国民の二人に一人はがんと言う!
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
おはようございます。
日本列島災害はどこにだって起きうる。
一人一人は微量だけど、私にできることを一歩として考えたいものです。
「こんなこと」はどこにだってあることだけは確か…。
田舎の廃屋同然のような家屋を、利用できる方向に国の協力も得ながら、一歩の住まい提供も…!
私も、廃屋同然の我が家、二人ぐらいまでは引き受けられますよう、断捨離の加速だけはしなければと思っています。
がんの患者さんが、苦しい中死の直前まで
ご飯も食べれない王都の続く病床から、懸命に発信し続けて
ブログが配信されなくなった間なしに、天国に召された様子が
息子さんにより公表され、ブログを書くことで、どんなにか精神的に
癒されたかしれないと、息子さんがブログの締めのご挨拶をしておられました。
がんと言われたとき、余命を告げられた時、人がすがるのは
優しい言葉よりも、同じ病気で苦しんでいるブログを
探すのはいわば自然の流れかもしれません。
「生きたい、生きたい」と思うことは自然でもあります。
みこちゃんも多くの家族のがん患者にも接してきました。
一番壮絶だったのは、50歳の従妹が、肉腫でなくなる時の半年の歳月は、本人自体、家に帰ることを求めてはいましたが痛みのひどさに、家族が
家で引き受けられないといった事情から、家庭に帰ることなく
あの無機質な病室の中で苦しみぬいてなくなったことはずいぶん経った今でも
船名の輪が心のスクリーンにはその時の様子が目に浮かび、金縛りにでも会うような状況に襲われることは何度も経験しています。
むかしであったこともあり、ホスピスの存在も都会に集中し、今とははるかに及ぶべくもない治療経過を辿っていたのではと妄想してもいます。
私は2人の女房を乳がんで亡くしました。最初の女房は、自分でしこりを発見して病院に行ったら、非常に早期のがんということで、手術を受けました。3年後に再発して、医師に「これからは好きなものを食べて自由に旅行しなさい。そうすると免疫力が上がるから」と言われました。要するに見放されちゃったんですね。
それで別の病院に行って手術を受けたところ、執刀医の外科部長が、説明に来ないんです。説明できない状況だったようです。代わりに若い医師が来て、何だか訳の分からない説明をしていきました。
どちらの病院も頼りにならない。もうわらにもすがる思いで、放射線治療や当時話題だった丸山ワクチンも使ってみました。最後に女房は宗教にまで頼りました。それから数年後の1984年、亡くなりました。闘病生活9年、53歳でした。
その後再婚した2人目の女房もがんにかかりました。1998年になんだかおっぱいが腫れているといって、病院に行ったんですね。そうしたら炎症性乳がんという珍しい悪性のがんで、半年もたない、と告げられました、私だけに。主治医からは「余命半年と本人に告げれば生きる気力をなくします」と言われて、院長と3人で相談して、女房には、乳がんであることは話したものの、より深刻な炎症性乳がんという病名は隠すことにしました。
薬でがんを小さくすることができたら手術も可能になるかも、ということで、入院して薬を注射してもらったけれど、2ヵ月経っても小さくなりません。いちかばちかで放射線を照射してみたら、小さくなったので、3ヵ月後に手術しました。それでも、余命半年に変わりはない、とのことでした。
さすがに女房もこれはおかしいと思ったようでした。乳がんならばさっさと手術で切ってしまうはずなのに、薬ばかり投与する。ついに、娘にパソコンを病室に持って来させて自分で調べて、炎症性乳がん、ということがばれてしまいました。
「あなた、ひどいじゃないの! なぜ隠してたの!」
女房は大激怒です。
「あと半年の命であればこそ、一日一日を精いっぱい生きたい。だからきちんと話してほしかったのに」
ひとこともありません。
こんな病院は信用できない、と女房はそのまま退院してしまい、手術の傷の手当てをしてもらった近所のクリニックで、聖路加国際病院(当時)の中村清吾医師を紹介してもらいました。
中村さんは、本当にいい医者でした。「医者自身に病気の真実はわからない。常に患者に学ぶしかない」と言って、患者の話をいくらでも聞いてくれるんです。真剣に話を聞いてもらえるのは、女房の免疫力をすごく高めてくれたと思います。その後、いろいろな抗がん剤を使って、発病から約6年後の2004年、67歳で亡くなりました。
女房ががんになったことで、私はがんの問題に関わるようになりました。いまは中村医師を中心に作った日本乳がん情報ネットワークというNPOの代表理事をやっています。
病名は肉腫「俺がなぜ」 闇夜をともしたブログの言葉