放射線かの医師、わずかな命との挑戦!
ごきげんいかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
おはようございます。
日の出時刻も6時台に入り、上着が一枚いります。
[虹がかかるとき]のピアノ曲を聴きながら
紅茶をいただきながらパソコンに向かっています。
この度の災害での特徴としては
車内
の死者が多かったことがあげられるのではないのでしょうか?
て
わが運命に打ちひしがれることなく、むしろ運命をばねに
挑戦する姿勢に完敗そのものです。
みこちゃんはくじけそうになった時、どれほどわが運命を嘆き悲しんだかしれません
。
「 人生の終焉を迎える今になって、やっと太陽に向かって
歩めているのかしら」と、うすぼんやり思えている昨今でもあります。
不条理の連鎖は、折り重なるように次から次へと
襲い掛かってくる現実に惨敗してなるもんかと弱い牙を むき出しに
自己肯定感ができる気持ちに到達したことで
今では、ゆったりまったりと日々に感謝しながら
足元のほんの小さな幸せに心なごむ日々でもあります。
不屈の精神そのもの、その人生観をまるでアルプスの
頂上でも見上げる思いで、その人生観の一コマに思いを寄せた次第です。
産経よりの引用。
【負けるもんか】がん・ぜんそくと闘う医師 前田恵理子さん 不屈の人生で「救いを
」 患者… (2019年10月26日)
東大病院に勤務する前田恵理子さん(42)は日々、がんに向き合っている。放射線
科医として、そして「がん患者」として。
平成27年2月。自分の目で、肺に影を見つけた。手術の結果、肺の外側の膜に到達
している進行がんと判明。5年生存率3割という数字を突き付けられた。
「自分がいなくなったら、4歳になったばかりの長男と夫はどうなるのか」という絶
望感。それはすぐに、がんと闘う決意に変わった。「3割あればクリアできる。絶対に
勝つ」
仕事をしている病院で治療を受ける。8~9月には、4回目の再発に対して放射線治
療を受けた。闘いはまだ途上だが、「5年」まで半年を切っている。
■ ■ ■
がん以外の病ともつきあってきた。
父の転勤の都合で、小学5年から暮らしたオランダでぜんそくを発症。帰国直後の中
3の1年間には発作が頻発、8回の入院を繰り返した。夏休みに救急車で呼吸が止まり
、死線をさまよってからは、薬でコントロールができなくなった。
「酸欠で考えられない。生きているので精いっぱいだった」。編入した中高一貫の桐
蔭学園(神奈川)での数学の順位は当初、760人中730位。それが高2のときには
総合成績で学年トップになり、卒業まで譲らなかった。
努力の原動力は、医者になるという夢だった。
「小4のときに買ってもらった顕微鏡で自分の赤血球などを見て、言いようのない感
動を覚えた」
東大医学部に現役で合格した。だが、解剖用の脳を漬けるホルマリンや、多忙な臨床
実習の影響で、在学中にぜんそくが悪化。30代まで約8年、重さ約5キロのボンベを
カートでひき、酸素を吸入しながら日常生活を送ることになった。
■ ■ ■
それでも、やりたいことには妥協しなかった。相棒のボンベを「ポチ」と呼んだ。外
食、旅行、スポーツジムなど、物おじせずに外出した。バイオリンの奏者として、オー
ケストラの舞台にも数多く上がった。
医療の現場では、患者から親しみを持たれたり、応援されたりという思わぬ反応もあ
った。「ボンベを引いた私はどうみても患者さん側。他の医師らよりその気持ちが分か
るという自負もあった」
医学部6年生のときに出版した解剖学の教科書などが評価され、東大総長賞を受賞し
た。また、2006年には北米放射線学会で、世界中から寄せられた数千の教育展示の
応募作から、当時日本人2人目となる最高賞に選ばれた。
30代前半、ボンベを手放した。そして、結婚。6月には半生記「パッション 受難
を情熱に変えて パート1」(医学と看護社)を出版。続編を書くことが前提のタイト
ルをつけた。
不屈の人生は、医師としてのメッセージでもある。「病気になり、『何を、どこまで
していいのか』が分からずに引きこもり、つらさを感じている患者さんは多い。何かを
あきらめずに私がやることで、救いを得る人もいる。自分の役割と思って、いろいろな
ことをどこまでできるかやってみたい。それは私だけができる医療です」(芦川雄大)
◇
まえだ・えりこ 昭和52年4月、神奈川県秦野市出身。東大医学部を卒業し、平成1
7年から東大病院で放射線科特任助教として勤務。27年に発覚した肺が んの治療を受
けながら、診療にあたる。CT検査などによる放射
線被曝(ひばく)が子供らに及ぼす影響についての研究も行っている。夫、長男との3
人 家族。