心の人間学!

 ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 身体とともに心のバランスも大切なこと「♪」

 日月火水木金土の考え方はちゅうごくからのでんらいなのでしょうか?

 家に若いご夫婦が訪ねてきて宗教のおすすめをいただくことは

よくありますが、あまりお聞きすることなく雑誌の購入だけでお引き取りいただくことはよくあります。

 みこばあちゃんは無神論者です。

決して精神が清く強いとも思えませんが

捨て鉢的な考え方かもしれませんが

もう深く考えあぐねることはよそう!

ロダン】だってびっくり仰天!!これがわが身の一番の特効薬!

ぼんやりぼやぼやしているだけで、体力は落ち

ろくなことは起きません。

とにかく時間を埋める作業だけは大切にしています。

時々にできる喜びを感謝に変えて

災害国日本のためにも、できうる協力だけは

やりたいものです。

 この度もわが近所の町全体が、すっぽり飲み込まれ

どれだけの死者が出るのか皆無ともいわれています。

日が追うごとに死者は増えるばかりです。

 せいふ対応は24時間であってほしいものです。

 命の救出は時間との戦いでもあります。

1時間の対応の遅れは、「昨日まで話が出来ていたのに」に

今日はその命はもうありません。

水に飲みこまれたのです。

これも運命と受け取りは致しております。

     東洋経済より

     

がんドクトルの人間学 「心の栄養 七曜訓」の勧め=山口建(県立静岡がんセンター総長) (2018/07/08)

 健康な身体を鍛えるには、さまざまな栄養素が必要です。それと同じように、豊かな心を維持するにも、心に栄養を与えねばなりません。しかし、心の栄養素の実態は明確ではありません。そこで、科学的根拠には乏しいが、日ごろ、私が実践していることを紹介します。

   

 健康に恵まれ、家族や友人と楽しい時間を過ごし、旅に出て自然や歴史に触れ、あるいは自らの趣味を探求する。そのような暮らしは、心に多くの栄養を与えます。

 ただ、超高齢社会になると、1人暮らし、あるいは老老介護といった状況が避けられないこともあります。また、さまざまな病気で療養生活を送らざるを得ず、孤独な精神状態に耐えねばならない人も増えてきます。

 そこで、独りでも心に栄養を与える方法として、「心の栄養 七曜訓」を考えました。その基本は、「日月火水木金土」の七曜の自然、文化を大切にすることです。

 まず、日曜日。太陽は、明るさの象徴です。少々のうつ的な心は、太陽の明るさの中で希望に変わります。太陽はまた、身体を暖め、血流を良くし、骨を強くするなど、身体と心の両面で良い効果を発揮します。晴天ならば5分間、曇天ならば10分間、皮膚の一部を太陽に当てるだけで効果が出ます。冬の寒さの中で、ひなたぼっこほど閉じこもりがちな心をいやしてくれるものはありません。

 月曜日、すなわち月は、太陽と違って直視できる天体です。澄み渡った空の満月は感動を与えてくれるし、雲の合間に見える三日月も風情ある存在です。月以外でも、喜怒哀楽につながるものは皆、心の栄養になります。書物、テレビドラマ、スポーツ、映画、ペットとの交流など、たとえ怒りや悲しみを伴っていても、心を揺り動かすことは心の栄養につながります。

 火曜日、すなわち火は、人類が長く親しんできた文明の利器です。何万年、何十万年も前に、火によって夜の闇が克服されました。調理に用い、暖をとるのにも活用しました。私たちには、火に親しみを覚える遺伝子が組み込まれているようで、火や炎は太陽や月とも違う、心の安らぎを与えてくれます。ただ、昨今の暮らしで、火や炎を見る機会が著しく減りました。私自身は、仏壇のろうそくが火を見る唯一の機会となっています。そこで先祖の霊と対話することは、別な意味での心の栄養となるように思います。

 水曜日、すなわち水は、目の前に広がる海原、海岸の波の音、静かな湖、あるいは川の流れとして心に潤いを与えてくれます。それとともに、水やお茶を飲むことによって脱水を防ぎ、老廃物を洗い流すことができます。

 木曜日は、木や草花をイメージし、めでることを考えてください。木々の緑や草花の色は視覚に、匂いは嗅覚に、風に動く枝葉の音は聴覚に、木や草花に触れれば触覚に、実のなるものは味覚にといった具合に、五感に働き、いやしに役立ちます。

 金曜日はお金です。人は、自分のため、家族のために少しでも多く収入を得ようと努力し、工夫します。それは、脳の活性化につながっています。

 土曜日は、土であり大地です。人は、いつかは大地に返ります。大地をしっかりと踏み締めて立ち、歩くことで、自らの存在感と大地との連帯感が生まれるように思います。できれば、裸足で土を踏み締めたいのですが、けがをしないように気をつけることも必要です。

 これらの自然は、宇宙に存在する一切のものごとを指す森羅万象の代表です。曜日にとらわれず、触れ合うことをお勧めしています。病気になり、死を意識した患者さんの多くが、森羅万象のかけがえのなさに気づくようです。もしそうなら、元気なうちから「森羅万象を友とする」ことができるのではないか、と考えました。「心の栄養 七曜訓」は、そういう患者さんから学んだものの一つです。

      ◇

 来週は「東ちづるのLet’sまぜこぜ!」です。

 ■人物略歴

やまぐち・けん

 1950年三重県生まれ、慶応大卒。国立がんセンター(現・国立がん研究センター)研究所副所長などを務め、99~2005年に宮内庁御用掛を兼務し、02年から現職。同年から厚生労働省がん拠点病院検討会委員、18年6月からがん対策推進協議会会長。

     米中の貿易のゆくえはいかに・・・?

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 経済大国トップの貿易戦争は、世界の経済を揺るがすもんだい!

 米国が、中国の知的財産侵害に対して高関税を課す制裁を発動した。中国も米製品に

対抗関税をかけた。

 外国企業に技術移転を強要したり、サイバー攻撃で技術を窃取したりする。国内企業

は巨額補助金で優遇し、軍事とつながる先端技術の国産化を狙 

 中国は米国をしのぐ経済大国を目指してもいます。

 また中国は、自動車関税の発動も視野にある。

 同盟国とはいえ、ここは総理の勇み足は中国の反発だけを買うことにもなる

ここは傍観者として成り行きはgセブンで問題提起すべきではないのか?   

