オーム事件 死刑執行者【中川智久】
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
オーム事件の死刑囚の一人「中川智久」とは
どのような人物であったのだろうか?
経歴と言えば申し分のないエリートで家族的にも恵まれ
性格も温厚で明朗、交友関係も広く
このようなタイプがなぜに入信したのか理解に苦しむ。
医師免許も取り、そのオペの実技中、失神したとの報告もあり
医者からの診断にも精神的疾患が指摘されてもいました。
オーム入信の動機付けもそのような表現もうなづけるような面もうかがえます。
あの殺人マシーンはなぜじっこうできたのだろうか?
死刑囚として、いまどのような心理状況で、死刑が執行されるその日を
お迎えになるのであろうか
死刑囚としての罪深さをどのように把握されているのであろうか
マインドコントロールから解き放された今だからこそ語られる言葉もあるはずです。
オームは今なお、年間150名もの信者が生まれております。
死刑囚である中川さんを お母さんは時間が許せる限り岡山から
東京に通い続けておられます。
あなたの罪を一緒に償いたいとの意図のもとです。
あなたのおつくりになられた俳句にも触れてみたいものです。
人物・経歴[編集]
岡山市内の繁華街で洋服販売店を営む両親のもとに長男として生まれる。1978年3月岡山
大学教育学部附属中学校、1981年3月岡山県立岡山朝日高等学校卒業。手塚治虫「ブッダ
」の影響で医師の道を目指し、一浪を経て1982年に京都府立医科大学医学部医学科に進
学[1]。大学では柔道部に所属し大学祭の実行委員長を務めるなど、明るく温厚で実直な
人柄から交友関係は広かった。1988年2月24日オウム真理教に入信。
オウムと最初の出会いは、1986年11月にたまたま見かけた麻原の著作『超能力秘密の開
発法』を読んだことである。当初は特に興味もわかず、本も途中までしか読まずに放置
した。しかし医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原の
ヨガ道場を覘いたことが発端となった。1988年1月に宣伝ビラや情報誌でオウム真理教の
音楽コンサート「龍宮の宴」の開催を知り、どうしても行かねばならぬように気がして
、1988年1月に最終公演を観に行った。初めて麻原に会ったが、麻原に後ろからいきなり
「中川」と声をかけられる。初めて会ったのになぜ自分の名前を知っているのだろうと
驚きを感じる。直後大阪支部道場に行って早川紀代秀と話した。それでも入信する気は
起きなかったが、「龍宮の宴」から数日後「お前はこの瞬間のために生まれてきたんだ
」という幻聴が聞こえるなどの神秘体験を経験。この神秘体験は強烈で「口では言い表
せないくらいの衝撃で、もう俗世では生きて行けない」とまで考えた。1988年2月に再び
大阪支部に行き平田信、新実智光、井上嘉浩と話し、入信を決意した[2][3]。
1988年5月に医師免許を取得し、研修医として一年ほど勤めたが、6月に体から意識が抜
け出すのを感じて手術室で失神。精神科も受診したが通院は続かず、1989年8月31日、周
囲の反対を押し切り退職し看護師の恋人とともに出家[2](恋人はのちに中川とともにサ
リン生成に従事し逮捕)。1990年7月頃にオウム真理教附属医院が開設されると同医院の
医師となったが診察は行わず麻原彰晃の主治医として健康管理などをしていた[4]。麻原
の子を孕んだ石井久子の帝王切開も担当したが、経験が無かったので薬の投与を間違え
石井を殺しかけたこともあった[5]。
1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党から旧神奈川3区で立候補し落選。
教団が1994年に省庁制を採用すると、法皇内庁長官になり、側近として活動した[4]。地
下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格。
1995年8月22日、自ら申請して医師免許取消処分。自ら申請というのは前例がなかった。
[要出典]
事件との関わり[編集]
出家してわずか2ヵ月後、坂本堤弁護士一家殺害事件に関わることになる。1989年11月2
日夜、富士山総本部の麻原の部屋へ呼びつけられる。部屋には早川紀代秀、村井秀夫な
