昭和天皇、87年。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今日も晴天快晴。

温暖化でしょうか。

この時期、気温はすでに30度近くまで上昇する予定です。

 昭和20年、8月15日正午。

晴天の中玉音放送が敗戦を天皇のお言葉として告げられた。

 あの目の前で多くの、一般市民が焼け死んだ戦争の爪痕を

人々はどう、受け止め、どのような明日を

えがきくらしてきたのだろうか?

【戦後70年】1945年8月15日、人々はどう受け止め、何を思ったか。当時の日記から終戦追体験

久留米市 

1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。正午には、昭和天皇自ら「玉音放送」を行った。その日、人々はどのように終戦を知り、受け止めたのだろうか。当時の人々が書いた日記や作文を掲載し、70年前の8月15日を追体験したいと思う。

■「敵が沖縄からでも、デマ放送しているのだろうと思った」

まずは、現在の福岡県久留米市で旧制中学校に通っていた14歳の少年が書き留めた日記から。

十三時頃だったか、山本君が息をきらしてきて、「日本は無条件降伏したげな」といった。僕は、おったまげてしまって、物もいえなかったが、気をおちつけて、よく聞いたら、十三時にラジオがいったそうだ。そして、はじめに、天皇陛下御自ら御放送遊ばされたそうだ。僕は、それは敵が沖縄からでも、デマ放送しているのだろうと思ったが、町をあるいてみると、街角という街角は、みなその話でもちきりだ。

僕はいくらなんでもそんな馬鹿なことがあるものか。まだ戦力はいくらだってあるのに。それに、陛下御自ら御放送遊ばされるなんてそんなおそれ多いことがあろうはずがないといいあった。家にかえってみると、近所の人々がいろいろ噂しあっている。みな非常に憤慨している。山本君のお母さんは、「せめて、あの子供の仇だけでもとりたかったのに」とおっしゃって、声をうるませるので、かわいそうでみていられない。

七時の報道のあとで、首相の演説があるというので、山本君と二人で多田へききに行って、今日の新聞(西日本)をみた。大きく「大東亜戦争終完の御聖断下る」とあり、その下に詔書が謹載してあった。

道を通る人は、みんなプリプリおこっている。ラジオはサッパリ聞こえなかった。海軍大臣は自決された。

米英中ソ共同宣言に応じたのはあの広島に使用した残虐極まる原子爆弾によって、大和民族が絶えてしまうのを御慮いになって、この御聖断をお下し遊ばされたとうけたまわる。しかし、我々の考えとしては、あくまで闘い、最後の一人まで戦って、死にたいのである。まだ、こんなに兵力も武器もあるのに……。

たとえ、大和民族が絶えてしまおうとも、恥さらしな降伏をするよりも、世界の人々から、日本人は最後の一人まで戦って敗れたとたたえらえる方がよい。やがて、兵隊は武装解除となり、中等学校以上の学校はなくなり、工場は休み、米英人はわがまま勝手に本土へやってくるだろう。

こんな事がはじめから知れてるなら、ありったけの兵器を特攻兵器として仇敵撃滅に使用したろうに。もう今日となってはあの飛行機も無用の長物になってしまった。特攻隊の人なんか、どんなに地団駄ふんでくやしがったろう。

今日に限って、ブンブン飛ぶ味方機をみてうらめしくなる。まだあれだけ飛行機があるのになあ。実際、くやしかった事は、筆の下手な僕には書いて表せない。くやしくてくやしくて。国武さんの伯母さんも飯島さんもくやしいといって泣かれる。

この日記を書いたのは、竹村逸彦さん。ものこごろついた時から軍国教育を受け、当時は「軍国少年」だった。この日記は1945年から1946年にかけて書かれたもので、竹村さんが久留米市に寄贈。現在は、同市の六ッ門図書館で9月6日まで開催中の展覧会「戦後70年 平和資料展 少年が見た久留米の戦争」で展示されている。