     毎日新聞より。

社説 米国が中国と貿易戦争 戦後秩序の重大な転換点

 トランプ米政権が中国製品3兆円超を対象とした制裁関税を発動した。米国企業の先

端技術など知的財産権が中国に侵害されているという理由だ。中国は報復に踏み切り、

本格的な貿易戦争に突入した。

 対抗策としてトランプ大統領はさらに巨額の追加関税を課す構えも示した。世界首位

と2位の経済大国が高関税で応酬する異常事態である。

 第二次世界大戦後に米国が築いた自由貿易体制の重大な転換点だ。

 大戦時に米国務長官を務めたコーデル・ハルは、戦前の自国の保護主義に対する反省

を回顧録にこうつづっている。「高関税はわれわれに繁栄をもたらすものではない。他

国のうらみをもたらすものである」

 日米開戦の引き金となった「ハル・ノート」で知られるが、戦後の自由貿易体制の構

想を練った人物でもある。大恐慌後の米国経済を守ろうと高関税で海外製品を締め出し

たことが各国との対立を激化させ、大戦の惨禍を招いたと考えたのだ。

世界に混乱広げる独善

 関税をできるだけ低くして貿易を活発にする。世界全体が潤えば各国も豊かになる。

米国が自由貿易を主導して戦後の世界経済を支えたのは、こうした理念に基づいていた

 最も心配なのは米国の強硬な保護主義が世界に混乱を広げることだ。

 米中対立は、かつての日米貿易摩擦と同じ経済大国同士のあつれきだが、事態はもっ

と深刻である。

 安全保障を米国に頼る日本は、米国の要求をほぼ受け入れ、摩擦は日米間にとどまっ

た。一方、米中は対立が泥沼化する恐れがある。両国の経済規模は世界の4割近くを占

めるだけに世界経済を直撃する。

 さらに経済のグローバル化による国際分業が一段と広がっている。

 中国には日米欧の工場が集まっている。日本から部品が輸入され、中国で製品に組み

立てられ、米国に輸出されるケースも多い。高関税で輸出が停滞すると分業も寸断され

る。影響は日本も含め広範囲に及ぶ。

 またトランプ政権は制裁関税に加え、中国や日欧に対し鉄鋼製品への高関税を発動し

ている。自動車関税の引き上げも検討中だ。これに伴って保護主義が各国に連鎖すれば

自由貿易体制を根底から揺るがす。

 米国が鉄鋼や自動車に高関税を課す理屈として持ち出したのは、自国の安全保障の脅

威になるというあいまいな内容だ。他国でも安保を盾に高関税を課す動きが出てもおか

しくない。世界経済が悪化した場合、保護主義が一気に拡大し、景気をさらに冷やす悪

循環に陥りかねない。

 本来、米国は超大国として世界の安定成長に責任を負う。貿易でもめた場合、世界貿

易機関(WTO)のルールに沿って解決を図るのが米国が築いた自由貿易体制の原則だ

。「米国第一」を振りかざし、制裁の応酬を引き起こすのは身勝手だ。

多国間の枠組みが重要

 これまでの米中関係を振り返ってもトランプ政権の異質さは際立つ。

 米国の歴代政権も対中貿易赤字と中国市場の閉鎖性は問題視してきた。トランプ氏と

根本的に違うのは、米国が主導する多国間の枠組みを通じて改革を求めてきたことだ。

 中国に市場開放と国際ルール順守を促すため、WTOへの加盟を後押しした。環太平

洋パートナーシップ協定(TPP)も推進した。知的財産権の保護も含めた地域共通の

ルールを設け、TPPに入っていない中国にも順守を迫る狙いだった。

 確かに中国の取り組みは問題が多い。WTO加盟時に知的財産権の保護強化を約束し

たが、効果が不十分と日欧も批判している。だとしてもTPPから一方的に離脱したト

ランプ政権の対応に説得力はない。

 トランプ氏の強硬姿勢の背景にはハイテク分野での覇権争いがある。

 米国は、奪われた先端技術が中国の新産業育成に利用されると危ぶんでいる。中国に

経済規模で追い上げられ、先端技術でも脅かされる事態への危機感が強いようだ。

 しかし保護主義は米国の国力を低下させるだけだ。高関税で非効率な産業が温存され

、結局は競争力を失ってしまう。やはり多国間の枠組みを活用する必要がある。

 中国も報復を自制すべきである。米国の保護主義を批判するが、これまで改革を求め

られても、大型商談でかわしてきた。経済力に見合った責任を果たしてほしい。

 日本も大国として自由貿易の維持に責任がある。政府は米国に保護主義の撤回を働き

かけるべきだ。

     オーム事件 死刑執行者【中川智久】

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 オーム事件の死刑囚の一人「中川智久」とは

どのような人物であったのだろうか?

 経歴と言えば申し分のないエリートで家族的にも恵まれ

性格も温厚で明朗、交友関係も広く

 このようなタイプがなぜに入信したのか理解に苦しむ。

 医師免許も取り、そのオペの実技中、失神したとの報告もあり

医者からの診断にも精神的疾患が指摘されてもいました。

 オーム入信の動機付けもそのような表現もうなづけるような面もうかがえます。

 あの殺人マシーンはなぜじっこうできたのだろうか?

 死刑囚として、いまどのような心理状況で、死刑が執行されるその日を

お迎えになるのであろうか

死刑囚としての罪深さをどのように把握されているのであろうか

 マインドコントロールから解き放された今だからこそ語られる言葉もあるはずです。

オームは今なお、年間150名もの信者が生まれております。

 死刑囚である中川さんを お母さんは時間が許せる限り岡山から

東京に通い続けておられます。

あなたの罪を一緒に償いたいとの意図のもとです。

 あなたのおつくりになられた俳句にも触れてみたいものです。

人物・経歴[編集]

岡山市内の繁華街で洋服販売店を営む両親のもとに長男として生まれる。1978年3月岡山

大学教育学部附属中学校、1981年3月岡山県立岡山朝日高等学校卒業。手塚治虫ブッダ

」の影響で医師の道を目指し、一浪を経て1982年に京都府立医科大学医学部医学科に進

学[1]。大学では柔道部に所属し大学祭の実行委員長を務めるなど、明るく温厚で実直な

人柄から交友関係は広かった。1988年2月24日オウム真理教に入信。

オウムと最初の出会いは、1986年11月にたまたま見かけた麻原の著作『超能力秘密の開

発法』を読んだことである。当初は特に興味もわかず、本も途中までしか読まずに放置

した。しかし医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原の

ヨガ道場を覘いたことが発端となった。1988年1月に宣伝ビラや情報誌でオウム真理教

音楽コンサート「龍宮の宴」の開催を知り、どうしても行かねばならぬように気がして

、1988年1月に最終公演を観に行った。初めて麻原に会ったが、麻原に後ろからいきなり

「中川」と声をかけられる。初めて会ったのになぜ自分の名前を知っているのだろうと

驚きを感じる。直後大阪支部道場に行って早川紀代秀と話した。それでも入信する気は

起きなかったが、「龍宮の宴」から数日後「お前はこの瞬間のために生まれてきたんだ

」という幻聴が聞こえるなどの神秘体験を経験。この神秘体験は強烈で「口では言い表

せないくらいの衝撃で、もう俗世では生きて行けない」とまで考えた。1988年2月に再び

大阪支部に行き平田信新実智光、井上嘉浩と話し、入信を決意した[2][3]。

1988年5月に医師免許を取得し、研修医として一年ほど勤めたが、6月に体から意識が抜

け出すのを感じて手術室で失神。精神科も受診したが通院は続かず、1989年8月31日、周

囲の反対を押し切り退職し看護師の恋人とともに出家[2](恋人はのちに中川とともにサ

リン生成に従事し逮捕)。1990年7月頃にオウム真理教附属医院が開設されると同医院の

医師となったが診察は行わず麻原彰晃の主治医として健康管理などをしていた[4]。麻原

の子を孕んだ石井久子の帝王切開も担当したが、経験が無かったので薬の投与を間違え

石井を殺しかけたこともあった[5]。

1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党から旧神奈川3区で立候補し落選。

教団が1994年に省庁制を採用すると、法皇内庁長官になり、側近として活動した[4]。地

下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格。

1995年8月22日、自ら申請して医師免許取消処分。自ら申請というのは前例がなかった。

[要出典]

事件との関わり[編集]

出家してわずか2ヵ月後、坂本堤弁護士一家殺害事件に関わることになる。1989年11月2

日夜、富士山総本部の麻原の部屋へ呼びつけられる。部屋には早川紀代秀、村井秀夫な

ど主だった幹部が集まっていた。「坂本は教団批判をしている。あいつは許せない。殺

さなければ。家に帰る途中でさらって注射を打つのはどうだ」と麻原に言われる。中川

坂本弁護士の名を聞いたのはこのときが初めてであった。当時、オウム真理教に出家

した子供を返すよう、求める抗議が相次いでいた。親たちの訴えを受け、教団に強く働

きかけていたのが横浜の坂本堤弁護士であった[1]。

翌朝、中川は5人の幹部とともに富士山総本部を出発。坂本弁護士を外で待ち受ける計画

は失敗。報告を受けた麻原は家に押し入り、一家を殺害するよう指示。午前3時、中川は

他の幹部のあとより坂本の自宅へ入る。先頭は新実智光と端本悟、中川は一番後ろだっ

た。ドアは開いており、最後に入った中川はドアを閉めた際に音を立ててしまい、他の

幹部に「静かにしろ」と叱責される。部屋では家族3人が川の字になって寝ていた。緊張

で胸がどきどきしどおした。中川は最初に成人男性の坂本の抵抗力を封じる目的で薬剤

を注射。その後、1歳の長男龍彦に手をかける。このとき坂本の妻に「せめて子供だけは

」と懇願されるがその願いに耳を貸すことはなかった。そうこうするうちに龍彦は目を

覚まして泣きだした。これに対し誰かになんとかしろと言われ、あやして宥める手段は

講じず、座布団をかけたのち、口をふさぎ殺害した。3人の遺体を車に乗せ富士山総本部

へ向かうが、その車中、中川は怖くて何がなんだか分からず目をつぶっていたが体の震

えが止まらなかったという[2]。

総本部に到着した時には呆然としていたが、麻原から平然と「顔色が悪いね」と労われ

る。この事件の功績を認められ、中川は麻原の側近に取り立てられ、その後の一連の事

件に関わっていくことになる。坂本弁護士の事件はいちばんショックであったが、その

あとは断れば自分もそういう目に遭うのだと思うに至る[2]。

犯行時に中川がプルシャ(オウム真理教のバッジ)を事件現場に落としたため、オウム

犯行説が当初から疑われ教団は反論に追われることとなった。だが結局1995年まで真相

が明らかになることは無かった[6]。

1993年10月からは教団の武装化路線の本格化と土谷正実によるサリン合成の成功に伴い

、土谷とともに化学兵器製造に従事。池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サ

リン襲撃事件、松本サリン事件に関わる。松本サリン事件ではサリン生成に従事した他

、実行犯に加わった。中川は土谷や遠藤誠一と共にサリンやVXといった兵器の製造管理

を任されていた(土谷正実#兵器と違法薬物の製造も参照)[6]。土谷と遠藤は対抗意識

から仲が悪くなっており、中川が緩衝材の役割を果たしていた[7]。

1995年1月1日、 読売新聞朝刊が「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物検出」と

スクープし、土谷正実とともに土谷の実験棟「クシティガルバ棟」で保管していたたサ

リン、VXガス、ソマンやこれらの前駆体を加水分解して廃棄した。廃棄作業および廃棄

設備解体後、廃棄しそびれたサリンの中間生成物「メチルホスホン酸ジフロライド(裁

判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)」が発見され、これがのちの地下鉄サリン

事件で使用されたサリンの原料となる[8]。ジフロを隠しもっていたのが中川か井上かは

裁判でも結論が出ていない。地下鉄サリン事件では土谷正実の製造アドバイスのもと、

遠藤誠一とともに遠藤の実験棟「ジーヴァカ棟」でジフロからサリンを生成の上、袋詰

めにし、サリン中毒の予防薬「メスチノン錠剤」も準備し、遠藤を介して村井秀夫に引

き渡した[4]。

地下鉄サリン事件後、井上嘉浩、小池泰男、豊田亨、富永昌宏らと共に八王子市のアジ

トに逃亡。麻原の捜査撹乱命令を受けて爆薬RDXを製造し1995年5月16日に東京都庁小包

爆弾事件を起こす[9]。1995年5月17日に逮捕される。

公判[編集]

一審[編集]

