き続けてもおります。

同課アレフに走るのではなく、きちんと自分に向き合って欲しい

オーム教祖の娘として生まれる運命にあった、松本麗華の衝撃本が

世に問題提起されています。

 もう、坂本弁護士のお母さんもかなりの高齢者となっておられ

その死刑の執行の意味さえ深く思いをいたしておられないのかと

この事件のあまりにも長い歴史が消えては現れ、現れては消えるといった

その事件の衝撃さえも時が風化させてしまうのであろうか?び

 生まれた時からオーム集団の中で幼少期を過ごしたアーチャリーが

三女目線からの「止まった時計」を発刊した。

お父さんを敬愛しながらどこかでオームを受け入れたり離れたりと

本は、時系列で三女としての乾燥が素直に述べられているが

オームそのものに対する意見が書かれていないために

この本から得られるものは少なかったように思う。

本が語るものとして

裁判自体もそうでもあるが、警察官の聴取の在り方には疑問と疑念がわくことの一考察

として

 松本自身の障碍者としての取り扱い方は、知るすべは遠いい!

刑務所内における、日常生活をどのように指導し

どのように生活管理して来たのであろうか

おしめ交換がきちんとなされていたのでしょうか?

しょくじないようをどれほどせつめいされていたのであろうか?

朝のラジオ体操もさせずに室内交流されていたのではないのだろうか?

短絡的な感想として、障碍者としての松本に対する対応には

本当に正しかったのだろうか?

そして認知度の進んだままでの裁判の在り方にも

アーチャリーは疑問を呈してもいます。

この過程のあまりにも曖昧差がベールの中に閉じ込められているのではと思わざる

を得ない。

 全盲であった松本の取り扱いが本当に語られる内容になっているのだろうか?

認知度が進んだ中での聴取の在り方はどうであったのだろうか?

 アーチャリーがたびたび述べているように、松本の取り扱い方

そのものが他社とは異なる扱いに終始したために

精神が破壊される方向に進まざるを得なかったのではと妄想します。

 この事件の執着は、松本や、多くの死刑者からの気持ちの状況を聞きたかったことに

も意義を見い出しても欲しかったものです。

あまりにも不完全燃焼としか言えない結末であった。

警察がこの事件の終結をあまりにも急いだように思えて仕方がない。

もっとプロとして、若者をひきつけてやまない思想間を

松本からもっともっと引き出してほしかったものです。

 松本麗華さんの生き方そのものが評価されてくるまでの道のりは長いと思います。

同課自己評価されたと思えるまでの苦難坂は逃げることなく受け止めて生きていただき

たいものです。

サリンの後遺症で自分を生きることもできない若き女性がおられることだけは

どうか胸に留め置いてほしいものです。

   若者の「止まった時計」の感想です。

オウムというと当時、高圧的に信者に話す教祖の映像を何度も見ていたので、教祖の指

示によるテロリスト集団だと今まで思っていましたが、この本の内容では全く異なり正

直驚きました。読んでみて彼女なりの真実や素直な思いが綴られていると思いました。

母への反発からか父への愛情が偏っているようにも思うが、それを差し引いても控訴

却などについての意見は一理あるように思う。出自のせいで様々な理不尽な扱いを受け

ながら、周りに助けられ何とか今に至った姿には感動しました。

サリン事件やオウム真理教のことは知ってはいるけど、あまりそれについて知ろうとし

たことはなかった。 アーチャリーって誰?なに?っていう、レベル。今回この本を読ん

で思ったのは、子供は親の生きている世界で生きるしか術がないのだということ。著者

目線からはこういう風に見えてるんだなぁ。とにかく辛い気持ちが伝わった。ただ、親

を信じたい気持ちは分かるけど、その親が築いた組織が起こした事件は史上最悪なわけ

で、もし親が主犯じゃなかったとしても責任重大だと。 アーチャリーはこれからも大変

だろうけど自分の人生を歩んで欲しい。

     ではどうかこの時が良きひとなりますように・・・。

ネタバレはじまりは無知ではないかと思う。教団を大きくし弟子を集め独自の道を行く

。彼女は幼いながら家族経営状態の杜撰な運営に疑問を持つ。彼女が12歳で父は逮捕さ

れる。盲目の父の裁判、父にの指示の流れに精神を病み詐病と疑われた父反論出来ず。

アレフに名前だけ使われ世間から拒絶され6人いた兄弟もばらばらになる。彼女が大学に

進学し彼女を受け入れた友人は凄い。たが彼女の妹が記した手記よりこの作品の麗華に

関心が向く。多分真実は一生明るみにならないと思うが知りたい。マスコミの情報操作

はうまく見極めるべき読んで良かった。

     被害当日、知らなかった政府飲み会とは!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 積乱雲が連続形成されても次から次へと積乱雲が形成されそれが長時間、雨を運び

それが小田川の氾濫を招いたようです。

政府はその日は飲み会であったそうです。

豪雨の情報は政府にもあったはずです。

緊急事態は24時間体制が当たり前です。

 政府の機能は翌日の午後であったと思います。

現地では消防署までが河川の決壊ですっかり飲み込まれ

機能不全状態です。

地域の避難連絡は、河川の決壊情報が身近な適格把握に

どれだけやくだつ情報か知れません。

現地で連絡を取り続けていた家族の多くに悲しい知らせは

すこしでもふせげていたのではなかったろうか?

こんなに初期対応のまずさで多くを失ったことは

悔しくて悔しくてたまりません!

岡山といえば自民党の支持母体でもあります。

安倍総理はおっしゃいます。

「適切かつ現場主義の対応には揺るぎはありません」と。 そして瞬時のうちに多くの暮らしまで飲み込んでしまいました

政府からの緊急援助は、政府発動とか?

これだけ情報のやり取りができるというのに

現場とのミスマッチ減少で

どれだけ無駄を生むことになるかしれません。

これも赤字予算からの形状です。

 政府対応には、かなりの温度差が目に余ります。

 安倍総理リップサービスなど「もうけっこう」!?

カープの「黒田党首」がこの度

1千万円ものお金を寄付いただきました。

本当にありがとうございます。

県外ナンバーの方々のボランティア

お風呂の無料サービスいただける多くの民間

ワシュウホテルの障碍者の受け入れ対応本当にありがとうございます。

それに比べ地元の若者のボランティアの元気もお願いできれば嬉しい限りです。

     産経より。

西日本豪雨】積乱雲の連続発生 「バックビルディング現象」を確認 防科研 (2018年7月10日 21:54)

 西日本豪雨では、同じ場所の上空で新しい積乱雲が次々と生じる「バックビルディング現象」が発生し、通常は短時間で通り過ぎる積乱雲が数珠つなぎになって線状降水帯を形成したため、長時間にわたって同じ地域に大雨をもたらしたことが分かった。中国・四国地方などの雨雲を解析した防災科学技術研究所茨城県)が確認した。

 同研究所は国土交通省気象庁のレーダー観測データを基に、当時の雲の様子を再現した立体映像を作成。それによると、大きな被害が出た広島県付近で6日午後5~9時にかけ、上空で発生した積乱雲が風下の北東に移動した後も、ほぼ同じ場所で連続して別の積乱雲が発生し、同じ方向に進む状況が確認された。岡山県岐阜県でも同様の状況が確認されたという。

 この現象はバックビルディング現象と呼ばれ、複数の積乱雲が帯状に連なる線状降水帯の発生メカニズムの一つだ。

 今回のケースでは、南と南西から流れ込んだ暖かく湿った空気が上空で衝突し、上昇気流が生まれて積乱雲を形成。その流れが何度も繰り返され、「積乱雲の寿命は30~60分程度」(同研究所)にもかかわらず、複数の積乱雲が連続して通過することで大雨が降り続いた。平成27年9月の関東・東北豪雨、昨年7月の九州北部豪雨なども同現象が原因とされる。

 また今回、線状降水帯を形成した積乱雲の最大高度は約7キロで、26年8月の広島の豪雨や九州北部豪雨と比べると半分以下。そのため、 上空の風の影響を受けにくく、進行速度が遅くなり、降水量の増加に拍車をかけたとみられる。

 同研究所は「バックビルディングは局所的な現象だが、今回は広い範囲で複数発生している。珍しい状況だ」と話している。

「やばいっ!」電話切れた息子探す母 自らスコップ握る (7/11)

 土砂崩れと濁流で、大きな被害が出た広島市安芸区矢野東7丁目。スコップを手に、土砂を一心不乱に掘りおこす女性がいた。6日夜から行方不明の広島市立工業高3年の植木将太朗さん(18)の母親だ。「息をしている状態で見つけ出してあげたい」

西日本豪雨、列島各地の被害状況は

 将太朗さんは6日、学校の期末テストを受け、昼過ぎに祖父が運転する車で帰宅。テニス部の練習も雨で中止になった。

 午後7時半ごろ、仕事を終えた母親は豪雨の中、車で長女と自宅に向かっていた。あまりにも雨がひどく、車を止めて、将太朗さんに「じいちゃんの家に避難してね」と電話で伝えると、「わかった」と返事があった。祖父の家は数十メートルしか離れていないが、自宅より山から遠かった。