70yearspostwar

竹村逸彦さんの日記

■「私は『もう学校へ行かなくてもいいのかな』と思いました」

次に埼玉県の国民学校6年生の女子生徒がその数カ月後にその日を振り返った作文から。

昭和十六年十二月八日から昭和二十年八月十五日の間に、私たち国民は食糧増産や飛行機や軍艦戦争に使う武器を作る為に働いていました。勝つのだ勝つのだといっていましたがとうとうアメリカの勝ちで日本は無条件降伏したのです。十四日の夜は熊谷や私たちの村も爆撃したのです。その時はもう死んだのか生きているのかわからなくなってしまいました。

みんな火でうづめつくされてしまいました。十四日の夜が明けて十五日になりました。熊谷の方の人たちは焼け死んだ人もたくさんあるという事でした。私は「もう学校へ行かなくてもいいのかな」と思いました。負けても行くのだそうです。その時はみんなおどろいて働く人は一人もいません。

お昼の時ラジオのニュースで重大放送がありました。熊谷付近は焼けてしまったので、電気は通じていませんでしたのでラジオを聞く事ができません。その日の夕方「日本が負けた」というのを聞きました。

この作文を書いたのは、吉田タケ子さんだ。作文は現在、埼玉県平和資料館が所蔵。この続きには、「政府は国民にうそをいって、アメリカの方がたくさん軍艦を沈めたのに、日本の戦果の方を大きくしたり」していたこと、「東條は戦争を始める時、内閣としていばっていました。終戦になって直ちに戦争はんざい人となりました」「今は東條のにくらしい事が思い出されて急にくやしくなる事もあります」という率直な気持ちが書かれ、正確な情報が広まっていった様子がうかがえる。

埼玉県平和資料館に所蔵されている吉田タケ子さんの作文

■「英国および米国各地では、国民がうき足立って大騒ぎ」

一方、なかなか日本の降伏を信じられない人たちもいた。ブラジルに渡航し、サンパウロで働いていた30代の男性の日記から。

本日はサンパウロ市ラジオは朝から日本のニュースを報じ騒しい。

午後の新聞は、日本は降伏をしなければならぬ、また平和交渉が進められていると、大騒ぎである。

英国および米国各地では、国民がうき足立って大騒ぎであると報じている。

とにかく当地新聞ラジオの模様によって、恐らく一週間は持ち切れまい。

あまりの事に先はわかり切っている、と思って、今日は一日、市内には出かけなかった。

夜なべ仕事をしていたら、ガゼッタ社のサイレンが鳴って驚かした(夜八時半頃鳴る)。

九時半近く、またサンパウロ市ラジオは日本が無条件降伏したと放送した。

九時頃、高橋君が、東京ニュースをわざわざ知らせに来た。よると、今朝東京放送は、東京湾犬吠埼付近二百海里に敵艦約四百隻を持って来軍し、十三日朝より大海戦中にて、目下日本は潜水艦隊その他によって、もう攻撃を加えている云々。

■「英米が負けた事は負け、本当に知らせる他にみちはない」

日本が敗北したという放送を聞いた2日後の8月16日、男性はこう記している。

自分は今だ日本より確報はないが、最後の一人を決心して、今さらロシヤの外交やボンバ(原爆のこと)の一つ二つが落ちて降伏などは夢にも考える事は出来ぬ。(中略)今日の現実にとうとう一部の同胞のろうばいは、みるにつけ残念の限りである。

夜十時過ぎて邦人間は東京よりの放送で、みな、いきを吹き返した。

東京より今朝米国は、ワシントン駐在のスイス大使を通して日本に平和問題を申込んで来たとただ通知があったよし。

尚昨夜は東京より、東京湾その他にて英米艦船約二百隻が、我が軍に降伏して来たと放送があったよし。

また鈴木貫太郎首相が辞職して、本日東久邇宮殿下が新内閣を拝命したと報じている。尚殿下は本年五十七才になられるよし。以上いずれも東京ラジオニュース。

その他の新聞も全部日本の事はやや判明したように報じている。いかなるブラジルの新聞とて、これ程の世界の大事件を勝った日本を降服、降伏では自国に起こる数々の大問題につじつまが合わせられまい。感情はぬきにして、英米が負けた事は負け、本当に知らせる他にみちはあるまい。

この日記を残したのは、1906年生まれの楡木久一さん。栃木県に生まれ、1931年にぶえのすあいれす丸でブラジルに渡航サンパウロ市に居住し、行商、飲食店、洋服の修繕などの仕事に従事した。現地の新聞やラジオに接していたが、日本の降伏を「デマニュース」と断じるいわゆる「勝ち組」だった。楡木さんの日記は、「楡木久一関連資料」として国立国会図書館憲政資料室に所蔵されている。

