伝えておきたい延命治療。

     ご機嫌いかがでしょうか。

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 玉川において自殺された西部邁さんが語るもの。

少し前までは死に対する言葉自体たぶうとされていた。

それが今では堂々と死を語ることができている。

 みこばあちゃんは終わり良ければ総て良しとの考えです。

「まあー、なんと」と驚かれるかもしれませんが

人生のゴールのためだけに生きてきたのかもしれません。

死は人生の大テーマである。

多くが医療機関で高度医療を受けながら

延命処置を受けることが当たり前のようになってもいる。

作家の遠藤周作さんはかつてから延命治療の放棄を語り続けておられた。

でも最後は延命処置での見取りであったはず。

願い通りにいかないこともままある。

病院側でも治療を放棄するのであれば自宅に連れ帰ってくださいと言われる。

これは至極当然ともいえよう。

消極的治療を選択するのであれば家族は自宅での見取りが要求される。

そうなると困るのが家族と言わざるを得ない。ん

家族として家において寄り添い看護のできる人は少ない。

できるならびょういんにおねがいしたいのがほんねでしょう?

そのための自然死を支援いただける施設の存在は希望の星ともいえるでしょう。

 西部さんは長らく奥様の介護と見取りも体験しておられます。

だからこその自死であったのだと妄想します。

自殺に至る前には体調不良もあったのだそうです。

でも残された家族の思いを図ると言葉もありません。

また人生の週末には希望とは別に経済問題まで絡めて考察しなければなりません。

大往生と行きたいところですがままならないのが現実です。

     アサヒコムより。

人はいかに最期を迎えるか 西部邁さんの死が問いかける

異論のススメ

 去る1月21日の未明に評論家の西部邁さんが逝去され、朝日新聞に私も追悼文を書かせてい

ただいた。西部さんの最期は、ずっと考えてこられたあげくの自裁死である。彼をこの覚悟へ

と至らしめたものは、家族に介護上の面倒をかけたくない、という一点が決定的に大きい。西

部さんは、常々、自身が病院で不本意な延命治療や施設で介護など受けたくない、といってお

られた。もしそれを避けるなら自宅で家族の介護に頼るほかない。だがそれも避けたいとなれ

ば、自死しかないという判断であったであろう。

このような覚悟をもった死は余人にはできるものではないし、私は自死をすすめているわけでは

ないが、西部さんのこの言い分は私にはよくわかる。いや、彼は、われわれに対してひとつの

大きな問いかけを発したのだと思う。それは、高度の医療技術や延命治療が発達したこの社会

で、人はいかに死ねばよいのか、という問題である。死という自分の人生を締めくくる最大の

課題に対してどのような答えを出せばよいのか、という問題なのである。今日、われわれは実

に深刻な形でこの問いの前に放り出されている。

簡単な事実をいえば、日本は超…