 2、3分後に将太朗さんから再び電話があった。「まじでやばいよ」。激しい雨音と、混乱した将太朗さんの声が聞こえた。「何が?」と聞き返すと、「やばいっ!」という叫び声とともに、電話が途切れた。何度も電話をかけたが、応答はなかった。

 その夜から眠れていない。「将太朗が何も食べられていないのに、私だけ食べることはできない」と、食事もまともにとっていない。

 一夜明けて7日、知人女性がツイッターで、将太朗さんらしき人が鉄柵に乗ったまま流されているという情報を見つけた。すぐに投稿者に問い合わせると、特徴が将太朗さんに似ていた。

 9日、鉄柵らしきものが植木さん宅の北約700メートルの交差点付近で見つかった。「この近くに将太朗がおる」。この日から母親は休む間もなく土砂を掘り続けている。将太朗さんの通う広島市立工業高校の教員たち約20人も手伝う。

 陸上自衛隊も重機で車や倒木などを撤去するが、捜索範囲が広く、思うように進まない。「手伝ってくれる人たちには感謝しかないけれど、一人でも多くの力を借りたい」と母親は願う。

 11日も午前8時ごろから、陸自や警察官ら約30人と教員、同級生ら約40人が、強い日差しのもとで掘り続けた。午後には近くの住民らも加わり、約150人に膨らんだ。

 母親は言う。「息子はまだ生きとるけ、必ず見つけ出します。当たり前の日常を早く取り戻したい」(大滝哲彰) 

 そもそもバックビルディング現象とは何かをひとことで言うと、積乱雲が風上で連続して発生し、それによって風下で激しい雨が降り続ける現象です。風上で積乱雲が連続して発生する様子がまるでビルが林立するようであることからこの名前が付けられました。

普通の積乱雲は湿った風が上昇気流に乗ることで発生し、狭い範囲に1時間あたり20mm程度の雨を降らせた後に消えます。一方でバックビルディング現象の場合には‘風上で積乱雲が連続して発生するので、局地的に激しい雨が降り続けて集中豪雨となります。

発生した積乱雲は風に流されて移動して行くのですが、すぐに次の積乱雲が作成されるために、新たにできた積乱雲が線状・帯状に並び立つために、一帯に集中的に大雨を降らせることになります。

過去のバックビルディング現象による災害事例

過去のバックビルディング現象による災害事例はいくつかありますが、最も有名なものは2014年に広島県の安佐南、安佐北両区で発生した大規模な土砂災害です。

この広島で発生した土砂災害では77人の死者が発生する大災害になりましたが、この土砂災害の原因になったのがバックビルディング現象による集中豪雨でした。

この土砂災害では、豊後水道を通って日本海側に停滞する前線に向かって広島と山口の県境に流れ込んだ湿った南風が、丘陵部にぶつかり上昇気流となり積乱雲が発生しました。

上空1500m付近では南西風が吹いており、この南風とぶつかり県境付近で発生した積乱雲をさらに発達させながら北東方向へ運んだため、風下側の広島市で長時間にわたり局地的豪雨が発生し、土砂災害に繋がりました。

この他にもバックビルディング現象による水害は今までに何度も発生しております。日本の平均降水量は年間で1,500mm程度になることが多いですが、バックビルディング現象によって集中豪雨が発生すると場合によっては、たった12時間で600mm程度の雨が一気にふることがあります。

バックビルディング現象はその発生を予測することが難しいので、気象庁の注意報・警報をチェックして、大雨による災害が予測されている場合には早めに避難を行うなどの防災対策を行う必要があります。

以上、バックビルディング現象について、そもそもバックビルディング現象とは何か、過去のバックビルディング現象による災害事例、などについて見てきました。

     オーム事件死刑執行、早川紀代秀。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 一般車の攻撃を、諸悪の根源とでっち上げ

数々の無法な事件を実行した、オーム真理教

若者の動機付けは、実に安易で愚かとしか言えない。

 早川紀代秀も自らオームの門をたたき入信、出家している。

この人の本にも触れてみたいが、宗教に引き込まれる

動機づけ、浅原との出会いをいぶかしむこともどうして

なかったかについても理解は遠く及ぶものでもない。

 オーム事件が進行する中、なぜうたがいをもたのかったのであろうか・・・?

この世に生を受け、貢献できる素量がありながら自らを封じ、多くの犯罪に手を染め

多くの人生を奪った罪はあまりにもふかい?

処刑されたとは言え、この事件の根源には結末も見ず

煙となってくすぼり続けることであろう?

死刑執行の社会的な役割はあまり期待できなかった。

これ以上、カルト宗教の影響が少ないことを、お祈りするばかりです。

人物[編集]

兵庫県川辺郡東谷村(現・川西市)に生まれる。その後大阪府堺市に転居し[5]、大阪府

立三国丘高等学校を経て神戸大学農学部に進学後[6]、大阪府立大学大学院では緑地計画

工学を専攻。学生運動にも参加し公安にマークされていた[7]。修了後、鴻池組に勤務。

1979年11月結婚。1980年に退職する[8][9]。

[10]、1984年、阿含宗に入信[9]。その後麻原の著作に共感を覚え、1986年4月にオウム

神仙の会に入会し[11]、1987年11月1日に出家[12]。

温厚で頼れる存在だが、感情の起伏が激しく、怒ると怖いとの評判であった[7]。自身よ

り階級が高い正大師の上祐史浩に「何やっとんかマイトレーヤ!!」と怒鳴る、麻原彰

晃すら叱るなど、裏のNo.2と言われるだけの影響力を持っていた[13]。チョコレートな

ど甘いものが好き[14]。

入信後[編集]

青年層が多いオウム幹部の中にあって数少ない中年であり、教祖の麻原よりも年上であ

る(麻原よりも年上の幹部信徒としては他に大内利裕や林郁夫、後述の波野村事件で早

川とともに逮捕された満生均史らがいる)。

出家後は不動産獲得の中心的役割を担い、富士山総本部の建設責任者になり[15]、全国

支部道場の用地取得などを行った。また1991年、山梨県上九一色村に第2サティアン

建設し、1993年にはサリンプラント建設に関与[16]。

1990年の第39回衆議院議員総選挙真理党が出馬した際には、早川自身は立候補せず、

対立候補のポスター剥がしなど裏方の選挙支援をしていた[17]。

1988年12月に大師となり[18]、1994年7月に正悟師となる[3]。

事件への関与[編集]

1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件に参加し、殺害に関与。またTBSのスタッフが坂本堤

弁護士のオウム批判のインタビュー映像を放送直前に早川に見せたことが事件のきっか

けのひとつとなった(TBSビデオ問題)。事件時に手袋をしていなかった早川や村井秀夫

は麻原に指紋消去を命令され、熱したフライパンや豚の皮で指紋消去を行わされた[19]

熊本県波野村国土利用計画法違反事件で逮捕され[20]、住居制限と教団関係者との接

見禁止を条件に保釈されている(1992年夏に解除)[21]。保釈中も教団幹部として数度

ロシアを訪れ、度重なるロシア訪問でロシア政府高官とパイプを築いた[22]。オウムは

ロシアではステータスの高い団体であったので、世間で言われているように裏社会に強

かったということはなく、AK-74自動小銃を入手するのにも苦労し、見かねたロシア人通

訳が手配してくれたという[23]。他にも1994年6月1日に旧ソビエト連邦製の30人乗り大

型ヘリコプター「ミル17」やLSDの原料をロシアから購入した[24]。

早川は他の幹部と比較するとテロの現場にはあまり参加していないが、早川はその理由

として1993年の出来事を挙げている。1993年12月、オウムは創価学会の一大拠点である

東京信濃町ボツリヌス菌噴霧車で襲撃しようとしたが、警備に怪しまれたため早川の

判断で中止させた。これに対し麻原は早川がいるとワークが成功しないとして不満を持

ったという[25]。

影の交渉役であったことから後に週刊誌などである事ない事を書かれるようになったが

、早川と面会した滝本太郎によると「単なる宗教好き、精神世界好きのおじさん」との

こと[26]。

裁判[編集]

1995年4月19日、TBS『ニュース23』の取材を受けた後、建物侵入罪で逮捕[27]。教団が

初期に起こした殺人事件など計7事件で起訴され、第一審で死刑判決。控訴・上告はとも

に棄却、2009年7月17日、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは6人

目。

裁判では、麻原の「ここで抵抗しなくちゃならない」「妻が強姦されてるんだぞ」など

という意味不明な不規則発言と麻原への退廷命令に号泣したこともあった[28]。また坂

本堤弁護士一家殺害事件の際に坂本龍彦の遺体に毛布をかけた理由について「別に理由

はない」と言ってしばらくの沈黙の後、「寒そうだったから」と述べ、その後悲鳴に近

い声を上げ、1分近く証言台に突っ伏した[29]。「修行僧」として、白いオウム服に数珠

という出で立ちで出廷したこともあった[30]。

再審請求したが、棄却された[31][32]。

週刊ポスト(2013年2月15・22日号)『死刑囚78人の肉筆』に掲載された早川直筆文によ

ると、拘置所内では読書、相撲や洋楽のラジオ番組視聴、ビデオ視聴を楽しんでおり、

妻や友人との面会や文通、毎日の修行(瞑想プラナヤーマ等)を行っているという。

オウム真理教の国家転覆計画(11月戦争計画)の根拠として、早川ノート、早川メモ[33

]というものが一時期話題になったが、本人によれば実は岐部ノートであるとされる[34]