ど主だった幹部が集まっていた。「坂本は教団批判をしている。あいつは許せない。殺
さなければ。家に帰る途中でさらって注射を打つのはどうだ」と麻原に言われる。中川
が坂本弁護士の名を聞いたのはこのときが初めてであった。当時、オウム真理教に出家
した子供を返すよう、求める抗議が相次いでいた。親たちの訴えを受け、教団に強く働
きかけていたのが横浜の坂本堤弁護士であった[1]。
翌朝、中川は5人の幹部とともに富士山総本部を出発。坂本弁護士を外で待ち受ける計画
は失敗。報告を受けた麻原は家に押し入り、一家を殺害するよう指示。午前3時、中川は
他の幹部のあとより坂本の自宅へ入る。先頭は新実智光と端本悟、中川は一番後ろだっ
た。ドアは開いており、最後に入った中川はドアを閉めた際に音を立ててしまい、他の
幹部に「静かにしろ」と叱責される。部屋では家族3人が川の字になって寝ていた。緊張
で胸がどきどきしどおした。中川は最初に成人男性の坂本の抵抗力を封じる目的で薬剤
を注射。その後、1歳の長男龍彦に手をかける。このとき坂本の妻に「せめて子供だけは
」と懇願されるがその願いに耳を貸すことはなかった。そうこうするうちに龍彦は目を
覚まして泣きだした。これに対し誰かになんとかしろと言われ、あやして宥める手段は
講じず、座布団をかけたのち、口をふさぎ殺害した。3人の遺体を車に乗せ富士山総本部
へ向かうが、その車中、中川は怖くて何がなんだか分からず目をつぶっていたが体の震
えが止まらなかったという[2]。
総本部に到着した時には呆然としていたが、麻原から平然と「顔色が悪いね」と労われ
る。この事件の功績を認められ、中川は麻原の側近に取り立てられ、その後の一連の事
件に関わっていくことになる。坂本弁護士の事件はいちばんショックであったが、その
あとは断れば自分もそういう目に遭うのだと思うに至る[2]。
犯行時に中川がプルシャ(オウム真理教のバッジ)を事件現場に落としたため、オウム
犯行説が当初から疑われ教団は反論に追われることとなった。だが結局1995年まで真相
が明らかになることは無かった[6]。
1993年10月からは教団の武装化路線の本格化と土谷正実によるサリン合成の成功に伴い
、土谷とともに化学兵器製造に従事。池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サ
リン襲撃事件、松本サリン事件に関わる。松本サリン事件ではサリン生成に従事した他
、実行犯に加わった。中川は土谷や遠藤誠一と共にサリンやVXといった兵器の製造管理
を任されていた(土谷正実#兵器と違法薬物の製造も参照)[6]。土谷と遠藤は対抗意識
から仲が悪くなっており、中川が緩衝材の役割を果たしていた[7]。
1995年1月1日、 読売新聞朝刊が「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物検出」と
スクープし、土谷正実とともに土谷の実験棟「クシティガルバ棟」で保管していたたサ
リン、VXガス、ソマンやこれらの前駆体を加水分解して廃棄した。廃棄作業および廃棄
設備解体後、廃棄しそびれたサリンの中間生成物「メチルホスホン酸ジフロライド(裁
判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)」が発見され、これがのちの地下鉄サリン
事件で使用されたサリンの原料となる[8]。ジフロを隠しもっていたのが中川か井上かは
裁判でも結論が出ていない。地下鉄サリン事件では土谷正実の製造アドバイスのもと、
遠藤誠一とともに遠藤の実験棟「ジーヴァカ棟」でジフロからサリンを生成の上、袋詰
めにし、サリン中毒の予防薬「メスチノン錠剤」も準備し、遠藤を介して村井秀夫に引
き渡した[4]。
地下鉄サリン事件後、井上嘉浩、小池泰男、豊田亨、富永昌宏らと共に八王子市のアジ
トに逃亡。麻原の捜査撹乱命令を受けて爆薬RDXを製造し1995年5月16日に東京都庁小包
爆弾事件を起こす[9]。1995年5月17日に逮捕される。
公判[編集]
一審[編集]
一連のオウム真理教事件で計11件25人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われた。
1995年10月24日に開かれた第一審(当時池田修裁判長)初公判では、ロッキード事件の
