ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 オームの意味なき多くの犯罪者として

この世にあっては罪深き死刑囚としての24年もの歳月をひたすら懺悔だけの祈るような日々を過ごしてこられた「中川智久」その人は

 今日は梅雨も明け無常なる晴天です。

多くの罪を背中に億万丁度の旅に出られた。

 お母さんは「オームより救う家族」の買いでひたすら

中川その人をひたすら救いに走ったが

オームカルトの壁はあまりにも無情にも厚すぎた

 刑務所に尋ねるたびにお母さんはひたすら坂本さんご一家のお墓参りを

欠かすことはなかったとのことです。

 坂本事件が警察により坂本家で、オームのバッチが残されていたのだから

その追及に終始していたならば

後の事件は防げたはずです。

中川が落としたバッチは無言の訴えだったのかもしれない。

いやそう思いたいものです。

これは警察にも罪を重ねさせたと今でも思っています。

 オームの救済に支援されていた弁護士の坂本さんと

殺された後の痕跡までありながらこれを放置した警察の責任も問われるべきです。

警察の職務怠慢さは改めて強く指摘したいものです。

 中川さん「お母様の懐にやっと帰られました」

これからはご両親の静かな暮らしを、天空より見守り続けてくださいませ。

 獄中の時、一度刑務所にお便りさせていただいた者です。

ばあちゃんです。

     引用文です。

幼少期の回想から自らの死を見つめたものまで。裁判では罪を全面的に認め、涙を流した男の繊細さをうかがわせる作品もある。

 25年前、東京で弁護士になりたてだった私は、「坂本一家を救う会」の主催した集会で舞台に立って、坂本一家救援のための演劇に出させてもらいました。

 私は決して言えなかったけれど、坂本さんもお連れ合いも小さな赤ちゃんも帰ってこないことを知っていた。

 20年前の地下鉄サリンの時には、裁判所にちょうど行く直前の電車であの事件が起きました。事務所の先輩弁護士も危なかった。

 松本サリン事件で、オウムが狙った長野地裁の官舎には同級生一家が住んでいて、救急車で病院に運ばれました。

 オウムの末端の信者が機関銃を造ったという事件の国選弁護が弁護士会から回ってきたけれど、弁護士としては良くないことですがどうしてもやる気になれず、事務所のボス弁護士にやってもらったこともありました(作った機関銃の弾の出るところが、弾より大きくて、使い物にならない代物だったので、ボスは「危険性がない」として無罪を主張したが駄目だった)。

 以下に、地下鉄サリン事件・仮谷さん殺害事件などで死刑判決を受けた中川智正死刑囚のお母さんの記事を掲載します。

 中川死刑囚は私と同じ年。お母さんはうちのお袋と同じ年。他人事とは思えません。

 中川死刑囚がどんな悪いことをやったのか知らないけれど、彼らのやったことの結果は知っている。絶対に取り返しのつかないこと。多くの人の人生を奪い、夢を奪い、たくさんの人を傷つけ、周りの人の希望や喜びを奪った。

 子どもが悪いことをすると親の育て方が悪いとかすぐ言うけれど、子どもが親を選ばれへんように、親も子どもは選べないんですよ。

 親は自分を責めることはないと思う。でも、オウムや麻原が悪いの一言でも済ませられない。

  せめてもの願いは息子より1年でも長く生きること。死刑が執行されたら迎えに行き、「連れて帰りたい」からだ。そう語ると、突然、嗚咽した。

「骨つぼは仏壇に置いておきます。私たちが死んだら遺骨を一緒に入れてもらいたい。長男なのに、生きているときは何もしてくれなかったんだから、あの世で世話してもらおうって」

「教えを信じたまま死んでいくのだったら、つらかった。でも、昔に戻ってくれました。だから本当に覚悟しています」

 やりきれなくて、涙があふれそうになります。

死んでも償えぬ息子、執行後に迎えに行く オウム中川死刑囚の母 サリン事件20年

 オウム真理教による地下鉄サリン事件から20日で20年。事件を起こした信者の家族にとっても長い歳月だった。我が子の罪をどう受け止めているのか。事件に最も深くかかわった1人、中川智正(ともまさ)死刑囚(52)の母親が胸中を語った。