一連のオウム真理教事件で計11件25人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われた。

1995年10月24日に開かれた第一審(当時池田修裁判長)初公判では、ロッキード事件

田中角栄の第一審判決公判(3904人)を超える4158人の傍聴希望者が集まった。公判で

は当初、事件そのものへの証言を避けていたが、一審途中から供述を行い、「消えてし

まいたい」と語った[10]。

麻原の第200回公判に証人として出廷した際には、「尊師がどう考えているか、弟子たち

に何らかの形で示してもらいたい。私たちはサリンを作ったり、ばらまいたり、人の首

を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫び、証言台で泣き崩れた[1]

。また最終意見陳述では「一人の人間として、医師として、宗教者として失格だった」

と謝罪した[11]。

地下鉄サリン事件で使用されたサリンは、教団としてサリンの材料の殆どが証拠隠滅の

ために処分される中で、中川が密かに所持していた一部の原料から生成されたと検察側

は主張した。中川とその弁護団はこれを否定、中川らが処分できなかったサリン原料の

一部を井上嘉浩が保管していて、それが地下鉄サリン事件サリン原料になったと主張

した。中川の一審判决はこのサリン原料の由来を「不明」とし、最終的にこの判决が最

高裁で確定した[12](詳細は地下鉄サリン事件#事件で使用されたサリンの原料は誰が保

管していたのかを参照)。

中川の状態は文化人類学やシャマニズムでいう巫病の状態であったとの指摘もされてお

り、弁護側は被告人の経験した神秘体験とは即ち幻覚などの病気であり、正常な精神状

態に無かったと主張した[13][14]。

2003年10月29日、東京地方裁判所での第一審(交代した岡田雄一裁判長)で死刑判決を

受けた。

控訴審以降[編集]

控訴審では、2組3名の医師が、入信・出家から各犯行時における彼の精神状態について

意見書を提出した。それらによれば彼は入信直前から解離性精神障害ないし祈祷性精神

病を発症していた。犯行時の責任能力については、「完全責任能力」「限定責任能力

と医師の判断が分かれた。

2007年7月13日の東京高等裁判所での控訴審(植村立郎裁判長)では、彼が精神疾患にか

かっていた可能性を認めたが、責任能力はあったとし死刑判決は覆らなかった。

その後、弁護団は上告したが、その上告趣意書の中で、オーストリア法医学会会長ヴァ

ルテル・ラブル博士の意見書や絞首刑に関する過去の新聞記事を引用し、「絞首刑では

死刑囚はすぐ死亡するわけではない」「首が切断される場合もある」などとして、絞首

刑は憲法36条が禁止した残虐な刑罰である、首が切断された場合は絞首刑ではないから

憲法31条に反するなどと主張した[15]。

大学祭の実行委員長だった中川死刑囚が学生課によく出入りし、顔見知りとなった。

 一時は疎遠となったが、逮捕を知って驚いた江里さんが中川死刑囚の家族に連絡。本

人の求めに応じて本を差し入れてきた。

 二〇〇六年秋、約二十年ぶりに東京拘置所で面会。裁判の法廷に出て、障害者のボラ

ンティアをするなど温厚で誠実だった学生時代の印象を述べた。

   *  *   

 拘置所で俳句などを作っていた中川死刑囚は、死刑が確定すると面会禁止になる直前

、歳時記の差し入れを求めた。詩歌を作り続ける意思表示と受け止めた江里さんは、昨

年暮れの最後の面会で「ふたりだけで同人誌を出そう」と提案した。

 歌手の美空ひばりさんの評伝「ひばり伝」などで知られる俳人の斎藤慎爾さん(73

)も趣旨に賛同し、ゲストとして十句を出した。

 刑決まり去私には遠く漱石忌

 中川死刑囚のこの句には「二〇一一年一二月九日に、最高裁から判決訂正申立書の棄

却決定書が届く。刑確定。この日は夏目漱石没後九五年の命日」との説明が付いている

。私心を捨て去る「則天去私」は、漱石が「理想の境地」とした言葉。刑の確定に揺れ

る心境が読み取れる。

   *  *   

 春一番吹かず十七年目の忌

 これは地下鉄サリン事件から十七年の一二年三月二十日に詠んだ句だ。

 金網の殻見事なり蝉(せみ)生きよ

 運動場の小さい穴を見て、羽化したセミに思いをはせる句も。

 同人誌は今後、年二回発行の予定。江里さんは取材の申し込みに対し、書簡で「中川

氏のために『考察と自己凝視の場』として同人誌が必要だと考えた」と説明。ただ「オ

ウム真理教への拒絶感情はいまも強烈であり、かつての被告が文章や詩歌を発信するこ

とそのものを不快視する人は少なくない」と面会での取材には応じなかった。

 <中川智正死刑囚とオウム真理教事件> オウム真理教は、麻原彰晃死刑囚の主導で

坂本堤弁護士一家殺人事件(1989年)、松本サリン事件(94年)、地下鉄サリン

事件(95年)など相次いで事件を引き起こし、27人の命を奪った。中川智正死刑囚

(50)は麻原死刑囚の主治医を務めた側近で、自らも両サリン事件などで殺人罪など

に問われ、昨年12月に死刑が確定した。法廷では「一人の人間として、医師として、

宗教者として失格でした」と述べ、罪を認めた。

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◆ 恐ろしき 事なす時の 我が顔を 見たはずの月 今夜も静(さや)けし/元オウム中川

智正被告 18日上告審判決

 「恐ろしき 事なす時の 我が顔を…」 元オウム幹部の中川被告が短歌3首 最高

裁で18日判決

産経ニュース2011.11.17 19:35 [殺人・殺人未遂]

 地下鉄、松本両サリン事件や、坂本堤弁護士一家殺害事件などで殺人罪などに問われ

、1、2審で死刑とされた元オウム真理教幹部、中川智正被告(49)が17日、弁護

人を通じて短歌を発表した。最高裁は18日、中川被告に上告審判決を言い渡す。

 短歌は「恐ろしき 事なす時の 我が顔を 見たはずの月 今夜も静(さや)けし」

など3首。

 「りんご樹を この世の底で 今植える あす朝罪で 身は滅ぶとも」という1首は

、死刑執行への覚悟をうかがわせる。

 また、「遺(のこ)しおく その言の葉に 身を替えて 第二の我に 語りかけたし

」という1首について、弁護人は「(中川被告は)自分のような者を出さないために、

精神科医などの協力を得て手記を書いている」との解説を加えている。

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オウム裁判終結へ、中川被告からの手紙

 あわせて189人が起訴されたオウム真理教による一連の事件は、まもなくすべての

刑事裁判が終わります。サリン製造の中心的な役割を果たし、一審、二審で死刑を宣告

され、18日、最高裁判決を受ける元幹部が反省の気持ちと、一方で今も抱える教祖へ

の割り切れない思いを手紙に綴りました。

 「被害者の方々、ご遺族の方々にはこの場をお借りいたしまして、心からおわび申し

上げます。誠に申し訳ございませんでした」(中川被告の手紙)

 中川智正被告(49)。京都の医大に在学中にオウムに入信。麻原彰晃、本名、松本

智津夫死刑囚の主治医として仕え、サリンの製造などで中心的な役割を果たしたとして

、11の事件で殺人などの罪に問われ、一審と二審で死刑を言い渡されました。

 「ただ、ただ、頭を下げて、おわび申し上げるだけでございます」(中川被告の手紙

 17日、弁護士を通してJNNの記者に届けられた中川被告からの手紙には、ただひ

たすら謝罪の言葉が重ねられていました。

 その中川被告と、事件の被害者という立場にありながら、ずっと向き合ってきた男性

がいます。オウム真理教家族の会・会長の永岡弘行さん(73)。

 永岡さんは16年前、オウム真理教に入信した長男を脱会させようと奔走していた矢

先、猛毒のVXガスを背後から吹き付けられ、意識不明の重体となりました。その後、

長男は教団から脱会しましたが、永岡さんの体は今も右半身がマヒしたままです。

 「(中川被告に恨みは?) 恨みはない。本当にそうなんです。大人である我々が(事

件を)阻止することができなかった」(永岡弘行さん)

 永岡さんを襲ったVXガスを製造した男。それこそが中川被告でした。中川被告は、

なぜ犯罪に手を染めたのでしょうか。永岡さんは法廷を傍聴し、拘置所での面会を続け

て来ましたが、最後の判決を目前にした中川被告の変化に驚いたといいます。

 「大きく変わったのは最後。穏やかな顔つきになっていた」(永岡弘行さん)

 しかし、かつての教祖、松本死刑囚に対しては、今も割り切れない思いを抱いていま

す。

 「麻原氏が何も話さずに裁判を終えてしまったことは、個人的な感情を抜きにしても

、同じような事件を2度と起こさないという目的からして、残念でしょうがありません

。彼しか分からないことが沢山あったのです」(中川被告の手紙)

 教団への本格捜査から16年余り。松本死刑囚は何も語らぬまま、これまでに11人

の死刑が確定しました。

 「何よりも罪の重さを自覚しつつ、自己を見失わずに残りの人生を終わりたいと思い

ます」(中川被告の手紙)

 

     被害広がる豪雨災害。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今回の未自然災害における対処は本当によくしていただいているとも思います。

 だけれど緊急事態の対処にあたり、岡山は災害の少ない県としての

立場を露呈したようなものだ。

 町がすっぽり飲み込まれ、実態把握の行動が

どれほどできているのかははなはだ疑問が残る。

 真備エリアには、病院、ろうじんしせつもあったはず!

 これらの誘導と、自衛隊の支援がもっと早ければ

ノウハウのしえんもいただけたはず!