作家・昭和史研究家

1930年東京向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。

週刊文春「文藝春秋」編集長、取締役を経て作家。

著書に『漱石先生ぞな、もし』『日本のいちばん長い日』、『ノモンハンの夏』(以上文藝春秋)、

『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇1945-1989』(以上平凡社)、

日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社)など多数。

終戦の日、俺の人生これで終わりか。

なんだかバカバカしいなと思った

編集部  1945年、日本が戦争に負けた年、半藤さんは確か15歳でいらっしゃいましたね。そのときは、どちらにおられたんですか?

半藤  新潟県長岡市です。生まれは、東京の向島なんですが、疎開していて、そこで長岡中学に入りましてね。で、敗戦のときは中学3年で、勤労動員ですよ。津上製作所という軍需工場でしたね。

編集部  そこで何をお作りになっていたんですか?

半藤  ネジでしたね。あれは、何のネジだったのかなあ。なんか爆弾のネジだときいていたんですが、とても大きなネジでねえ。それを、旋盤で研ぐんです。私は、地元のヤツらと組まされてたんですが、コイツらが長岡中学の悪党3人組でね、僕が疎開だっていうもんだから、みんな私に押し付けやがってね、あはは。連中は何もしないで、僕だけが一日中働いてるの。

編集部  8月15日というのは、とてもいい天気だったと聞いているんですが、長岡もやっぱり。

半藤  そう、いい天気でしたね、本当にいい天気。

編集部  天皇の放送、いわゆる玉音放送ですか、それをお聞きになったときは、どう思われました?

半藤  なんだかよく聞き取れなかったんですが、聞いた瞬間、ああ、負けたんだな、ということはすぐに分かりましたね。終わってから、多分、和田信賢アナウンサーだったと思うんですが、彼が「謹んで読み上げます」と丁寧にもう一度読み上げたんです。そこまで聞かなくても、もう分かってはいましたけどね。

  全部聞き終わってから解散になったんですが、そのワル3人が「もうこれで、俺たちの人生は終わりだ、アメリカが来て俺たちはみんな奴隷にされるんだから」って。それで「南の国へ送られてしまうから、今のうちにいい事しようじゃねえか」と言うから「何すんだ?」ってたら、「タバコ吸おう」って。ははは、かわいいもんです。それで、防空壕に入りましてね、生まれて初めてタバコ吸いましたよ、僕は。

編集部  まじめな中学生だったんですね。

半藤  まあ、まじめなほうだったでしょうね。そのタバコがとても不味かったのは覚えてるなあ。で、それが終わって「次は何だ?」「もちろん女だ」なんて。あははは。そんなにうまくいくかあ。そんな風で、あまり深刻ではありませんでしたね。ただね、ああ、これで終わりなのかと、なんかバカバカしいなとは思いました。

編集部  バカバカしい?

半藤  そう、あれは一体なんだったのか、という感じですね。私は向島東京大空襲を受けてます。もう周りすべてが火の海。悲惨でしたね。でもね、それより最初の疎開先の茨城県下妻というところで受けた銃撃が怖かったですねえ。下妻中学に入っててやっぱり勤労動員で、日立製作所の学校工場でネジ作ってました。このころはもう、やたらと敵の飛行機、P51ですが、こいつが上空を飛びまわってるんです。しかし、戦争というのはヘンなもんですよ。そんな中でもノンビリと魚釣りなんかに行ってるんです。近所のおじさんと二人で、小貝川の土手を釣竿かついで歩いてたら、そのP51が2機、まっすぐこっちへ向かってきて、ダダダダッッと撃ってきた。思わず腰を抜かしましたね、こっちはまだ中学生だし。この間『硫黄島からの手紙』って映画観たんですが、まさにあの通りですよ。真正面から狙って撃ってくる。 

編集部  そんな田舎町の中学生まで狙われるような状況----。

半藤  もうこれはいけねえや、と思いましたね。でね、ここで僕が助かったのはほんの偶然。世の中に絶対なんてもんはないんだ。だから、俺はこれからは「絶対」なんて言葉は使わねえぞ、と思いました。「日本は絶対勝つ」とか「絶対日本は正しい」、「俺の家は絶対に焼けない」なんて事はありえない。それが、このころ私が抱いた一番の感想だったんじゃないかなあ。だから今でも、右でも左でも「ナントカは絶対正しい」とか言うのを聞くと、ふん、と鼻で笑いたくなるんですね、私は。 

編集部  日本が負けたということが分かって虚脱状態に陥るとか、それまで軍国少年だったのがコロッと変わってしまった、などという話をよく聞きますが、半藤さんの場合はいかがだったんですか?

