癌サバイバーとして生きる。

     ご機嫌いかがでしょうか。 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 泌尿器科の先生でもあり、また自らも【癌サバイバー】でもある

垣添忠生先生が76歳にもかかわらず全国縦断の旅3500キロ」の

ウオーキングの旅を通して癌に対する理解を深めたいと実行に至られた。

そのためのトレーニングにも余念はない。

まず驚いたのが、毎日腕立て伏せ130回です。

お会いできるものならそのすばらしい筋肉に触れてみたいものだ。

みこばあちゃんは、わずか7回ほどでギブアップです。

人生の目標値有ればこその頑張りなのだと平伏しております。

 五年以上の生存率も増える中、労働条件の確保も必須条件ともなる。

誰もが鳴って当たり前のがんをもっと自分に引き寄せて考えたいテーマでもあります。

  先生は本日、半年ほどをかけて

小雪舞う,佐賀県を「癌の理解を深める継発活動」

北海道めざしウオーキング 3500キロのたびに

出発された。

 どうぞより製缶になって帰られるお姿をお祈りいたしております。に

     アサヒコムより。

がんで妻亡くし、自身も…垣添忠生さん「孤立させない」

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がんで妻を亡くし、自身もがんを経験した日本対がん協会長の垣添忠生さん(76)が2月から

