隠蔽されていた原爆のお話。

おはようございます。  ご機嫌いかがでしょうか。 視界ゼロのみこばあちゃんです。

今日も小雨の統治です。」コロナも勢いを増しているようです。

バックには「明治一代女」が流れています。

今の歌より、なんだかリズムがなじむようです。

や美馬のない雨の統治です。

 いやが王なく災害国日本を 意識させられます。

 あちこちにカビが生えそうです。

洗濯物はお風呂の暖房で乾かしています。

 隠蔽されていた広島の現実にショックでした。

 アメリカも正しい歴史認識がされていなくてとっても残念です。

歴史の中に覆い隠されていた実態…

アメリカの多くが広島のことは知らされていません。

戦争においても化学兵器の使用は禁じられているはずです。

放射能 黒い雨のことなど知る由もありません。

無念でなりませんでした。

 76年の今においても病床にあり 苦しい日々を過ごされていることにも思いを傾けて

ほしいものです。

 原爆は初めての人体実験でもありました。

隠蔽された「広島の原爆被害」伝えたのは黒人記者 The New York Times

広島が原爆によって壊滅的被害を受けてから2か月後の1945年10月5日。アトランタ・デ

イリー・ワールド紙に「ローブ、原爆投下現場を顧みる」という見出しの記事が載った

黒人新聞の世界では、ローブの名前を出せば、それだけで十分に読者の目を引くことが

できた。

チャールズ・ローブは黒人の従軍記者。彼が第2次世界大戦中に執筆した記事の数々は、

全米黒人出版社協会を通じてアメリカ中の新聞に掲載されていた。上述の記事でローブ

は、致死性の放射線が飛び散ったことで、いかに広島の住民が病気になり、そして死ん

でいったかを書いている。ローブの視線は冷静かつ分析的なものではあったが、戦時中

に隠蔽された重大な事実に光を当てていた。

黒人は日本への原爆投下を人種差別とみた

1面に掲載されたローブの記事は、アメリカの旧陸軍省マンハッタン計画原子爆弾

発計画)、ニューヨーク・タイムズとそのスター記者ウィリアム・ローレンスによる放

射線に関する見解を否定するものだった。戦勝国アメリカと敗戦国・日本の間では放射

線を巡って激しい論争が起こっていた。日本側は、広島と長崎で人々が急死したり慢性

的な病にかかったりすることが増えたのは原爆による目に見えない放射線が原因だと主

張した。アメリカ側はそうした嫌疑を断固として否認した。

しかし、科学と歴史はローブの正しさを裏付けていく。

ローブの報道は政府の公式見解に対する挑戦であるのと同時に、政府に対する黒人の懐

疑心と呼応するものでもあったと学者たちは指摘する。実験的な兵器を日本に投下する

という政府の決断は人種差別と関係していたのではないか??。そのような懸念を抱く黒

人は多く、黒人の聖職者や活動家たちは折に触れて原爆の犠牲者に共感の気持ちを表し

ていた。

「黒人は一般に流布されている説明を疑っていた」。歴史家のアレックス・ウェーラー

スタインは近著『Restricted Data: The History of Nuclear Secrecy in the United S

tates(限定されたデータ?アメリ原子力秘史)』の執筆に関連した調査で、黒人に懐

疑的な態度が広まっていたことを知った。

ローブの報道が、それにふさわしいだけの認知度を得ることはなかった。故郷クリーブ

ランドでは市民運動のリーダーとして、そして全国的には黒人ジャーナリストの先駆け

としてたたえられたローブだが、核の時代の幕開けに原爆の隠された危険を暴いた業績

は正当に評価されてこなかった。その見識は、つい最近まで歴史の闇に葬られていたの

だ。

自身の記事でローブは、広島を取材していた記者団がアメリカの科学者や医師らによる

軍の原爆被害調査団に出くわしたときのことを書いている。原爆開発を指揮したアメリ

カ陸軍少将レスリー・グローブスが命じた調査で、グローブスの副官だった准将のトー

マス・ファレルが団長を務めていた。ある科学者は、初期のブリーフィングでファレル

が調査団に、あなたたちの使命は「放射能が一切存在しないと証明することだ」と告げ

るのを聞いて仰天したという。

歴史家らによれば、グローブスは原爆が新しいタイプの非人道的な兵器ではなく、破壊