半藤  まあ私は、勤労動員行ってたときも、2年上の女学生と工場の裏でラブシーンやってたりしてたからなあ。それを先輩に見つかって、物凄い勢いで何度もぶん殴られたり。軍国少年じゃなかったでしょうね。どちらかというと、非国民扱いされてましたから。だから、ショックで茫然自失なんてことはなかった。私はさっきも話したように東京で大空襲も体験してますし、たくさんの人たちが目の前で焼け死んでいくのを、この目で見てるんですよ。それを僕らは助けられない。軍だって国民を助けるなんてことはしない。むしろ、軍がなんでもない無辜の民を殺す、そういうのを身に沁みて感じていたから、厭戦---じゃなかったけど、でも、反軍的な気持ちは確かにありましたね。 

編集部  では、戦争が終わってホッとしたというか、喜んだというか。

半藤  あんまりそうは感じなかった。ただ、ああこれで俺の人生は終わりなんだ、という風に。15歳だから、兵学校へ行くとか士官学校へ進むとか言う連中もいたけど、僕は兵隊なんかに行くつもりはまるでなかったし。まあ、徴兵されれば仕方ないかという諦めはありましたけど。なんだかすべてチャラという感じで、妙に何もかもたいしたことはないんだ、もう終わりなんだから、そんな風に思っていたんじゃないかなあ。 

編集部  虚脱感みたいなものなんでしょうか?

半藤  そう言えるかもしれないね。まあ、どうせ南の島かカリフォルニアあたりに送られて、アメリカの奴隷になるんだろうな、なんて考えてましたから。それを、家に帰って親父に言ったら「バカモン、何考えてんだ、お前は。日本の男どもをみんな船で連れてくのにどれだけ金がかかると思ってんだ、そんなことアメリカがやるはずねえじゃねえか、バカ」ってね。まあ、私はそんな程度の中学生だったわけですよ。 

マッカーサーと共にやってきた「五大改革」

編集部  敗戦間もない昭和20(1945)年8月30日、マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ちます。「そんな中学生」だった半藤少年は、マッカーサーをどう思っていたんでしょう。

半藤  いやあ、なにしろカッコいいと思いましたね。丸腰にサングラス、コーンパイプをくわえて悠々とタラップから降りてくる写真が新聞にドーンと載ったわけですから。軍人らしい軍人だなあ、と。 

編集部  そのマッカーサーが、矢継ぎ早に布告を出しましたね。

半藤  そうですね。まず、9月11日に連合国軍総司令部(GHQ=General Headquarters)から、主要戦犯容疑者39人の逮捕指令が出されました。22日には軍国主義的・超国家主義的教育の禁止、これによっていわゆる教科書の「墨塗り」が始まります。続いて29日には検閲制度の廃止、そして10月11日には「5大改革」というのが発表されます。 

編集部  その5大改革の中身とは、どんなものだったのでしょう?

半藤  それはね、【1】婦人解放 【2】労働者の団結権労働組合の結成奨励) 【3】教育の民主化 【4】秘密審問司法制度撤廃(つまり、特高特別高等警察などという公安秘密警察制度の廃止) 【5】経済機構の民主化財閥解体)などといったものですね。 

編集部  そういう改革の流れの一環として「憲法」があったと理解していいんでしょうか。

半藤  よろしいんじゃないでしょうか。だけど、その5大改革の前に「皇室問題」があるんですね。まあ、皇室というより天皇個人をどうするのかというのが、当時の日本でもアメリカでも最大の難問だったわけです。この難問に対してどう答えを出すか、というものとして新憲法の問題があったと考えたほうがいいと思いますね、私は。 

編集部  つまり、天皇の地位をどう新憲法に規定するか、ということですね。それが「象徴」ということで落ち着いて、昭和22(1947)年に日本国憲法が発布されます。それを、当時17歳の半藤さんはどのように受け止められたのでしょう?