約半年かけて全国を歩いて回り、がんサバイバーへの支援を呼びかけます。がんとの共生社会

の実現にかける思いを聞きました。

〈特集「がんとともに」〉

がんサバイバーへの支援訴え、全国縦断へ

 2018年2月5日から約半年かけて、「全国縦断がんサバイバー支援ウォーク」に挑戦しま

す。目的はがんサバイバーへの理解を深めてもらい、支援策への寄付を呼びかけることです。

〈がんサバイバー支援を訴え全国ウォークに出発する日本対がん協会会長の垣添忠生さん=山本

和生撮影〉

がんサバイバーとは、がんを経験したことがある人や治療中の人のことを指します。推計で約7

00万人います。

福岡市にある九州がんセンターを最初に訪問し、全国がんセンター協議会に加盟する病院32カ

所を歩いて回ります。ゴールは札幌市にある北海道がんセンターで、総移動距離は約3500

キロ。このうちの一部では電車などを利用するかも知れませんが、体調や日程が許す限り歩き

ます。3千キロは自分の足で歩くつもりです。日程などは、特設サイト(〈https://www.gsclu

b.jp/walk〉)で随時、お知らせします。

かきぞえ・ただお

1941年大阪府生まれ。日本対がん協会長。東京大学医学部卒。泌尿器科医として膀胱(ぼう

こう)がんや前立腺がんなどの治療に携わる。2002〜07年国立がんセンター(現・国立

がん研究センター)総長。著書に「妻を看取(みと)る日」(新潮社)。

国内では、生涯のうちに2人に1人ががんにかかり、3人に1人ががんで亡くなります。がんは

誰がいつなってもおかしくない病気ですが、実際にがんと診断されると多くの患者さんは強い

疎外感や孤立感を感じます。不安を抱え、インターネットで熱心に調べますが、そこには玉石

混交の情報があふれています。例えば、免疫療法の中には科学的根拠のないものも多いのです

が、患者さんや家族はそうしたものにすがりがちです。健康食品もそうです。

〈インタビューに答える日本対がん協会会長の垣添忠生さん=東京都中央区、山本和生撮影〉

患者を孤立させないために

 患者さんや家族が必要とする情報や、信頼できる情報を届けたい。患者さんや家族、友人らが

支え合う場をつくりたい。そう考え、日本対がん協会は2017年6月、「がんサバイバー・

クラブ」を発足させました。

クラブのスローガンは「がん患者を孤立させない」。ウェブサイト(〈https://www.gsclub.jp

/〉)では、がん関連のニュース、予防や治療などに関する信頼できる情報を発信しています。

相談業務や患者さんらが交流できるイベントも開催しています。このクラブの活動は会員の寄付

によって支えられています。会員は現在、約1千人ですが、がんサバイバーが1千万人を超え

る時代がいずれ来ます。その1割にあたる100万人に会員になってもらうことが目標です。

全国を歩いて支援を呼びかけようと、今回の「全国縦断がんサバイバー支援ウォーク」を企画

しました。

新たにがんと診断される人は毎年約100万人。治療法の進歩で5年生存率は6割を超えます。

がんが治る病気、ともに生きることができる病気になってきたからこその問題も出てきました

。治療と仕事の両立の問題です。働く世代(20〜64歳)の患者さんは3割を占めます。し

かし、厚生労働省研究班の調査では、働いていてがんと診断された人のうち、3割が依願退職

し、約4%は解雇されていました。社会のがんに対する誤解や無理解が原因でしょう。

〈インタビューに答える日本対がん協会会長の垣添忠生さん=山本和生撮影〉

妻失った悲しみ癒やそうとお遍路へ

 私自身も50〜60代で、早期の大腸がんと腎臓がんを経験しています。妻は06年、増殖が

早くて転移しやすい肺がんの一種・小細胞がんと診断され、放射線治療抗がん剤治療を受け

ましたが、全身に転移し、07年の大みそかに自宅で亡くなりました。自宅で過ごせたのは4

日間でしたが、入院中にはほとんど食べられなかったのに、自宅では好物のアラ鍋を喜んで食

べてくれました。在宅療養が起こした奇跡でしょうか。

妻とは研修医の時に出会い、40年間連れ添いました。その妻がいなくなった後、昼間は国立が

んセンター(現・国立がん研究センター)の名誉総長としての仕事をこなすことでつらさを和

らげることができましたが、夜はお酒をのんでばかりでした。何を食べても砂をかんでいるよ

うな味しかしませんでした。まさに自分の半身をもがれたような感覚です。

15年夏から17年夏にかけては、妻を失った悲しみを癒やすため、四国の八十八カ所霊場を歩

いて回りました。妻と一緒に歩いている感じがしました。

〈お遍路を始めた頃の垣添忠生さん=2015年、本人提供〉

今は毎日、腕立て伏せを130回、腹筋500回、背筋とスクワットを100回ずつ、さらにス

トレッチもしています。1日に1万歩は歩き、右ひざに少し痛みがある以外は健康です。

〈インタビューに答える垣添忠生さん。屈伸運動の様子を見せてくれた=山本和生撮影〉

日本対がん協会は民間団体としてのフットワークの軽さを生かし、国のがん対策としっかり連携

して、血の通ったがん対策を進めたいですね。がん対策基本法も、全国がん登録も、多くの人

が必要だと言い続けることで実現しました。がんサバイバー支援の重要性も訴え続ければ、世

の中は少しずつ変わると信じています。(聞き手・南宏美)

〈かきぞえ・ただお〉 1941年大阪府生まれ。日本対がん協会長。東京大学医学部卒。泌尿

器科医として膀胱(ぼうこう)がんや前立腺がんなどの治療に携わる。2002〜07年国立

がんセンター(現・国立がん研究センター)総長。著書に「妻を看取(みと)る日」(新潮社

)。

いじめによる自殺者、教員では対応できない。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 友達をかばっていじめ側に回り自殺した息子。