死刑確定後[編集]

2018年(平成30年)3月14日までは、早川を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が

、東京拘置所に収監されていた[35][36][37][38]。しかし、2018年1月、高橋克也の無期

懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した[35][38]。

オウム裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について

、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島

拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた[35][36][37][38][39]。早川は同日付で、福

拘置所に移送された[39]。

洗脳が解けた過程[編集]

逮捕前、麻原から「まだ逮捕状は出ていないので逃げ隠れするな」と言われたのに言わ

れた時点ですでに逮捕状が出ていたこと、「銃刀法で逮捕される」と予言されていたの

に実際には建造物侵入罪で逮捕されたことで、「弟子の逮捕という重大事項を見誤るな

んて予言能力は無いのではなかろうか」と怪しく思ったのが最初の疑念である。逮捕後

、接見に来た青山吉伸弁護士から「麻原尊師が不利になる事を言うな」と言われると「

麻原は自分の身を守ることしか考えていないのか」と、麻原の人格を疑い始めた。次に

、麻原の予言によると核戦争が起きた際に放射能被害を受けるはずだった村井秀夫が核

戦争勃発前に刺殺されたこと、麻原は以前から癌を患っているとされ、日々酸素吸入ま

でしていたのに、いざ麻原が逮捕されると実は健康そのものであると発覚したことなど

、次々に「えっ?」と思う事実が明らかになり、幻滅していった[40]。

最後に、麻原は逮捕後に自殺を図ろうとしたが、出されたカレーライスを食べたくて「

自己ポア」を断念した、という俗物的一面を知り、これをだめ押しとして、信仰心を失

った[41]。

オウムでの渡航歴[編集]

早川の記述に基づく[42]。

1989年1月 ドイツ

1989年12月 ドイツ

1991年11月 ロシア(翌年2月までに数度訪露している)

1992年4月 スリランカ

1992年夏 ブータン、インド

1992年秋 ザイール

1992年冬 ロシア

1993年2月 ロシア

1993年4月 オーストラリア(ウラン鉱脈探しのため)[43]

1993年5月 ロシア

1993年夏 ロシア→フランス

1993年8月末 ロシア

1993年9月 オーストラリア

1993年10月 オーストラリア

1993年12月 ロシア

1994年2月 ロシア→中国

1994年3月 ロシア

1994年4月 ロシア(射撃ツアーに参加)[44]

1994年7月 ロシア

1994年9月 ロシア

1995年3月 ロシア

関連事件[編集]

男性信者殺害事件

坂本堤弁護士一家殺害事件

サリンプラント建設事件(殺人予備罪)

LSD密造事件

著作[編集]

「ルソーから真理へ -市民ユートピアの原理- 」(オウム出版 1991年)

「私にとってオウムとは何だったのか」(川村邦光との共著、ポプラ社 2005年)

私にとってオウムとは何だったのか/早川紀代秀川村邦光 (著) 

私にとってオウムとは何だったのか

早川 紀代秀,川村 邦光/ポプラ社

川村邦光は、早川紀代秀控訴審を担当する弁護士が知人だったことから証人尋問を依

頼され、宗教研究者としてオウム論を述べた。本著は、この証人尋問の草稿を書き直し

、早川への質問を付け加えたものが基本になっています。

早川は自身が著者となることによって傷つく人がいることに躊躇し、川村のオウム論を

展開するための、あくまでも「素材」として欲しいという考えだったが、ポプラ社と川

村の説得により共同執筆の形となっている。

「宗教的テロリズム早川紀代秀」(川村邦光著述部分)は、日本の新宗教の流れを追

った文章が長々と続きオウムへも解釈は至って凡庸で、肝心の早川の執筆部分は当事者

の証言として、一応読むべき価値はあるかなという内容。

「消えない足跡ーオウムと私の軌跡」?早川による生い立ちから、オウムでの活動のすべ

てを振り返る。他の信者と違い、若者ではなかった早川は、教団の戦闘的活動の中心で

ある「武闘派」、教団No.2、元阿含宗信者、、など夥しい報道によるイメージを与えら

れているが、TM(超越瞑想)などの瞑想に興味をもち、ハルマゲドンや、ヨガの修行に

夢中になっていくところなど、出家時に妻や、経営する会社をもっていた以外、他の若

者信者と変わらないグルへの傾倒が綴られている。

また麻原への帰依が狂信的とも見えていた新実の「ポア」体験後の苦悩の様子などは意

外だった。麻原の到底無理と思われるビジョンを次々と実行していった気持ちは幾分理

解できたが、中小企業の経営者のようなリアルな中年男性に見えた早川が、瞑想や、麻

原のシャクティパッドに魅了されていただけで、ここまで麻原に傾倒したことにはまだ

疑問が残る。

麻原に能力があるのなら、なぜ信者が手を汚して「殺人」しなくてはならないのか、と

いう疑問は、オウムへの最大の疑問だったが、早川が尊師へ疑問をもったのは、90年

の選挙落選が最初だった。その後、サリンプラント建設計画にも無謀さを感じるものの

、絶対的帰依にヒビが入ったのは、検事から聞いた逮捕後の麻原が出されたカレーライ

スを食べてしまい自己ポアできなかったというエピソードだった。

この本で描かれている、他の多くの信者同様、邪悪な麻原の野望に騙された真面目な宗

教修行者としての早川も、オウム報道が洪水のように溢れていたころの「武闘は」「No

.2」という称号も、早川の真実に迫ったとは思えない。

     日産自動車、新車のデーターの改竄が何十年もなぜにみすごされた!

    ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 日産自動車は改竄の指摘を受けている最中に

また別の不正行為をしていたのだからあきれ返ってしまう。

燃費ガスのデーター試験のデータの改竄である。

これらが何十年もまかり通っていたのだから

社員からの内部留保もなく誠にりっぱなしゃいんさまなのでしょう?

 スバルの時もそうであるが

これだけ改竄が許された歴史の中において

政府の監査が機能していなかったことを露呈しているようなものだ!

企業はユーザーあっての収益であることを もっと自覚すべきである。

ブランドイメージより収益に走った企業戦略は破綻しかない。

 完成監査こそはその製品の安全性のチェックまで丁寧さとその高い

技術能力が求められなければならないのに

それを無資格者にやらせていたのだから大変としか言いようがあるまい。

補助監査員が点検して、完成監査員の印鑑を使用していたこと自体違反である。

もしも、ブレーキなどが効きにくい製品にOKをだしていたならどうなる?

リコールでは済まない問題ではないのか?

自動車の不正があれば、これは命にかかわる重大問題に発展する。

法令違反の認識はまるでない体質にあきれ返るばかり。

 商品性検査は、製品の傷などをチェックする機関であるが

これも完成検査員がまとめてやっていたようである。

これは仕事の効率化につながる利点でやっていたのでしょう。

 ユーザーあっての製品の信頼性こそが問われます。

未来企業戦略体質改善こそが急務です。

     産経より。

【主張】日産のデータ不正 トップに反省はあるのか

 日産自動車の完成検査で新たな不正が明らかになった。出荷前の新車に対する燃費や排ガスの測定試験で、データを書き換えるなどの改竄(かいざん)が繰り返されていた。

 同社では昨年秋、無資格の従業員が完成車を検査していた不祥事が判明したばかりである。これを受けて法令順守の徹底や再発防止を誓ったのに、つい最近まで別の不正を続けていたのである。

 企業統治など、なきに等しい異様な事態といえる。

 不正が発覚した対象車種の中には、今年上半期の販売台数が同社製小型車で48年ぶりの首位となった「ノート」も含まれる。消費者の信頼を裏切る不正が繰り返されるようでは、日産のブランドイメージの失墜は必至だろう。

 不正を根絶するため、経営陣から製造現場まで、社内全体で意識改革を徹底すべきである。

 測定する際の条件を満たしていなくても試験を有効としたり、データを書き換えたりしていた。

 日産は1170台あまりの該当車両について、排ガスの保安基準は満たしており、リコール(回収・無償修理)の必要はないと説明している。だが、果たしてそれは本当なのか。

 日産の異常さが際立つのは、昨年の無資格検査を受けて再発防止策を全社的に進めていた最中だったにもかかわらず、それと同じ検査工程でデータ改竄などが先月まで行われていたことである。

 しかも、SUBARUによる燃費検査などの不正発覚後、改めて社内で点検したところ、同じような不正が判明したのだという。あきれるばかりであり、自浄能力がないと批判されても仕方ない。

 経営陣の姿勢にも首をかしげる。不正を発表したのは製品開発担当の役員であり、西川広人社長やカルロス・ゴーン会長は姿を見せなかった。これでは到底、企業としての説明責任を果たしたとはいえない。

 SUBARUは責任を取って最高経営責任者(CEO)が交代した。日産が本当に信頼の回復を図るというのなら、経営責任も併せて明確にすべきだろう。

 一方で、国の定めた完成検査を企業がここまでないがしろにしているのはなぜか。検査自体に問題はなかったのか。政府には、そのあり方を根本から再点検し、実効性を高める責任がある。

   ではごきげんよろしゅうに・・・!

ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 オームの意味なき多くの犯罪者として

この世にあっては罪深き死刑囚としての24年もの歳月をひたすら懺悔だけの祈るような日々を過ごしてこられた「中川智久」その人は

 今日は梅雨も明け無常なる晴天です。

多くの罪を背中に億万丁度の旅に出られた。

 お母さんは「オームより救う家族」の買いでひたすら

中川その人をひたすら救いに走ったが

オームカルトの壁はあまりにも無情にも厚すぎた

 刑務所に尋ねるたびにお母さんはひたすら坂本さんご一家のお墓参りを

欠かすことはなかったとのことです。

 坂本事件が警察により坂本家で、オームのバッチが残されていたのだから

その追及に終始していたならば

後の事件は防げたはずです。

中川が落としたバッチは無言の訴えだったのかもしれない。

いやそう思いたいものです。

これは警察にも罪を重ねさせたと今でも思っています。

 オームの救済に支援されていた弁護士の坂本さんと

殺された後の痕跡までありながらこれを放置した警察の責任も問われるべきです。

警察の職務怠慢さは改めて強く指摘したいものです。

 中川さん「お母様の懐にやっと帰られました」

これからはご両親の静かな暮らしを、天空より見守り続けてくださいませ。

 獄中の時、一度刑務所にお便りさせていただいた者です。

ばあちゃんです。

     引用文です。

幼少期の回想から自らの死を見つめたものまで。裁判では罪を全面的に認め、涙を流した男の繊細さをうかがわせる作品もある。

 25年前、東京で弁護士になりたてだった私は、「坂本一家を救う会」の主催した集会で舞台に立って、坂本一家救援のための演劇に出させてもらいました。

 私は決して言えなかったけれど、坂本さんもお連れ合いも小さな赤ちゃんも帰ってこないことを知っていた。

 20年前の地下鉄サリンの時には、裁判所にちょうど行く直前の電車であの事件が起きました。事務所の先輩弁護士も危なかった。

 松本サリン事件で、オウムが狙った長野地裁の官舎には同級生一家が住んでいて、救急車で病院に運ばれました。

 オウムの末端の信者が機関銃を造ったという事件の国選弁護が弁護士会から回ってきたけれど、弁護士としては良くないことですがどうしてもやる気になれず、事務所のボス弁護士にやってもらったこともありました(作った機関銃の弾の出るところが、弾より大きくて、使い物にならない代物だったので、ボスは「危険性がない」として無罪を主張したが駄目だった)。

 以下に、地下鉄サリン事件・仮谷さん殺害事件などで死刑判決を受けた中川智正死刑囚のお母さんの記事を掲載します。

 中川死刑囚は私と同じ年。お母さんはうちのお袋と同じ年。他人事とは思えません。

 中川死刑囚がどんな悪いことをやったのか知らないけれど、彼らのやったことの結果は知っている。絶対に取り返しのつかないこと。多くの人の人生を奪い、夢を奪い、たくさんの人を傷つけ、周りの人の希望や喜びを奪った。

 子どもが悪いことをすると親の育て方が悪いとかすぐ言うけれど、子どもが親を選ばれへんように、親も子どもは選べないんですよ。

 親は自分を責めることはないと思う。でも、オウムや麻原が悪いの一言でも済ませられない。

  せめてもの願いは息子より1年でも長く生きること。死刑が執行されたら迎えに行き、「連れて帰りたい」からだ。そう語ると、突然、嗚咽した。

「骨つぼは仏壇に置いておきます。私たちが死んだら遺骨を一緒に入れてもらいたい。長男なのに、生きているときは何もしてくれなかったんだから、あの世で世話してもらおうって」

「教えを信じたまま死んでいくのだったら、つらかった。でも、昔に戻ってくれました。だから本当に覚悟しています」

 やりきれなくて、涙があふれそうになります。

死んでも償えぬ息子、執行後に迎えに行く オウム中川死刑囚の母 サリン事件20年

 オウム真理教による地下鉄サリン事件から20日で20年。事件を起こした信者の家族にとっても長い歳月だった。我が子の罪をどう受け止めているのか。事件に最も深くかかわった1人、中川智正(ともまさ)死刑囚(52)の母親が胸中を語った。

 中川死刑囚は、地下鉄サリン事件ではサリンを製造。坂本堤弁護士一家殺害など計11の事件に関与し、2011年に死刑が確定。東京拘置所に入っている。

 もうすぐ80歳の母親はいずれ「その日」が来ることを直視している。「あの子がいつ、この世からいなくなったとしても当然だと思っています。それしかありませんから、償いは。いえ、そんなことしたって償いにはなりませんけど」

 西日本のある都市に夫と暮らす。せめてもの願いは息子より1年でも長く生きること。死刑が執行されたら迎えに行き、「連れて帰りたい」からだ。そう語ると、突然、嗚咽(おえつ)した。

 「骨つぼは仏壇に置いておきます。私たちが死んだら遺骨を一緒に入れてもらいたい。長男なのに、生きているときは何もしてくれなかったんだから、あの世で世話してもらおうって」

 2カ月に1度、面会のために上京する。午前中はいつも、弁護士一家の墓がある神奈川県の寺へ。手を合わせ、ひたすらわびる。

 中川死刑囚は元医師。88年に入信し、翌年に病院を辞めて出家した。母親は「インチキに決まっているじゃない」と止めようとした。とうとう説得できなかったことを今も悔やむ。

 同時に、矛盾しているようだが「あれだけ止めてもどうにもならなかったことが、慰めになっているのかも……」。力が足りなかったんじゃない、オウムはとてつもない相手だったのだ、という自身への言い訳だ。

 中川死刑囚は裁判で罪を全面的に認め、涙を流した。母親との面会では、足が弱って上京しにくい父親の体調や、きょうだいの様子をよく尋ねる。元教団代表の松本智津夫麻原彰晃)死刑囚のことは「あれ」と呼ぶ。

「教えを信じたまま死んでいくのだったら、つらかった。でも、昔に戻ってくれました。だから本当に覚悟しています」

うちのお袋は大切にしてやりたい、と思いました。。。

2014年10月20日19時00分 朝日新聞

中川死刑囚の直筆の手紙。句は「あくまでも青で通すか五月晴」。便箋(びんせん)の角には検閲済みの印がある。

写真・図版

写真・図版

写真・図版

オウム真理教の元幹部で、地下鉄サリン事件などにかかわった中川智正(ともまさ)死刑囚(51)が獄中で俳句を作り続けている。題材は、幼少期の回想から自らの死を見つめたものまで。裁判では罪を全面的に認め、涙を流した男の繊細さをうかがわせる作品もある。

 句を掲載しているのは非売品の同人誌「ジャム・セッション」。最新号には、1月に平田信(まこと)被告の公判に出廷して尋問を受けた際の作がある。「スーツを買うよう現金を差し入れて下さった方があった」との注を添え、こう詠む。

 《先知れぬ身なれど冬服買わんとす》

山口県在住の俳人・江里(えざと)昭彦さん(64)が誘い、約2年前から2人で同人誌を始めた。江里さんは大学職員だった時、医学生で学園祭の実行委員長だった中川死刑囚と出会う。温厚な物腰が印象に残った。事件後、俳句への関心を知り、「考察と自己凝視」の場を与えたいと思った。

 20ページ前後で発行は年2回、各250部だけ。2人の俳句とエッセーがほとんどで、ほかにはゲストの俳句が載るくらいだ。これまでの5号で、中川死刑囚は計90句を発表している。

オウム真理教から派生した団体は今も活発に動いており、社会の反発も根強い。江里さんも「オウムはまだ進行形の事件」と受け止め、表現活動の支援にジレンマがあると話す。そのため配布先は面識のある俳人や、脱会者を支援してきた団体などに絞っている。

 《金正日死すとのラジオ 身の整理》

 これは2011年冬の作。同人誌のエッセーによると、死刑確定者になることを拘置所内で言い渡された際、「腹に力を入れて」と告げられた。「言い渡しで失神したり取り乱したりする者もあったと聞いたことがあります。私は『大丈夫です』と答えました」。別の部屋に移されて荷物の整理をしていると、独裁者の死を伝える放送が流れた。

