南北朝鮮の動勢・・・?

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 冬季五輪を機会に、北朝鮮と韓国の融和が一歩前に進んだ。

これは北朝鮮の経済援助を引き出すための手段であるのかもしれない。

どのような思惑があるにせよ対話なくして平和は求められない。

 核兵器の放棄だけに着目するのであれば、さらなる挑発行為を

エスカレートするだけに過ぎないのではないのか。

平和の一歩は対話からをベースにおいてほしいものである。

同じ民族としての立場も理解したいものである。

また隣国としての危うい立場もあるのではないのか。

 北朝鮮に門戸を開かない姿勢は暴走の道しかないことにはならないのか?

対話もどこかで用意できる余力も必要と思えています。

     よみうりより

南北朝鮮会談 「核」抜きの改善はあり得ない

北朝鮮金正恩朝鮮労働党委員長が、韓国を取り込もうと対話攻勢を強めたのは明白だ。

核問題で進展がないまま、国際包囲網が破れる事態を警戒せねばならない。

平昌五輪開幕に合わせて、北朝鮮高官級代表団が訪韓し、文在寅大統領と会談した。金正恩氏の

妹の与正氏が、正恩氏の親書を手渡し、文氏の早期訪朝を要請した。親書には、南北関係改善

の意思が込められているという。

与正氏は正恩氏の特使として、金永南最高人民会議常任委員長を団長とする代表団に加わった。

金日成主席から3代続く最高指導者の直系親族の訪韓は初めてだ。

文氏は、代表団の訪韓が、朝鮮半島の緊張緩和と平和の定着、南北関係改善に向けた契機になっ

たと強調した。

南北首脳会談についても、「環境を整えて実現させよう」と述べ、前向きの姿勢を示した。

看過できないのは、北朝鮮側に直接、核開発の放棄を求めなかったことだ。「南北関係の発展の

ためにも、北朝鮮と米国が早期に対話することが必要だ」と述べるにとどまった。

北朝鮮の核問題は、韓国の安全保障にも直結する。米朝対話に委ねるのではなく、自らが非核化

を迫らねばならないことを、文氏は認識すべきである。

平昌で開かれた夕食会には各国の首脳らが集まった。

安倍首相は金永南氏に、日本人拉致問題の解決と核・ミサイル開発の放棄を要求した。

文氏は夕食会での米朝接触を仕掛けたが、ペンス米副大統領は拒否した。南北の融和ムードに流

されず、北朝鮮に対する強硬姿勢を貫くという意思の表れだろう。

日米両国と韓国の温度差は明らかだ。北朝鮮は、最も切り崩しやすい韓国に狙いを定めて、3か

国の離間を図る。文氏はまんまとはまっているのではないか。

北朝鮮が「微笑外交」を進める背景には、経済制裁の効果が上がり始めていることがある。圧力

の継続が北朝鮮の行動を変えさせることを忘れてはなるまい。

今後の朝鮮半島情勢を左右するのは、延期中の米韓合同軍事演習の扱いだ。米国は、五輪・パラ

リンピック後の4月に実施すると明言している。中止を執拗(しつよう)に求める北朝鮮が、

韓国をさらに揺さぶってくるのは間違いない。

演習は、北朝鮮の軍事挑発を牽制(けんせい)し、有事即応態勢を維持、強化する狙いがある。

文氏は米韓同盟の堅持に努めるべきだ。

2018年02月11日 06時05分

Copyright (c) The Yomiuri Shimbun

石牟礼道子作、『苦海情土』

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 亡き作家石牟礼道子

この人の人柄には多くの作家も語っておられる。

弱い人の立場になって考えられる作家でもあった。

 水俣病を後になり先になりしながら、支え続けた作家でもある。

 その代表作に水俣病をテーマにした『苦海情土』

」がある。

これを読み進めるにあたっては長編でもありあまりにも悲しすぎる

 当時の新聞では「魂の抜けたミルクのみ人形」と表現するほどである。

母親は憤りを隠さない。

娘は生きています。魂のもとに生きています。

このような表現が使われるほどに水俣病の症状は重症でした。

だけれども生命に対する表現には憤りさえ覚えます。

本当に運命の不条理そのものでしかありません。

 今の豊かさは多くの魂の犠牲の中にあることだけは記憶に止めおきたいものです。

この作品は生々しい場面に苦しくなってしまう。

 有機水銀を飲み込んだ魚を摂取したこと水俣病すなわち

中枢性有機水銀による中毒症でその症状は運動機能、視覚言語にまで

症状が出る。

水俣を取り上げた作品です。

化学工場による弊害は水俣に限ることではない。

 「苦海情土」の引用文です。

おそらく今『苦海浄土』を読む人で、福島第一原子力発電所の事故を連想しない人はいないだろ

うと思います。東京電力の対応の問題が浮き彫りになり、原発は必要なのか様々な議論を呼び

起こしましたね。

今から60年ほど前、九州の工場で有機合成の原料アセトアルデヒドが製造されていました。当

時の日本の化学工業にとってなくてはならないものであり、人々の生活のための産業だったと

言えるでしょう。

ところが、周辺の地域で体の変調を来す者が増え、後に工場の廃液にはメチル水銀化合物が含ま

れていて、汚染された魚介類を摂取した人々の中枢神経系に中毒性疾患を引き起こしたこと

分かりました。

水俣病です。公害と認定されたもののどの患者を水俣病と判断するか、症状にあわせてどう補償

するべきかの話し合いは遅々として進まず、患者たちは長く続く裁判にも苦しめられ続けるこ

ととなります。

『苦海浄土』は、その水俣病についての記録文学。患者たちからの聞き書き、裁判をめぐる動向

、様々な資料の引用からなる本文二段組みかつ750ページの大作で、読み通すにはかなりの

力がいりました。

「世界文学全集」にたった一冊だけ収められた日本の巻ということからも分かるように、編者の

池澤夏樹は『世界文学リミックス』の中でこの作品を、「戦後日本文学第一の傑作だと思う」

と評しています。

単なる聞き書きではない文学的豊穣さをこの作品から感じ取ったのでしょう。ただ、淡々とした

記録ではなく、患者の悲惨な生活が生々しく描かれているだけに、読んでいて苦しくなる作品

でもありました。

 ある家では、うら若いきりょうよしが、全身紐のようにねじれて縁の下にころげ落ち、一人で

は起き上がれない事態になり、失禁も月のものも隠しおおせない家々はほかにもざらにあった。

 時代から忘れられた村の古道や渚辺を不自由な躰であちこちし、小学校への道さえ覚えられな

い子らを抱えてきて、大方の者は特急列車なるものにはじめて乗せられ、ここまで辿りついた

のだ。その歳月をどういえばよいか。

「すなわち患者の方々には誠意をもって円満な解決を計ることを……」

 またもやどっとヤジがあがる。お互い何をいっているのか聴きとれない。

 人それぞれの重層化した歳月が円型劇場のような会場の中で波立ち、渦をつくってまわりはじ

めた。ただただ眺めるだけの観客もいたことだろう。チッソの従業員も幹部も右翼も警備員も

、ことの成りゆきについてひたすら身をひき、内心忸怩たる念いをひそめ、あるいは無知な漁

民らがと思ってきたにしても、それ自体、凝縮したこの一幕の重要な劇的要員となっていたの

である。心も躰も全員中腰になっている中で、中心はやはり舞台の上にあった。患者たちが身

動きする度に骨のきしる音がした。(442ページ)

