癌とともに…!

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

今朝の気温、3度で武者部類!

山陰地方にも初雪とか…。

当地の昼間の気温も昨日は10度にも及ばず

背中が丸くなってます。

気合一つでやりこせないずぼら体質の私。

 頑張り屋三の従妹が65歳まで管理栄養士として家庭の柱として働き続けてきた

決して弱音など箔従妹ではありません。

早くに旦那様をクモ膜下出血で亡くし

それまで主婦業だった方に、子育てと経済も重くのしかかり

一生懸命家族を支えてきた。

よくも頑張って働いてきたものだと感心!

それからは健康のためながら山登りに目覚め

海外はもとより 大阪のトレッキングコースに至るまで挑戦

 退職から3年目に、体調の変化を感じ、そく、

はんだい病院にて診察

 胃がんとの診察で即入院手術

それからはまさにいばらの道…

 術後の間なしから何クールに及ぶ抗がん剤の投与にも耐え

 食事が喉を越さないためにスムージーにして

毎度1時間以上かけ、逆流を 受け入れながら

このえいようをのがせば、たちまち生命線は立たれてしまう!

このような強い意志で何クールもの抗がん剤を耐えてきた従妹

 今ではあれからがんサバイバーとなり5年物歳月を経過しています。

すい臓がんは存在しますが元気な様子を墓参りに帰省し年に一度は見せてくれます。

 でも彼女の妹が乳癌から骨肉腫を発症し今年に帰らぬ人となってしまいました。

 みこちゃんは、あまりにも悲しすぎてゆっくり話もできないでいます。

   東洋経済寄りの引用。

がんになった緩和ケア医が悟った余命の真実 -

『緩和ケア医が、がんになって』

外科主治医による病理検査の結果説明を受けた。私の胃悪性腫瘍は10万人に1人の希少が

ん、ジストだった。追い打ちをかけたのが、極めて高い腫瘍の悪性度を示す、とてつも

ない数値だった。

生きる時間に限りがあるという現実を突き付けられた

目を疑った。

通常、がんなどでは、その程度をステージで分類する。ステージⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳという

具合に。

一方、ジストではそうではなく、超低リスク群、低リスク群、中リスク群、高リスク群

と分類される。リスク高低の分かれ目の拠り所となるものの1つが、顕微鏡で調べた際の

腫瘍細胞分裂像数だ。

腫瘍細胞分裂像数とは、腫瘍細胞が分裂する数、すなわち腫瘍ジストの勢いを示すもの

である。高いか否か、ボーダーラインとなる数は「5」。私のジストは、その腫瘍細胞分

裂像数が、なんと「181個」だった。

生きられる時間に限りがあるという現実を突き付けられて、足元から崩れる思いだった

が、何とか気を取り直して、腫瘍内科を受診した。これからは腫瘍内科医も主治医に加

わってくれる。

今後の治療として、抗がん剤グリベックの治療を開始するという。

3年間、毎日飲み続ける治療である。治療は生易しいものではなく、決して楽でもない。

不安は多々あれど、とりあえず今後の治療が定まった。

そして、抗がん剤開始前にCT検査を受けることとなった。

CT検査の結果では、幸いにも転移や再発は見られなかった。

予定どおり抗がん剤グリベックが処方された。ほかの抗がん剤と比べて副作用は比較的

少ない。とは言え、やはりゼロではなく、吐き気・嘔吐(おうと)・下痢・食欲不振な

ど多岐にわたる。白血球も減少する。

抗がん剤治療では、いちばん効き目があると考えられるものから試すのが鉄則である。

中でも効果が期待でき、しかも副作用が少ないとされるグリベックだったが、もともと

下痢気味だった私にとって、1日1回4錠はやはり厳しかった。状態は目に見えて悪化した

「食べること」が拷問のようだった

期待のグリベックは、わずか20日後に、1日1回3錠、昼食後に変更を余儀なくされた。夕

食後に飲むと、副作用による消化液の逆流で眠れなくなる。少し何かを飲み込んだだけ

で、すぐにおなかが張る。下痢も発生する。体重も、もっと減ってきた。

さらに、しゃっくりが頻繁に起きるようになっていた。しゃっくりにつられるように、

消化液の逆流も悪化の一途をたどった。

胸やけにとどまらず、喉やけを引き起こすのも変わらない。定期薬や頓服(とんぷく)