田中角栄の第一審判決公判(3904人)を超える4158人の傍聴希望者が集まった。公判で
は当初、事件そのものへの証言を避けていたが、一審途中から供述を行い、「消えてし
まいたい」と語った[10]。
麻原の第200回公判に証人として出廷した際には、「尊師がどう考えているか、弟子たち
に何らかの形で示してもらいたい。私たちはサリンを作ったり、ばらまいたり、人の首
を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫び、証言台で泣き崩れた[1]
。また最終意見陳述では「一人の人間として、医師として、宗教者として失格だった」
と謝罪した[11]。
地下鉄サリン事件で使用されたサリンは、教団としてサリンの材料の殆どが証拠隠滅の
ために処分される中で、中川が密かに所持していた一部の原料から生成されたと検察側
は主張した。中川とその弁護団はこれを否定、中川らが処分できなかったサリン原料の
一部を井上嘉浩が保管していて、それが地下鉄サリン事件のサリン原料になったと主張
した。中川の一審判决はこのサリン原料の由来を「不明」とし、最終的にこの判决が最
高裁で確定した[12](詳細は地下鉄サリン事件#事件で使用されたサリンの原料は誰が保
管していたのかを参照)。
中川の状態は文化人類学やシャマニズムでいう巫病の状態であったとの指摘もされてお
り、弁護側は被告人の経験した神秘体験とは即ち幻覚などの病気であり、正常な精神状
態に無かったと主張した[13][14]。
2003年10月29日、東京地方裁判所での第一審(交代した岡田雄一裁判長)で死刑判決を
受けた。
控訴審以降[編集]
控訴審では、2組3名の医師が、入信・出家から各犯行時における彼の精神状態について
意見書を提出した。それらによれば彼は入信直前から解離性精神障害ないし祈祷性精神
病を発症していた。犯行時の責任能力については、「完全責任能力」「限定責任能力」
と医師の判断が分かれた。
2007年7月13日の東京高等裁判所での控訴審(植村立郎裁判長)では、彼が精神疾患にか
かっていた可能性を認めたが、責任能力はあったとし死刑判決は覆らなかった。
その後、弁護団は上告したが、その上告趣意書の中で、オーストリア法医学会会長ヴァ
ルテル・ラブル博士の意見書や絞首刑に関する過去の新聞記事を引用し、「絞首刑では
死刑囚はすぐ死亡するわけではない」「首が切断される場合もある」などとして、絞首
刑は憲法36条が禁止した残虐な刑罰である、首が切断された場合は絞首刑ではないから
憲法31条に反するなどと主張した[15]。
大学祭の実行委員長だった中川死刑囚が学生課によく出入りし、顔見知りとなった。
一時は疎遠となったが、逮捕を知って驚いた江里さんが中川死刑囚の家族に連絡。本
人の求めに応じて本を差し入れてきた。
二〇〇六年秋、約二十年ぶりに東京拘置所で面会。裁判の法廷に出て、障害者のボラ
ンティアをするなど温厚で誠実だった学生時代の印象を述べた。
* *
拘置所で俳句などを作っていた中川死刑囚は、死刑が確定すると面会禁止になる直前
、歳時記の差し入れを求めた。詩歌を作り続ける意思表示と受け止めた江里さんは、昨
年暮れの最後の面会で「ふたりだけで同人誌を出そう」と提案した。
歌手の美空ひばりさんの評伝「ひばり伝」などで知られる俳人の斎藤慎爾さん(73
)も趣旨に賛同し、ゲストとして十句を出した。
刑決まり去私には遠く漱石忌
中川死刑囚のこの句には「二〇一一年一二月九日に、最高裁から判決訂正申立書の棄
却決定書が届く。刑確定。この日は夏目漱石没後九五年の命日」との説明が付いている
。私心を捨て去る「則天去私」は、漱石が「理想の境地」とした言葉。刑の確定に揺れ
る心境が読み取れる。
* *
春一番吹かず十七年目の忌
これは地下鉄サリン事件から十七年の一二年三月二十日に詠んだ句だ。
金網の殻見事なり蝉(せみ)生きよ
運動場の小さい穴を見て、羽化したセミに思いをはせる句も。
同人誌は今後、年二回発行の予定。江里さんは取材の申し込みに対し、書簡で「中川
氏のために『考察と自己凝視の場』として同人誌が必要だと考えた」と説明。ただ「オ
ウム真理教への拒絶感情はいまも強烈であり、かつての被告が文章や詩歌を発信するこ
とそのものを不快視する人は少なくない」と面会での取材には応じなかった。
<中川智正死刑囚とオウム真理教事件> オウム真理教は、麻原彰晃死刑囚の主導で