力を圧倒的に高めた従来型の兵器に見せかけようとしていた。1925年の国際条約で細菌

兵器や化学兵器の使用が禁じられていたためだ。マンハッタン計画の最高責任者だった

グローブスは、原爆が比類なき恐怖の兵器として描かれることや、放射能兵器を戦争に

使用したことが公に議論される展開はまったく望んでいなかった。

グローブスは1943年には放射線の問題を理解するようになっていたが、情報を分断管理

し、政府の上層部に問題を詳しく知られないようにしていたと歴史家らは指摘する。情

報は大統領のトルーマンにも伏せられていた。研究者らによると、広島への原爆投下を

許可したとき、トルーマンは原爆が与える放射線の影響についてほとんど何も知らなか

った。その後、トルーマンは後悔の念を口にしている。

政府のウソに乗ったNYタイムズ

1945年8月6日の原爆投下から間もなく、ニューヨーク・タイムズ放射線をめぐる日本

アメリカの論争についての報道を開始した。9月に掲載されたローレンスによる1面記

事の見出しは、アメリカの実験場における科学データは「放射線ではなく爆発による被

害を立証」、放射線による犠牲者が出たとする「日本の作り話」を否定、というものだ

った。

その翌日、ニューヨーク・タイムズは東京発の記事を掲載し、「広島の廃墟に放射能

なかった」ことがファレルの調査で明らかになった、とする見出しを躍らせた。

だが、後に明らかになるように、グローブスらは真実の半分しか語っていなかった。ロ

ーブの記事は、この点を詳しく扱っている。

核爆弾が爆発すると2種類の放射線が放出される。まず、最初の数秒で膨張する火球とと

もに中性子ガンマ線が激しく飛び散る。その勢いは強力で、何マイルも空中を高速で

移動した後でさえ、鋼鉄やコンクリート、人体を貫通できるほどだ。

放射線は染色体を破壊し、人体の細胞機構に多大な影響を及ぼし、これが病気やガンを

引き起こし、人を死に至らしめる。ただ、こうした放射線は瞬時に消えるため、直接計

測することは難しい。

これに対し2つ目の波は、より持続的で検知しやすい。核燃料の原子が分裂するとストロ

ンチウム90やセシウム137といった何百種類もの核分裂片が生まれ、何年にもわたって危

険な放射線を放ち続ける。キノコ雲に乗って上級へと舞い上がったこれらの放射性粒子

は、風に流されて何マイルも移動し、放射性降下物となって地上に降り注ぐ。そこに放

射性粒子があるかどうかは、ガイガーカウンターを使えば簡単に確認できる。

アメリカの調査団は広島で検知可能な放射性降下物の存在を確認している。しかし、そ

の場所は爆心地ではなかった。科学者は、風下の広島周縁部やうっそうとした竹林に向

かって微弱な放射能の痕跡が続いているのを発見した。

ニューメキシコ州と日本の核爆発現場を記者に取材させたグローブスらは、ガイガーカ

ウンターが示す低い数値に記者の目を向けさせた。放射線による危険がほとんど存在し

ない証拠がここにある、というわけだ。

ニューヨーク・タイムズのローレンスが書いた記事には、「ずっとそこに住んでいられ

る」というグローブスの発言が引用されている。

医学の知識で本質を見抜く

これとは対照的にローブは、爆心地で放射性降下物が確認されなかったという情報では

なく、初期バーストによる火球の放射線に照準を合わせた。ローブが報じたのは、軍医

大佐スタッフォード・ウォーレンによる発見だ。ウォーレンは戦前、ロチェスター大学

放射線医学の教授を務めていた。

ウォーレンはマンハッタン計画の医学責任者だった。原爆の製造者たちを放射線障害か

ら守ることがアメリカにおける任務で、日本では日本人被爆者の医学調査を主導した。

2020年刊行の『Atomic Doctors(原爆ドクター)』で著者のジェームズ・ノーラン・ジ

ュニアが詳しく書いているように、ウォーレンは病院、患者、生き残った日本人医師か

ら徹底的に情報を集めた。発熱、下痢、毛髪の喪失、血液の滲出(しんしゅつ)といっ

た原爆による放射線被害を繰り返し目にした。軽症とみられた患者が急死するケースも

あった。

ウォーレンは調査報告をまとめるにあたり、こうした症状が実際よりも軽く見えるよう

に気を配ったとノーランは話す。「グローブスが上司でしたからね。読み手(の期待)