物語を楽しむ読書をしたい方にはおすすめできませんが、「四大公害病の一つ」など教科書的な

理解しかされていない水俣病の恐ろしい現実が描かれた作品なので、多くの方に読んでもらい

たい気はします。

情報の隠蔽などがあったにせよ会社が悪かったというだけでは済まない問題を孕んでいるのが公

害。まず産業自体は人々の生活のためなわけですから、快適な生活を求めれば必ず出て来る問

題でもあります。

そして、水俣が工場から恩恵を受けていたこと。財政的にもそうですし、都会から人の流れがあ

ることで地域は間違いなく活性化しました。ある意味では工場なしではやっていけない部分も

あるわけです。

安全のために便利な生活を捨てられるのか、もしもなにかが起こってしまった時、補償されるな

らどんな風に補償されるべきなのか。原発事故が起こった今だからこそ、読まれるべき本なの

かも知れません。

作品のあらすじ

〈わたし〉が山中九平少年と出会ったのは、1963年の秋のことでした。老人のように曲がっ

た腰を持つ少年は、目が見えないので、両手に持った棒きれを使いながらでなければ、歩くこ

とが出来ません。

石ころを拾い上げては棒きれで打つ、野球の練習をする九平の姿を見ていた〈わたし〉は、同じ

年齢の息子がいるだけに「激情的になり、ひきゆがむような母性」(13ページ)を感じさせ

られたのでした。

16歳になる九平は水俣病ですが、市役所衛生課が病院に来るよう言っても、「いやばい、殺さ

るるもね」(21ページ)とかたくなに拒否し続けます。家族はみな病院に行ったまま帰って

来なかったから。

まず手足の異常から症状が出る水俣病。ボタンがとめられずうまく歩けなくなるのです。次第に

言語もうまく発せられなくなるのでした。

住人たちの間で水俣病の症状が現れ出した頃、漁師たちは不漁に悩まされていました。ボラもえ

びもコノシロも鯛もめっきり取れなくなったのです。網についてくるのはベットリとしたドベ

(泥土)ばかり。

魚が岩にあたり、体をひっくり返して泳ぐ姿を目撃するようにも。

 そしてあんた、だれでん聞いてみなっせ。漁師ならだれでん見とるけん。百間の排水口からで

すな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊りが、座ぶとんくらいの大きさになっ

て、流れてくる。そして、はだか瀬の方さね、流れてゆく。あんたもうクシャミのでて。

 はだか瀬ちゅうて、水俣湾に出入りする潮の道が、恋路島と、坊主ガ半島の間に通っとる。そ

の潮の道さね、ぷかぷか浮いてゆくとですたい。その道筋で、魚どんが、そげんしたふうに泳

ぎよったな。そして、その油のごたる塊りが、鉾突きしよる肩やら、手やらにひっつくですど

が。何ちゅうか、きちゃきちゃするような、そいつがひっついたところの皮膚が、ちょろりと

むけそうな、気色の悪かりよったばい、あれが、ひっつくと。急いで、じゃなかところ(別の

ところ)の海水ばすくうて、洗いよりましたナ。昼は見よらんだった。(51ページ)

やがて国の調査が入るようになり、住人らの病気の原因が工場の廃液であることが分かっていき

ます。廃液の中にはメチル水銀化合物が含まれており、それを飲んだ魚を食べた住民らに症状

が出たのでした。

杉原彦次の次女のゆりは17歳ですが、重度の水俣病で、もう身動きすら出来ません。新聞は、

魂のない”ミルクのみ人形”と書きました。

発症前、元気だった娘を思い、「木にも草にも、魂はあるとうちは思うとに。魚にもめずにも魂

はあると思うとに。うちげのゆりにはそれがなかとはどういうことな」(148ページ)と納

得できない母親。

健康な人が水俣病になることが多かったですが、母親は無事でも生まれてきた子供が水俣病にお

かされていたというケースもありました。

 山本富士夫・十三歳、胎児性水俣病。生まれてこの方、一語も発せず、一語もききわけぬ十三

歳なのだ。両方の手の親指を同時に口に含み、絶えまなくおしゃぶりし、のこりの指と掌を、

ひらひら、ひらひら、魚のひれのように動かすだけが、この少年の、すべての生存表現である。

 中村千鶴・十三歳、胎児性水俣病。炎のような怜悧さに生まれつきながら、水俣病によって、

人間の属性を、言葉を発する機能も身動きする機能も、全部溶かし去られ、怜悧さの精となり

、さえざえと生き残ったかとさえ思われるほど、この少女のうつくしさ。

 水俣病の胎児性の子どもたちが、なにゆえ、非常にうつくしい容貌であるかと、子どもたちに

逢う人びとはいう。それは通俗的な容貌の美醜に対する問いばかりでもない。

 松永久美子をはじめとして、手足や身体のいちじるしい変形に反比例して、なにゆえこの子た

ちの表情が、全人間的な訴えを持ち、その表情のまま、人のこころの中に極限のやわらかさで

、移り入ってしまうのだろうか。(210ページ)

水俣病事件発生から二十年近くが経った、昭和四十四年六月十四日。廃液を流した会社チッソ

国の対応に納得できなかった水俣病患者の二十八世帯が、チッソを相手取り、熊本地方裁判所

に訴え出ました。

会社が潰れることは水俣市が潰れることだ、水俣市四万五千人と水俣病患者百人のどちらが大切

なのかという反対の声も聞こえてきます。

訴訟に至るまでには、様々な出来事がありました。互助会を作って、チッソと具体的な救済策を

話し合おうとしたのですが、交渉は遅々として進みません。やがて国からは、ある奇妙な知ら

せが届きました。

水俣病の紛争処理を厚生省にまかせるなら、委員の人選を一任し、委員が出した結論には、異議

なく従わなければならないというのです。そしてそのためにはそれぞれが確約書に署名しなけ

ればならないと。

公害として認定し、自分たち水俣病患者に力を貸してくれると思っていた国の思いがけない対応

に、互助会は戸惑いを隠せません。署名をするべきか、するべきでないか、対応をめぐる議論

は紛糾して……。

はたして、長く続くことになる水俣病の裁判の結末はいかに!?

