日本の一番長い日がかたるもの!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 ここにきて、中国北朝鮮問題を国難と掲げ

阿部誠二は防衛費を5兆円以上に予算を取り

防衛機器を買いあさり、攻撃態勢までも整えようとし

 専守防衛策の名のもと、攻撃対象機器の

購入にまで阿部政権は国民論議を尽くさないまま

実行に移そうとしています。

 これは国体を変えてしまうほどの重要案件です。

  防衛論議が、国会にどうして取り上げられないのか疑念が残る。

 憲法9条の理念まで歪曲しようとしています。

 日本は被爆国としての世界指名を担うべきと考えております。

 映画化にもなりました「日本の一番長い日」を拝読しました。

敗戦の何か月も前から敗戦を決意しながら軍部とのはざまで決断しきれなかった。

 ポツダム宣言の受諾に鈴木内閣は国体を堅持するために

決意しながらじっこうできないでいた!

 敗戦の停滞がなければ広島、長崎の悲劇は生むことはなかったはず?

 全面降伏の決断は天皇

「堪え難きを絶え、忍び難きをしのぶ」とのお言葉のもと

涙の決断を決定された。

 時々の教育の在り方により、モノの思考回路はこうも変容するものかとは

みこちゃんの素直な感想でもあります。

   日本の一番長い日若者の感想です。

僕はもちろんだけど、大事な家族が目の前にいて、

負けたとしても生き延びれる道と死の道があったら、

あなたも絶対に前者を選びませんか??

さらに言うと、今戦争が起こったとして、

我先にと戦火の最前線に飛び込む人ってどのくらいいるんだろう?

僕は負け犬と言われても、背を向けて逃げるけどね。

逆を言えば、この物語に出てくる人達は

本当に熱く生きていたんだなぁって思う。

その眩しすぎる生き様が、快適さと引き換えに失くしていく

現代人の情熱をゆり動かすんだろうな。

辞表の代わりに命差し出すんだもの。

そんな時代を走り抜けた人たちのことを考えたら、

僕も小さなことでクヨクヨしてる場合じゃない!!

「国のために」って考えは今の僕にはないけど、

・自分のため

・家族のため

・生まれ育った故郷のために

もっともっと僕はできるはず!

このブログを通してそれを具現化できるように頑張るぞ~!!

つまらなくなってしまうので、書籍で印象に残っている場面をご紹介したいと思います

御前会議

gozenkaigi1

(出典:http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/14098055.html

写真は8月9日深夜の会議

天皇自ら出席した御前会議は、御文庫付属の地下防空壕で行われていました。

8月9日(正式には10日)と14日の2回です。

換気扇はあるものの蒸し暑い場所で日本の将来を決める会議が

開かれたわけですが、このほど宮内庁が50年ぶりにこの防空壕を動画公開しました↓

YouTube昭和天皇終戦決断の防空壕公開=皇居内の御文庫付属室

厚さ30cmの鉄扉は物々しさ感じますが、ミサイルが打ち込まれても

敵襲があっても、ある程度は持ちこたえてくれそうな作りになっていますが

今ではその重厚な扉もサビ、通路や部屋は朽ち果て、立ち入りが危険な状態となってい

ます。

そんな場所で開かれた御前会議、

2時間余の話し合いも結論が出ず、結局のところ天皇のご意向に沿う流れを取ったのが

時の総理・鈴木貫太郎氏でした。

異例ともいうべき事態に周りも困惑したそうですが、

このまま結論が出ないままポツダム宣言の返答を先延ばしにしては

さらなる被害拡大は必至、しかし終戦を推し進めれば

軍部からの強い反発は避けられず、国内の混乱を招きかねない。

こういった非常事態の戦局を動かせるのは天皇しかいない、

また大元帥という軍の最高責任者でもある天皇のご聖断ともなれば

軍部も従わざる得ないという考えも総理にあったのかもしれない。

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ポツダム宣言受託を反対し徹底抗戦を主張していた阿南陸軍大臣