息子の夢は人の役に立つ警察官になりたいと未来を語っていた。

そんな子供が「なぜ」と悲しむ両親。

息子の死から一年、

両親はいじめられている子供たちを救いたいと立ち上がった。

どうか心のおまわりさんであり続けていただきたいものです。

いじめ対策は教員では正直無理です。

専門家と警察官を配備すべきです。

教員の子供に向き合わない答弁にはいつもうんざりさせられます。

事後弁護に終始する職員に任すことはできません。

     アサヒコムより。

友人かばい、いじめで自殺 調査で浮かんだ息子の優しさ

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小さないのち 悲しみと歩む

 2010年6月、川崎市の中学3年生だった篠原真矢(まさや)さん(当時14)の姿を自宅

で見つけたのは母親の真紀さん(51)だった。救急隊員や警察官にいろいろ聞かれたが、よ

く覚えていない。告別式の最中も現実感はなく、ドラマの中にいるかのように感じた。ひつぎ

にふたをするとき、別れが本当のこととして胸に迫り、声を上げて泣いた。

〈中学校の桜の前に立つ篠原真矢さん。人の役に立ちたいと、警察官になるのが夢だった(20

10年4月撮影、遺族提供)〉

4人の同級生からいじめを受けていた。いじめられていた友だちをかばっているうちに、真矢さ

ん自身も2年生のころから標的になった。頭をたたかれる、馬乗りされる、蹴られる、ジャー

ジーのズボンやパンツを下ろされる……。「いじられキャラ」に見立てられてしまった真矢さ

んへのいじめは、しだいにエスカレートしていった。

自殺の前月、真矢さんはいじめていた生徒1人の教科書をカッターで切り裂いてしまった。「こ

れこそSOSのサインだったのに」と、市の教育委員会で調査にあたった当時の担当者は悔や

む。

【これまでの連載】

〈特集「小さないのち」〉

〈「死んじゃう」虐待耐えた日々…私にも分かることあるよ〉

学年の男子全体に「うざい」「死ね」など乱暴な言葉が広がっていたが、組織的な生徒指導はな

かった。調査報告書は、担任の認識が甘く、教員間の連携も不十分だったと指摘。いじめが自

殺の一因になったと結論づけた。

篠原さん夫妻は、学校や市教委との話し合いなどにあたり、いじめで自殺した子の遺族らでつく

NPOの支援を受けた。真矢さんの死から1年ほどたち、夫妻はそのNPOで遺族を支える

側に回った。そんな気持ちになれたのは、市教委の調査結果を受け入れられたことが大きかっ

た。

わが子を自殺で失った両親が、同じような境遇の遺族に寄り添いながら、学校でのいじめや事故

の防止を訴えている。いじめられた友人をかばい、自らも標的になった息子。なぜ死に追いや

られたのか。本人の気持ちをくみ取ろうと努めた教育委員会の調査を受け入れたことで、両親

は前を向けた。

市教委の2人の調査担当者は真…

余命先刻をどういきるか?

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 産経新聞記者の末期がんとの闘いに触れ

命の重さを深く考えさせられる機会をいただけたように思う。

 私の家族も親族までも、皆癌で壮絶な最期の苦しい中の旅立ち送ってきています。

家族のつらさに思いを寄せることが多かったことを記憶として残念に思っています。

 48歳のいとこが、骨折入院の私を見舞ってくれた時のことが忘れることができません。

それは3月の末日でした。

息子を連れ、「この子が京大に合格し弁護士を目指しているのだ」と

とてもうれしそうだった様子が鮮明に思われます。

日ごろのいとこは私的なことなど話さない性格でした。

両親思いのとても優しい性格にいつも慰められてもいました。

 そんないとこが5月の下旬に骨肉腫で入院してから

わずか3か月程で大急ぎで永眠してしまいました。

その時も痛みにただただ苦しみ、家族の付き添いさえも

いたたまれないほどの状態に、親族も見舞うことさえできず

本当に苦しくいばらの最後の人生のゴールでした。

優しすぎるほどのいとこの最後にやりきれないほどの無常観を味わったものです。

 みこばあちゃんの最後は決めています。

今までもどのように苦しくても医者にかかったことはありません。

事故とか外傷は除きます。

診断も受ける気がありませんので癌になっていてもそれを認識することはないとの覚悟で

暮らすことになると思います。

癌特有の痛みにどれほど耐えられるか、これは忍耐との戦いそのものです。

 

