蛍のランプ。
【朝晴れエッセー】光る虫の乱舞・6月12日
農村から失われてしまった風物詩がある。それは蛍の飛ぶ風景だ。今、私の住む静岡市
郊外の住宅地帯ではその風景を見ることはできない。
私が光る虫に心を奪われたのは小学校に入学した年だった。私は愛知県豊橋市郊外の田
園地帯に生まれた。生家の近くには小川が流れていた。蛍の生育にも適していたのだろ
う。蛍の光が明滅する光景も珍しくはなかった。
ある夏の夕暮れだった。私は捕虫網を持って小川のほとりに出かけた。その日はおもし
ろいほどにたくさんの蛍を捕まえることができた。私はそれを虫籠に入れ、家に持ち帰
った。
両親は水田の除草作業のため夕闇が濃くなっても帰らなかった。私は四畳半の寝室に蚊
帳をつった。部屋は暗かったが、電灯はつけなかった。そして蚊帳の中に蛍を放った。
あおむきの私の目に無数の光の点滅が見えた。それは私だけの小宇宙だった。
「こら!」という父の怒声に、われにかえった。「蛍を家の中に入れると火事になるん
だぞ」と父は言った。
私は蚊帳を捕虫網代わりにして蛍を捕らえ、縁側から戸外に逃がした。やがて光る虫は
闇のかなたに消えた。夢破れた私は悲しかった。嗚咽(おえつ)する私の背中を母の手
が優しくなでた。「蛍さんは蛍さんのお家に帰ったんだよ」と母は言った。
すでに故郷に生家はない。両親も他界して久しい。しかし、もう一度、あの幻想的な光
る虫の乱舞を見たい。