その彼の元へ六名の若き青年将校達がクーデター計画の報告、

大臣に支持を求めましたが、早まった行動を取らないようにと、これを窘めた。

阿南大臣にとって青年将校達のこうした決起する行動は痛いほどよく分かる。

彼もまた降伏することによって国体護持が危ぶまれるのではないかと、

最後まで心配していた人物なのです。

しかし天皇の聖断に逆らうことは出来ず、

ポツダム宣言受託の詔書にサインをした・・・わけですが

この時既に自決を決めていたかもしれません。

総理大臣室を訪れた阿南大臣は

「陸軍の意思を代表して、私はこれまでずいぶん色々と強硬な意見を申し上げましたが

、総理にご迷惑をお掛けしたことと思い、ここに謹んでお詫び申し上げます。私の真意

は一つ、ただ国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものでは

ございません。この点は何卒ご了解くださいますよう。」(引用:「日本のいちばん長

い日」)

という感謝の意を述べるとともに南方第一線からの届け物といって新聞紙に包まれた葉

巻を総理に差し出したそうです。

そんな大切な葉巻を総理は吸うことが出来なかったのでしょう。

大切に保管していた葉巻は阿南大臣の命日に供養として焼いたそうです。

また、首相は改めて阿南大臣に感謝の意をこう述べています。

「阿南大臣は忠実に政府の策に従われた。陸軍大臣が辞表を提出されたならば、我が内

閣は即座に瓦解したであろう。阿南大臣が辞職されなかったので、我々はその主目標、

つまり戦争終結の目的を達成することが出来た。わたしは、そのことを陸送に深く感謝

しなければならない。阿南大将はまことに誠実な人で、世にも珍しい軍人だった。実に

立派な大臣だった。わたしは、その死が痛恨に堪えない。」(引用:「日本のいちばん

長い日」)

確かに総理の言う通りで、阿南大臣が辞表を出し内閣を瓦解することは容易です。

しかし彼は部下に言ったように「私が辞めたところで問題は変わらんよ。」と

冷静に返していましたが、これまでの彼の言動から察するに、天皇への高い忠誠心や

実直で素直な人物であると考えられます。

そして最後には責任を取る形で自決したわけですが

これは部下がクーデターを起こしたからではなく降伏という選択を取らざる得なかった

軍の責任者としての最後の役目とかんがえるべきなのだろうか。

どちらにしても彼はクーデターを知らされたのは自決を決めた後なんです。

部下が見守る中、大いに酒を酌み交わしたあと、腹を切り頸動脈を切り

意識を失いながらも正座していたということです。

繰り返しになりますが彼は最後まで国体護持を望んでいたのです。

宮城事件

いわゆる日本の降伏を阻止せんと決起した青年将校のクーデター事件。

森赳(もりたけし)師団長が犠牲となったわけですが

その中心人物となる畑中少佐と井田中佐、そして竹下中佐は東大教授の平泉澄博士の直

門で国体観を学んでいたといいます。

彼らが学んでいたという国体観とは

国民はひとしく報恩感謝の精神に生き、天皇を現人神として一君万民の結合ととげる、

これが日本の国体の精神である。(引用:「日本のいちばん長い日」)