 組織的に動けるノウハウも行ったのではないだろうか。

 真備町の実態把握がなされていないために

しづんだ家で犠牲者もあるのではと思わざるを得ません。

 これは平素からのシミレーションを何度も繰り返すことで

慌てることの少ない支援策が求められたのではないのでしょうか?

     アサヒコムより。

「昨日までは生きてたのに」 真備町、緊迫の救助現場

 広範囲に冠水した岡山県倉敷市真備(まび)町。県災害対策本部によると、8日午前の時点で冠水した住宅や建物で1千人が取り残されているという。現場の水際では、孤立していた人が次々にボートで陸地へと助け上げられていた。昼夜分かたず、懸命の救助作業が続く。

倉敷の浸水、河川改修予定だった 5m予測の地域が被害

倉敷市真備町、いまだ1千人孤立 新たに4人の遺体発見

各地の大雨情報はこちら

 「何か飲むものはありませんか」

 7日午後11時、停電で周囲は暗く、視界に入る住宅の1階部分は水没している。ボートで救助された70代の男性は、かすれた声でこう尋ねた。消防団員から差し出されたペットボトルのお茶を一気に半分ほど飲む。「うまい。ずっと飲まず食わずだったので」

 自宅で寝ていると、「体がフワッと浮くような感じ」で目覚めた。1階が浸水し、畳が浮き上がっている。財布や携帯電話を慌てて手にとった。水が腰の辺りまでじわじわ迫ってきたため、2階へ避難した。午前6時前だったという。

 2階の窓から外を見ると、茶色い水が一面に広がっていた。「これは駄目だ」。そこからは極力動かずに救助を待ち続けた。間もなく停電したので携帯を使うのも控えた。昼ごろ、ヘリコプターの音が何度か聞こえ、窓からタオルを振り、救助を求めたという。

「堪忍して、もう乗れない」

 7日深夜。知人や家族を助けようと自らボートでこぎ出す人が次々に現れた。

 知人の家族を救助した40代の男性は「車なら1、2分で目をつぶっても行けるような場所なのに、全くわからなかった」。信号や一部点灯していた街灯を頼りに、300メートルほどの区間を往復。2時間かかったという。この男性は「窓からライトを振って、『助けて』という人がまだまだいる」と話した。「『もう乗れないんです。堪忍して下さい。救助は続いてるから頑張って』と声をかけるしかなかった」

雨がやんでも災害は起こる 時間差増水・斜面崩落に注意

雨雲の様子

各地の大雨情報

「腰まで水がつかっとる」

 8日午前8時半ごろ。水は下がってきている。1階部分が全て冠水していた民家は、1階の窓が見えるようになっていた。

 「昨日までは生きてたのに!」。

 岡山県玉野市からやってきた西原清美さん(54)の絶叫のような声が響く。西原さんはこう言って、息子に倒れかかるように体を預けた。

 息子は自衛隊員とともにボートに乗り、祖母にあたる西原さんの義理の両親を探しに行っていた。息子は義母の遺体が見つかり、義父の行方がわからないことを西原さんに伝えた。

 西原さんは7日昼、義父に安否をたずねる電話を入れていた。「腰まで水がつかっとる」。そう言っていたので、心配していたという。「病気がちだったから、父も厳しいかもしれない」。西原さんは息子に抱きつき、声を上げて泣いた。

 現場では、連絡が取れない家族を待ちわびる人々が、ボートの帰還をじっと待ち続けていた。(吉沢英将、中川竜児)

   オーム事件 【井上嘉浩】死刑執行。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 当地は今日も雨模様です。

オーム事件から24年がたちました。

まだ若い井上の死刑が執行されました。

刑務所の移動である程度は予測された本日。

井上の人生はどのようにひきうけてきたのだろうか?

宗教であるならばともに救われるものであってほしかったものです。

 裁判経過においても本当に罪深さをどれほど

にんしきできていたのだろうか?

裁判においても 自己保身ばかりが目に余る内容に

終始したことは誠に残念としか言い難いものがある。

深い罪を心に留め置く死刑であってほしかったものです。

善悪のつかないほどのマインドコントロールであったとはとても思えない

一連の罪を避けたなら、自分の命が危ないとの作用が働いたことは確か?

 まじめな父親に触れ、これでは市や早生とは縁遠く思えたとの記述に

コツコツとしたまじめであることの大切さを

なぜに父の背中からかんじることができなかったのであろうか?

ケースバイケースの幸せの社寺加減

何気ない足元の小さな幸せを 感じることに価値を見い出してもほしいもの!    

 

     引用文です。

幼少期はドキュメンタリー番組が好きで世界の貧困問題や犬の殺処分問題に関心があり

NHK新宗教と若者をテーマにしたドキュメンタリー番組に出演したこともある。父は

真面目な性格であったが家でもくつろげず、夫婦喧嘩をよく起こし、父のような生き方

をしても幸福はないと感じた。母は自殺未遂をしたこともあった[1][2]。武道、ヨーガ

阿含宗を経て高校2年の頃(1986年)オウム神仙の会のセミナーに参加し麻原彰晃の姿

に感銘を覚え、麻原を理想的な親のように感じた。 

1988年京都の私立洛南高等学校を卒業し、3月1日に出家。親と麻原との交渉では大学を

出てから出家する予定であり、日本文化大学法学部へ入学するが麻原の指示で中退。後

に井上は大学を出ていないので教団内では重要な立場に無かったと主張したが、もっと

も本人も大学に行く気は無く卒業即出家したがっていたという[1][3]。その後母親もオ

ウムの在家信者となる[4]。 

1990年の石垣島セミナーの頃からヴァジラヤーナの非合法路線に関与する[5]。私立探偵

の目川重治から盗聴技術を教わったこともあるとされ[6]、教団が省庁制を採用した後は

諜報省(CHS)長官として盗聴や誘拐、不法侵入などを実行、駐車場経営者VX襲撃事件、

会社員VX殺害事件、被害者の会会長VX襲撃事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、

地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件に関与する。新宿駅青酸ガス事件、東京

都庁小包爆弾事件には首謀者として関わった。地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正

悟師に昇格した。 

公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で特別指名手配されていたが、1995年5月15日に秋川

市(現:あきる野市)で発見され、公務執行妨害の疑いで、豊田亨と共に現行犯逮捕さ

れる。乗っていた車の中から東京都庁小包爆弾事件・島田裕巳宅爆弾事件で使われた爆

発物の原料となる物質が発見された。 

1995年12月26日付で、オウム真理教から脱会したとして、サマナや信徒宛にメッセージ

を出し、脱会を促す。メッセージの中では「グルの意思」の名の下になした修行の結果

、生じた犯罪行為によって身体は拘束されているが、心は以前よりもずっと自由である

旨が記されていた。さらに、教団で培った様々な観念は崩れ去り、覚醒を得ようとする

なら「最終解脱者」や「救済者」は必要がない、「尊師」も「正大師」も「サマナ」も

そんな階級などいらない、教団など何一つとして必要ないと言い切った[7][8]。 

裁判[編集]

裁判ではオウム事件を反省する態度を見せたが、自分が重宝されていなかったと主張し

責任を矮小化・転嫁する傾向があり、証言の信憑性に疑問が持たれた[9]。第一審では死

刑が求刑されたが、目黒公証役場事務長事件では逮捕監禁罪を認めたが逮捕監禁致死罪

を認めず、地下鉄サリン事件では連絡役に留まるとして2000年6月6日に東京地裁で無期

懲役判決を受けた。オウム真理教事件において死刑求刑に対して無期懲役判決が言い渡

されたのは初めてであった。 

だが検察は控訴。さらに新実智光も「今の井上君は『蜘蛛の糸』のカンダタと同じだ」

として、地下鉄サリン事件で井上がかなり重要なポジションにあったこと、島田裕巳

爆弾事件の直後に井上が「やったやった、この事件は新聞に載るくらいの事件だ」と喜

んでいたことなどを証言し始めた[10]。これ以前にも井上の部下で運転手だった井田喜

広が、井上が坂本堤を「バカなやつ」「悪業だから一家全員をポアした」、薬剤師リン

チ殺人事件の被害者を「すごく汚かった」「断末魔がすごい」と面白がっていたと証言

したり、遠藤誠一が「井上はよく嘘をつく」「麻原からアーナンダは死に神をも騙すと

言われていた」と証言するなど[11]、麻原追求の急先鋒を演じる井上の立場は揺らいで

いた[12]。 

控訴審(東京高裁、2004年5月28日)では目黒公証役場事務長事件の逮捕監禁致死罪を認

め、地下鉄サリン事件の現場指揮者ではないが総合調整役として無差別大量殺人に重要

な役割を担ったことが認定され、一審判決が破棄されて死刑判決を言い渡された。2009

年12月10日に上告棄却、2010年1月12日に上告審判決に対する訂正申し立てが棄却され[1

3]、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定したのは9人目。 

死刑確定後[編集]

2018年(平成30年)3月14日までは、井上を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が

、東京拘置所に収監されていた[14][15][16][17]

しかし、2018年1月、高橋克也無期懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した

[14][17]。 

このことから、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について、死刑執

行設備を持つほかの5拘置所(仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島拘置所

福岡拘置所)への移送が行われた[14][15][16][17][18]。 

井上は、新実智光とともに、2018年3月14日付で、大阪拘置所に移送された[18]。移送翌

日にあたる2018年3月15日、「死刑回避のためではなく、事実は違うことを明らかにした

い」と東京高裁に再審を請求した[19][20]。同年7月6日に死刑執行[21]。48歳没。 

2018年7月6日午前、大阪拘置所にて死刑が執行された[22]。 

死刑確定後開かれた共犯者の裁判員裁判での主な証言[編集]