 中川死刑囚は、地下鉄サリン事件ではサリンを製造。坂本堤弁護士一家殺害など計11の事件に関与し、2011年に死刑が確定。東京拘置所に入っている。

 もうすぐ80歳の母親はいずれ「その日」が来ることを直視している。「あの子がいつ、この世からいなくなったとしても当然だと思っています。それしかありませんから、償いは。いえ、そんなことしたって償いにはなりませんけど」

 西日本のある都市に夫と暮らす。せめてもの願いは息子より1年でも長く生きること。死刑が執行されたら迎えに行き、「連れて帰りたい」からだ。そう語ると、突然、嗚咽(おえつ)した。

 「骨つぼは仏壇に置いておきます。私たちが死んだら遺骨を一緒に入れてもらいたい。長男なのに、生きているときは何もしてくれなかったんだから、あの世で世話してもらおうって」

 2カ月に1度、面会のために上京する。午前中はいつも、弁護士一家の墓がある神奈川県の寺へ。手を合わせ、ひたすらわびる。

 中川死刑囚は元医師。88年に入信し、翌年に病院を辞めて出家した。母親は「インチキに決まっているじゃない」と止めようとした。とうとう説得できなかったことを今も悔やむ。

 同時に、矛盾しているようだが「あれだけ止めてもどうにもならなかったことが、慰めになっているのかも……」。力が足りなかったんじゃない、オウムはとてつもない相手だったのだ、という自身への言い訳だ。

 中川死刑囚は裁判で罪を全面的に認め、涙を流した。母親との面会では、足が弱って上京しにくい父親の体調や、きょうだいの様子をよく尋ねる。元教団代表の松本智津夫麻原彰晃)死刑囚のことは「あれ」と呼ぶ。

「教えを信じたまま死んでいくのだったら、つらかった。でも、昔に戻ってくれました。だから本当に覚悟しています」

うちのお袋は大切にしてやりたい、と思いました。。。

2014年10月20日19時00分 朝日新聞

中川死刑囚の直筆の手紙。句は「あくまでも青で通すか五月晴」。便箋(びんせん)の角には検閲済みの印がある。

写真・図版

写真・図版

写真・図版

オウム真理教の元幹部で、地下鉄サリン事件などにかかわった中川智正(ともまさ)死刑囚(51)が獄中で俳句を作り続けている。題材は、幼少期の回想から自らの死を見つめたものまで。裁判では罪を全面的に認め、涙を流した男の繊細さをうかがわせる作品もある。

 句を掲載しているのは非売品の同人誌「ジャム・セッション」。最新号には、1月に平田信(まこと)被告の公判に出廷して尋問を受けた際の作がある。「スーツを買うよう現金を差し入れて下さった方があった」との注を添え、こう詠む。

 《先知れぬ身なれど冬服買わんとす》

山口県在住の俳人・江里(えざと)昭彦さん(64)が誘い、約2年前から2人で同人誌を始めた。江里さんは大学職員だった時、医学生で学園祭の実行委員長だった中川死刑囚と出会う。温厚な物腰が印象に残った。事件後、俳句への関心を知り、「考察と自己凝視」の場を与えたいと思った。

 20ページ前後で発行は年2回、各250部だけ。2人の俳句とエッセーがほとんどで、ほかにはゲストの俳句が載るくらいだ。これまでの5号で、中川死刑囚は計90句を発表している。

オウム真理教から派生した団体は今も活発に動いており、社会の反発も根強い。江里さんも「オウムはまだ進行形の事件」と受け止め、表現活動の支援にジレンマがあると話す。そのため配布先は面識のある俳人や、脱会者を支援してきた団体などに絞っている。

 《金正日死すとのラジオ 身の整理》

 これは2011年冬の作。同人誌のエッセーによると、死刑確定者になることを拘置所内で言い渡された際、「腹に力を入れて」と告げられた。「言い渡しで失神したり取り乱したりする者もあったと聞いたことがあります。私は『大丈夫です』と答えました」。別の部屋に移されて荷物の整理をしていると、独裁者の死を伝える放送が流れた。