つまり国民を助けるのではなく国体を護るためなら最後の一人となっても戦いぬくとい

う精神で

ポツダム宣言などという無条件の降伏はありえないという考えになる。

阿南大臣に計画を報告し支持を得ようとし断られたことで

自分たちだけでもその精神の元、決起し、何としても降伏を阻止せんと画策したのです

しかしこの宮城事件は宮中占拠したものの失敗に終わり、

畑中少佐は苦し紛れに玉音放送の前に国民に決起理由を述べさせてくれと懇願しました

がこれも叶うこと無く終わったのでした。

こうしてクーデターは鎮圧され15日の正午に無事、玉音放送も行われたわけですが

9日に開かれた御前会議、そして14日から15日正午までに

様々な危機的状況が続いたわけです。

そしてクーデターの当事者たちは次々と自害し、

更には事件鎮圧の功労者までもが責任を感じて自害しています。

最後に

阿南大臣もしかりですが、昭和に入っても尚、

死を持って責任を取るという風習が残っていたのに驚きました。

軍刀を使っての割腹と拳銃自殺です。

また、天皇玉音放送が終わった後も、

各地の基地では降伏を受け入れられず混乱が続いていたそうです。

青年将校の決起、そして各基地の混乱から察するに

日本人にとって降伏というのは受け入れがたいものであり、

改めて国体護持の精神のもと天皇陛下への忠誠心が異常なほど高かった事がわかります

しかしながらポツダム宣言を受託しなかった場合、

アメリカはさらなる攻撃を続け、日本は焦土と化したに違いありません。

国を思う精神・・立派だと思います、しかしその国を支えているのは国民であり天皇

はない。

その繁栄の礎を築くことが出来る国民の身を案じてくれた

 当時の昭和天皇の聖断が唯一の救いだったのかもしれませんね。

   「日本の一番長い日」を 読んだ若者の感想です。

昭和二十年八月六日、広島に原爆投下、そして、ソ連軍の満州侵略と、最早日本の命運

は尽きた…。しかるに日本政府は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍に引きずられ、先に出されたポ

ツダム宣言に対し判断を決められない。八月十五日をめぐる二十四時間を、綿密な取材

と証言を基に再現する、史上最も長い一日を活写したノンフィクション。

 現在(2015年8月15日)、原田眞人監督による再映画化版が公開中の『日本のいちばん

長い日』。

 この「昭和20年8月14日から15日にかけて、日本の中枢で起こっていたことを描いたノ

ンフィクション」は、唱和40年に、大宅壮一・編、として世に出たものです。

 このノンフィクションは、後年、実際の著者であり、取材の多くを担当した半藤一利

さん名義となり、終戦から70年経っても読みつがれています。

 僕は今回はじめて読んだのですが、文献や資料のみならず、可能なかぎり当事者に会

って「あの日」に起こったことを再構成していったというこの本には、ものすごい時間

と手間、そして、「歴史」を遺すのだという気概が込められています。

 昭和40年といえば、終戦からまだ20年しか経っていないので、まだ人々の記憶も鮮や

かだったでしょうし、存命の関係者も多かったはず。

 今年は、終戦から70年。これが書かれてからでも、50年経っています。

 しかし、「戦争の記憶も鮮やかな20年後」とは言ってみたものの、実際ははたして、

どうだったのだろう?