とまあそんなお話です。時系列順の分かりやすい作品ではないので、もしかすると、水俣病の歴

史についてある程度調べておくか、参考になる本を横に置いて読み進めた方が、理解しやすい

かも知れません。

     山系より。

言葉を奪われた患者の魂、世界文学に 石牟礼さん死去

水俣病患者の苦しみや祈りを共感をこめて描いた小説「苦海浄土」で知られる作家の石牟礼道子

さん(90)が10日、亡くなった。

〈特集:石牟礼道子さん死去〉 〈特集:知る水俣病

 「苦海浄土」が出版された1969年は、水俣病患者がチッソに損害賠償を求めて熊本地裁

初めて訴えた年でもあった。

「うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとし

い)とばい」(第三章「ゆき女きき書」)、「わしも長か命じゃござっせん。長か命じゃなか

が、わが命惜しむわけじゃなかが、杢(もく)がためにゃ生きとろうごてござす」(第四章「

天の魚」)、「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わ

が要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」(

第四章「天の魚」)。

「(患者の家で)診察していると、遠慮がちに、邪魔にならんように見てるわけです、ニコォニ

コしてね」。プロの物書きとしてではなく、主婦として水俣病への関心を深めていった石牟礼

さんのことを、水俣病研究の第一人者で医師の故・原田正純氏はそう記憶していた。後に「苦

海浄土」として刊行される原稿は最初、水俣病の公式確認から4年後の60年、詩人の故・谷

川雁(がん)氏が主宰する機関誌「サークル村」に「奇病」として発表され、65年から雑誌

「熊本風土記」で「海と空のあいだに」の題で連載が始まった。方言へのこだわりを、石牟礼

さんは「人様を思いやる倫理の高さというか深さは、純然たる方言の世界」にあったと説明し

ていた。

ただ、この作品はいわゆるノンフィクションや聞き書き記録文学の類いではない。観察者の立

場ではなく、言葉さえ奪われた患者たちの魂を乗り移らせたかのように、「本人が心の中で語

っていること」を写し取り、聞き書き以上の「真実」をとらえた。「患者さんが口にしたくて

もできないことを私が言葉にしてさしあげた」のであり、「石牟礼道子私小説」(渡辺京二

さん)だった。

作家池澤夏樹さんが責任編集した「世界文学全集」(2011年、河出書房新社)に日本人作家

の長編として唯一収録したのは、「彼女を除いて戦後日本文学は成り立たない」(池澤さん)

と考えたためだ。「不知火の海の匂い濃い地方文学であるまさにその故に、普遍性を獲得した

世界の文学」(石牟礼さんと交流のあった世界的な免疫学者の故・多田富雄氏)でもあった。

(上原佳久)

ダウン症の書家、金沢翔子さん。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 ダウン症の翔子さんのお母さんの本 「涙の般若心経」にふれ