を飲んでも和らがない。苦しい。

消化液逆流による苦しみは相変わらず一晩中続いていたが、それよりもきつい拷問は、

「食べること」だった。

朝食、昼食、夕食の3食。そしてそれぞれの2時間ほど後に間食が計3回。胃をほとんど切

除しているので、少しずつ、小まめに食べないといけない。さらに昼食後に飲むグリベ

ック。1日に合計7回、何かしら私は口に入れていた。食事や間食と言っても、それぞれ

ひとかじりが限界だった。それでもこの7回が、まさに拷問だった。毎日7回の拷問にか

けられていた。思わず、食事を運んでくる妻を怒鳴ってしまっていた。

でも、食べなければ体重は減り、体力も弱ってしまう。一方、食べれば消化液逆流が到

来して、やはり弱ってしまう。胃を手術しているから仕方のないこととは言え、これも

やっぱり苦しい。

私は、焦っていた。

これまでホスピス緩和ケア医として多くの終末期がん患者に関わり、最期にも立ち会っ

てきた。その数は2000人以上に及ぶと記憶する。

その中で、経験的に感じていたことがある。

それは、

「食べられなくなってくると、余命は1カ月ほど」

ということだ。

このことを示すデータが、ないわけではない。

「食べなきゃダメだ。命がなくなってしまう。いや、たとえそこまでならなくても、食

べなきゃ体力もなくなり、抗がん剤も効かない。そして、何よりも体力がなくなれば、

あの強い抗がん剤に耐えられない」

そう考えれば考えるほど、食べられなかった。

手術から3カ月、優に100キロを超えていた体重は、気づけば30キロも落ちていた。

手術から4カ月経つと、ようやくしゃっくりも治まり始め、つらいながらも、少しずつ「

日常」を取り戻しつつあった。

非常勤の仕事も、少しずつ再開し始めていた。緩和ケア病棟への入院を考える患者さん

やご家族の思いを聴き、病棟での生活を具体的に示す面談外来を午前中のみ、週2回ほど

。お会いするのは私と同じくがん患者で、治療がもう困難となった人たちが主体だ。

この状態で緩和ケア医としての勤務を再開したことに、驚く人も多いと思う。だが、妻

も子どももいる身だ。がん保険に入っていて助かっているとは言え、抗がん剤には費用

がかかる。少しでも動けるのならば、家でじっとしているよりも働いているほうがいい

何より、患者さんに向き合うことで、意識がわがジストに向かないばかりでなく、食事

が摂れず体重と体力が奪われていく自分でも、まだ誰かの役に立てるというやりがい─

─ひいては私の生きがい、すなわち生きる意味を感じることができた。

突然やってきた心境の変化

ただし悲しいかな、面談を受けるほとんどの患者が、私よりも元気だった。元気に見え

た。

そしてあるとき、ふと思った。

「10万人に1人のジストになったんだ。これからは、人のやらないことを1つでもやって

生きていこう」

心境の変化は突然やってきた。

オレは今、生きている。食べられなくても半年生きてきた。もちろん他のがん患者さん

と比べることはできないし、意味のないことだ。それぞれの病状も、置かれた環境も違

う。

でも今、オレは確かに生きている──ただシンプルにこう感じることができたのだ。

「食べられなくても、生きられる」

こう考えられるようになって、ふぅっと全身の力が抜けたような気がした。

すると意識を変えたためか、少し気分が楽になり、少し体調も楽になった。さらになん

と、食べられるようになってきた。まあ、食べられるようになったとは言っても、1人分

は決して望めない。半分はおろか、4分の1人前ぐらいだ。でも、嬉しかった。

そして、退院して間もない頃、妻が消化液逆流に苦しむ私に、しきりに言っていたこと

を思い出した。

「下から喉に消化液が上がってくるんやったら、口から何か飲んで、上から下へ流し込

んだったらええやん」

当時の私は、「そんなことできるわけないやろっ。できるんやったら、もうとっくにや

っとるわっ」と、けんか腰で言い返したものだった。

食べられなくても、人は、生きられる時は生きられる

だが、食べられるようになってから、なぜかちょっと興味が湧いてきた。

いろいろな飲み物でトライしてみたが、最適だったのは意外なドリンク、スポーツ飲料

アクエリアス。こみ上げてきた消化液を、口に含んだアクエリアスで押し流してみる

と、なくなったわけではないが、喉やけ、胸やけが和らいだ。それから消化液の逆流が

起きたときには、1度でダメなら、可能な範囲で2度、3度と繰り返し、この飲み込み流し

を実行した。

当然だが、この「飲み込み流し」作戦は、どんな医学書にも書いていない。そもそも、

「食べられなくても、生きられる」事実を書いてくれている医学の教科書など、この世

にはない。

でも実際、身をもって私は経験した。半年間、ろくろく食べられなくても、人は、生き

られる時は生きられるのである。

医学書に載っていることがすべてではない。

ジストを患った医者として、今、まさに断言することができる。

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