 内省的な句と対照的なのが、屈託のない少年時代を振り返ったものだ。

 《川遊び雑魚を手捕りの母と知る》

 《島の夜や 子(こ)河童(がっぱ)口あく大(おお)銀河》

 そんな少年はのちに医学生になると、障害者支援のボランティアをした。そのころを詠んだ句は、水路に落ちた螢(ほたる)に思わず手を差し伸べた様子を描いている。

 《流さるる螢掬(すく)えば掌(て)に光り》

 公判中に「生まれてこなければよかった」「私は人間失格。すべてを関係者におわびします」と述べた男はいま、自らの死をどう意識しているのだろうか。

 《消えて光る素粒子のごとくあればよし》(磯村健太郎

■青少年期は澄み 事件後に硬さも

 俳人金子兜太さんの話 「オウム」という先入観抜きで、これらの句を純粋に一人の人間の作品として読みました。青少年期を詠んだ句は澄み、柔軟な感性さえ感じます。「子河童口あく」なんて、なかなか書けません。螢を詠んだ句もプロに近い出来栄えです。それに比べ、事件後の自分を詠んだ句は硬い。動揺を見せまいとする覚悟のようなものが感じられますね。

 デリケートな感受性が何らかの入信のきっかけをつくった。だからこそ、入信後はかえって「強固な意志を持つ人格」になったのだろうか――。そんなことを句から読み取りました。

     ◇

 〈中川智正死刑囚〉 元医師。オウム真理教元代表松本智津夫麻原彰晃)死刑囚の元側近。大学卒業後、1988年に入信。89年の坂本堤弁護士一家殺害事件や95年の地下鉄サリン事件など11の事件に関与した。

傍聴ライターが見た「最後のオウム裁判」ーー猛毒「VX」の隠語は「神通力」だった

傍聴ライターはオウム裁判をどう見たか 2015年02月18日 10時01分 弁護士ドットコム

オウム真理教の元信徒・高橋克也被告人(56)の公判が現在、東京地裁で開かれている。1995年3月に東京で発生した地下鉄サリン事件など、4つの事件の容疑者として指名手配されながら、17年間にわたり逃亡生活を続けていた高橋被告人。教団幹部の多くの判決が確定するなか、「最後のオウム裁判」とも呼ばれている。

高橋被告人は1月16日に開かれた初公判で、地下鉄サリン事件について「まかれたものがサリンだとは知らなかった」と無罪を主張、他の3事件についても共謀を否認したほか、一部は無罪を主張している。死刑囚が証人として出廷するということで、独特の雰囲気を醸しだしているこの裁判を「傍聴ライター」が取材した。(ライター/高橋ユキ

●オウム裁判のハンパなく厳しい警備

この裁判は、4つの事件を順に審理していくことが決められており、当時の幹部や信徒で現在確定死刑囚となっている者たちも多数、証人出廷することになっている。1月21日には猛毒の薬剤、VXによる複数の事件の審理が行われ、井上嘉浩死刑囚(45)が証人出廷した。その翌日も同事件の審理で、中川智正死刑囚(52)が証人としてやってきた。

オウム真理教がかつて「ハルマゲドン」を実現させようとした危険な団体だったことから、裁判所の警備はハンパない。普段は総務省側の出入り口と、その反対の日比谷公園側の出入り口からも出入りができるのに、オウム公判、それも事件に関わった確定死刑囚が証人出廷するときだけは、日比谷公園側の出入り口が閉鎖されてしまう。オウム公判に確定死刑囚が出廷するかどうかは、裏側の入口を見れば分かるという状態だ。

警備法廷となっている104号法廷の前では、その警備っぷりもすごい。一般的に警備法廷になると、手荷物預かりのほか金属探知器によるボディチェックがあるが、オウム裁判はそれだけでなく、持ち込む荷物の検査、さらにはボディタッチによる身体検査も行われる。ポケットティッシュはまじまじと見つめられ、ノートもパラパラとめくらされて、怪しいものが挟まっていないかじっくりチェックされる。