しょどうのみちをひらくことのできたすばらしさなのでしょうか・・・。

 翔子さんは仮死状態での誕生で血液交換しないと命の保証はないと告げられ

 お医者さんからは「ダウン症でもあり知能も歩くこともできません」その上での決断を父親に

告げられました。

父親は即答したといいます。

「生きる方向でよろしくお願いします」と

 泰子さんは言います。

賢い子でなければ美とは言えないと思って過ごしてきた。

翔子さんが生まれるまでは順風満帆の申し分のない人生であった。

翔子さんとの出会いは、まるで死刑を宣告されたかのような

苦しみの中から脱することなどできなかった。

しまいには翔子を産んだ罪に周囲に申し訳ないと

どれほどわが身を苦しめたことでしょう。

 泰子さんは翔子を連れて死ぬことばかり考えていました。

 翔子さんが3歳を過ぎるころまでは涙に明け暮れたといいます。

  そんな時テレビで【ダウン症のお医者さん】の話を

おぼろげの中に耳にしそれから泰子さんは目覚めたといいます。

 翔子さんを書家にしようと厳しすぎるほどの指導に当たり

現在の翔子さんの素晴らしい書家人生が開花されたのだとのことでした。

天才的才能を見出すことのできたお母さんにある種の運を感じます。

 泰子さんは人生の岐路の時いつも傍らに「般若心経」があったのだと話されてもいます。

 小学生の翔子さんに来る日も来る日も「般若心経」を

厳しく教え込んだといいます。

 翔子さんも涙の中でお母さんの思いにこたえ続けたとも語られています。

障碍者が生まれることで、まるで犯罪家族者のように追いつめられるほどの社会の視線を感じて

生きなければならないことだけは確かです。

だからと言って五体満足に感謝などできませんよね。

これはあたりまえのことなのですから・・・。

水俣病の本にも触れましたが

それは想像を絶するようなご家族のお苦しみが

生活の端々まですっかり根を生やしこんでもいます。

与えられた人生、静かに受け入れ、自分なりの咀嚼の人生でしかありませんが

小さな小さな、そよ風にも幸せ感じて過ごせることが

出来たならと思えています。

 ご近所のダウン症の美香ちゃんは

太陽の申し子ともいえるような

素晴らしい明るい笑顔にどれほど救われるかしれません。

美香ちゃんのお母さんいわく

外に連れ出すようになってとてもおしゃべりになったのだと。

障碍者のわが子を、心からしっかり抱きしめることのできるご両親が

多く存在することを心より願い続けております。

     山系より。

【話の肖像画ダウン症の書家・金澤翔子 母・泰子(3) 自分だけが苦しんでいた

ダウン症の子供は、みんな異常なほどに優しいんですよ。不思議です。

〈翔子さんの母、泰子さんにもう少し話を続けてもらおう〉

ダウン症の子は、通常より染色体が1本多いのです。私は長い間、染色体が1本多いことを嘆い

てきましたが、実はこの1本多い染色体が優しさをみせてくれているのではないか、と思うよ

うになりました。この優しさがみんなを癒やすんです。

翔子は普通学級からの転校を言われた後、自宅で半年ほど「般若心経」を書いて過ごし、結局、

遠くの学校の特別支援学級に移りました。登校初日、翔子は親の苦悩と心配をよそに、けろっ

として楽しそうに帰ってきました。その時、苦しんでいたのは親の私だけだった、と気が付い

たのです。自分の思う通りの子供でなかったから私は苦しんだ。世間体や子供の将来を悲嘆し

ていた。でも、翔子は障害を認識しておらず、何も苦しんではいなかったのです。

翔子は、ただ私の苦しみに寄り添い、慰めようと一緒になって苦しんでくれていたんです。本当

に優しい子です。そのあたりから、私自身も変わり、将来に少し希望を持てるようになったん

です。

〈そんな折、再び転機が訪れた。大黒柱の夫、裕(ひろし)さんが心臓発作で倒れ、そのまま他

界してしまったのだ。夫は52歳、翔子さんは14歳だった〉

貿易会社を経営していた夫が死ぬと、次々と借金の取り立てが現れ、通帳からアッという間にお

金が無くなっていきました。私は海外に赴き、会社の事業所を閉鎖し、事業も畳みました。頼

りにしていた私の妹も亡くなり、母娘の2人きりで、途方に暮れて引きこもりの状態になった

のです。

さらに、18歳で学校を卒業した翔子が作業所に入ろうとしていたとき、ちょっとしたトラブル

で入れなくなってしまいました。当時、「仕切り屋・翔子」というあだ名をつけられていたほ

ど、翔子は仕切りたがり屋でした。それも原因だったのでしょう。やることもなく、翔子は太

ってしまいました。

そんなときに思い出したのが、在りし日の主人の言葉でした。「翔子が20歳になったら個展を

やろう。そして、みんなに来てもらい、翔子がダウン症であることを公表しよう」。主人は、

自分では積極的に書道をする人ではなかったのですが、翔子の書の才能を誰よりも認めていま

した。

18歳だから、まだ間に合う−。一生懸命準備を始めました。生涯に一度だけ、翔子の個展を盛

大に開いてあげよう。結婚はできないかもしれないから、結婚式と披露宴のつもりで、思い切

って夫が残したお金を使って最高の展覧会とパーティーをやろうと決意したんです。夫も喜ん

でくれるだろう、という思いもありました。

そしてついに、翔子が20歳になったお祝いに、東京・銀座で最高の会場を借りて個展を開き、

豪華な図録を作りました。帝国ホテルで記念レセプションも開催しました。ここまでやれば、

私が倒れ、翔子が施設に入ることになっても認めてもらえるのではないか。そんな考えもあり

ました。

この個展がメディアに取り上げられて話題となり、多くの方に来ていただきました。翔子の書を

見た多くの来場者が涙を流していました。私も全力でやりきって満足でした。でも、それは始

まりにすぎませんでした。(聞き手 内藤泰朗)

ロシア外交、プーチンの歴史から学ぶべき。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 2月7日は北方領土の日とされている。

よりによってこの日に北方領土においてロシアは軍事演習している。

まさに日本をあざ笑うかのような行動ではないのか??

 総理はロシアとの親密性、経済援助とその成果をのべられるが

その温度差はまるで逆行されたものではないのか・・・?

ロシアの国内事情の把握もなく、やたら譲歩の姿勢がこのような軽視の

現状を産んでいるとしか思えない。

日本はどこにおいても外交交渉に弱さを感じないわけにはいかない。

 総理も外交にたびたびご足労いただいているのも

すべては国税です。

国税にかなう内容であってほしいもの。

これでは北方領土の問題は、まるで後退したとしか言いようがない。

外交がまるで未熟としか言えません。

日本としての意思表示が必要な時には

それなりのはっきりした行動も時としては必要ではないのか。

ロシアプーチンの歴史からも学ぶべきである。

     山系より。

【主張】北方領土の日 ロシアの不誠実さ許すな

2月7日は「北方領土の日」だ。日本固有の領土である四島を、ロシアが不法占拠したままに

なっていることを国民が改めて心に刻み、返還要求の力に結びつける機会となるべき日である。

だが、ロシアはこの日を狙いすますように、北方領土で軍事演習を始めた。国後島で破壊工作を

行う敵勢力を捜索し、阻止する作戦の訓練を行うという。

日本国民の思いを嘲笑するかのような不誠実な態度を、看過することはできない。

ロシア政府はこれより先、択捉島の民間空港を軍民共用とするよう命じる政令を出した。本格的

な空軍部隊を駐留させる布石とみられている。国後、択捉には新型巡航ミサイルが配備された

。軍事拠点化は北方領土の不法占拠を強めるものであり、認められない。

北方領土での軍事演習について、河野太郎外相は遺憾であるとして抗議を申し入れた。

それは当然だとしても、ロシアが形ばかりの抗議など意に介さないのは明らかだ。日本の対露政

策が、相手から足元を見られるものとなってはならない。必要に応じ、現在の協議を打ち切る

強い姿勢で臨むことを求めたい。

安倍晋三政権は、北方領土での共同経済活動の実施を足がかりに領土問題を進めるとしている。

だが交渉は順調とはいえない。

双方の法的立場を害さないという「特別な制度」を目指す構想自体、法技術的に無理があり、日

本の主権を危うくしかねない。

ロシアはさらに、北朝鮮をにらんだ日本のミサイル防衛態勢強化に難色を示し、交渉に絡めてき

ている。

安倍首相は、北方領土返還要求全国大会のあいさつで、ロシアとの「平和条約のない異常な状態

」を終わらせるとの考えを示した。プーチン大統領との間で20回も首脳間の話し合いを重ね

た点にも触れ、5月に予定するロシア訪問に意欲を示した。

日本が目指すべきは北方四島の返還だ。そこがおろそかになり、経済的支援だけ与えるような交

渉では国益を損なう。ロシアが身勝手な言動を重ねる現状に、国民が疑念を抱いてもおかしく

ない。

ロシアによるウクライナのクリミア併合は、北方領土問題と同根といえる。相手は軍事力で現状

変更を図る国であることを、けっして忘れてはならない。

【主張】北方領土の日 ロシアの不誠実さ許すな

2月7日は「北方領土の日」だ。日本固有の領土である四島を、ロシアが不法占拠したままにな

っていることを国民が改めて心に刻み、返還要求の力に結びつける機会となるべき日である。

だが、ロシアはこの日を狙いすますように、北方領土で軍事演習を始めた。国後島で破壊工作を

行う敵勢力を捜索し、阻止する作戦の訓練を行うという。

日本国民の思いを嘲笑するかのような不誠実な態度を、看過することはできない。

ロシア政府はこれより先、択捉島の民間空港を軍民共用とするよう命じる政令を出した。本格的

な空軍部隊を駐留させる布石とみられている。国後、択捉には新型巡航ミサイルが配備された

。軍事拠点化は北方領土の不法占拠を強めるものであり、認められない。

北方領土での軍事演習について、河野太郎外相は遺憾であるとして抗議を申し入れた。

それは当然だとしても、ロシアが形ばかりの抗議など意に介さないのは明らかだ。日本の対露政

策が、相手から足元を見られるものとなってはならない。必要に応じ、現在の協議を打ち切る

強い姿勢で臨むことを求めたい。

安倍晋三政権は、北方領土での共同経済活動の実施を足がかりに領土問題を進めるとしている。

だが交渉は順調とはいえない。

双方の法的立場を害さないという「特別な制度」を目指す構想自体、法技術的に無理があり、日

本の主権を危うくしかねない。

ロシアはさらに、北朝鮮をにらんだ日本のミサイル防衛態勢強化に難色を示し、交渉に絡めてき

ている。

安倍首相は、北方領土返還要求全国大会のあいさつで、ロシアとの「平和条約のない異常な状態

」を終わらせるとの考えを示した。プーチン大統領との間で20回も首脳間の話し合いを重ね

た点にも触れ、5月に予定するロシア訪問に意欲を示した。

日本が目指すべきは北方四島の返還だ。そこがおろそかになり、経済的支援だけ与えるような交

渉では国益を損なう。ロシアが身勝手な言動を重ねる現状に、国民が疑念を抱いてもおかしく

ない。

ロシアによるウクライナのクリミア併合は、北方領土問題と同根といえる。相手は軍事力で現状

変更を図る国であることを、けっして忘れてはならない。

議論を、産みつつある核問題。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 世界における核保有国は10か国あるとされている。