 もちろん、いまからみると「直接関与した人も多いし、記憶も確かだった」と思われ

るのですが、2015年から20年前といえば、オウム真理教の一連の事件や、阪神・淡路大

震災が起こった1995年です。

 いま、オウム事件の関係者にインタビューしたとして、20年前のことを、はっきり覚

えているものなのだろうか……

 ただ、この「昭和20年8月15日」に関しては、「特別な日」として覚えている、と言わ

れると、「そうかもしれないな」と納得してしまうところもあるのですけどね。

 実は、この本のなかにも、関係者の証言が食い違っているところがあって、著者は「

両論並記」しているのです。

 20年というのは、生々しい記憶を維持するには、けっして短い時間ではない。

 こうして「再現する」ためには、20年が必要だったというのは、わかるんですけどね

 言えない、言いたくないこと、自分の中だけにとどめておきたい記憶もあっただろう

し。

 首相に乞われて、天皇は身体を前に乗り出すような格好で、静かに語りだした。

「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である」

 一瞬、死のような沈黙がきた。天皇は腹の底からしぼり出すような声でつづけた。

「空襲は激化しており、これ以上国民を途端の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類

の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は祖先からうけついだ日

本という国を子孫につたえることである。いまとなっては、ひとりでも多くの国民に生

き残っていてもらって、その人たちに将来ふたたび起ちあがってもらうほか道はない。

 もちろん、忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤にはげんでくれたものを

戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び

難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持をしのび奉り、私

は涙をのんで外相案に賛成する」

 降伏は決定された。八月十日午前二時三十分をすぎていた。

 この本では、さまざまな関係者の証言を集めて、昭和二十年八月十四日の午後一時か

ら、翌十五日の正午、ポツダム宣言受諾を天皇陛下の肉声で告げた「玉音放送」までの

激動の一日が「再現」されているのです。

昭和天皇鈴木貫太郎首相、阿南陸軍相などの政権の中枢にいた人から、徹底抗戦を主

張し、実力行使にはしった陸軍の若手将校たちから、新聞記者、玉音放送のための準備

をしたラジオ局員など、さまざまな人物が登場してきます。

 誰が主役、というわけでも、誰かの視点から、というわけでもなく。

 「降伏」というのは、「それじゃ、降伏します!」と、相手に連絡を入れればおしま

い、というわけではなくて、戦争をしている中でも、正式な外交上の手続きを踏み、戦

場でたたかっている部隊への伝達などの準備も行ったうえで、すすめていかなければな

らないんですね。

 関係者の人間ドラマだけでなく、そういう「プロセス」がしっかり記録されているの

も、このノンフィクションの魅力です。

 僕にとっていちばん印象的だったのは、陸軍の代表者として、天皇陛下終戦への「

聖断」と「このまま降伏なんて受け入れられない」という若手将校の板挟みになりなが

ら、黙々と天皇の聖断を実現するために行動した阿南陸軍相だったのです。

 これを読むまで、「戦争末期、物資もなく、都市は空襲を受け、広島・長崎に原子爆

弾を落とされても、まだ抗戦を主張していた陸軍の人たちは、よっぽどのバカだったん

じゃないか?」と僕は思っていました。

 ですが、これを読んでいると、陸軍の参謀たちも「竹槍でB29を落とせる」「奇跡が起

きて勝てる」というような幻想に浸っていたわけではなく、「敗戦濃厚なのは認めざる

をえないが、せめてどこかで米英に一矢報いて、有利な条件での講和を引き出したい」

と考えていたようです。

 まあ、後年からみると、「それも無理だろ」としか言いようがないのですけど。

 ただ、当時は、「米英が日本を占領すれば、天皇は沖縄かどこかに流され、婦女子は

犯されて混血される」などという噂が流れており、「そんな目に遭うくらいなら、戦っ

て死ぬ」と考えるのも、無理はないような気もします。

 戦意を昂揚させ、戦争を続けるためには「アメリカ人にもいろんな人がいて、良い人

も多いんですけど、やむをえないので戦いましょうね」と言うわけにはいかない。