 わが叔父も癌を発症していながら最後に近い生前一か月までは我が家で

頑張り続けてなくなりました。

叔父も家族に対する気配りは最後まで苦しい様子も話すことなく

あっぱれな最期の永眠でした。

 余命先刻からの自分の在り方はそれなりにシミレーションしてはいても

現実任せになってしまいますが

人生のしっぽの先まで委託もつらくも感じきって入れたならと願うばかりです。

  余命先刻社の引用文です。

デザイナーの広林依子と申します。私は現在29歳の、ごく普通の女性で、独身です。友達とカ

フェでワイワイ話したり、おしゃれを楽しんだり、ときには海外旅行に出かけたりしている普

通の生活を送っています。他の人と違うのは、3年前の26歳のときに乳がんを宣告され、そのと

きすでに骨に転移しており、それからステージ4のがん患者人生を送っていることです。

このブログでは、デザイナーの私が考えた、【ステージ4のがん患者のライフデザイン】の1例

を紹介していきます。今回は、余命を宣告されてからの生き方ついて書いてみます。

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・余命1ヶ月の宣告、大人しくしていたがんが突然暴れだす

私は乳がんが発覚したとき、すでにステージ4だったので手術はしませんでしたが、すぐに半年

間の抗がん剤の治療をしました。その後、がんの進行スピードが遅くなり、体調的には安定を

保っていました。手術をしなかったため、結果として体力や免疫力があまり落ちず、幸い身体

のパフォーマンスは良かったのです。

ステージ4のがんを治療する上で、私はずっと「生きる長さ」ではなく、「生きる質」(QOL

を大切にしてきました。残念ながら、長さと質の両方をとることはできません。だから、出来る

限り副作用が少ない治療法を選択し、出来る限り「生きる質」を保つことを優先したのです。

がんの転移などの症状が現れたときは、その都度、対症療法をするかたちでがんと付き合ってき

ました。例えば、肺に転移したときは副作用の軽い飲む抗がん剤を服用し、背骨を圧迫骨折し

たときは、放射線治療をして下半身麻痺の危機をギリギリのところで回避しました。皮膚転移

や、最初にがんを発症した胸の皮膚からがん腫瘍が露出して出血したときにも、放射線治療

抑えました。

こう書くと色んな症状が起きていて大変じゃないかと驚くかもしれませんが、進行する症状をな

んとか抑えながらも普通の生活を送ってきたのです。服を着て化粧すれば、見た目には全く普

通の人と変わりません。一人暮らしをして、みなさんと同じようにお出かけを楽しんでいまし

た。

しかし、最近になって状況は一変しました。

肺の「癌性リンパ管症」を発症したのです。がん細胞がリンパ管に入り込み増殖し、リンパ管が

ふさがれてリンパの流れが妨げられている状態で、胸水が溜まったり、呼吸が苦しくなったり

する症状が表れます。

この症状が起きた場合の平均的な余命は3?6ヶ月といわれています。

発症後も1ヶ月ほどは今まで通りの生活をしていましたが、ある日を境に急に体調が悪くなりま

した。疲れやすくなり、すぐに息切れをするようになりました。次第に食欲も落ちて咳が止ま

らなくなり、「このままだと数日後に倒れる」と感じてタクシーで病院へ。主治医の見解は「

このままのスピードで進行すると、余命は1ヶ月ほどしかもたない」というものでした。

そう言われた瞬間、最初に思い浮かんだのは「時間がない!」でした。「癌性リンパ管症」の症

状は理解していて、「スピード感をもって生活しないといけないかも」とは思っていましたが

、さすがに1ヶ月と聞いて、私の心はざわつきました。

しかし、不思議とすぐ冷静になれました。

そして、私の中に、【静寂】が流れました。

・自分の余命を宣告されて、【静寂】を感じられた理由

自分の余命を宣告されたのに、私が感じたのは【静けさ】でした。不思議と焦りや悲しみは湧い

てこなかったのです。なぜでしょうか。

それはもしかしたら......、もうすでに今まで身に起きた現実や限りある命と向き合い、とこ

とん生きる術を考え、自分の中で生きる目的のようなものを見出してきたから。自分なりに納

得感のある日々を送ってきたからかもしれません。

今死んだら、楽しい人生だったなって思える。今後の人生がなくなっても、それはそれで、自分

自身は楽になると思える。自然にそう思えたのです。

29年間、人生における酸いも甘いも一通り経験できた。とくにこの3年間には、厳しい現実も辛

い治療もうれしい瞬間もたのしい経験も、ぎゅっと濃縮されていました。

余命宣告されるという状況は、前から想定していたことでもありました。もう余命が1ヶ月しか

ないなら、頑張ったご褒美として、もう静かな時間を自分に与えてもいいんじゃないのかと思

えました。

だから、緩和ケアの先生に「今の心境は?」と聞かれた時、自然と「静かな時間が流れています

。川のせせらぎのように、とても穏やかです」と答えられたのです。

water

それどころか、もう困難に立ち向かわなくていいんだと思うと、「だったら私の大切な【生産活

動】に専念したい!」とチャレンジ精神まで湧いてきました。1日後には、こんな楽観的な考え