政府にあってもこの問題が議論の場になりつつある。

日本としては、核三原則は堅持されねばならない。

 核を持つことはいずれ戦いの危機となり、人類の滅亡を意味する。

防衛のために軍備を整えることだけはしてはならない。

ロシアもこのたび、クナシリに軍事拠点を設けようともしている

ロシアは総理会談において経済支援を受けながら

平気でクナシリを軍事拠点としようとしている。

また中国もいつ迫りくるかもしれない。

また北朝鮮は言うに及ばない。

 これらに対し、防衛対策として防衛機器が整えられたならどうなるのであろう。

でも国内において暴走は許されない。

だからと言って議員の力はあまりにも微力。

     東洋経済より。

石破茂×丹羽宇一郎対談<前編> 日本は今こそ「核問題」を真剣に議論すべきだ

戦争の大問題』を上梓した元・中国大使の丹羽宇一郎氏が、衆議院議員石破茂氏との対談に臨

んだ。

いまそこにある核の危機から目をそらしている現実

北朝鮮の核実験とICBM(大陸間弾道弾)の発射実験によって、東アジア情勢は緊迫している。

とりわけ米朝武力行使も辞さない構えを示し、両国は極めて危険な領域に入り込もうとしてい

る。戦争になれば、国内に米軍基地のある日本も核の標的となることは避けられない。

日本だけではない。いずれかが核を使えば、攻撃された側も核による報復を行う。核戦争が起き

れば、その日が人類最後の日だ。

こうした状況の中で、元防衛大臣で、自民党の幹事長も務めた衆議院議員石破茂さんが「核シ

ェア」について踏み込んだ発言をしている。非核三原則は、核を持たず、作らず、持ち込ませ

ずだが、石破さんは現実の非核三原則にはこの3つに加え「議論せず」があるという。厳然とし

て存在している、いまそこにある核の危機から目をそらし、議論せずということはあってはなら

ない。

私も石破さんと同じく、日本人は腰を据えて核問題を正面から議論すべきと考えている。そう言

う以上は、隗より始めよである。私は石破さんに対談を申し込んだ。石破さんは快諾してくれ

た。

石破さんと私では考え方に違いがあると思う。私の持論は、日本は専守防衛に徹するべきで、他

国を攻撃する力を持つべきではない。核兵器は速やかに地上から全廃すべきであるというもの

だ。私は、核は「使えない兵器」だし、もはや「抑止力」にもなりえないと考えている。

しかし、核の脅威は厳然として存在する。世界の核保有国は、アメリカ、ロシア、イギリス、フ

ランス、中国、インド、パキスタンイスラエル、イランそれに北朝鮮の10カ国だといわれて

いる。日本の周辺には、中国、ロシア、そして北朝鮮と3つの核保有国があるわけだ。

石破さんは、現在、防衛問題に最も造詣の深い政治家である。石破さんと対談することで、私の

核全廃論も一段と磨かれレベルアップすることを期待して、石破事務所を訪ねた。

丹羽宇一郎(以下、丹羽):本日はお忙しい中をありがとうございます。今日お伺いしたのは日

本の防衛と核という大きな問題で、国会議員の中でも特にその方面に詳しい石破さんに、お話

をお聞きしたいとやって来ました。

石破茂(以下、石破):わざわざお越しいただき、かえって申し訳ございません。

54年前の中国といまの北朝鮮の状況は同じ

丹羽:いま日本は北朝鮮の核の脅威にさらされています。まず北朝鮮の核問題からお聞きしたい

と思います。

石破:私が小学校2年生のとき、1964年、昭和39年10月16日、東京オリンピックが始まって7日

目に中国が初の核実験をやるわけです。

丹羽:54年前のことですね。

石破:当時は、中国のことを中共なんて言っていました。だから新聞の見出しは、「中共ついに

核実験」。

丹羽:中共というのは中国共産党ですね。そのとき世界は反対の声を上げましたか。

石破:反対の声で、すぐ国連安保理です。日本でも新聞各紙が一面トップで非難しています。世

界首脳会議を開けとか。当時の新聞を読み返してみると、今の北朝鮮とほとんど変わらないね

という感じがします。

丹羽:この頃はイギリスもフランスも核を持っていたわけですか。

石破:持っていました。

丹羽:イギリスや、フランスが持つときは、アメリカもソ連も反対しなかった?