「鬼畜米英」ということで、敵愾心を煽っていたのですが、いざ戦争を終わらせるとな

ると、そうやって植えつけてきたイメージが、降伏を躊躇わせることにもなりました。

 いまの時代を生きている僕は「アメリカの占領軍は、そこまで残酷なことはしなかっ

た」ことを知っています。しかしながら、当時の人には、そんな未来があることなんて

、予想もつかなかったはず。

 これを読んでいて、いちばん痛感したのは、「ああ、昭和20年8月15日まで、大日本帝

国は『負けかた』を知らなかったのだな」ということでした。

 負け前提で戦争をはじめる国はありません。

「本心としては「こりゃかなわんな」という状況は多々ありそうですが、それを表に出

すわけにはいかないでしょうし、「勝利条件」はあっても、「敗戦条件」を設定して戦

う国というのは聞いたことがありません。

 現実的には厳しい状況でも、これまで失ったものの大きさや、戦後処理への不安から

、「負けを認めるタイミング」が、どんどん遅れてしまうのです。

 ましてや、日本軍は、明治維新以来「不敗」だった。

 「あの日」までは。

 さまざまな手続きとか、陸軍内部での混乱とか「うまく負ける」のって、こんなに大

変だったのか……

 僕は広島に住んでいたこともあり、原爆による一般市民を含む無差別攻撃は戦争犯罪

だと思っています。

 でも、原爆という「絶対的な兵器」の威力を思い知らされなければ、たしかに、日本

はもう少し長い間「勝算なき抵抗」を続けていたかもしれません。

 それにしても、戦争の末期での「一日」の違いというのは、本当に大きい。

「総理、御前会議をひらくまで、もう二日だけ待っていただくわけにはいきますまいか

 首相は、陸相がいんぎんに少しも脅迫的でないのに、心から好感をもった。しかし、

この申し出を毅然としてことわった。

「時機はいまです。この機会をはずしてはなりません。どうかあしからず」

 阿南陸相はもう一言なにかいおうとしたが、思い諦めたという表情で、丁寧に敬礼を

すると邪魔したことを詫び、部屋を出ていった。同席していた小林堯太元医大尉が、

首相にいった。

「総理、待てるものなら待ってあげたらどうですか」

 鈴木首相は答えた。

「小林君、それはいかん。今日をはずしたら、ソ連満州、朝鮮、樺太ばかりでなく、

北海道にもくるだろう。ドイツ同様に分割される。そうなれば日本の土台を壊してしま

う。相手がアメリカであるうちに始末をつけねばならんのです」

 小林軍医はいった。「阿南さんは死にますね」

「ウム、気の毒だが」

 鈴木首相は眼を伏せるようにしていった。

 たしかに、一日遅れれば、新たな原爆投下で何十万人単位の犠牲が出たり、ソ連軍が

北海道になだれこんでくるリスクが上がっていきます。

 それを思うと、終戦を急いだ人たちのおかげで、助かった命はある。

 ただ、もっと早く戦争を終わらせていれば(あるいは、戦争をしなければ)、広島や

長崎での甚大な犠牲や、日本兵のシベリア抑留という事態は、起こらずに済んだ可能性

もあります。

 ちなみに、終戦玉音放送直前の8月15日には、こんなこともあったそうです。

 午前十時三十分、大本営は発表した。開戦いらい八百四十六回の最後の大本営発表

あった。

「わが航空部隊は八月十三日午後、鹿島灘東方二十五浬(かいり)において航空母艦

隻を基幹とする敵機動部隊の一群を捕捉攻撃し、航空母艦一隻を大破炎上せしめたり」

 国民のなかにはこの発表に奇異なものを感じたものも多かった。朝からラジオは「畏

きあたりにおかせられましては、このたび詔書渙発(かんぱつ)させられます……畏

くも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずから御放送あそばされます」と

荘重な口調で、予告をいいつづけていたからである。終戦の噂はデマで、徹底抗戦を天

皇が訴えるのであろうか、そう考えるものも多かった。

 戦争を終わらせるのも、「一筋縄ではいかなかった」のです。

 しかし、玉音放送の直前にまで、こんな「フェイク」を入れる必要があったのだろう

か……

 まさに「日本のいちばん長い日」。

 ただ、僕は昭和天皇や阿南陸相の覚悟、鈴木首相の忍耐に感動しつつも、ずっと、心

の片隅に、引っかかるものがありました。

 彼ら、日本の「中枢」にいた人たちは、こうして「歴史」に遺り、語りつがれていく

 でも、彼らが命じて戦場に送り込み、戦死どころか飢えや病気で、遺骨さえ還ってこ

なかった人々が、あの戦争では、大勢いたのです。

 「ドラマチックな決断とはかけ離れた、時代に流され、ただ、朽ち果てていくような

死」のほうも、語りついでいくべきではないだろうか。

 本当に戦争になれば、大部分の人たちは、「御前会議」になんて縁がないのだから。