が浮かんできたほどです。

・緩和ケアか、抗がん剤治療か。自分の生き方に徹底的に向き合う

それでも、「最後のお願いだから、積極的な抗がん剤治療を受けてほしい。」と、色んな人が言

ってくれました。

余命1ヶ月の宣告を受けた後であっても、幸い私にはまだ治療の選択肢がありました。同じ立場

で治療法がない人もいます。私の場合は、抗がん剤治療は使える薬の数が限られているので、

いざという時のために薬のカードを残していたのです。抗がん剤治療か、緩和ケアか。私は最

後まで悩みました。

余命宣告から2日後、ついに「もうこの日までに決めないと緩和ケア一択になります」と主治医

に言われた最後の日が来ました。「このまま緩和ケアで辛さを取り除きながら死ぬのも悪くな

い」とも本気で思いましたし、一方「積極的に生き続けることは、新たな可能性に出会えるこ

とにもつながる」とも思いました。

最後の最後まで非常に悩みました。徹底的に自分と向き合い、最後の瞬間を決めるまで悩みまし

た。

最終的に、私はまた抗がん剤治療を始めました。「生を延長したい」という人間の本来が持つ生

存本能が勝ったのです。

私は今、晴れやかな気持ちで治療を受けています。それどころか、余命宣告をされて川のせせら

ぎのようだった静寂の時間に、光がキラキラとまばゆく当たったような、そんな心境になって

います。こうしてブログを書くことで、さらに今後の生き方に迷いが無くなりました。

です。

伝えておきたい延命治療。

     ご機嫌いかがでしょうか。

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 玉川において自殺された西部邁さんが語るもの。

少し前までは死に対する言葉自体たぶうとされていた。

それが今では堂々と死を語ることができている。

 みこばあちゃんは終わり良ければ総て良しとの考えです。

「まあー、なんと」と驚かれるかもしれませんが

人生のゴールのためだけに生きてきたのかもしれません。

死は人生の大テーマである。

多くが医療機関で高度医療を受けながら

延命処置を受けることが当たり前のようになってもいる。

作家の遠藤周作さんはかつてから延命治療の放棄を語り続けておられた。

でも最後は延命処置での見取りであったはず。

願い通りにいかないこともままある。

病院側でも治療を放棄するのであれば自宅に連れ帰ってくださいと言われる。

これは至極当然ともいえよう。

消極的治療を選択するのであれば家族は自宅での見取りが要求される。

そうなると困るのが家族と言わざるを得ない。ん

家族として家において寄り添い看護のできる人は少ない。

できるならびょういんにおねがいしたいのがほんねでしょう?

そのための自然死を支援いただける施設の存在は希望の星ともいえるでしょう。

 西部さんは長らく奥様の介護と見取りも体験しておられます。

だからこその自死であったのだと妄想します。

自殺に至る前には体調不良もあったのだそうです。

でも残された家族の思いを図ると言葉もありません。

また人生の週末には希望とは別に経済問題まで絡めて考察しなければなりません。

大往生と行きたいところですがままならないのが現実です。

     アサヒコムより。

人はいかに最期を迎えるか 西部邁さんの死が問いかける

異論のススメ

 去る1月21日の未明に評論家の西部邁さんが逝去され、朝日新聞に私も追悼文を書かせてい

ただいた。西部さんの最期は、ずっと考えてこられたあげくの自裁死である。彼をこの覚悟へ

と至らしめたものは、家族に介護上の面倒をかけたくない、という一点が決定的に大きい。西

部さんは、常々、自身が病院で不本意な延命治療や施設で介護など受けたくない、といってお

られた。もしそれを避けるなら自宅で家族の介護に頼るほかない。だがそれも避けたいとなれ

ば、自死しかないという判断であったであろう。

このような覚悟をもった死は余人にはできるものではないし、私は自死をすすめているわけでは

ないが、西部さんのこの言い分は私にはよくわかる。いや、彼は、われわれに対してひとつの

大きな問いかけを発したのだと思う。それは、高度の医療技術や延命治療が発達したこの社会

で、人はいかに死ねばよいのか、という問題である。死という自分の人生を締めくくる最大の

課題に対してどのような答えを出せばよいのか、という問題なのである。今日、われわれは実

に深刻な形でこの問いの前に放り出されている。

簡単な事実をいえば、日本は超…

介護保険、意味あるトータルケアー。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 介護保険の在り方については思いはそれぞれでしょう。

 このたび自立支援に対するリハビリ加算も実施されることになった。

 だがこれには疑念が残る。

個人に対する自立はとても必要ではあります。

でもこれが家庭で生かせるかと言えばそうでもないのが現実です。

 自立支援を目的としたリハビリ施設〈老健〉が誕生し

退院後の自立支援の場所としての誕生がありました。

でもどれほどの機能と役割を果たして来たことでしょう?