 内省的な句と対照的なのが、屈託のない少年時代を振り返ったものだ。

 《川遊び雑魚を手捕りの母と知る》

 《島の夜や 子(こ)河童(がっぱ)口あく大(おお)銀河》

 そんな少年はのちに医学生になると、障害者支援のボランティアをした。そのころを詠んだ句は、水路に落ちた螢(ほたる)に思わず手を差し伸べた様子を描いている。

 《流さるる螢掬(すく)えば掌(て)に光り》

 公判中に「生まれてこなければよかった」「私は人間失格。すべてを関係者におわびします」と述べた男はいま、自らの死をどう意識しているのだろうか。

 《消えて光る素粒子のごとくあればよし》(磯村健太郎

■青少年期は澄み 事件後に硬さも

 俳人金子兜太さんの話 「オウム」という先入観抜きで、これらの句を純粋に一人の人間の作品として読みました。青少年期を詠んだ句は澄み、柔軟な感性さえ感じます。「子河童口あく」なんて、なかなか書けません。螢を詠んだ句もプロに近い出来栄えです。それに比べ、事件後の自分を詠んだ句は硬い。動揺を見せまいとする覚悟のようなものが感じられますね。

 デリケートな感受性が何らかの入信のきっかけをつくった。だからこそ、入信後はかえって「強固な意志を持つ人格」になったのだろうか――。そんなことを句から読み取りました。

     ◇

 〈中川智正死刑囚〉 元医師。オウム真理教元代表松本智津夫麻原彰晃)死刑囚の元側近。大学卒業後、1988年に入信。89年の坂本堤弁護士一家殺害事件や95年の地下鉄サリン事件など11の事件に関与した。

傍聴ライターが見た「最後のオウム裁判」ーー猛毒「VX」の隠語は「神通力」だった

傍聴ライターはオウム裁判をどう見たか 2015年02月18日 10時01分 弁護士ドットコム

オウム真理教の元信徒・高橋克也被告人(56)の公判が現在、東京地裁で開かれている。1995年3月に東京で発生した地下鉄サリン事件など、4つの事件の容疑者として指名手配されながら、17年間にわたり逃亡生活を続けていた高橋被告人。教団幹部の多くの判決が確定するなか、「最後のオウム裁判」とも呼ばれている。

高橋被告人は1月16日に開かれた初公判で、地下鉄サリン事件について「まかれたものがサリンだとは知らなかった」と無罪を主張、他の3事件についても共謀を否認したほか、一部は無罪を主張している。死刑囚が証人として出廷するということで、独特の雰囲気を醸しだしているこの裁判を「傍聴ライター」が取材した。(ライター/高橋ユキ

●オウム裁判のハンパなく厳しい警備

この裁判は、4つの事件を順に審理していくことが決められており、当時の幹部や信徒で現在確定死刑囚となっている者たちも多数、証人出廷することになっている。1月21日には猛毒の薬剤、VXによる複数の事件の審理が行われ、井上嘉浩死刑囚(45)が証人出廷した。その翌日も同事件の審理で、中川智正死刑囚(52)が証人としてやってきた。

オウム真理教がかつて「ハルマゲドン」を実現させようとした危険な団体だったことから、裁判所の警備はハンパない。普段は総務省側の出入り口と、その反対の日比谷公園側の出入り口からも出入りができるのに、オウム公判、それも事件に関わった確定死刑囚が証人出廷するときだけは、日比谷公園側の出入り口が閉鎖されてしまう。オウム公判に確定死刑囚が出廷するかどうかは、裏側の入口を見れば分かるという状態だ。

警備法廷となっている104号法廷の前では、その警備っぷりもすごい。一般的に警備法廷になると、手荷物預かりのほか金属探知器によるボディチェックがあるが、オウム裁判はそれだけでなく、持ち込む荷物の検査、さらにはボディタッチによる身体検査も行われる。ポケットティッシュはまじまじと見つめられ、ノートもパラパラとめくらされて、怪しいものが挟まっていないかじっくりチェックされる。

しかも気になるのは、法廷外のエレベーターホール近くに、スーツだったりジャンパーだったりを着たオッサンから若者までの男たちが大勢立っていて、104号法廷に出入りする傍聴人をじっと見ているのである。どうやら、公判が開かれる日はいつも、ずっとそこに立っているようだ。このオッサンたちが正直、裁判所で一番怪しい。気になってじっと見つめると、何やらひそひそ話を始める。とっても感じが悪いのだ。

●頬が痩せこけて、影ができていた高橋被告人

このように裁判所や警察関係者とおぼしき者たちの気合いがみてとれる裁判なのだが、意外と傍聴希望者は少ない。死刑囚が出廷するときですら倍率が2倍にいかないときがあり、死刑囚が来ない日は定員割れにもなる。もうすでに、世間からは忘れ去られた事件であることを痛感するし、裁判所や警察関係者とおぼしき者たちの十分すぎる気合いがなんだか物悲しくなる。

さて、死刑囚が証人として出廷した場合、このオウム裁判では、法廷内がえらいことになる。傍聴席とそれ以外を区切る柵のようなもの(「バー」と呼ぶらしい)に沿って、特注といわれる防弾ガラスが端から端まで並べられ、その向こうにさらに、パーティション。その奥に、死刑囚が座るという仕組みだ。

青い制服と帽子を身につけた屈強な男性たちが7?8人横に並び、防弾ガラスとパーティションの間に座る。傍聴人から、死刑囚はまったく見えないうえに、パーティションがあるため、裁判そのものもほとんど見えない。

そんな中、弁護人の横にスーツを着て座る高橋被告人は、逮捕当時より明らかに頬がこけて、痩せている。頬がこけすぎて、漫画のような影ができている。メガネをかけ、頭は7:3分けで、見た目の印象だととても神経質そう。開廷前や閉廷後、決して傍聴席を見ずに前を向いたままで、たくさん瞬きをしていた。

一方、井上死刑囚は、法廷が先に述べたような状態のため、その声だけしか聞こえないのだが、饒舌で感情を荒げることもほとんどなく、「正確に言います!」と何度も前置きしながら、話をしていた。印象としては、事前に調書に目を通して臨んだとしても、20年ほど前の出来事をよくここまで覚えているなぁという感じである。

●「ポア」の意味を正確に理解していなかった?

1月21日に出廷した井上死刑囚によれば、教団内では当時、VXを手作りしていて、それを指す隠語は「神通力」だったとのこと。そして、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(59)に呼ばれた際、こう言われたという。

「元サマナのAが悪業を積んでいる。Mの庇護のもと、教団に裁判を起こしている。VXをMにひっかけてポアしろ」

また、別の被害者にVXを“ひっかける”計画を実行する際、その被害者が柔道をやっていたことから、実行犯らの間でやり取りしていた無線内における実行の合言葉を「黒帯」と決めていたそうだ。だが、いざ実行する段になると「私が『黒帯』と言うところを『黒ベルト』と間違って連絡してしまった」と、うっかりな面も披露していた。

犯行後に新実智光死刑囚(50)から「黒ベルトって言うから警察が来たのかと思った。私のほうでも確認できたから、実行犯に指示できたが・・・」と苦言を呈されてしまったそうだ。井上死刑囚はかつて教団内でCHS(諜報省)という部署のトップで、こうした非合法活動に従事していたというが、実行の現場はバタバタであったようだ。麻原の“ひっかける”という言葉のセンスもなんだかすごい。

翌22日に出廷した中川智正死刑囚は元医師で、この事件にもVXの準備役や、実行犯がVXで中毒症状を起こしたときのための治療役として関わっていた。高橋被告人は、VX関連の事件について否認している。前日もそうであったが、弁護側からは、教団の使っていた「ポア」という言葉の認識についての質問が長時間続いた。

オウム真理教の「ポア」といえば、当時ニュースをリアルタイムで見ていた世代にとっては、「殺人」と同義であるというおぼろげな認識があるだろう。だが、中川や井上が語ったところによれば、もともとは「死者の魂をより高いステージにあげること。これはグルしかできないこと」という意味だったのだという。弁護側は、高橋被告人が当時はこの「ポア」の意味を「殺人」のことだと理解していなかったのではないか、と証明したいようだった。

(弁護士ドットコムニュース)

    災害処方箋の作成と初期対応こそが急務!!

           ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 7月5日の豪雨はある程度気象庁がよげんしていたこともたしか!

この情報は知識としてはあったことは確かである。

だけれど東北の大震災以降、情報が過度に伝えられるようになっていたことも

一般車として「またか」もあったことでその注意力は半減していたことも確かである。

気象庁の情報に全面対応することにはむりもあろう?

河川の決壊の被害はあっという間の出来事になる。

今回の被害も深夜の出来事となった。

深夜の豪雨の中の避難も危険といえば危険となる。

 また避難場所も夕方に変動がありこれから

あわてたひともすくなくはない!

 この災害の反省として挙げられるとすれば河川の情報である。

これが身近な指標としてだれもが認識する値となるはずです。

土砂崩れは随時情報はある程度流れていたように思います。

 山を背負っている人の豪雨は

早めの対応は必須ともいえます。

この異常気象にこれからは着目しなければと覚悟も新たです。

岡山における死者の多くは、小田川の決壊によるものです。

避難情報でこの河川情報が加えられていたことで

人的被害ふせげたこともたしか!!