公証人役場事務長殺害説[編集]

死刑確定後の2011年に井上は公証人役場事務長逮捕監禁致死事件の被害者(事務長)の

長男に関係者を介して手紙を出した。その内容は、これまで事務長の死因を麻酔薬の副

作用と述べていたが、それは事実ではなく、中川智正(当時医師)が故意に殺害した可

能性がある、というものだった。しかし、この時点での捜査機関の対応はなかった。 

その後2012年1月に平田信が、6月には高橋克也が逮捕され、両名は公証人役場事務長事

件に関与していたため、同事件の捜査が再開された。井上の新主張(後述するように井

上は「新主張」ではないとも主張しているが、その裏付けは示されていないので「新主

張」と表記する)を裏付ける証拠や共犯者の供述はなく、井上が事件発生から16年以上

経って自分の過去の証言や供述を覆したこともあり、検察庁の認定は麻酔薬の副作用に

よる死亡ということで変わらなかった。 

平田の一審裁判員裁判では、平田が逮捕監禁罪(「致死」はついていない)で起訴され

ていたこともあり、事務長の死因は争点にならなかった。判決は事務長の死因を麻酔薬

の副作用と認定し、井上の証言について「死因について突然新たな供述をするなど、証

言は誇張や記憶の混同があるのではないかとの疑問が残る」と指摘している[23]。井上

の新主張は採用されないまま、2016年1月13日に最高裁は平田の上告を棄却、確定した[2

4]。 

高橋克也の一審裁判員裁判では高橋が逮捕監禁致死罪で起訴されていた上、弁護側が事

務長の死因について争ったため、これについて詳しい審理が行われた。「中川が故意に

事務長を殺害した可能性がある」との井上の証言に対し、中川は否定したほか、共犯者

で元医師の林郁夫は、井上の証言に対して「あり得ない」と証言し、他の共犯者も井上

の証言を否定した。2015年4月30日の高橋に対する一審判決は、「井上の証言はその内容

が突飛である上に、これに沿う関係者の証言もない」「井上の証言はそのまま信用でき

ないというほかにない」、他方、中川の証言は他の共犯者の「証言などにより支えられ

ている」として事務長の死因を麻酔薬の過量投与による事故と認定し、井上の新主張を

採用しなかった[25]。2016年9月7日の高橋に対する控訴審判決も一審判決を支持し、井

上の新証言を採用しなかった[26]。 

井上が新主張を行った理由については、事務長の長男が「これまでの説明とあまりにも

違い、すべてを信じることはできない。再審のための証言ではないかと受け止めた」と

語っているとおり、中川が井上と無関係に被害者を殺害したのであれば被害者に対する

井上の責任は軽くなるため、再審請求が目的だったのではないかと指摘する報道も存在

する[27][28]。 

なお、井上は、中川が事務長を殺害した可能性があるとの話は、自身の一審の段階から

弁護人に話しているが弁護人から他に話すことを止められた、とも証言している[29]。

 

菊地直子との対立[編集]

東京都庁小包爆弾事件への関与が問われた菊地直子の一審裁判員裁判で、井上は、小池

泰男から手伝いの信者について逮捕される覚悟があるかどうか了解を取るよう求められ

、井上が女性信者2人の了解を、中川が菊地の了解をそれぞれ得ることとなった旨や、井

上が菊地に爆薬を見せねぎらいの言葉をかけた際に彼女が驚かなかった旨を証言した。

一方で中川は、自分が菊地に逮捕される覚悟の有無を確認するという話は記憶がなく、

自分は井上らに対し、菊地は「何も分かってないからよろしく」と言ったと証言した。2

014年6月30日、東京地裁は井上の証言を信用できるとし、それを菊地が事件を起こすこ

とを認識していた根拠の一つとして、菊地に懲役5年を宣告した。 

その後、二審東京高裁は2015年11月27日に判決の中で、井上の証言について、「多くの

人が当時の記憶があいまいになっているなか、証言は不自然に詳細かつ具体的」でその

信用性は慎重に判断されるべきであると述べ、二審で事実調べした結果によれば井上ら

は他に重要な役割を担って本件居室(八王子市のアジト)に出入りしていた女性信者2名

に対しても活動の目的を秘匿していたと認められる、菊地はクシティガルバ棟での土谷

正実の助手であって井上の部下ではなく教団内におけるステージとしても一般信者の2つ

上である師補というステージ立場にあったに過ぎず、この菊地に対し井上が殊更に爆薬

を見せてねぎらったというのは不自然と言わざるを得ない、などとして、井上の証言よ

りも中川の証言を信用できるとし、菊地に対する一審懲役5年を破棄して改めて無罪判決

を言い渡し[30][31]、2017年12月に最高裁もこれを支持、無罪が確定した。 

その他[編集]

この他、井上と中川の主張は地下鉄サリン事件に使われたサリンの原料を誰が持ってい

たのかについても対立している(ジフロ問題)。中川は、井上の一審判決間際に、サリ

ン原料が井上の使っていた東京・杉並のアジトで保管されていたことを暴露し、高橋克

也の一審公判の中でも井上による保管の様相を詳細に語っている。井上はこれを否定し

、中川が持っていたと主張している[32][33]。この食い違いについて、中川は2014年5月

14日の菊地直子一審公判において、「(井上死刑囚は)過去の裁判で対立した私に対し

て意地になって、反対のことを言おうとしている」とした上で「井上君の言っているこ

とは事実ではない」と証言した[34][35]。 

このような井上と他の幹部の主張の食い違いは、中川との間のみにあるのではない。重

要事件における自らの立場は補佐役にすぎなかったと主張する井上は、新実智光とはVX

事件でどちらが主導的だったのかについて[32]、また、小池泰男とは地下鉄サリン事件

の運転手役をどちらが指名したのかについて、真っ向から対立している[36]。 

人物像[編集]

麻原と話し方や動きがそっくり[2]。

高校時代、学校でもヘッドホンでオウム真理教の音楽をで聞いていた[2]。

勧誘が得意で「導きの天才」と呼ばれた[37]。井上が入信させた信者は1000人以上とい

う説もある[38]。在家信徒に入会金や会費を負担させ、その家族や友人などを同意を得

ずに名義だけの会員にさせる「黒信徒」を作り、獲得信者数を増やしていた[39]。ある

女性信者は法廷で「麻原はくそじじいだが、井上は好きで好きでたまらない」と語って

いる[40]。また、教団内では中村昇と並ぶプレイボーイと言われた[41]。教団東京青山

道場は「アーナンダワールド」で、女性の大半は井上の手下でだったという[42]。

麻原からぞんざいな扱いを受けることが多々あったと語る。 

非常に信心深く、修行に際しては同じ行を繰り返し行うことで知られていたことがワイ

ドショーに出演した元信者の告白などで語られている。ワイドショーでは水中クンバカ

の行を行い、5分30秒も水中で結跏趺坐を組み続ける姿も放映された。しかし麻原から返

ってきた言葉は「何を怖がってんだよ」とだった。

手記によると[1]、19歳のとき教団で禁じられている恋愛を行ってしまい、8月の炎天下

にコンテナ内で4日間の断水断食を命じられ死にかける。なお、井上は性欲の破戒をした

ことは認めつつも童貞であると主張[43]。

20歳のときには突然ステージを下げられたうえに修行を命じられた。瞑想修行中に麻原

の妻である松本知子から眠っているとしつこく注意されたが、「私は起きている」と反

論すると、麻原から「どこまで歪んだ根性をしてやがるんだ。このバカたれが!」と言

われカーボン製の竹刀で50回ほど打擲され、2週間ほど記憶が無くなった。

21歳のときには「お前が救済の邪魔なんだ。お前は単なる駒なんだ。何で言われた通り

のことができないんだ、バカ者めが。もう一度言う、邪魔なんだ。お前は駒通りやれば

いいんだ」と言われたという。

地下鉄サリン事件の際にもサリン到着が遅かったため東京から上九一色村に独断で移動

し叱責されている[44]。

うまかろう安かろう亭にあったカラオケで麻原が女性信者とキャッキャしながらカラオ

ケをしているのを見てのちに「VXをかけてやりたかった」と述べている。

逮捕後、飯田エリ子にラブレターまがいの替え歌などを送った。公証人役場事務長逮捕

監禁致死事件で井上の立場を支持するよう揺さぶりをかけるためともいわれる[45]。

拘置所内で自殺を図ったことがある[46]。

尾崎豊のファンだった。オウムに入った若者たちの心境は尾崎豊の歌の心境に近いと語

っている[47]。

俺たちは本当に幸せなのかな?