石破:世界が非難したという話はあまり記憶にありません。

丹羽:そうすると当時の中共としては、イギリス、フランスは持っているのに、われわれがやる

と、なぜ非難するんだ?となりますね。

石破:はい。

丹羽:じゃあ、当時の中共北朝鮮に置き代えれば、今とまったく状況は同じですね。北朝鮮

してみると、彼らもやっているのに、なぜ俺がやっちゃいけないんだということになりますよ

ね。

石破:そうなんです。北朝鮮がなぜ核を持っていけないのだ、ということをきちんと説明できる

人がいないんです。ダメなものはダメだと言うだけで。その素朴な問いに答えられないところ

があると思うんです。

丹羽:かつて世界中から非難された中国が、いまは北朝鮮の核実験を非難しているんですから。

石破:何だかんだあっても中国は今やGDP世界第2位、国連の常任理事国。ただ、北朝鮮に言わ

せると、中国に言われたくない。あんたと同じことやろうとしているのに何が悪いんだと言いた

いんじゃないかと。

私は北朝鮮のやり方が正しいとはまったく思いませんけれども、北朝鮮が「核を持てば、やがて

偉大なる大国になれる」と思っているとして、「お前の考えていることは間違いだ」とロジカ

ルに言えるのか、ということも問われているんだと思います。

アメリカの核の傘は本当に有効なのか

丹羽:そこでアメリカの核の傘ということですが、核の傘という考え方はいつ頃からのことなん

ですか。

石破:東京オリンピックが終わって、その年の12月に佐藤栄作総理がワシントンに行って、時

の大統領リンドン・ジョンソンと会談し、「中共も持ったのだから日本も核を持つ」と言って

いるんですね。しかしアメリカは結局、「あの日本に核を持たせてはならん」と。

そこでアメリカの核の傘を提供することと同時に、日本は核を作っちゃいけない、持っちゃいけ

ない、持ち込ませることもしちゃいけないという「非核三原則」が導入されることになる。こ

れが、中国が核実験をした後の一連の流れであると私は理解しております。

丹羽:日本が持つと言っているぞということに対して、当時の国際社会の反応はどうでしたか。

石破:当時はそれほど違和感を持って受け止められなかったと思いますね。

丹羽:核の傘NATOやその他のアメリカの同盟国にもあるのですか。

石破:NATOは基本的にはアメリカの核の傘に依存していますが、フランスはこれを是とせず、

シャルル・ド・ゴール大統領は「同盟とは共に戦うことはあっても、決して運命は共にしないも

のだ」と言って核を持つわけです。

丹羽:同盟とは傘に入ることじゃないと。

石破:はい。イギリスでは、ウィンストン・チャーチル首相がアメリカの核と原子力潜水艦の技

術をそのまま導入するという決断をしています。ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーなど

の非核保有国は、ニュークリア・シェアリングというやり方を導入し、自前の核は持たないが

有事においてはアメリカの核を使う権利を持つ、ということでやっています。

というわけで、日本のように「核の傘があるから大丈夫ですよね」と信じて何もしない国はあま

りないと言えるのではないでしょうか。

丹羽:いったいアメリカの核の傘というのは有効なのか。本当に傘になるのか。

石破:そうですね。核の傘というが、大きさはどれくらいか、穴が空いていたりしないか、どん

なときに差し、どんなときに差さないか、ということを定期的に確認しなければ、核の傘の実

効性は担保できないと思います。

丹羽:紙でできた傘かもしれない(笑)。

石破:それでは困ります(笑)。ですから、NATOの核を持たない国々は、アメリカとの間で、

事務レベルでも政治レベルでも核抑止力の実効性をつねに検証しています。これと同じシステム

を日米間にも作る必要があるということです。特にいま、何をやるかわからない北朝鮮が核ミ

サイルを持っていると主張しているわけですから。

丹羽:日本列島はすべて北朝鮮の核ミサイルの射程内ですよね。

石破:核弾頭の有無はともかく、日本列島を射程範囲とするミサイルは、15年も前から200〜30

0発ほど保有していると言われています。そして最近、アメリカも射程内に収めようとしていま

す。そういう状況だから、今こそ、核抑止力の実効性の検証と担保のシステムを構築すべきだ

と申し上げているのです。

使えない兵器が抑止力になるのか

丹羽:核兵器の応酬となれば1発、2発じゃないでしょうから、撃ち合いになれば地球は滅びち

ゃう。公式、非公式を合わせれば10カ国が核を持っているわけですから。でも、そんなことを

やっちゃいけないということをわかりながらやるのが人間だから、やるかもしれないけれども、

そこは自分の国だけじゃなくて世界を滅ぼしちゃう。最後の最後に踏みとどまる、それくらい

の知恵と分別は人間にあるだろう、と私は思います。

石破:それはそうだと思います。ですから、アメリカとロシア、あるいはアメリカと中国の間に

は核抑止はやっぱり成り立っていると思います。そこはいわゆる「恐怖の均衡」があって、お

互いが撃ち合ったら地球はなくなっちゃうからやめようねという。

丹羽:そうすると、核兵器というものは誰も使えないのだから、持っていてもあまり抑止力には

ならないのではないか。

石破:そこはどうでしょうか。仮に通常兵器だけだったら、核兵器よりももっと世界は安全にな

るのかというと、そうじゃないような気がしています。こう言うと核廃絶を唱える方から「こ

のばか者」としかられるかもしれませんが、いわゆる大量破壊兵器NBCと言われる核兵器と生

物兵器と化学兵器ですね、これらの兵器と比べると、おそらく通常兵器のほうが使用に対する

ハードルは低いだろうと思っています。

核だと何百万人、何千万人と死んでしまうから怖くて使えない。でも通常兵器だったら、そんな

にはいっぺんに死なない。市民を虐殺するんじゃなくて相手の基地だけたたくとか、指導者だ

けたたくみたいな話ですが、これはどんどんエスカレートしていく可能性が高い。

冷戦後、「恐怖の均衡」がなくなった世界では、やれ人種だ、宗教だ、民族だ、経済格差だとい

うので、あちこちで戦が起こるようになったと私は思っています。ですから大国同士では核の

抑止力というのは効いているし、今後も「使えない兵器」としての核の意味はあるんだろうと

私は思っております。それがバランス・オブ・パワーの理論の核になるのだと。

丹羽:大国だけが核技術を持っていれば、それは有効だと思うんですけれども、ほとんどの国が

核を持ったら、力と力の対抗で、あそこが10発持てば俺は15発持つとか、核兵器の増産競争に

なっていく。結局、核廃絶というよりも、1回、核凍結条約を国連で、ある一定年限を区切って

結んで北朝鮮の動きを止めさせる。そういうことをやるためには、核保有国10カ国なら10カ国

が廃絶じゃなくて凍結――持っているものを2年間凍結して、その間に、お互いにこれからの姿

というものを議論していったらいいんじゃないかと思うんですが。そういう動きは難しいんで

すか。

石破:それは凍結もできればいいなと思いますが、私たちは実務屋なものですから。

丹羽:凍結ができないとなると、北朝鮮が自分から核を手放すとは考えられないので、日本は核

の脅威にさらされ続けることになります。何かよい手はありますか。

石破:国民を守る手段としては、核の傘ミサイル防衛、国民避難。核の傘以外にも、日本はで

きることがいっぱいあります。たとえばいま、自民党の中で議論しているんですけれども、ミ

サイルを撃ち落とす能力というのはどこまであるんだと。イージスシステムによるSM-3迎撃ミ

サイルで撃ち落とし、これで撃ち落とし損ねたものを地上のパトリオットシステムによるPAC-3

迎撃ミサイルで撃ち落とす、これで相当高い確率で排除できるようにはなっているんです。

丹羽:でも、演習もやらないで、そんなもの撃ち落とせると言ったって、技術的に大丈夫なんで

すか。

石破:演習も実験もちゃんとやっています。ですが仮に百発百中としても、100発しか迎撃ミサ

イルがなければ、相手が120発撃ってきたらどうにもならないですよね。そうすると、北朝鮮

ミサイル基地を攻撃する能力を保有することは、別に憲法にも違反しませんし、専守防衛にも違

反しませんし、技術的にも可能なわけです。

核シェルターの必要性は?