をよく理解していたということです」。ノーランの著作の副題が「Conscience and Comp

licity(良心と共謀)」となっているのは、このためだ。

ローブが真実を見極めるのに、彼の受けた教育が役立ったことは間違いない。新聞記者

の仕事に進路を変更する前、ローブはアメリカ屈指の名門黒人大学ハワード大学の医学

部進学課程で学び、物理学、化学、解剖学、病理学、X線および鉛による防護などの基礎

に親しんでいた。メディカルスクール(医学大学院)に進学しなかった理由についてロ

ーブは後に、関心がなくなったからではなく、学費が払えなかったためだと振り返って

いる。

ローブがどこでウォーレンと出会ったのかは明らかになっていない。記者会見だったか

もしれないし、社交の場だったかもしれない。その両方の可能性もある。東京では2人と

も第一ホテルに滞在することが多かった。軍人と民間特派員の宿舎になっていたホテル

だ。

広島で目にした光景がトラウマに

その10月、ローブの記事はボルティモア・アフロアメリカン、フィラデルフィア・トリ

ビューン、そして戦前に彼が所属し、後に復帰したクリーブランド・コール・アンド・

ポストといった黒人経営の別の新聞にも掲載された。これらの新聞は戦争初期に22の出

版社によって結成された黒人報道グループに属しており、発行部数を大きく伸ばしてい

た。同胞の兵士たちの状況を知る手段として購読する黒人読者が増えていたためだ。

ローブは、広島から帰ってきた特派員たちの様子を「茫然自失となっていた」と形容し

ている。しかし、それとは対照的に、彼の記事は感情を排したものだった。科学論文で

も執筆するかのように、彼は結論に番号を振った。放射線は爆発とその被害に次ぐ3つ目

のポイントだった。

人々の苦しみを描写しようとする記者の試みはすべて軍の検閲で削除されていた時代だ

。破壊された建物の様子を伝えることはできても、めちゃくちゃになった遺体について

書くことは許されなかった。そのためローブの記事にも、被爆者の細かな様子は記され

ていない。

娘のステラ・ローブ=マンソンによると、日本の記憶は戦後も長くローブを苦しめた。

溶けた顔、横たわる遺体から垂れ下がった皮膚などについて父が話をしていたのを覚え

ているという。取材の最中、ローブ=マンソンはローブが撮影した写真を指さした。ひ

どい状態で路肩に転がっている遺体の写真だった。

「何年もの間、父は精神的にボロボロだった」とローブ=マンソンは言った。ローブの

鬱屈した感情は、少しずつ怒りに変わっていった。「父はあのこと語る必要があったん

です。そうしなければならなかった。(精神的に)本当にひどい状態でした。父が本当

の意味でそれを乗り越えることはありませんでした」。

放射線障害をえぐった無双の報道

データベースを調べてみると、当時ローブと同等のレベルで放射線障害にしっかりと焦

点を合わせ、詳細に報じたジャーナリストは皆無に等しかったことがうかがえる。

ニューヨーク・タイムズはこの話題を完全に無視しようとしていた。広島の原爆に関す

る同紙の報道を分析したジャーナリズム学教授のビバリー・ディープ・キーヴァーは、

検証した132本の記事のうち放射線に言及したものは1本しかなかったと報告している。

それでも、ローブの記事が発表されてから1カ月後の1945年11月には、放射線問題に対す

る世の中の認識が高まったことから、グローブスも初期バーストによる犠牲を否定でき

なくなっていた。グローブスは、初期バーストの人体への影響を説明するのに「極めて

快適な死に方」という言葉を持ち出した。

黒人新聞は、その後の数カ月も報道の手を緩めなかった。ボルティモア・アフロアメリ

カンは「何千人という放射線被害者」の存在を伝えている。

ローブは1978年に73歳でこの世を去った。原爆に関するスクープが評価されることはな

かったが、晩年にはジャーナリストたちの間で黒人新聞記者の長老的な存在として知ら

れるようになっていた。

1971年には、コロンビア大学で歴史的証言の採録を目的に行われたインタビューで、長

きにわたる自身のキャリアを振り返っている。当時クリーブランド・コール・アンド・

ポストの編集主幹を務めていた66歳のローブは、メディカルスクールに進まなかったこ

とには悔いが残るとしつつも、こう述べた。外科医になっていたとしたら、おそらくジ

ャーナリストとしての自分ほど社会に対して大きな貢献はできなかっただろう??。?=敬

称略=

(執筆:William J. Broad記者)

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