これはほとんどが無意味でした。

 百歩譲って自立が可能であったとしましょう。

でも以前のように掃除洗濯などの家庭作業ができきるわけではありません。

でも介護保険はこれらの削減に動いています。

身辺の自立は、家庭作業までできて初めて自立と言えます。

これは買い物も含まれます。

どうにか、身辺動作はできたとしても見守り生活は必要です。

 施設入所の実態も、二重ロックで、太陽も浴びることなく老人飼育が実情です。

これも一人暮らしができなければ甘んじるしかありません。

 トータルケアーができて初めて自立の道が獲得できると

いえることになるのではないのでしょうか。

介護保険は実行可能な分野の支援がほしいものです。

リハビリ目的と称しこれからは無意味な利用者が俗室するにすぎないと思います。

身近に家族の支援があってこその意味ある自立リハビリです。

     日経より。

この改定では介護保険の未来が危うい

政府は介護サービスの公定価格である介護報酬を4月に改定する。介護保険制度を安定的に維持

するには、メリハリをつけながら総額の伸びを抑えることが欠かせないが、一連の見直しはあ

まりに踏み込みが足りない。団塊世代がすべて75歳以上になる2025年に向け、一層の改革が要

る。

 介護報酬は事業者の経営状況などを勘案して政府が3年ごとに見直している。医療の診療報酬

改定は2年ごとで、18年度は6年に1度の同時改定の年だ。医療職の人件費などに充てる診療

報酬本体は0.55%増が決まっている。

 介護報酬の総額については0.54%増が決まっていたが、政府はこのほど個々のサービスの具

体的な内容と金額も定めた。

 今回の見直しの柱は、利用者の自立支援や重度化防止につながるサービスの後押しだ。リハビ

リを重視したほか、心身機能の維持・改善で一定の成果を上げたデイサービスに報酬を加算す

る仕組みも盛り込んだ。

 ただ、今回の加算はわずかだ。どのような介護サービスが効果的なのか。実践と研究を積み重

ねることで、幅広く改定に反映していく必要がある。

 介護費用の膨張を抑える策は不十分だ。特に問題なのは料理や掃除などを手伝う訪問介護の生

活援助だ。担い手を増やすため資格要件を緩和するが、それにともなう報酬の減額は45分以上

でも20円。サービスの過剰利用を防ぐ対策も始まるが、効果は未知数だ。

 介護の総費用額は制度創設時(00年度)の3.6兆円から17年度は10.8兆円に増えた。25年度に

は20兆円との推計もある。

 介護職員の処遇を改善し人材を確保するのにも費用がかかる。真に必要な人に質の高いサービ

スを届けるためにも、制度の根幹に切り込んでいくべきだ。

 第一に、公的な保険でカバーする範囲と自分で負担してもらう範囲を改めて見直すべきだ。た

とえば生活援助では、軽度者を給付対象から外すべきだろう。

 国民の負担を増やす議論も避けては通れない。今は保険料を払うのは40歳からだが、これを2

0歳以上に広げるのが一案だ。低所得者に配慮しつつ、利用者の自己負担を上げる方法もある。

 負担は軽いままサービスは手厚い。そんな魔法の処方箋はない。国民の理解を求め、改革を実

行するのは政治の責任だ。

特養における「見取り介護」に報酬加算。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今年は医療と介護の同時改定となります。

目玉としては特養などにおける(看取り)に介護報酬が加算されたことでしょうか。

 独居老人の最後が病院でなく特養で見取りが介護保障に支えられ

終末を施設で看取られることは安心がプラスされることになります。

でもこの施設の選択は、どこでもとはいかないため

入所前の下調べが求められます。

民間における、終末の一括サービスなどの民間業者が企業を展開していますので

これには信頼の手続きにおける困難さもあるため

社会福祉協議会がそのサービスの提供いただけたならと思います。

 これからの終末自然死を希望している人もたくさんおられると思います。

人生のゴールインはわがテーマとして

可能な限りシミレーションできたらと思っています。

     産経より

。【ゆうゆうLife】医療・介護報酬改定 特養の看取り環境を整備

    山系より。医療と介護、双方の努力実るか

介護サービスの価格にあたる「介護報酬」が今年4月から変更される。報酬の改定は3年に1度

で、今回は高齢化の進行に伴う“多死社会”の到来に向けて、終末期の環境を整備した。特別

養護老人ホーム(特養)では、たんの吸引など医療も必要な人を受け入れられる施設への報酬

を新設。特養と契約する非常勤医(配置医)が入所者を緊急に診察したときの報酬も創設した

。暮らし慣れた特養で、本人の望む「看取(みと)り」ができるか、注目される。(佐藤好美)