この世界、金さえあれば何もかも手に入ると考えている大人たち

朝夕のラッシュアワー

時につながれた中年達

夢を失い

ちっぽけな金にしがみつき

ぶらさがっているだけの大人達

工場の排水が

川を流れていくように

金が人の心を汚し

大衆を飢え死にさす

時間に

おいかけられて

歩き回る一日がおわると

すぐつぎの朝

日の出とともに

逃げ出せない

人の渦がやってくる

救われないぜ

これがおれたちの明日ならば

逃げ出したいぜ

金と欲だけがある

このきたない

人波の群れから

夜行列車にのって

??井上が中学三年生の時の宿題で描いた絵「願望」より[48]

関連事件[編集]

薬剤師リンチ殺人事件(殺人罪

駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂罪)

会社員VX殺害事件(殺人罪

被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂罪)

公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(逮捕監禁致死罪、死体損壊罪)

島田裕巳宅爆弾事件(爆発物取締罰則違反)

オウム真理教東京総本部火炎瓶投擲事件(火炎瓶の使用等の処罰に関する法律違反)

地下鉄サリン事件殺人罪、殺人未遂罪)

新宿駅青酸ガス事件(殺人未遂罪)

東京都庁小包爆弾事件(爆発物取締罰則違反、殺人未遂罪)

     アサヒコムより。

執行前、面会せかした井上死刑囚「もう少し話したい」 (7/8)

 「早めに一度、お会いできればと願っています」

受刑者が目撃した松本死刑囚 二度と明かされないその心

オウム暴走、三つの転機 風呂場の「事故」から始まった

オウム化している日本、自覚ないままの死刑 宮台真司

 石川県かほく市の住職、平野喜之氏(54)の元に5月下旬、手紙が届いた。差出人は地下鉄サリン事件などで死刑が確定した、オウム真理教元幹部の井上嘉浩死刑囚(48)だった。

 同じ高校を卒業した縁から支援を始めて11年で、面会をせかされたのは初めて。6月25日、大阪拘置所で会った井上死刑囚は「1人のカリスマを絶対的に正しいと信じることは間違いだった。自分も、絶対的に正しい人になりたいと思ってしまった」と事件を振り返った。制限時間の20分を迎えても「もう少し話したい」「大事なことだから」と刑務官を制止し、5分ほど話し続けたという。

 井上死刑囚ら7人の元教団幹部の死刑が執行されたのは、その11日後だった。

 カルト対策の専門家、立正大の西田公昭教授(58)は20年前、一審公判中だった井上死刑囚と面会を重ねた。弁護側が依頼した心理鑑定のため、18時間にわたって生い立ちから聞いた。

 中学の時から宗教に興味を持ち、ためた小遣い1万5千円を仏教の経典につぎ込んだ。バブルの時代に疑問を持ち、「俺たちは本当に幸せなのか」と詩を書いた。そんな根源的な問いに答えてくれると思い、高2の時、教団に入信した。

 教団では松本智津夫麻原彰晃

    気につかまりSOSが俗室

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

あちこちで川の危険水位も上がり、県全体に避難勧告が出ました。

また土砂災害もあちこちで報告され

なんだかあわただしい一日もくれなずむころにおいても豪雨の状態には変化もなく

これが止むときは来るのだろうかと不安の深夜を迎え

 信也も何度か避難場所の連絡のための広報カーが悲壮感をもって

その役割を果たしていました。

止まぬ雨はあるまいとの思いで

朝まで眠ることはありませんでした。

幸いなことに我が家の周辺にも水はたまりましたが

 わが裏の土手を境に明暗が分かれ行き場を失った、川の決壊の水で

まるで海のようになり、家が水の中の状態で

川の氾濫の恐ろしさを見せつけられた思いでもありました。

 迎えがあったなら、断ることでかえって相手の負担になると思い

リュックだけは用意してもいました。

幸い10時ころには雨もやみリュックの中身を

元に戻そうとして笑ってしまいました。

なんと飴を入れていたつもりがほしエビを入れていました。

 このとき思ったことは、何事もないときに

リュックづくりもいるのかなといったことです。

 家のあちこちには豪雨の爪痕もありはしますが

これは、お人にご迷惑もかけずに済んだ喜びに変えたいものです。

 各地で思いがけない被害にあわれた皆様には

お見舞い申し上げます。

リュックは日ごろからの準備も大切な一つでもあります。

この度の、水上バイクの若者には応援ありがとうと言葉を添えたい!

アサヒコムより。     

冠水の倉敷で何が シャツ振って・木にしがみつきSOS (7/7)

 「水があふれるのではないか」「このままでは水が迫ってくる。助けて」

各地の大雨情報はこちら

雨雲の様子

交通情報

 岡山県倉敷市消防局によると、6日午後11時半ごろから、こうした119番通報が増え始めた。7日午前0時すぎには、倉敷市真備町からの通報がひっきりなしに入り、混乱した。

 この直前の6日夜、真備町の男性(82)は、懐中電灯を手に寝床から外へ出た。買い物を済ませて30分ほどして戻ると、自宅沿いを流れる末政川の水位が急上昇している。長雨に危険を感じた。一緒に暮らす息子夫婦と孫2人に声をかけ、着の身着のまま近くの小学校へ避難。夜通し、「ドドドド」と屋根をたたく雨の音が響いていた。

 何が起きていたのか。

 倉敷市は市の東西を流れる1級河川の小田川の水位が急上昇したため、6日午後10時に真備町地区に避難勧告を出した。同11時45分に小田川の南側の住民に避難指示。通報が増え始めるのは、このころだ。

 そして7日午前1時半。

 市によると、小田川に流れ込む高馬川で堤防が崩れ、その崩れた部分が広がり、小田川の堤防が崩れたことが、今回の大規模な冠水を引き起こした。そして水位は、さらに上がっていく。

 7日午前8時より少し前、同市真備町の島口晶一さん(66)は、1階リビングの窓から外を見るとすでに冠水し、水が西から東へと、じわじわと広がっていくのが見えた。

 「これは大変だ」

 家財道具を1階から2階へあげているうちに水は家の中へ。冷蔵庫が倒れ、畳が水で浮いた。午後2時半くらいには、2階まで水が迫ってきた。水上バイクに乗って救助に来た若者に助けられたという。

 男性(70)は、午前9時半ごろに家の裏の水路の水が増えていると思った。昼前ごろ庭に水が入り始めたかと思うと、数分で自分のひざが水につかるまでに。ボートで救出されるまで、妻と2階で過ごした。40代女性は、救出されるまで自宅2階で両親とともに過ごした。「ベランダで赤い服や白いワイシャツを大きく振って助けを求めた。死ぬかと思った」

 7日午前の時点で、屋根の上にのぼって避難する人や、濁流の中で木にしがみついて助けを求める人が続出した。真備町地区の人口は約2万3千人。市によると、同午後3時までに約270人を救出。現時点で行方不明者は1人だが、水は引いておらず、被害の全容は明らかになっていない。

 7日夜時点でも自宅に取り残されている人がいるほか、まび記念病院で多数の入院患者や医療関係者が取り残されているという情報もあり、市と消防は、情報の確認やボートによる救出活動に追われていた。

 地区内の小学校などには、約5千人が身を寄せた。近くの小学校に避難した会社員の女性(29)は、「今は車のテレビなどで情報を収集しているが、見たことのない光景が映っていてびっくりしている。どうしようもない状況だけど、周りの人と助け合ってがんばらないと」と話した。

   オーム事件から24年、死刑執行7名。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

統治は避難勧告が出ました。

落ち着きたいものです。

 あの忌まわしいオーム事件から24年。

オーム事件の首謀者でもあった「松本ちずお」63歳の死刑が失行された。

ほかに6名の死刑も執行された。

あまりにも遅すぎる失行であったのではと思います。

 多くの若者の精神状態をコントロールしてしまうほどのオーム真理教。

このあまりにも悲惨とも思える無差別殺害事件。

これは「あのような優秀なひとがなぜ?」

それと同時に大きな社会問題としての定義づけもできるのではなかろうか?

第一は、科学の神秘化とい

うこと。現代の宇宙論素粒子論は一般人にとっては、ある程度から先は、まさに「神

秘」ですが、このことが若者に霊魂などを信じる傾向を強めているようだという指摘で

す。

第二は、社会の複雑化が進んで、若者たちの出る幕がないという意識です。このような

意識は、理想的社会を願う若者を主観的理想郷を説く新宗教に向かわせるというのです

第三は、地球的「終末」意識。即ち、資源の枯渇、環境問題、社会全体の腐敗堕落、こ

れに20世紀末という意識が重なって終末的危機感を生み出すと、この危機感をあおり

つつ、他方で独自の救済の道(?)を示す新宗教に、若者はわりと簡単に惹かれてしま

うというのです。

 死刑囚のオーム入信にあたる動機付けは

あまりにも短絡的なようにおもえてならない!

 松本麗華の誕生はあまりにも特異的とは思えるが

これも定めとして自分に正面から向き合って

できる仕事はあるはずです。

 例えば海外に目を向け、難民たちの手足となることも立派な仕事といえる。

松本麗華さんには運命として受け入れてほしいことがあります。

それは、あのサリン事件以来妹さんが23歳のころから寝たっきりの生命を

多くの方々に支えられながらなおも闘病生活を

送られているといった重すぎるほどの課題です。

 日本社会において、あなた自身を一個人として受け入れるには

社会に残した犯罪と多くの人に対する懺悔の気持ちだけは

麗華さん自身の定めとして受け入れながら生き抜いていただきたく思います。

     松本死刑囚三女のインタビュー記事の引用文です。

地下鉄サリン事件などの首謀者として死刑判決が確定したオウム真理教(現「アレフ

)教祖・麻原彰晃松本智津夫)死刑囚の逮捕から、5月16日で20年となる。三女・松本

麗華(りか)さんは2015年3月、初めて実名を明かし、自伝『止まった時計』(講談社

を出版した。

事件当時は11歳。教団内では「アーチャリー」という名前で、教祖の娘として、法皇

房長官という高位の役職にあった。事件後、両親は逮捕され、転入先での住民の反対運

動や公立学校・大学の就学拒否に遭うなど、数奇な運命に翻弄され続けた。

今は「アレフ」とも、派生した教団「ひかりの輪」とも無関係と話す松本さんが、「オ

ウム事件20年」を迎えたこの3月、どのように父を、オウム真理教を、日本社会を見つめ

たのか。

私だけではなく、日本の時計自体が止まっていた

──そもそも本を書こうと思ったきっかけは。

当初は「生きていられないな」と思っていて、生きている間にできることをしておこう

と思ったんです。心神喪失して、赤ちゃん以下の状態になってしまっている父に、娘で

ある私ができることをして、思い残すことなく死のうという気持ちがどこかありました

。でも、出版社に相談した時に「お父さんのことを書けばいいという甘い気持ちでない

なら」と言われて、グサッときました。今まで、自分の心もプライバシーも隠して、自

分の中だけの尊厳を保つことで私という人間を保ってきたので、プライベートなことを

自分の口から言ってしまったらもう生きられないんじゃないかと、2週間ぐらい思い悩ん

だんです。けれども、自分の中でもそういう甘さが嫌だったので、生きるために書いて

みようという気持ちでした。

──3月20日の地下鉄サリン20年に合わせて著書を出版して、メディアのインタビューを

受けたり、テレビや動画サイトに出演したりしました。実名で出たのは初めてとのこと

でしたが、どのような反応が印象に残ったでしょうか?