 この不快指数の高さと、不衛生な中、気温の上昇と

悪条件を 押してボランティアの提供は

本当に感謝の何物でもありません。

この度は物資の提供を望まないところも多くなっています。

これの意味合いはよく理解できます。

秋冬物であったり外出着は今の段階では不要です。

いますぐに着れる普段着が何より!

 現地ではこの種分けボランティアがありません。

近隣者で間に合うことで対応できるのだろうと感じています。

今はとにかく着替えがほしいとのことです。

お風呂の提供は、民間で対応くださるそうです。

水道が止まっているため大変であろうと思っています。

またじえいたいをはじめしょうぼうだんとして、連日人命救助いただいてる皆様には

心よりありがとうとの思いでいっぱいです。

 物資は、お金でいるだけの調達を考えているようなので

みこちゃんも、今年の食費を削って

わずかな募金ができたならと思っています。

今日さっそく関東方面から駆けつけていただいたようです。

 ボランティアの方々は手弁当に加え、作業用グッズまでの持参に

国レベルのぼらんてぁ対応もお願いしたいものです。

これは寄付金の中からでも都合がつけばありがたいです。

近隣の中学、高校生と協力できる近隣者の積極的な対応がお願いできればと思います。

岡山の積極的なぼらんてぁの参加もうれしいものです。

この悪条件の中での遠隔地ボランティアには

本当に最敬礼です。

言葉に尽くせない官舎でいっぱいでございます。

本当にありがとうございます。

      東京新聞より。

西日本豪雨 異常気象時代に備える (7月10日)

 過去に経験したことのないような豪雨。死者が百人を超えた。早くから警告は出されていた。何が欠けていたのかを考え、次への備えを始めたい。

 始まりは先週木曜日の五日だった。気象庁は、西日本と東日本で「記録的な大雨になるおそれがある」とし、土砂災害や低い土地の浸水、河川の増水・氾濫に警戒を呼び掛けた。六日夕には、福岡県などに特別警報を出した。

 特別警報は「数十年に一度の大雨」。長崎県から岐阜県まで十一府県に出され、新聞やテレビは「いつもと違う」と解説した。自治体は避難勧告や避難指示を出して住民に安全の確保を求めた。

◆経験が生きた

 関係者が情報を早く、分かりやすく伝えようとしたのは間違いない。過去の経験が生かされた面もある。それでも、犠牲者が百人を超えたのは島根県などで死者百十二人を記録した、昭和五十八年七月豪雨(一九八三年)以来だ。

 犠牲者を出さないためにできることは何か。岡山県倉敷市を例に考えたい。

 堤防が決壊した倉敷市真備地区は、約三割が浸水した。同地区にある三階建ての老人ホーム「シルバーマンションひまわり」には近くの系列施設の利用者や近隣の住民らが避難した。老人ホームは二階まで浸水したが、入居者十七人を含む約百五十人は難を逃れた。老人ホームに勤める女性は「最近やった避難訓練が役立った」と話しているという。

 うまくいった理由の一つは、避難を開始した時点ではまだ、車が道路を走行できる状態で、浸水も始まっていなかったからだ。

 二〇一六年八月、台風10号による豪雨で、岩手県グループホームで入居者九人が犠牲になった。「避難準備情報」が午前中に出ていた。隣には三階建ての高齢者施設があったが、避難に結び付かなかった。悲劇が繰り返されなかったのは幸いだった。

 同じように住民を救ったのが、泥海の中に立っていた、民間のまび記念病院だ。周囲でもっとも高い、大きな建物だった。多くの住民が指定の避難場所ではなく、病院に避難し、無事に救出された。住民の判断は正しかったのだ。

 避難所は安全な場所で、しっかりとした建物であることが理想である。公的な施設だけでは限界がある。民間の施設も利用する、という発想が望まれる。そのためには、災害が起きる前に行政と民間の間で、役割分担などを話し合う必要がある。南海トラフ地震対策では、すでに多くの自治体が企業やマンションの管理組合に協力を求めている。

◆復旧を急ごう

 九日、被災地では梅雨明け宣言が出た。復旧、復興にとりかかろう。災害後の対応も被害軽減につながる。

 まず大事なのは、避難をしている人たちの健康管理である。水害を生き延びたのである。暑い日が続きそうだが、体調を崩さないようにしてほしい。最近の災害では、災害後に体調を崩す人が少なくなく、統計を見ると、関連死とされる人がかなりいる。

 急いでほしいのはライフラインや交通網の復旧である。救助活動と同じように、各地から専門の事業者が応援に入るだろう。現場によっては危険が伴う場所もある。安全第一でお願いしたい。

 被災地では食料だけでなく、さまざまな物資が不足する。後片付けなどでボランティアも必要になる。インターネットの寄付金サイトで多くの人が寄付をしている。

 しかし、大規模災害では善意の行動が被災地のニーズと合わないことも起きる。被災地の自治体など、確かな情報源にあたって、支援できることをやっていこう。

 災害直後の支援物資は、同じ品物が入っていて、ひと目で内容がわかるものが便利だ。非常用の備蓄を持っている、被災地以外にある企業は、備蓄の放出を検討してはどうだろうか。

 被災地域の広さは震災に匹敵する。首相は外遊を取りやめて災害対応にあたるという。ぜひ、この国難に対応してほしい。

 落ち着いたら、早くから警告が発せられたのに、なぜ、多くの犠牲者を出すことになったのか。その原因を究明する必要がある。

◆天災の国防策

 日本列島は自然災害が多いが、今回はこれまでに経験したことがないような豪雨災害だ。「異常気象の時代」が始まったと考えた方がよさそうだ。

 寺田寅彦は八十年以上も前に「国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は熱心に研究されているであろうが、大天災に対する国防策は、はなはだ心もとないありさまである」と「天災と国防」(一九三四年)に書いた。寺田の警告は今も生きている。

     オーム死刑執行者【新見智光】

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 オーム死刑執行者  新見智光

 オーム事件の死刑囚の中でも、マインドコントロールから目覚め切れていない

人物ともいえるのかもしれません。

 それぞれの人生観は多岐にわたります。

家族背景にも、問題もなく経済的にも不安要因の少ない人が青春期から、宗教に目覚め

るなんてどうしたことでしょう。

オカルトにも興味を寄せ、入信するも

思う宗教心とは異なるところから奪回し

しばらくは宗教から離れるが大学三年の時また宗教を友に進められ

入信するがそれも奪回。

 新見の神のレベルは同等といった考えに固執

オームに入信し、松本を教祖とあがめるようになり

神のもと、犯罪さえも神の教えとばかり

迷うことなくオームの主要犯となっていく

 新見が犯罪の罪をそのまま罪として受け入れているかどうかは

甚だ疑問としか言えない。

 サリン被害者で今なお毎日生き絶え絶えにお暮らしのお方のことが少しでも思いがめ

ぐらすことの日のできる日を ひたすら待ちたいものです。

罪深さを受け入れられる中での死刑が求められます。。

 死刑は執行はされましたが、多くの罪悪の認識度はどうであったのだろうか?

   今は亡き新見の単価です。

人は皆 時の定まぬ 死刑囚 会って別れて 夢と消えゆく

雨が降り 天が泣くのか 水無月に 大地うるおす 慈悲の甘露

歌には不思議な魔力を感じております。

39年)資源回収業の両親の元に愛知県岡崎市にて生まれる[2]。

少年期、青年期[編集]

岡崎市内の小学校、中学校、愛知県立の高校を卒業。高校時代よりオカルト雑誌を愛読

。複数の新興宗教に通う[2]。学生時代は、その風貌から「空海」というあだ名をつけら

れたこともある。友人に恵まれ学生生活を楽しむが、生まれつきあった口唇の傷(口唇口

蓋裂)に苦しみ、いじめに遭う[3]。さらに高校生時代に地元の東岡崎駅で目撃した2度の

自殺事故に衝撃を受け[4]、「死とは何か」を考え精神世界に興味をもつようになり、多

くの宗教団体に入信する。麻原の言う「苦を感じなければ修行の道に入らない」との鉄

則を高校時代から感じていた。

高校時代に、傷や病気が治ると信じ、ある宗教団体に入信するが、教義は「入信しない

者の魂は、神の意思によって滅ぼされる」というものであった。新実は、そこには何ら

神の愛はない、単なる神のエゴイズムに過ぎぬと感じ脱会する。これは新実にとって、

最初の宗教への挫折となる。

読書に打ち込んだり、仙道的なことや瞑想を行うが次第に宗教から遠ざかり、空手など

肉体的鍛錬に興味が移る[5]。

大学時代・オウムとの出会い[編集]

