オーム事件死刑執行、早川紀代秀。
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
一般車の攻撃を、諸悪の根源とでっち上げ
数々の無法な事件を実行した、オーム真理教
若者の動機付けは、実に安易で愚かとしか言えない。
早川紀代秀も自らオームの門をたたき入信、出家している。
この人の本にも触れてみたいが、宗教に引き込まれる
動機づけ、浅原との出会いをいぶかしむこともどうして
なかったかについても理解は遠く及ぶものでもない。
オーム事件が進行する中、なぜうたがいをもたのかったのであろうか・・・?
この世に生を受け、貢献できる素量がありながら自らを封じ、多くの犯罪に手を染め
多くの人生を奪った罪はあまりにもふかい?
処刑されたとは言え、この事件の根源には結末も見ず
煙となってくすぼり続けることであろう?
死刑執行の社会的な役割はあまり期待できなかった。
これ以上、カルト宗教の影響が少ないことを、お祈りするばかりです。
人物[編集]
兵庫県川辺郡東谷村(現・川西市)に生まれる。その後大阪府堺市に転居し[5]、大阪府
立三国丘高等学校を経て神戸大学農学部に進学後[6]、大阪府立大学大学院では緑地計画
工学を専攻。学生運動にも参加し公安にマークされていた[7]。修了後、鴻池組に勤務。
1979年11月結婚。1980年に退職する[8][9]。
[10]、1984年、阿含宗に入信[9]。その後麻原の著作に共感を覚え、1986年4月にオウム
神仙の会に入会し[11]、1987年11月1日に出家[12]。
温厚で頼れる存在だが、感情の起伏が激しく、怒ると怖いとの評判であった[7]。自身よ
り階級が高い正大師の上祐史浩に「何やっとんかマイトレーヤ!!」と怒鳴る、麻原彰
晃すら叱るなど、裏のNo.2と言われるだけの影響力を持っていた[13]。チョコレートな
ど甘いものが好き[14]。
入信後[編集]
青年層が多いオウム幹部の中にあって数少ない中年であり、教祖の麻原よりも年上であ
る(麻原よりも年上の幹部信徒としては他に大内利裕や林郁夫、後述の波野村事件で早
川とともに逮捕された満生均史らがいる)。
出家後は不動産獲得の中心的役割を担い、富士山総本部の建設責任者になり[15]、全国
の支部道場の用地取得などを行った。また1991年、山梨県上九一色村に第2サティアンを
建設し、1993年にはサリンプラント建設に関与[16]。
1990年の第39回衆議院議員総選挙で真理党が出馬した際には、早川自身は立候補せず、
対立候補のポスター剥がしなど裏方の選挙支援をしていた[17]。
1988年12月に大師となり[18]、1994年7月に正悟師となる[3]。
事件への関与[編集]
1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件に参加し、殺害に関与。またTBSのスタッフが坂本堤
弁護士のオウム批判のインタビュー映像を放送直前に早川に見せたことが事件のきっか
けのひとつとなった(TBSビデオ問題)。事件時に手袋をしていなかった早川や村井秀夫
は麻原に指紋消去を命令され、熱したフライパンや豚の皮で指紋消去を行わされた[19]
。
熊本県波野村の国土利用計画法違反事件で逮捕され[20]、住居制限と教団関係者との接
見禁止を条件に保釈されている(1992年夏に解除)[21]。保釈中も教団幹部として数度
ロシアを訪れ、度重なるロシア訪問でロシア政府高官とパイプを築いた[22]。オウムは
ロシアではステータスの高い団体であったので、世間で言われているように裏社会に強
かったということはなく、AK-74自動小銃を入手するのにも苦労し、見かねたロシア人通
訳が手配してくれたという[23]。他にも1994年6月1日に旧ソビエト連邦製の30人乗り大
型ヘリコプター「ミル17」やLSDの原料をロシアから購入した[24]。
早川は他の幹部と比較するとテロの現場にはあまり参加していないが、早川はその理由
として1993年の出来事を挙げている。1993年12月、オウムは創価学会の一大拠点である
東京信濃町をボツリヌス菌噴霧車で襲撃しようとしたが、警備に怪しまれたため早川の
判断で中止させた。これに対し麻原は早川がいるとワークが成功しないとして不満を持
ったという[25]。
影の交渉役であったことから後に週刊誌などである事ない事を書かれるようになったが
、早川と面会した滝本太郎によると「単なる宗教好き、精神世界好きのおじさん」との
こと[26]。
裁判[編集]
1995年4月19日、TBS『ニュース23』の取材を受けた後、建物侵入罪で逮捕[27]。教団が
初期に起こした殺人事件など計7事件で起訴され、第一審で死刑判決。控訴・上告はとも
に棄却、2009年7月17日、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは6人
目。
裁判では、麻原の「ここで抵抗しなくちゃならない」「妻が強姦されてるんだぞ」など
という意味不明な不規則発言と麻原への退廷命令に号泣したこともあった[28]。また坂
本堤弁護士一家殺害事件の際に坂本龍彦の遺体に毛布をかけた理由について「別に理由
はない」と言ってしばらくの沈黙の後、「寒そうだったから」と述べ、その後悲鳴に近
い声を上げ、1分近く証言台に突っ伏した[29]。「修行僧」として、白いオウム服に数珠
という出で立ちで出廷したこともあった[30]。
再審請求したが、棄却された[31][32]。
週刊ポスト(2013年2月15・22日号)『死刑囚78人の肉筆』に掲載された早川直筆文によ
ると、拘置所内では読書、相撲や洋楽のラジオ番組視聴、ビデオ視聴を楽しんでおり、
妻や友人との面会や文通、毎日の修行(瞑想プラナヤーマ等)を行っているという。
オウム真理教の国家転覆計画(11月戦争計画)の根拠として、早川ノート、早川メモ[33