石破:また、いまミサイル攻撃されても、国民はどこへ逃げたらいいのかわからない。改めて調

べてみたらイスラエルとスイスは、シェルターの面積を国民で割ってみると100%。国民をすべ

て収容できるだけのシェルターがあります。たぶん1人何平米で計算するんだと思いますけれど

も。

丹羽:シェルターってどれくらい深く掘るんですか。

石破:防衛庁長官のときに調べたんですけれども、広島では、原爆の爆心地近くでも地下1階に

いた人は、そのまま人生を全うされた。戦後30年ぐらいご存命だったらしいんですね。地下1階

にいるだけで助かるんだとわかりました。

丹羽:表へ出たらダメですよね。

石破:それはダメだと思いますが、地下にいた人は死なない確率が非常に高い。イスラエルも、

スイスも、スウェーデンも、フィンランドも、アメリカも、イギリスも、フランスも、シンガ

ポールも、地下シェルターを持っている。

韓国ソウルに至っては300%、つまり、ソウルに整備してあるシェルターは、1人分のスペース

で割るとソウル市の人口の3倍を収容できると言われています。北朝鮮と戦争になればソウルは

火の海だと言うんですけど、300%のシェルターだったら火の海になっても死者はぐっと減らせ

ます。

丹羽:それは1億2000万人の日本と5000万人の韓国との違いとか、田舎と都会の違いとかいろい

ろありますよね。結局、力と力でやったときに、世界的に見たら、これは本当に地球を滅ぼす

かどうかという結論に最終的に行ってしまう。やはりこれは何としても避ける、ということを

考えないといけないのではないでしょうか。

石破:そう思います。

丹羽:しかし、一方的にやられてしまうわけにはいかないから、防衛力というものを、専守防衛

という範囲で確保しなきゃいかんだろう。

石破:ですから、核の傘の実効性、ミサイル防衛の迎撃精度、策源地への反撃能力の保有、シェ

ルターの整備という、パーツパーツの信頼性を上げるしかないのかなと思っています。

丹羽:日本人は核や戦争について、正面から議論したがらない。こうした議論をもっとしなきゃ

いけませんね。

(インタビュー構成:亀谷敏朗)

(後編に続く)

不透明な核問題。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 北朝鮮核兵器の断念を迫るとはいえ

核兵器にだけこだわって多くの犠牲も強いてきたのであろうから

これを断念など、どこの国にもできようはずがない。

 北朝鮮における「ノドン」の問題も浮上してはいるが

これは日本の米軍基地の攻撃に向かうことになるのだろうかと

いろいろな臆測が波及してきていることもまぎれもない。

日本丸の舵はどのような

方向に向かおうとしているのでしょうか。

ひたすら核兵器のない日本を願い続けるしかありません。

アサヒコムより。

核戦略と日本 これが被爆国の談話か (2月7日)