外部医療職の訪問も

人件費の高騰などで収支が悪化している特別養護老人ホーム(特養)について、厚生労働省は今

回の介護報酬改定で基本的な報酬を引き上げた。また、たんの吸引などが必要な入所者を受け

入れられる施設の報酬を新設した。

さらに、配置医が、深夜や早朝に入所者を緊急診療した場合の報酬を新設。実際に「看取り」を

行う施設の報酬も上積みした。入所者の重度化が進むなか、本人の希望に合った場所での看取

りを促すものだ。

特養で看取りを行った場合にはこれまでも、施設には一定の上乗せがあった。住み慣れた場所で

最期を迎えたい、迎えさせたいという入所者や家族の希望もあり、看取りを行う施設は増えて

いる。一方で、今でも看取りのためにだけ病院に救急搬送する施設もある。

理由の一つは、特養と契約している配置医が施設で看取りをしたときの評価が、深夜や早朝の対

応が必要にもかかわらず、介護報酬では明確になっていないこと。

配置医は一般に、週1回程度、入所者の「健康管理」に訪れる。主な業務は健康管理であり、も

ともと、急な容体変化や看取りの対応は想定されていない。そのため、施設を訪問する頻度や

緊急対応など診療内容や契約は、医師と施設によってまちまちだ。

実際、厚労省が介護報酬を検討する専門分科会に示した資料でも、配置医が施設に緊急対応した

頻度について、1カ月に「0回」と答えた特養は4割を占め、休日では「0回」が6割。緊急

対応に医師が消極的にも見えるが、正当な評価がないことが原因だと指摘されていた。

もう一つの課題は、看取りの評価は、介護報酬だけでなく、診療報酬にもあるが、片方しか算定

できないこと。施設で介護職と医師が入所者を看取っても、特養側が介護報酬を加算されると

、医師側は看取りに関する診療報酬の加算を受けられない。

平成30年度は医療と介護の同時改定の年にあたることから、厚労省は診療報酬改定で、この改

善も図る。外部の医師が特養で看取りを行った場合は、一定要件の下で特養側も医師側も報酬

を受け取れるようにする。また、これまでは特養に外部から訪問看護師が入ることはできなか

ったが、入所者の終末期に訪問看護師が入り、サポートできるようにする方針だ。

入所負担増なさそう

個々の介護報酬の引き上げにより、一般には利用者負担も上がるが、介護保険には所得に応じた

負担限度額がある。世帯に住民税を課税される人がいなければ、施設入所費自体には負担増は

なさそうだ。

今回の介護報酬改定では、特養や新設される「介護医療院」など、「施設サービス」の報酬引き

上げが目立つ。自宅での生活を支える「在宅サービス」では、終末期の患者を多く抱える訪問

看護ステーションの報酬を引き上げる。また、これまではケアプラン(介護計画)の臨機応変

な変更が手続き上、難しかったが、簡素化する。がん末期などで容体の変化が著しい患者に柔

軟に対応できるよう、ケアプランを作成するケアマネジャーの報酬も引き上げ、在宅で最期を

迎える人の環境も整えていく。

「人は亡くなる」心の準備に意義

横浜市にある特別養護老人ホームの施設長は、今回の介護報酬改定について、「たんの吸引など

、医療が必要な人の受け入れをしている施設を評価してもらった」と歓迎する。

特に注目しているのは、施設看取りがきちんと評価され、環境整備が進みそうなこと。看取りの

できない施設では、容体が悪化すると、ギリギリまで施設で対応し、最後は救急車で病院に搬

送する。「だが、搬送中や搬送直後に病院で亡くなると、事件が疑われ、警察が介入すること

もある。その苦労は、われわれも十分に承知している」(施設長)。

実際、この施設長の特養も、少し前まで看取りができなかった。配置医が緊急時には対応してく

れなかったからだ。6、7年かけてアプローチした別の医師に対応してもらい、看取りができ

るようになったのはここ数年だ。

だが、現行制度では特養側と医師側の双方が同時に看取りの報酬を受けることはできない。だか

ら、この特養では、医師に看取りの診療報酬を受けてもらい、自分たちは対価をあきらめてい

る。

職員には負担が生じている。“そのとき”が近づくと、見守りの介護職を増やし、施設の看護職