その後、愛知学院大学に入学。友人の勧めで大学時代の終わりに、再び別の宗教団体に

入信するものの、同様に「よいことをしない魂は滅びる」との教義に「存在というもの

は、この神々の将棋の駒に過ぎないのか、いつでもその神々の意思によってなくなるの

だろうか」との思いをいだく。しかし、新実は「私は決してそうではない、私たちには

本当の力があるはずだ、神と同じレベルの魂が内在するはずだ」と感じるに至る。この

ため、神が持つとされる霊力を自分自身も持ちたいと考えるようになる。

このときにオカルト雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』などで麻原彰晃の空中浮揚

の記事が目にとまり[2]、ヒヒイロカネのプレゼントに応募したことがきっかけで、大学

卒業間近の1986年正月、オウムの前身「オウム神仙の会」のセミナーに参加し、すぐに

入会し会員となるが、その際に送られてきた運命鑑定書には、新実が自分では認めたく

ない隠していた内面が書かれていた。シャクティーパットとこの運命鑑定書により、一

気に傾倒を深め行法を続けると赤と青の光が見えるようになり、著しい精神的変化が起

こった。

神秘体験[編集]

麻原彰晃に惹かれたのは、他の宗教の多くが「神の啓示を受けた」とするものが多いの

に比し、麻原は自分自身で修行をし苦難を乗り越えた「どこにでもいるような人」であ

ったからだという。最初のセミナーで、新実はその雰囲気が自分自身が求めていたもの

と直感する。そこでバイブレーションに浸りながら修行することで身体の浄化作用を実

体験し、宿便が出たり、体調の回復を実感する。この神秘体験によって、深く麻原に帰

依するに至る。当初は半信半疑であったもののその考えは180度転換する。

シャクティーパットにより、アストラル体の浮遊を感得し、体が痺れ多大な至福感を覚

える。このときに「麻原に一生付いていくほかない」と確信する。このときの体感を「

生死を越える」に詳しく書いている。麻原に礼を言い、道場へ行くと、突然肉体のクン

ダリニーが昇り、シャクティー・チャクラーが起こる。ムーラ・バンダ、ウディヤーナ

・バンダが起こり、その後背中の方が盛り上がり、首のところでジャーランダラ・バン

ダが起こり、頭の方へすっと抜けた感じがした。これが精神集中やマントラを唱えるだ

けで自分自身で抑えられないほどに、すぐに起こるようになる。新実自身によれば「こ

の霊的な変化が本当に自分の内面で起こったことをきっかけとして、やっと信に目覚め

させてもらった」という。

卒業後は地元の食品会社マルサンアイに就職し営業担当となるが、その後、勤務先でも

上司の信頼を得、新入社員の代表にもなることができ業務成績も優秀で、会社始まって

以来のもっとも優秀な新入社員とまで評価されるようになった[5]。

しかし、その後心が現実生活に向かったため「魔境」に陥り二度も自動車事故を起こし

た。1987年5月のゴールデンウィークの前頃から事故のヴィジョンが見え始める。通常な

ら事故のヴィジョンは否定するが、新実は事故を実際に起こせばどうなるかという気持

ちが沸き起こり、時速120㎞で田んぼに突っ込んだことがあった。麻原のシャクティーパ

ットや霊的な体験によって守られているという自信があったため、死なない確信があっ

た。普通なら否定すべき誘惑に引っかかったと感じ、後にそれを「魔境」で「暴力のカ

ルマ」だったと受け取った。5月に新実は「魔境へ入り込んだ」と信じ込み、会社を半年

で退職。

出家後[編集]

ミラレパ[編集]

1987年9月にセミナーでサンガ(出家制度)が結成されたことを知り、即出家を決意。五

体投地や麻原の手伝いを行う。サンガで麻原の元で修行を積み、11月には魔境から出た

と感じた。先の「暴力のカルマ」は「女性に対してのカルマ」に変化していったと感じ

る。当時の容貌を「強姦魔」のようだったと感じ、潜在意識が表層意識に現れ、心に落

ち着きがなくなったと感じていた。その後、オウム内での本の営業のワークに集中する

ことで魔境から脱したという[5]。

新実はシッディの経験が豊富で、光が見えたり、変化身が抜け出したり、過去世を思い

だすなどの経験があった。空中浮揚の前段階といわれるダルドリー・シッディがツァン

ダリーのセミナー頃から起こりはじめ激しいクンダリニーの突き上げがあった。頭が空

白になり跳んでいる間も意識がない状態を経験するが、それをきっかけにグル・ヨーガ

、ツァンダリーの瞑想を始めサハスラーラに精神集中するだけでぴょんぴょん跳ねだす

ようになる。この時は寝てもたっても跳ね回っていたため、麻原がヒヒイロカネをバケ

ツ一杯持たせたが、それでも飛び跳ねていた。

その後、15日間にわたる独房修行にて三昧境に入り黄色い光に包まれ、意思のヨーガー

であるラージャ・ヨーガの成就者ラトナサンバヴァと同一化して黄色の化身となり、光

の中に没入した状態となり、それを「無ではなく空」の状態と感じ例えようのない至福

感を味わう。その瞑想の最中に麻原からの電話で成就したことを告げられる。この新実

の成就に関して麻原は「最後のエネルギーの固定はまだまだだが、成就と判断したのは

六神通の中で過去世をかなり見た、ダルドリー・シッディが早くから起きている、グル

を意識すると快感状態になるという条件を満たしている」とコメントした[5]。

また、前世に並々ならぬ興味を持っており、他の信者とも前世を話題にすることが多か

った。麻原の4女の松本聡香(ペンネーム)を追い回しては「さとちゃんはどこから来た

の」と聞いていたが、聡香が1度だけチベット密教カギュ派の僧侶の名前を思いつきで

答えたところ、逮捕されたあとに面会に来た信者に伝え広めた[6]。

1987年12月3日、24歳のときにオウム真理教内の独房に2週間こもり、クンダリニー・ヨ

ーガを成就したと麻原彰晃に認定され、大師のステージとミラレパのホーリーネームを

授けられる。

日本語のわかるドーベルマン[編集]

1989年、麻原の指示により男性信者殺害事件に関与。男性信者を羽交い絞めにした末に

ロープで絞殺する手筈であったが男性信者の抵抗に遭い、慌てた末に男性信者の首の骨

を折って殺害してしまう。続いて坂本堤弁護士一家殺害事件の実行役に指名され、坂本

家に侵入し、坂本の妻(当時29歳)らを絞殺。

当初男性信者殺害事件では犯行後、茫然自失に陥り、後悔の念をあげたりしていた。坂

本弁護士一家殺害事件の際にも精神的に不安定になり、山に死体を埋めにいった時には

、新潟の海岸でひとり呆然としていたという[7]。だが中川智正や端本悟とそれぞれ5日

間独房に監禁されたり、麻原から与えられた「悪業によって地獄に至っても本望だ」な

どという詞章を数万回唱えるなどして洗脳され[8][9]、その後、数年間教団の信者の指

導、監督、スパイ、拷問などを担当、苦しませるのを楽しんでいるような雰囲気すら持

つようになっていった[10]。男性信者殺害事件、坂本弁護士事件の共犯者である宮前一

明によれば、「村井と同じくらいかわいがられていた。日本語の解るドーベルマン」[11

]。

1990年2月、衆議院議員選挙に真理党候補として東京10区から出馬し落選した。選挙の敗

北により麻原は大規模テロを指示。新実もボツリヌス菌テロ計画に関与し、北海道で土

壌を採取したり、実験用マウスを購入するなどして協力。浄水場付近に散布していた際

に警察に検挙されたこともあった[8]。

1990年7月8日、26歳のときにマハー・ムドラーの成就を認定され、正悟師となる。

1992年9月教団のロシア進出に伴い、オウム真理教モスクワ支部の初代支部長を務めなが

ら頻繁に日本との間を往復する[12]。

最も血なまぐさい男[編集]

新実はその後も殆どのオウム事件に関与することとなる。

教団内では信者の監督・監視を行い、省庁制施行後は自治省大臣となっている。薬剤師

リンチ殺人事件に関与したほか、オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件では凄惨な

拷問を主導、温熱療法関連事件では 教団内で禁止されている男女交際をした教団元仙台

支部長に温熱修行を強要し死亡させる(事故として処理され立件されず)[13]、温熱療

法に疑問をもって教団を出た看護師を拉致するなど、残忍な犯行を繰り返しており、裁

判を傍聴し続けた降幡賢一は新実を「最も血なまぐさい男」と評した[14]。一方で男性

信者リンチ殺人事件で麻原に指示されたマイクロウェーブ焼却炉での殺害を避けたり、

男性信者殺害事件の被害者が地獄ではなくシロクマに転生したことを聞いて安堵したり

、松本サリン事件で共犯者に対して犯行前に意志の確認を行ったりするなどと人間味も

見せていた。ステージの低い信者に対しても礼儀正しかった[15]。

毒ガス関係の事件にも1993年の池田大作サリン襲撃未遂事件をはじめとして多く関わっ

た。池田サリン事件では第2次攻撃で防毒マスクを外したせいでサリンを大量に吸引し重

体に陥りオウム真理教附属医院に搬送され、治療の結果一命を取り留めた。江川紹子

スゲン襲撃事件、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件でも実行犯の一人。松本

サリン事件では警備役、地下鉄サリン事件では千代田線でサリンを散布した林郁夫の送

迎役であった。地下鉄サリン事件では人が倒れているのをテレビで見て「グルの意思を

達成できて嬉しかった[16]」という。逮捕後、大乗のヨーガの成就を認定され正大師に

昇格。

裁判[編集]