これが世界唯一の戦争被爆国である日本政府のとるべき態度か。米国の核軍拡に追従する姿勢か

らは、「核なき世界」をめざす意思の片鱗(へんりん)も見えない。

米トランプ政権が出した核政策の指針「核戦略見直し」に対する反応である。核廃絶の理想を捨

て去った、この指針について河野外相は「高く評価する」とする談話を出した。

指針は、核を使う姿勢を強めて相手を抑止する発想に貫かれている。小型の核の開発で使いやす

さを高め、核以外の攻撃にも核で応じる可能性を示した。

河野氏は「核抑止と核軍縮は相反するものではない」というが、指針の内容は明らかに核軍縮

流れに逆行している。

究極兵器を使うハードルを下げ、予測困難な要因で核戦争に陥ればどうなるか。4年前の外務省

委託研究は、人口100万の現代都市で広島原爆級なら約27万人、水爆なら約83万人の死

傷者が出ると推計している。

核の非人道性を身をもって知る国として、日本には世界の核軍縮を率先する使命がある。なのに

、対米同盟の狭い枠内でしか核問題を考えていないのが今の日本政府の姿だ。

米国の指針は、昨年に国連で採択された核兵器禁止条約についても「全く非現実的」と冷視して

いる。指針に寄り添う河野氏には、条約を推し進める国際世論との接点を見いだす意欲もない

のだろうか。

東アジアの安保環境の中で、日本が米国の「核の傘」の下にあるのは事実である。だが、同じく

傘の下にあるドイツのガブリエル外相は米の指針に苦言を呈す。「核軍拡競争が進めば、欧州

は危うくなる。だからこそ新たな軍備管理・軍縮に動かなければならない」と。

おりしも、オバマ前政権がロシアと交わした戦略核削減の条約は今週に履行の期限を迎え、両国

とも削減達成を発表した。ここから世界は核軍拡・拡散に向かうか、核軍縮・廃絶に向かうか

、大きな岐路にある。

一昨年春、広島で安倍首相はオバマ前大統領と並び、核なき世界をめざすと語った。米政権が変

われば誓いも変わるというのでは、あまりに浅薄だ。

日本政府は毎年、国連に核兵器廃絶決議案を出し、核保有国と非核保有国の「橋渡し」役を任じ

てきた。いま一度、日本の責務を見つめ直す時だ。

同盟国だからこそトランプ政権の核軍拡に歯止めをかけ、冷静に北朝鮮問題の打開を探る。被爆

者団体と協調し、核廃絶をめざす外交の発信力を高める。その努力が求められている。

     山系より。

【正論】核保有により得るもの、失うものは何か 日本の核問題を理性的に論ぜよ 元駐米大使

加藤良三

北朝鮮の核・ミサイル問題は日本の国防を現実感をもって考える、好個の機会となるだろう。

≪アメリカは直ちに反撃に出るか≫

今、北朝鮮核武装というと専ら核弾頭と大陸間弾道ミサイルICBM)に焦点が当たる。し

かし、日本の立場からすると、既に北朝鮮が200基以上を実戦配備している核搭載可能な中

距離ミサイル「ノドン」が深刻な問題である。ノドンは最大射程1500キロでアメリカには

届かないが、日本全域をカバーする。そして実質的には、日本に向けられたミサイルである。

仮に日本がノドンによる(核)攻撃を受けたとして、アメリカが本土配備の戦略核をもってでも

日本を防衛するかという問題、いわゆる「デカップリング」がつとに提起されてきた。

それでも日本でノドンがそれほど議論されないのは、おそらく「北朝鮮の核は核以外の新型通常

兵器をもって始末できる」「ノドンによる対日攻撃はかなりの確率で在日米軍基地に対する攻

撃となろう。だから、アメリカがグアムやハワイの戦略爆撃機などですぐに反撃に出る」とい

う楽観論があるからだろう。

あるいは「火急の際に日本防衛ができないということでは、アメリカの権威や前方展開戦略の信

頼度が著しく傷つくことを当のアメリカ自身がよく分かっているはずだ」といった論拠に立つ

ものだろう。現にアメリカもそのような口頭の保障を1970年代以降、近くは2005年に

かけて日本に行ってきた。

しかし万一、北朝鮮の核保有を誰も止められなかった場合はもとより、一定条件の下(一例とし

て北が核化プロセスを「現状のまま凍結」、すなわちICBM実戦配備を停止するのと引き換

えに)北朝鮮が核保有国として認定されるといった展開になった場合には、日本では自らの核

武装をめぐる論議が本格化するだろう。

≪同盟は「運命共同体」ではない≫

ノドンを手つかずにしておくことは、日米ともに受け入れがたいはずだ。アメリカもそこはよく

理解していると思う。

アメリカのキッシンジャー元大統領補佐官、ペリー元国防長官、スコウクロフト元大統領補佐官

有識者は日本の核保有を現実的シナリオと捉え、それがアメリカにもたらす利害得失を分析

し、2003年頃には私自身、意見を求められたことがある。

1970年代には、日本でも核拡散防止条約(NPT)加盟をめぐって激しい議論が行われてい

る。NPTは普遍性の高い条約だが、発効時点(70年)で米ソ英仏中の保有の既得権を認め

る一方、非保有国の核化を禁じた。原子力の平和利用にも厳格な制約を課す「不平等条約」で

あり、「脱退」のハードルも極めて高いという理由からインド、パキスタンなどは加盟を拒否

した。

日本はアメリカによる核の傘提供の保障と、国の「至高の利益」(supreme inter

est)が損なわれるときには「脱退・核武装」を選択できるとの認識の下で76年、加盟に

踏み切った。

その後、日本は非保有国の最優等生となり、「核燃料サイクル」の保有という“特別の実利”を

得て今日に至る。その結果、日本はプルトニウムを約47トン蓄積し、早晩、兵器化されうる

ものとして周辺国などは神経をとがらせているようだ。

日本は核保有しなくても、非核兵器によって核の脅威に対抗できるという議論はあるだろう。そ

の場合はアメリカの抑止力との連結が必要不可欠である。緊急事態におけるアメリカの核持ち

込みへの制約の緩和(非核三原則などの一部見直し)といった施策は連結の強化に役立つだろ

う。

それでも、「同盟」は「運命共同体」ではない。対米信頼とは別に自国を守るための最終的手段

としての独自の核保有が必要だという議論もあるだろう。

≪議論を封殺することは禁物だ≫

英国やフランスの核保有はまさにそういう考え方に基づくものである。その方向に進む場合、日

本は日米安保体制へのインパクトを正しく分析することが必要不可欠である。

アメリカ政府が日本の核保有に肯定的か否定的かは即断できるものではない。核保有を選択する

場合、日本のNPT脱退は不可避である。国際的反響も見極めておくべきであろう。

要するに、核保有により得るもの、失うものは何か。実現のために必要な手順の如何(いかん)

について研究を進めることが重要である。実務者、専門家、有識者レベルの、冷静でタブーの

ない検討がまず求められよう。

そうした研究、検討を踏まえた国政レベルでの議論が行われ、民主主義、法治国家の定める手続

きを経て国策決定がなされるというのがあるべき姿だろう。

「先入観」に基づいて、議論を封殺することは禁物である。こうした議論自体が、健全な「抑止

力」につながることも期待できるだろう。(元駐米大使・加藤良三 かとうりょうぞう)

「巡礼日記」亡き妻と歩いた600キロの本に触  垣添忠生れ

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 癌治療に40年かかわってきた作者は

妻のがん、わずか四ミリのがんを救うこともできず

七年前に40年連れ添った大切な命を失ってしまった。

子供はいなかったけれどその暮らしの一つ一つ、ともに見た素晴らしい風景が

走馬灯のようにおもいだされ精神的にも追い詰められて拭い去れない悲しい日々が離れることは

なかった

 そのような心理状態の時朝日新聞の社長が巡礼から帰ったその精悍で迫力ある姿に接し

苦悩と悲嘆に別れを告げなければ

いつまでも立ち直ることなどできないとの思いもあった。

巡礼の旅に出ることにした。

この線タック紙は、一番困難な盛夏を選ぶことにした。

 人生の選択の際も、いつも困難を選択してきた経緯がある。

 巡礼とは聖職的宗教的意味合いが多いいが、退職後運動を兼ねて挑戦する人も

少なくないと聞かされている。

                                        妻絵の

慰霊の念が強かった。

 あえて悪条件を受け入れての巡礼の出発であった。

 身体的にも自信がないわけではなく、事前準備も

それなりにできてもいた。

 にもかかわらず二週間ほどは身体の各所が痛み

じりじりと照り付ける酷暑にも惨敗状態で

「もうかえろう」と何度思ったかしれない。

遍路道にはそこここに小さな思いやりが感じられ

またいたるところで日ごろでは感じることのない【お接待】のおもてなしに出会い

言葉を失うほどの感激に感謝の気持ちでいっぱいであった。

                   巡礼を 思い立った同機には

妻絵の鎮魂の祈りを込めて遍路の旅に出ようと思っても来た。

妻の慰霊が7年の節目を誘ったのかもしれない。

巡礼から20日ほど経った頃より、筋肉の痛み、あせもで夜も眠れぬ日は続いていたけれど

そんな頃より少しづつ体が順応できるようにもなっていった。

それまでは、精神力もほとんどピーク状態であったし

何しろものを考える脳が機能を断念していたのである。

景観にさえ、目を奪われることはなかった。

20日を過ぎるころには少しづつ過酷な条件になれ始め、体の痛みもなくなり

20キロを超える歩行にもゆとりをもって宿に着くことができるようにもなっていった。

今回最後の33番札所金剛福寺を目指すころには、季節の移ろい、アスファルトに多くの昆虫た

ちの死骸などにも心を奪われるまでのゆとりもできていた。

 この600キロの遍路の旅は取り合えづ中断することになった。

目的は妻への鎮魂の祈りではあったが

遍路の半ばごろより妻への感謝の気持ちに自然の流れとして変わっていった。

今では妻が傍らにあって、絶えず見守り続けてくれているように思えている。

 遍路の旅を通して健康な肉体にこそ健全なる精神が宿ることを

改めて認識できたとは作者の言葉。

この本に接し、死者との別れは誰にでもある。

その悲しみ苦悩は誰もの登竜門でもある。

老いて連れ合いを体験すると

その悲しみを乗り越えるランドマークは必要でもありまた時の流れが

死者に対する悲しみを 気が付けば自然に吸収してくれてもいる。

 お四国における遍路でのおもてなしに出会った人は少なくなかろう。

そのような無償のおもてなしに出会う機会など

通常生活においては少ないはずである。

酷暑にいただくいっぱいの冷水はのど越しだけではなく

心の渇きまで救ってくれるのではないのでしょうか。

では、通常生活においてどれほどの相手に対する思いやりの心が

手向けることができているのだろうかと深く反省することができたら

どれだけこの社会が明るく豊かな気持ちになれるのであろうかと

深く思いを致した感想を持った本でもありました。