やめられなかった350万人もの悲劇。

  帆期限いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

当地は大地は水分もたっぷりの上に排水も進まないうちにまた雨です。

 8月15日は終戦記念日でした。

なんだか天皇陛下も戦火を知らない時代に心に満ちるものが感じられません。

 76年もの平和の時代に思いをはせるとき

350万人もの死者を生むべき室用があったのだろうかといつも頭から離れない。

 戦死者は多くを 終戦前に集中しているともいわれています。

原爆投下を受ける前に終戦の決定はできたはず…

やはり決定権はトップではなかったろうか。

「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇 丹羽 宇一郎

』の著者で、日中友好協会会長の丹羽宇一郎氏が、二度と戦争をしないために心にとど

めておくべきことを訴える。なぜ負けが明白な戦争をやめられなかったのか

昭和の大戦の犠牲者は310万人とも350万人ともいわれる。そのほとんどが戦争末期の1年

間に集中している。いったい終戦の1年前には何があったのか。

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戦時の日本は「絶対国防圏」という最終防衛ラインを定めていた。太平洋方面における

絶対国防圏はマリアナ諸島である。マリアナ諸島を取られると、日本本土全体が米軍機

によって空襲可能となるからだ。

事実、東京大空襲ほか主要都市の大空襲、広島、長崎の原爆投下はマリアナ諸島のサイ

パン、テニアンから飛び立った爆撃機によるものである。そのマリアナ諸島終戦のほ

ぼ1年前、1944年6月の「マリアナ沖海戦」で失った。この戦闘によって日本海軍は壊滅

的な損害を受け、対米戦の敗北が決定的となった。知らぬが仏というが、知らない仏は

いなかった。軍人と役人は仏の顔をしながら、その実、鬼だったのだ。

拙著『戦争の大問題』で、元自民党幹事長・元日本遺族会会長の古賀誠氏は次のように

述べている。

(『戦争の大問題』)

戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ

島を取られたら負けなのだ。対米戦の敗北は筋書きどおりとなり、戦争をやめようとし

ない仏の顔をした鬼によって、負け戦をずるずると延ばし、いたずらに人命を損なって

いったのが、1944年6月から1945年8月15日までの日本である。

沖縄では実に県民の4人に1人が犠牲となり、広島では14万人が、長崎では7万5000人が原

爆の犠牲となり、東京では10万人、その他の都市の空襲犠牲者を合わせると50万人を超

える。この間、多くの兵隊も南方戦線で、中国・アジアで、補給を絶たれ降伏すること

も許されず病気や飢えによって命を失った。フィリピンのミンダナオ島に軍曹として派

遣された谷口末廣さんはこう語っていた。

(『戦争の大問題』)

戦場で、国内で、人々が酸鼻を極める日々を送らざるをえなくなる前に、なぜ負けが明

白な戦争をやめることができなかったのか。この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも

重い意味がある。

最後まで責任と権限のあいまいなまま戦後へ

大変な犠牲が出たうえに負けは確実、それでもなお、やめられなかった理由はいったい

何だったのだろうか。

私は社長時代に4000億円の不良資産を処理したが、赤字決算となれば株価は下がり、株

価が下がれば株主から批判される。ひとつ間違えば経営危機となり、社長は四方八方か

ら責任を追及される。

手柄は自分のもの、責任は他人のものが人間の本性である。そこで、みんな御身大切で

責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。

戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。戦争をやめるということは、南方の島

々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進

んで責任を負おうとは考えなかったはずだ。

いや、そもそもはじめから責任を負って戦争に臨んでいたのかも不明である。

これも私が社長時代、ある役員から事業プランが上がってきた。私は実現困難と判断し

たが、本人が強く求めるので、そこまで自信があるならと実行を認めた。ただし「他人

に任せず君が最後まで実際に陣頭指揮を執ることを条件とする」とした。失敗したらそ

の責任を取らせるという意味である。

事業プランの承認を得たら後は現場任せ、失敗しても責任を現場に押し付け自分は取ら

ない。そんな腹づもりなら、失敗しても自分は安全なのだから、無謀な計画でも安易に

実行しようとする。これが見通しの立たない事業に手を着けるときの心理だ。責任の所

在があいまいなのである。

戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述が

ある。

「昭和20年2月19日(月)??山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質

問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そ

のものについてはお答えしたくなしといったという」(いずれも『暗黒日記』)