1995年4月12日、霞ヶ関のマンションで逮捕される[17]。取調官には「自分を尊師と一緒

日比谷公園公開処刑してほしい」と言ったとされる[18]。

一連のオウム真理教事件で計11件で26人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われた

。死者26人は麻原彰晃の27人に次ぐ死者数である。なお公証人役場事務長逮捕監禁致死

事件については被害者の死亡には関与しておらず、新実の被害者への死亡への関与が認

定されなかったのはこの事件のみである。

法廷では、「尊師と一緒に断罪されたい」「ポアは慈悲の心による救済」と麻原崇拝と

オウムの思想を捨てることなく、最後まで事件の正当性を主張し、「私自身は、千年王

国、弥勒の世のためには、捨て石でも、捨て駒でも、地獄へ至ろうと決意したのです。

つまり、多くの人の喜びのために、多くの人の救済のために、この身体、この生命を投

げ捨てて殉じようと覚悟したのです[19]」と語り、「日本シャンバラ化計画(オウム真

理教の国家転覆計画)が実現させられず申し訳ない」と別の意味での謝罪を行った。贖

罪としては死刑となり、来世において真理勝者になることしかないとした[20]。また、

内乱罪の適用を主張した[17]。

麻原の裁判に証人として出廷した際には麻原を守るためか黙秘することもあったが、自

分の裁判では「オウムの正史を残すため」として、事件の全貌を率直かつ正確に答えた

。やがて麻原の裁判でも、尊師は悟っておられるから問題ないはずとして事件の内容を

語り始めた。麻原に帰依している者が事件の詳細を語ったことは、結果的にオウム犯罪

の大きな証左となった。麻原は新実に「消えろ」「破門だ」などと怒鳴り証言妨害をし

ようとする場面もあった[21]。

第一審・控訴審と死刑判決を受け、上告したが2010年1月19日に棄却。2月16日に判決に

対する最高裁への訂正申し立ても棄却され死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が

確定するのは10人目[22]。

被害者に対しては、「オウムの犯罪の原点とされる富士山総本部のリンチ殺人事件から

最後に関わった地下鉄サリン事件まで、すみませんとか申し訳ないとか言うつもりはあ

りません。それを言うくらいなら、最初からしなければいいのです[23]」、「全ては因

果応報。罪の無い人達が亡くなったのではなく何らかの原因がある[24]」と、決して最

後まで謝罪しなかった。論告求刑公判では検察側が論告を読み上げるのを声をあげて笑

っていた[25]。

獄中からも、信者たちへ教義の指導を続けていた。2006年7月から2007年4月までの1年間

文通をしていた麻原の四女松本聡香から「責任も取れないのに、そんなことをするのは

よくないのではないか」と疑問を呈される。四女との面会の際に新実が「すべてはシヴ

ァ神の意思なのですよ」というのに対し、四女が激しく反発したところ、「責めないで

ほしい、責めるならやり取りはやめる」と言い、それ以降二人の交流はなくなる。

結婚・妻の不倫[編集]

2012年、アレフ信者の女性と結婚。2016年、結婚直後の妻の以前の不倫相手男性2名に対

し、「著しい精神的苦痛を被った」としてそれぞれに100万円の損害賠償請求訴訟を起こ

す。裁判記録によれば、「原告にとって妻との交流は生きがいであり、人格的生存に直

結することであった。その妻に不貞されたことは、多大な精神的苦痛を与えるものであ

った」ことや不倫発覚後、急激にやつれ体重が10㎏以上も減って戻らなくなったこと、

妻を信じていただけにその苦痛は他人には到底わからない。妻を孤独にさせたのは自分

の責任ではあるが、そこに付け込んで単に性欲のはけ口に妻を悪用された私の身にもな

ってほしい、などという陳述書が添付されていた。裁判では不倫は認定され、新実が出

廷できず提訴取り下げ処置となった1件は別にして、他の1件では和解が成立。被告は80

万円を支払った[26]。

公安関係者の話によれば、新実の妻は貞操観念が緩い女であり、そのことをネタにアレ

フに男性を勧誘したとして2013年に逮捕され、翌年には有罪判決を受ける。このため、

獄中の新実の知るところとなり、上述の結果を招いた。その後、妻はアレフを脱退。妻

によれば新実は、訴えたいという気持ちと恥ずかしい、みっともないという気持ちのは

ざまで揺れていたが、3年の時効が近づいたため提訴に踏み切った。和解金は支援団体に

寄付したという[26]。

新実と妻はその後「愛の交換日記」などと書かれた週2回の手紙を欠かさない。独房では

瞑想とヨガ三昧で、修行のため食事も1日1回に制限しているという。また、死刑執行後

は「ガンジス川に遺骨を流してほしい」と関東連合石元太一に依頼したという。民事

訴訟したうちの一人については、刑事告訴でも訴える構えで準備を行っているという[26

]。

死刑確定後[編集]

2015年、高橋克也の裁判に証人として出廷した。麻原への帰依は変わっていなかった[16

]。

2018年(平成30年)3月14日までは、新実を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が

、東京拘置所に収監されていた[27][28][29][30]。しかし、2018年1月、高橋克也の無期

懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した[27][30]。

オウム裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について

、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島

拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた[27][28][29][30][31]。新実は同日付で、井

上嘉浩とともに、大阪拘置所に移送された[31]。

2018年現在、安田好弘弁護士を担当に再審請求中である[32]。

人は皆 時の定まぬ 死刑囚 会って別れて 夢と消えゆく

雨が降り 天が泣くのか 水無月に 大地うるおす 慈悲の甘露

??死刑判決を受けて発表した短歌二首[33]

7月6日に刑が執行された麻原彰晃松本智津夫)死刑囚の四女が、死刑を受けて、弁護

士に自分の思いを綴ったコメントを送っていたことが明らかになった。

長くオウム真理教の被害者支援などに携わり、四女の代理人でもある滝本太郎弁護士が

、6日午後、自身のブログとFacebookに、「ご本人にコメント出しますか、と電話で聞い

て、少し考えてメールで送られてきたものです。このままアップして良いとのこと」と

いう追記とともに、次の文章を公開した。

私の実父松本智津夫が多大な迷惑をおかけした被害者の方、ご遺族の方、信者のご家族

、元信者の方、刑務官の方、そして世間の皆さまに改めて深くお詫び申し上げます。

死刑が執行されたことにより被害者の方、ご遺族の方が少しでも心安らかな日々を取り

戻せることを心より祈っております。

松本死刑囚は一度の死刑では足りないほどの罪を重ねましたが、彼を知る人間の一人と

して今はその死を悼みたいと思います。

執行はされるべきものでしたが、ただひとつとても残念に思うのはかつての弟子であっ

た元幹部まで6人も執行されたことです。宗教的な理由においても、責任の重さにおいて

も、今日の執行は教祖一人でないといけなかったと思います。洗脳されて事件に関与し

てしまった元幹部の執行の是非はもっと議論され熟慮のうえでないと社会に課題を残し

てしまうのではないかと心配です。

まだ信仰を続けている信者には、これ以上松本死刑囚の罪を増やさないようにどうか後

追いなどしないで、早く夢から覚めてほしいと願っています。

■四女「今も昔も父親とは思えない」

四女は2010年、「松本聡香」の筆名で「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか

」を出版。2017年11月、父母に対する推定相続人の廃除を横浜家裁に申し立て、認めら

れたことを会見で明らかにしていた。親から子ではなく、子から親に対して申し立て、

また認められるケースは非常に異例。

このときの会見の冒頭では、次のように語っていた。

=======

2006年1月より家族の元を離れ、2007年秋ごろ信仰とも完全に訣別し、それからは社会で

生きてきました。

事件が起きて教団の信者や幹部が逮捕されたのは、私が5歳から6歳のころでした。

2〜3歳のころから窓のない一人部屋で生活していました。

弟が生まれると、母の部屋に行っても「ここにはあなたの居場所はない」と追い出され

たのです。

父親のことは、私は今も昔もほとんど父親とは思えません。私が生まれたとき父は「グ

ル」であり「教祖」でした。私は一度も「お父さん」と呼んだことはありません。最初

から「尊師」でした。

破片入りのオムレツを食べさせられたり、真冬に薄着で何時間も立たされるなど父の命

令で死にそうになったことがあります。

今の日本では親子の縁をなくす制度がないので、現行法で出来ることはしましたが、生

きていくにはまだ障害が残っています。戸籍で家族が繋がっていることと、親の記載が

あることです。結婚や出産などができません。気持ちの問題もありますが、現実の問題

でもあります。