本を読んだ上で批判がいっぱいあるだろうと、ある意味楽しみにもしていたんですが、

私の時計だけではなくて、日本の時計自体が止まっていたのかという印象を受けました

。というのも、私は今「アレフ」とも「ひかりの輪」とも関係なく、個人として生活し

ているんですが、「本が売れたらアレフにお金がいくぞ」という話も聞きまして、世間

はそういう認識なんだというのが改めてわかりました。

──私自身も本を読むまで、現在の教団との関係や、家族への複雑な感情といったもの

もあまり詳しく知りませんでした。まだ実は中心人物なんじゃないかとも思っていまし

た。

そうなんですよね。個人で生きていくにはやはり収入が必要なわけですけれども、本が

売れて私の収入になれば「それがそのままアレフに行くんだ」という認識だと、今後も

仕事がしづらい状況が続くのかと。「古本になるのを待とう。資金源になったら嫌だか

ら」「自分はテロには加担しないよ」という反応には、がっくりきましたね。

──今のお仕事は?

本を書いていると時間がなくて、その間はお仕事があまりできませんでした。出版後の

仕事についてはあまり考えず、出版をゴールだと思ってやっていたんです。実際、ふた

を開けてみたら、私への批判も「被害者の方に賠償するのか、しないのか」「謝罪する

のか」という話にとどまってしまった。ただ、本に全て書いたという自信はありますの

で、どのようなことを指摘されても「それはここに書いてあります」と言える。ある意

味、懺悔本を書いているような気持ちがありましたね。

──懺悔本?

「生きててごめんなさい」と思っているところからスタートしたので。本は名刺代わり

になればいいと思ったんです。私はこういう人間で、こうやって生きてきたと明らかに

ならないと、お付き合いもしていただけない。罪悪感を感じているところも掘り下げて

、事実を浮き彫りにしていきました。書くことで、目を背けていたために消化できてい

なかったことがたくさんあったと気がつきました。

父の裁判がしっかり行われなかったことが残念でならない

第7サティアン内部のサリン生成が可能なプラント(山梨・上九一色村) 撮影日:199

8年09月16日 (C)時事通信社

──著書には、父親である教祖・麻原彰晃に対して、親愛の情が強くにじみ出ています

。一方で、裁判で認定されたオウム真理教の犯罪、その首謀者という役割は、それが事

実なのかも含めて、とても迷っているという印象を受けました。

まず裁判の結果については受け止めているつもりです。ただ、父が関与したという証拠

とは信者の証言です。それを争った裁判は、一方の当事者である父が心神喪失状態のま

ま行われたんです。しかも盲目ですから、父がまだコミュニケーションが取れていた時

も、裁判資料を読めず、内容についてメモすることもできなかった。そういう障害者と

しての父は、教祖として象徴的な地位にいたことは疑いようのないことですが、首謀者

として具体的かつ詳細な指示を出せる立場にいたんでしょうか。例えば化学プラントな

ども、そこに行って、見ることで、何が行われているかわかっても、耳で聞いているだ

けでは何もわからない。目で見る情報って膨大ですから。なので、父の裁判がしっかり

行われなかったことが残念でならないんです。

──ご自身の体験として、オウム真理教は「幼い集団」と書いてありました。「意思決

定が系統立っていなかった」と。

ある程度の規模の会社でも、しっかりとしたルートで、誰がどういう権限を持って何を

するというのは決まっているわけですが、オウムは若い人も多かったですし、そういう

ものがない状態でした。実際に父が提案して、却下されることは結構ありました。

例えば「世界記録達成部」というマラソンチームがあったんですが、かなりハードなト

レーニングをするので、お肉を食べるか食べないかという議論になったことがあります

。父は「食べたらいいんじゃないか」と言ったんですが、周りが「いやいや、それはや

めましょう」と言う。すると父も「おお、そうか」となるんです。目的は記録を達成す

ることなので、父が「筋肉をつけるためにお肉を食べるといい」と言っているにも関わ

らず却下されてしまう。結果として疲労骨折したり、スタミナ切れで最後まで走れなか

ったり。周りの人の思惑が結構大きかったと思うんですが、そういうところは語られて

いないと思うんですよね。法廷で語るような話ではないので。

──当時はまだ年齢が幼かったこともあって、全てを見聞きしているわけではないです

よね。

はい、そうです。でもやっぱり、父の裁判がしっかり行われなかったことは残念です。

「絶対の真理」といった言葉に納得がいかなかった

家宅捜索でエンジンカッターなどを使って第6サティアンの扉をこじ開けて中に入る捜

査員(山梨・上九一色村) 撮影日:1995年05月16日 (C)時事通信社

──本の中で、父が警察に逮捕された後、すぐ接見に言ったけど断られたという部分が

ありました。「もしあの時、父と会えていたらきっと私の人生は違うものになった」と

書いてありますが、どうなっただろうと思いますか?

もうちょっと早くに自分の時間を取り戻そうと思えたかな、と思います。自分の知って

いる父を見ることで、現実をリアルに感じられたんだろうと。ようやく面会ができた時

にはもう、別人のようになっていました。やっぱり逮捕前に父と過ごした時間と、面会

で会った父というのはきれいにつながらないんです。

──自分の心の中で父親の存在というのは、その後の人生に大きく影響を及ぼしました

か?

私が生活してきた環境の中で、常に父のことを思い出さない時はありませんでした。入

学拒否されれば「やっぱり麻原彰晃の娘だからか」と思いましたし。

──特殊な境遇に育って、引っ越せば住民から反対運動が起き、大学から入学拒否され

、という体験が書かれていましたが、そういう時、誰を恨みましたか? 教祖、教団、

それとも社会?

恨むってすごくエネルギーが必要で、初めはなんでそうなるの?と考えるんですけど、

すぐに悲しくなっちゃう。「生きてちゃいけないのかな」と。誰に怒りをぶつけていい

かわからない。怒りというよりも悲しい。居場所がないという感じですね。

──義務教育も途中までしか受けられませんでした。

父の逮捕時に小学校6年生で、静岡県富士宮市教育委員会から「申し訳ないけど来ない

でくれ」と頭を下げられたと聞いています。このとき、頭を下げてこないでくれと言わ

れる存在なのだと実感しました。

教団にいる間は幼稚園に通って、小学校1年に在籍していました。2年に上がる時に学校

へ行くのをやめたんですけど、その頃はもう、熊本県波野村の住民票不受理が起きてい

るんです。なので、教団が学校に行かせなかったのではなく、行かせられなかった。新

興宗教に対する社会の風当たりが強かったんじゃないかと思うんです。私は一応、学校

に在籍していましたけど、出家した他の子供たちが多分もう、学校に行けないので「う

ちの子もやめておくか」と、ある意味平等にしたんじゃないかと思っています。そこで

も教育は必要だと考えていたので、「真理学園」という、独自の学校を作ろうとしてい

ました。

──引っ越した先で、住民の反対運動も起きました。

行政主導の反対運動というのが非常にわかりやすかったですよね。茨城県旭村の家では

反対運動は起こっていなかったにも関わらず、栃木県大田原市が行政主導で反対してい

るから、旭村でも、地域住民が自宅の前に大挙して現れてシュプレヒコールを繰り返し

たり、きたない言葉を書いたプラカードを周辺に打ち付けていったり、右翼の街宣カー

が来たりしました。

一人一人にお会いすると、皆さん人間なんですよね。そこが集団になると「個人的には.

..」と言いながら、やっぱり周りの目が気になる。行政側が受け入れる努力をした日本

を見てみたかったなと思います。本当に基本的なことでいいんです。衣食住、教育を与

えた方がいいという、法律を守る姿勢だったらどうだったんだろう。

──もしあのまま、例えば教団が何も悪いことをしなかったり、あるいは全く表に出な

かったりして、今に至るまでオウムの社会で生きていたら、ご自身とご家族はどうなっ

ていただろうと考えたことはありますか?

ちょうど10?11歳くらいで、家出を考えていました。「絶対の真理」といった言葉に納得

がいかなかった。絶対と言うからには根拠が必要だけど、私が持っているのはオウム側

の情報だけ。いろいろ知らないと「絶対」なんて言えない。私は自分で判断してオウム

にいるわけではない。でも、入ってくる情報はオウム側の情報ばかり。それが納得いか

なかったので、どこかの時点で家出して社会を見て、いろんな宗教を見て、本当にオウ

ムが正しかったのかどうかを探索したいと思っていました。いずれにせよ一度は確実に

離れていたと思います。

──それは教祖である父の言葉に疑問を持ったということですか?