]というものが一時期話題になったが、本人によれば実は岐部ノートであるとされる[34]
。
死刑確定後[編集]
2018年(平成30年)3月14日までは、早川を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が
、東京拘置所に収監されていた[35][36][37][38]。しかし、2018年1月、高橋克也の無期
懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した[35][38]。
オウム裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について
、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島
拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた[35][36][37][38][39]。早川は同日付で、福
岡拘置所に移送された[39]。
洗脳が解けた過程[編集]
逮捕前、麻原から「まだ逮捕状は出ていないので逃げ隠れするな」と言われたのに言わ
れた時点ですでに逮捕状が出ていたこと、「銃刀法で逮捕される」と予言されていたの
に実際には建造物侵入罪で逮捕されたことで、「弟子の逮捕という重大事項を見誤るな
んて予言能力は無いのではなかろうか」と怪しく思ったのが最初の疑念である。逮捕後
、接見に来た青山吉伸弁護士から「麻原尊師が不利になる事を言うな」と言われると「
麻原は自分の身を守ることしか考えていないのか」と、麻原の人格を疑い始めた。次に
、麻原の予言によると核戦争が起きた際に放射能被害を受けるはずだった村井秀夫が核
戦争勃発前に刺殺されたこと、麻原は以前から癌を患っているとされ、日々酸素吸入ま
でしていたのに、いざ麻原が逮捕されると実は健康そのものであると発覚したことなど
、次々に「えっ?」と思う事実が明らかになり、幻滅していった[40]。
最後に、麻原は逮捕後に自殺を図ろうとしたが、出されたカレーライスを食べたくて「
自己ポア」を断念した、という俗物的一面を知り、これをだめ押しとして、信仰心を失
った[41]。
オウムでの渡航歴[編集]
早川の記述に基づく[42]。
1989年1月 ドイツ
1989年12月 ドイツ
1991年11月 ロシア(翌年2月までに数度訪露している)
1992年4月 スリランカ
1992年夏 ブータン、インド
1992年秋 ザイール
1992年冬 ロシア
1993年2月 ロシア
1993年4月 オーストラリア(ウラン鉱脈探しのため)[43]
1993年5月 ロシア
1993年夏 ロシア→フランス
1993年8月末 ロシア
1993年9月 オーストラリア
1993年10月 オーストラリア
1993年12月 ロシア
1994年2月 ロシア→中国
1994年3月 ロシア
1994年4月 ロシア(射撃ツアーに参加)[44]
1994年7月 ロシア
1994年9月 ロシア
1995年3月 ロシア
関連事件[編集]
男性信者殺害事件
坂本堤弁護士一家殺害事件
サリンプラント建設事件(殺人予備罪)
LSD密造事件
著作[編集]
「ルソーから真理へ -市民ユートピアの原理- 」(オウム出版 1991年)
「私にとってオウムとは何だったのか」(川村邦光との共著、ポプラ社 2005年)
私にとってオウムとは何だったのか/早川紀代秀、川村邦光 (著)
私にとってオウムとは何だったのか
早川 紀代秀,川村 邦光/ポプラ社
川村邦光は、早川紀代秀の控訴審を担当する弁護士が知人だったことから証人尋問を依
頼され、宗教研究者としてオウム論を述べた。本著は、この証人尋問の草稿を書き直し
、早川への質問を付け加えたものが基本になっています。
早川は自身が著者となることによって傷つく人がいることに躊躇し、川村のオウム論を
展開するための、あくまでも「素材」として欲しいという考えだったが、ポプラ社と川
村の説得により共同執筆の形となっている。
「宗教的テロリズムと早川紀代秀」(川村邦光著述部分)は、日本の新宗教の流れを追
った文章が長々と続きオウムへも解釈は至って凡庸で、肝心の早川の執筆部分は当事者
の証言として、一応読むべき価値はあるかなという内容。
「消えない足跡ーオウムと私の軌跡」?早川による生い立ちから、オウムでの活動のすべ
てを振り返る。他の信者と違い、若者ではなかった早川は、教団の戦闘的活動の中心で
ある「武闘派」、教団No.2、元阿含宗信者、、など夥しい報道によるイメージを与えら
れているが、TM(超越瞑想)などの瞑想に興味をもち、ハルマゲドンや、ヨガの修行に
夢中になっていくところなど、出家時に妻や、経営する会社をもっていた以外、他の若
者信者と変わらないグルへの傾倒が綴られている。
また麻原への帰依が狂信的とも見えていた新実の「ポア」体験後の苦悩の様子などは意
外だった。麻原の到底無理と思われるビジョンを次々と実行していった気持ちは幾分理
解できたが、中小企業の経営者のようなリアルな中年男性に見えた早川が、瞑想や、麻
原のシャクティパッドに魅了されていただけで、ここまで麻原に傾倒したことにはまだ
疑問が残る。
麻原に能力があるのなら、なぜ信者が手を汚して「殺人」しなくてはならないのか、と
いう疑問は、オウムへの最大の疑問だったが、早川が尊師へ疑問をもったのは、90年
の選挙落選が最初だった。その後、サリンプラント建設計画にも無謀さを感じるものの
、絶対的帰依にヒビが入ったのは、検事から聞いた逮捕後の麻原が出されたカレーライ
スを食べてしまい自己ポアできなかったというエピソードだった。
この本で描かれている、他の多くの信者同様、邪悪な麻原の野望に騙された真面目な宗
教修行者としての早川も、オウム報道が洪水のように溢れていたころの「武闘は」「No
.2」という称号も、早川の真実に迫ったとは思えない。