も呼び出しに対応する。

施設長はこう話す。「職員は今は、人は亡くなるんだと心の準備をし、特養の存在意義もそこに

あると考えるようになった。医療側の努力も、施設側の努力も双方を評価してもらえるように

なるとありがたい」

学校であればこそ、使ってほしかった(AED)、

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 普通に元気に家族に身を繰られた登校生桐田さん6年。。

そんな元気な子供が、物言わぬ子として帰宅するなんて

誰が信じることができるでしょうか。

その日はマラソンの選考会で1000キロメートルを走り切り

ゴールとともに倒れこんでしまったという。

場所と言えば学校である。

しかもいったんは保健室に運ばれたという。

救急車到着までの時間は10分もあったという。

 学校には(AED)がきちんと供えられていたにもかかわらず

それが使われることもなく

何ら措置されなかったことが不可思議としか言いようがない。

AEDが供えられて久しいと思います。

使い方はとても簡単です。

学校であるならば、職員全員これが使用できることは当たり前です。

命を預かる職員が、手をこまねいているとは

誠に職務怠慢として処罰は欠かせません。

 母の背中を見てきていた娘は

将来の夢は白衣のてんしであったという・・・。

助かったかもしれない若き未来アル命のエンディングは誠に無念としか言いようがない。

使いこなしたいAED。

AEDは簡単3ステップ 音声ガイドに従って操作します

1.フタを開けると 自動電源ON

2.電極パッドを胸に貼る

3.ボタンを押して 電気ショック

1.フタを開けると自動電源ON 写真

2.電極パッドを胸に貼る 写真

3.ボタンを押して電気ショック 写真

AEDの使い方|AEDの基本情報|AEDライフ

http://www.aed-life.com/information/use.html

     アサヒコムより。

使われなかったAED 少女死亡の教訓、救助モデルに

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小さないのち 悲しみと歩む

 「ママ、大好き」「何言ってんのー」。2011年9月29日朝、小学6年生だったさいたま

市の桐田明日香さん(当時11)は冗談交じりに母親の寿子さん(47)に投げキスをして、

自宅を出ていった。

〈桐田明日香さん。好きな言葉は「ありがとう」。だれに対しても優しい子だったという=遺族

提供〉

その日の夕方、駅伝のメンバーを選ぶ選考会が校庭であった。明日香さんは全力で1千メートル

を走りきった直後に、倒れた。

教師らは呼吸があるなどと判断し、担架で保健室に運んだ。救急車が到着するまでの11分間、

心臓マッサージなどの救命措置は行われなかった。学校には、心臓に電気ショックを与える自

動体外式除細動器(AED)が置いてあったが、使われなかった。意識が戻らないまま、明日

香さんは翌30日の夜、家族が見守るなかで息を引き取った。

【これまでの連載】

〈特集「小さないのち」〉

〈5カ月の娘、最後の笑顔うつぶせ寝「教訓生かして」〉

呼吸に見えたのは「死戦期呼吸」と呼ばれ、心肺停止後に起こる「あえぎ」だった可能性がある

という。救急車を待つ間にAEDなどの救命措置が行われていれば助かったかもしれないと、

寿子さんは思っている。

絵が好きだった明日香さん。学校のテストの裏などによくイラストを描いていた。工作や作文な

ども得意で、コンクールで賞をもらったことも。将来の夢は母親と同じ看護師。照れくさかっ

たのか家族には話していなかったが、いとこらには「看護師になりたい」と打ち明けていた。

小学6年生だった桐田明日香さんは校庭で1千メートルを走りきった後、突然倒れた。救急隊が

到着するまで救命措置は行われず、翌日に亡くなった。遺族らの再発防止の願いを受けて作ら

れた対応マニュアル「ASUKAモデル」がいま、各地で命を救っている。

「大切なものは家族と友だち。…