清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。清沢

の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。

責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖

断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をや

めようとはしなかった。

そして、戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった。

戦争を始めた責任者が不在でも、戦争をやめる責任を負うことはできる。責任を負うこ

とは国であれ企業であれ、組織のトップに就いた者の務めである。責任を負わないトッ

プは誰がどう言おうとトップの資格はない。

負けると知りながら必勝を叫ぶ無責任

実際に戦場に立った人たちも、なぜあの戦争をやめられなかったのかと問う人は多かっ

た。シベリア抑留を経験した與田純次さんもこう語っていた。

(『戦争の大問題』)

できることなら「満州も」やめておけばよかった。しかし満州事変に国民は大喝采を送

った。

(『戦争の大問題』)

結果がよければ規律違反を犯しても責任を問われない。では、結果がついてこないとき

はどうするのか。結果が出るまでやめないのである。確たる結果もなく途中でやめれば

責任を逃れられない。だから、どれだけ犠牲が出ようと結果が出るまで続けるのだ。

だが、日本人は結果に対する査定もあいまいだ。国民の大喝采を浴びて建国された満州

国だが、結果的には最後まで経済的にお荷物だったし、国際政治上でも益するところが

なかった。

戦前でも、石橋湛山などは「日本が国際社会で立ち行くためには、政治的のみならず経

済的にも、満州を放棄するほうがむしろ有利である」と主張していた。

だが形だけのものでも、一度手にしたら放棄するのは難しい。当時の指導者も国民も、

ここまでやって手放すのは惜しい、ここまで来ていまさらやめられないという気持ちだ

ったに違いない。権限と決定のあいまいさと、いまさらやめられないは、日本人の悪し

き習性であり、今回の東京2020オリンピックや新型コロナ対策でもさまざまな形で影を

落とした。

いまさらやめられないと考えた指導者たちも、本気で対米戦に勝てるとは思っていなか

ったはずだ。

(『戦争の大問題』)

この報告を聞いた東條陸相は、「これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争とい

うものは君たちが考えているようなものではない」と握りつぶした。つまり口が裂けて

も言えないが、内心日本が負けることはわかっていたのである。

市井の人である清沢はこの事実を知る由もないが、彼の批評眼は事実を鋭く突いていた

(『暗黒日記』)

東條首相は開戦時の演説「大詔を拝し奉りて」で、「およそ勝利の要訣(ようけつ)は

必勝の信念を堅持することであります」と強く国民に訴えた。科学的な検証に目を背け

、神風頼みで勝利のみ信じよと国民に迫るのは、とても責任あるトップの言動ではない

。国民には仏のような顔を見せていた軍人、役人だが、『暗黒日記』では文字どおり暗

闇の中でうごめく鬼と、その正体が暴かれている。

いまわれわれに問われるもの

皇室と日本を深く敬愛した清沢だが、国民に対しては期待と失望が織り交ざっていた。

(『暗黒日記』)

と手厳しく国民の未熟さを指摘するときもあれば、次のように将来の期待を示すことも

あった。

(『暗黒日記』)

われわれはこの清沢の期待に応えたい。しかし彼の指摘するわれわれの愚かさのほうが

正鵠を射ているように思える。清沢は76年前に今日のわれわれのことを見通していたか

のようだ。

いまだに愚かさの先行するわれわれは、努めて自らの行動を慎まねばならない。われわ

れには依然として動物の血が流れている。動物の血に一度火が点けば、もはやとどまる

ことはできない。途中で引き返すことも不可能だ。このことを忘れてはならない。

2021年8月15日、終戦から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつ

ある。だが350万人の悲劇をけっして記憶から消してはならない。この悲劇とともに、今

もなお、おろかで動物の血を宿しているわれわれの危うさを肝に銘じておくべきだ。

丹羽 宇一郎さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー) 沖縄における多

くの人も生まずに済んだはず。