坂本堤弁護士一家殺人事件(1989年)、松本サリン事件(94年)、地下鉄サリン
事件(95年)など相次いで事件を引き起こし、27人の命を奪った。中川智正死刑囚
(50)は麻原死刑囚の主治医を務めた側近で、自らも両サリン事件などで殺人罪など
に問われ、昨年12月に死刑が確定した。法廷では「一人の人間として、医師として、
宗教者として失格でした」と述べ、罪を認めた。
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◆ 恐ろしき 事なす時の 我が顔を 見たはずの月 今夜も静(さや)けし/元オウム中川
智正被告 18日上告審判決
「恐ろしき 事なす時の 我が顔を…」 元オウム幹部の中川被告が短歌3首 最高
裁で18日判決
産経ニュース2011.11.17 19:35 [殺人・殺人未遂]
地下鉄、松本両サリン事件や、坂本堤弁護士一家殺害事件などで殺人罪などに問われ
、1、2審で死刑とされた元オウム真理教幹部、中川智正被告(49)が17日、弁護
人を通じて短歌を発表した。最高裁は18日、中川被告に上告審判決を言い渡す。
短歌は「恐ろしき 事なす時の 我が顔を 見たはずの月 今夜も静(さや)けし」
など3首。
「りんご樹を この世の底で 今植える あす朝罪で 身は滅ぶとも」という1首は
、死刑執行への覚悟をうかがわせる。
また、「遺(のこ)しおく その言の葉に 身を替えて 第二の我に 語りかけたし
」という1首について、弁護人は「(中川被告は)自分のような者を出さないために、
精神科医などの協力を得て手記を書いている」との解説を加えている。
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オウム裁判終結へ、中川被告からの手紙
あわせて189人が起訴されたオウム真理教による一連の事件は、まもなくすべての
刑事裁判が終わります。サリン製造の中心的な役割を果たし、一審、二審で死刑を宣告
され、18日、最高裁判決を受ける元幹部が反省の気持ちと、一方で今も抱える教祖へ
の割り切れない思いを手紙に綴りました。
「被害者の方々、ご遺族の方々にはこの場をお借りいたしまして、心からおわび申し
上げます。誠に申し訳ございませんでした」(中川被告の手紙)
中川智正被告(49)。京都の医大に在学中にオウムに入信。麻原彰晃、本名、松本
智津夫死刑囚の主治医として仕え、サリンの製造などで中心的な役割を果たしたとして
、11の事件で殺人などの罪に問われ、一審と二審で死刑を言い渡されました。
「ただ、ただ、頭を下げて、おわび申し上げるだけでございます」(中川被告の手紙
)
17日、弁護士を通してJNNの記者に届けられた中川被告からの手紙には、ただひ
たすら謝罪の言葉が重ねられていました。
その中川被告と、事件の被害者という立場にありながら、ずっと向き合ってきた男性
がいます。オウム真理教家族の会・会長の永岡弘行さん(73)。
永岡さんは16年前、オウム真理教に入信した長男を脱会させようと奔走していた矢
先、猛毒のVXガスを背後から吹き付けられ、意識不明の重体となりました。その後、
長男は教団から脱会しましたが、永岡さんの体は今も右半身がマヒしたままです。
「(中川被告に恨みは?) 恨みはない。本当にそうなんです。大人である我々が(事
件を)阻止することができなかった」(永岡弘行さん)
永岡さんを襲ったVXガスを製造した男。それこそが中川被告でした。中川被告は、
なぜ犯罪に手を染めたのでしょうか。永岡さんは法廷を傍聴し、拘置所での面会を続け
て来ましたが、最後の判決を目前にした中川被告の変化に驚いたといいます。
「大きく変わったのは最後。穏やかな顔つきになっていた」(永岡弘行さん)
しかし、かつての教祖、松本死刑囚に対しては、今も割り切れない思いを抱いていま
す。
「麻原氏が何も話さずに裁判を終えてしまったことは、個人的な感情を抜きにしても
、同じような事件を2度と起こさないという目的からして、残念でしょうがありません
。彼しか分からないことが沢山あったのです」(中川被告の手紙)
教団への本格捜査から16年余り。松本死刑囚は何も語らぬまま、これまでに11人
の死刑が確定しました。
「何よりも罪の重さを自覚しつつ、自己を見失わずに残りの人生を終わりたいと思い
ます」(中川被告の手紙)