そうですね。父の言葉を聞きながら「情報というのは一方のことだけ聞いててもわから

ないよ」と思っていました。幸福の科学創価学会への反論のような話もあったんです

が、反論だけを聞いてもわからないですよね。本当はどういうことを言っているのか、

実際に会ってみないとわからない。ちょっと冷めたような目でいましたね。

まず治療を受けさせるべきだ

第6サティアンで逮捕され、警視庁に移送される麻原彰晃(後方中央)死刑囚(山梨・

上九一色村) 撮影日:1995年05月16日 (C)時事通信社

──もうすぐ逮捕されて20年経ちます。もう長いこと会っていませんが、何十回と面会

した経験から、現状の麻原教祖の精神状態はどのようなもので、どうすべきだとお考え

ですか? 「詐病だ」「早く死刑を執行すべきだ」と言う人もいますが。

まず、詐病だと言っている人は、なぜ詐病だとわかるのでしょうか。会っていないから

こそ神格化してるのではないかと思います。会って詐病だと言っている方はほとんどい

ないですよね。

──法廷で見た人、それから西山鑑定(東京高裁の依頼を受けて鑑定した西山詮医師の

鑑定)。妹さんも。

西山鑑定も「拘禁反応の状態」と精神状態がおかしいことを認めているけれども、鉛筆

を差し出したときに握り返したことなどを根拠に「訴訟能力を失っていない」と書いて

います。物を握ったから、笑ったから訴訟能力があると言えるんでしょうか。その他の

ほとんどの人は見ていないまま言っています。妹は私ほど面会していないのでわからな

いと思います。

私は28回以上会っています。他の先生や姉も会った上で「やはり父はもう人間じゃない

」と言っています。赤ちゃん以下になっている。普通は向かい合って話すとき、相手の

気配をなんとなく感じているわけじゃないですか。それもないんですよ。モノになっち

ゃっている。呼びかけても反応がないんです。

──相槌を打っているのか何なのかわからない。

でもそれは、黙っていても同じことが起こるので、空気みたいな存在なんです。接見前

に接見室の外から「うん、うん」って声が聞こえてくるんですよ。部屋に入って「来ま

したよ」って言っても何も変わらないんですよ。目の前で手をバン!って叩いても、変

わらないんですよ。絶叫しても届かない。

──妹さんも含めて死刑を執行しろと言っている人もいます。

まず治療を受けさせるべきだと思います。精神科医の方々は「治療したら治る」と言っ

ているので、治療して話をさせるべきだと思います。

──その上で再審といったことも考えるべきだと思いますか?

そこについてはわからないですけれども、とにかく治療すべきだと思います。心神喪失

の状態で裁判が行われたことも違法ですし、死刑という判決を受けたことも違法だと思

っています。

──3月20日をピークにオウム20年を振り返る報道がありましたが、ご覧になってどうで

したか? 視聴者として、あるいは一当事者として。

もしかしたら、報道はこの20年でだいぶ悪くなったんじゃないかと思いました。

──20年前はだいぶひどい目にあったけど、それより悪いと?

20年前は「父が直接手を下してないから逮捕できないのではないか」という報道も結構

ありました。事件の真相がわからない中で、わからないまま報道している感じで、メデ

ィア側の迷いもしっかり出ていたんですけど、今の報道は断定的ですよね。先日はテレ

ビで「アレフはまた事件を起こします」と、公安調査庁と妹にコメントさせていました

けれども、50分の特集で根拠がないんですよ。なんとなくこれを見ていたら「もうまず

い、危ない」という恐怖感だけがしっかり植え付けられる構図になっていました。

──オウム20年を巡る報道の中で、アレフがまた勢力を伸ばしてきているという話が出

ましたけど、アレフの現状はどう見ていますか。

アレフの現状について詳しくはわからないですが、ここ数年の報道を見ているだけでも

、毎回「勢力を伸ばしている」と言いつつ、合計の人数はあまり変わっていません。入

会者と同じくらいの人数が辞めていってるのではないでしょうか。なぜ「拡大」と報道

しないといけないんだろうと、すごく興味がありますね。

私がお飾りだというのもみんな知っていた

──ご家族でアレフに関わりを持ち続けている方もいますよね?

それについてはもうわからないですね。私がもう、母たちと関わっていないので。

私が16歳の時まで教団にいたから、今も教団にいるだろうと推測で言われますが、アレ

フ内部では私を「悪魔」と言っているという噂を聞いています。私の本も読まないよう

に言っているみたいですし。私自身がアレフに利用されないためにFacebookTwitter

やって、社会のここにいるというアピールをしているのかもしれないです。

──教団が犯した犯罪については、どう考えていますか? 自分のやっていないことに

責任を負う必要はない。でも、もし仮に教団として、その後の意思決定に関与していた

のであれば、ある程度の責任は仕方ないのかとも思ったりするんですよね。

それは、その後のどういう意思決定に関与したことによりますか?

──組織としての対応でしょうか。

組織の一員というのは、何歳から自分の意志でいるものですか? 地下鉄サリン事件

時、私は11歳で、一応「法皇官房長官」の地位がありました。でも、意思決定をしてい

たのは服を買うくらい。私がお飾りだというのも当時みんな知っていました。教団を出

たのは16歳。その頃は、形式上には「長老部」の座長でしたが、死ぬことばかり考えて

いたので、教団のことを考える余裕などありませんでした。

──私は正直「地下鉄サリン事件の被害者に謝れ」と松本さんが言われる筋合いは本来

ないと思うんです。

被害者の方からも、そういった声はいただいていないです。「被害者」という言葉を使

って何か世論ができていく。大多数は「なんで謝らないんだろう」と疑問に思っていら

っしゃるんですよね。

考えに考えたんですよ。「謝るってなんだろう」って。やっぱり自分がやっていないこ

とについて、自分が知らないことについて謝るのはあまりにも無責任だと。儀礼的に謝

って自分の身の安全を図るのは、誠実な態度と思えなかったんです。

──それは正しいと思うけど、おそらくなかなか受け入れられないですよね。

あの事件の重さを考えれば、知りもしない私が「すいませんでした」と謝っても、「謝

って普通の人間になりました、生かしてください」という態度は、単に自分の身を守り

たいがために謝ることになると思ったので、まあ批判されるべきなんだろうと思いまし

た。受け入れるしかないんだろうと。

知人が「麗華ちゃんがアレフに関わっていないっていうのはわかったけど、もし仮に関

わっていたとしても、それは単なる生まれたバックボーンだよね」って言ってくれまし

た。その方は、中学校時代にお父さんが病気になって、大学の頃に亡くなった方でした

。「病気のお父さんを見るのが不安でたまらなくって、私の中の時間も止まってた。こ

れを読んで時間が動き出すかも」と言っていただきました。

──ある時期までは家族としての形が曲がりなりにもあった。それが今は散り散りでバ

ラバラになっている。そうなってしまったのは、何が悪いんだろうと思うことはありま

すか?

あまりにも社会からの圧力が強すぎて、かつ、大切な父が死刑になるかもしれないとい

う状況の中、それぞれの精神の均衡を崩していったのかと思います。母ももちろん孤独

で寂しがっていましたし「若くして生涯の伴侶を失う者の気持ちがわかるか」と言われ

ると、黙っちゃいますよね。そういう背景もあって、母がアレフに関わっていることも

秘密にしていました。今だったら、「小学生で両親が逮捕されて、周りの信頼していた

世界が全て壊れる辛さわかる?」ってそのまま言い返しますけど。

人が好き。人間になれるのはいつのことか

──今は心理カウンセラーを目指して勉強しているとのことですが、具体的にはどんな

ことをしていますか?

勉強会に参加したり、学会に所属したりといったところですね。

──将来の夢は?

将来の夢は、普通の人間として認められること。

──現在はまだ認められていないと。

認められていると思いますか?

──私は、例えば同じ学校とか会社にいたら受け入れると思います。この本を読んだ上

で、ですけど。

そういう意味では今、初めて戦いが始まったと思います。これを読んでいただかないと

、私はやっぱり人間になれないんですよ。大学時代の友人とかも「バックボーンがよく

わからなくて聞けることでもなかったけど、読んでわかったよ。普通でいいんだね」と

連絡をくれたりしました。やっぱりこれくらいの説明がないと、何か訳ありな人だと思

われるのかなと。人間になるのはいつのことやら。

この前、テレビのニュースでハーフの問題をやっていたんです。50人に1人いるのに、ハ

ーフは日本人と認められない。「日本語喋れるの?」と思われる。最後にコメンテータ

ーが「ハーフの日本人ではなく、一人の日本人として受け止めない限り、本当の多様性

と言えない」と言ったんです。私について「麻原彰晃の娘の日本人ではなく、一人の日

本人」というコメントをテレビでしてもらえるくらいの、普通の人間になりたい。今そ

ういうことを言ったらバッシングされるじゃないですか。今回、私が出演したテレビで

も「被害者のことを思っていないだろう」など、いろいろ非難されましたし。

単なる人間、単なる日本人に、いつかなりたいというのが夢ですね。とにかく人間にな

るところから、何かに関わっていきたい。人が好きなので、そういう方向で何かやらせ

ていただければと。

──人が好き?

はい、好きですね。

──いろんな人にひどい目にあったけど。

それもまた人間らしいというか。

オウム真理教事件から20年