しかも気になるのは、法廷外のエレベーターホール近くに、スーツだったりジャンパーだったりを着たオッサンから若者までの男たちが大勢立っていて、104号法廷に出入りする傍聴人をじっと見ているのである。どうやら、公判が開かれる日はいつも、ずっとそこに立っているようだ。このオッサンたちが正直、裁判所で一番怪しい。気になってじっと見つめると、何やらひそひそ話を始める。とっても感じが悪いのだ。

●頬が痩せこけて、影ができていた高橋被告人

このように裁判所や警察関係者とおぼしき者たちの気合いがみてとれる裁判なのだが、意外と傍聴希望者は少ない。死刑囚が出廷するときですら倍率が2倍にいかないときがあり、死刑囚が来ない日は定員割れにもなる。もうすでに、世間からは忘れ去られた事件であることを痛感するし、裁判所や警察関係者とおぼしき者たちの十分すぎる気合いがなんだか物悲しくなる。

さて、死刑囚が証人として出廷した場合、このオウム裁判では、法廷内がえらいことになる。傍聴席とそれ以外を区切る柵のようなもの(「バー」と呼ぶらしい)に沿って、特注といわれる防弾ガラスが端から端まで並べられ、その向こうにさらに、パーティション。その奥に、死刑囚が座るという仕組みだ。

青い制服と帽子を身につけた屈強な男性たちが7?8人横に並び、防弾ガラスとパーティションの間に座る。傍聴人から、死刑囚はまったく見えないうえに、パーティションがあるため、裁判そのものもほとんど見えない。

そんな中、弁護人の横にスーツを着て座る高橋被告人は、逮捕当時より明らかに頬がこけて、痩せている。頬がこけすぎて、漫画のような影ができている。メガネをかけ、頭は7:3分けで、見た目の印象だととても神経質そう。開廷前や閉廷後、決して傍聴席を見ずに前を向いたままで、たくさん瞬きをしていた。

一方、井上死刑囚は、法廷が先に述べたような状態のため、その声だけしか聞こえないのだが、饒舌で感情を荒げることもほとんどなく、「正確に言います!」と何度も前置きしながら、話をしていた。印象としては、事前に調書に目を通して臨んだとしても、20年ほど前の出来事をよくここまで覚えているなぁという感じである。

●「ポア」の意味を正確に理解していなかった?

1月21日に出廷した井上死刑囚によれば、教団内では当時、VXを手作りしていて、それを指す隠語は「神通力」だったとのこと。そして、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(59)に呼ばれた際、こう言われたという。

「元サマナのAが悪業を積んでいる。Mの庇護のもと、教団に裁判を起こしている。VXをMにひっかけてポアしろ」

また、別の被害者にVXを“ひっかける”計画を実行する際、その被害者が柔道をやっていたことから、実行犯らの間でやり取りしていた無線内における実行の合言葉を「黒帯」と決めていたそうだ。だが、いざ実行する段になると「私が『黒帯』と言うところを『黒ベルト』と間違って連絡してしまった」と、うっかりな面も披露していた。

犯行後に新実智光死刑囚(50)から「黒ベルトって言うから警察が来たのかと思った。私のほうでも確認できたから、実行犯に指示できたが・・・」と苦言を呈されてしまったそうだ。井上死刑囚はかつて教団内でCHS(諜報省)という部署のトップで、こうした非合法活動に従事していたというが、実行の現場はバタバタであったようだ。麻原の“ひっかける”という言葉のセンスもなんだかすごい。

翌22日に出廷した中川智正死刑囚は元医師で、この事件にもVXの準備役や、実行犯がVXで中毒症状を起こしたときのための治療役として関わっていた。高橋被告人は、VX関連の事件について否認している。前日もそうであったが、弁護側からは、教団の使っていた「ポア」という言葉の認識についての質問が長時間続いた。

オウム真理教の「ポア」といえば、当時ニュースをリアルタイムで見ていた世代にとっては、「殺人」と同義であるというおぼろげな認識があるだろう。だが、中川や井上が語ったところによれば、もともとは「死者の魂をより高いステージにあげること。これはグルしかできないこと」という意味だったのだという。弁護側は、高橋被告人が当時はこの「ポア」の意味を「殺人」のことだと理解していなかったのではないか、と証明したいようだった。

(弁護士ドットコムニュース)