終戦直後、ほとんどの国民はGHQ案を支持したと思う

半藤  率直に言って、憲法の前文、九条を読んだときには、本当にこれで日本は良い国になると思いましたね。戦争をもうやらない国なんだ、ということは、新しい日本の生き方だと心底思いました。 

編集部  周りの友だちの反応はどうだったですか?

半藤  どうだったんでしょうね。今になると、はっきり分かれますよね。「あれは良いものだ」という者と「あんなモンだめだ」という者と。戦争体験なんて簡単に言いますけど、同じ戦争の中にいたって、場所によって違います。感じてない人はまったく感じてない。まったく無自覚な人間もいるわけだから。 

編集部  戦争の中にいても感じない?

半藤  そう。私なんか子どもだったけど、戦争体験、いやっていうほど持ってますよ。そういう戦争体験をたくさん持っている人は、たいてい今でも「日本国憲法は良い憲法だ」と言います。ところが、安穏と暮らして戦争について何も考えなかった人たちは違うんだな。それからね、軍隊に行ったからって戦争体験じゃないんですよ。 

編集部  軍隊と戦争体験は違う、と?

半藤  そう。僕に言わせれば、ある種の軍隊は一番安全なんだ。メシはちゃんと食えるし防空壕は完備してるし、武器だって持ってる。都会で空襲に晒されていた一般市民よりよっぽど安全なんだ。例えば占領後のシンガポールなんかでノンビリしてた将校や下士官なんて、戦争体験なんかまるでしてないでしょ。とにかく、場所によるってことだけど。 

編集部  場所や部署や地位によっては、軍隊は楽なところだったんですね。

半藤  過酷な体験なんか一つもしないで、軍隊暮らしを満喫したようなヤツに限ってバカなことを言うんだ。「憲法改正」だとか「アメリカから貰った憲法だ」とか言うヤツをよく見ると、不思議はないんだね。恐ろしさも悲惨さも感じてないんだから。私なんか、子どものころは物凄くいい憲法だと思っていましたからね。そういうのを読んだり聞いたりすると、すごく腹が立つんですよ。 

編集部  そういう話を、お友だちとはしなかったんですか?

半藤  中学生のとき? うん、あまり喋った記憶がない。でもね、長岡だって空襲で随分やられてて、同級生で一家全滅で自分だけ生き残ったとか、そういうのたくさんいましたから、話はあまりしなかったと思うけど、私も周りの人も含めて、新しい憲法に対して不快感を持った人なんていなかったんじゃないかなあ。 

編集部  一般国民は圧倒的に新憲法を歓迎していた、と。

半藤  そう思うなあ。日本政府はGHQにせかされて「松本烝治案」という憲法案を提出します。これがとんでもない代物で、明治憲法とほとんど変わっていない。この草案をウチの親父が新聞で読んで「何だこりゃ、前の憲法と何も変わってねえじゃねえか」と怒ってましたね。「万世一系天皇をいただく我が大日本帝国は不敗の国」なんてのを、このときの政府の連中はまだ後生大事に持ち続けていたんですね。もしもこのとき、業を煮やしたマッカーサーが「松本案」と「GHQ案」を両方国民に示してどちらを選ぶかを問うたら、国民は圧倒的にGHQ案を支持したと思いますね。そういう平和への想いが満ちてましたから。 

つづく・・・

テンポ良い話口調とその該博な知識に

どんどん引き込まれていった『昭和史』でしたが、

インタビューもさながら、そんな感じでした。

昭和天皇の87年】玉音が厳かに告げた終戦 その日、列島は涙に包まれた (2018年6月2日 07:00)

            玉音放送(1)

 東京は、からりと晴れていた。

 連日の空襲警報もなく、静かに時が流れていた。

 昭和20年8月15日正午、ラジオから流れるアナウンサーの声。

 「只今(ただいま)より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様、ご起立を願います。重大発表であります」

 続いて君が代が奏楽され、玉音が、厳かに終戦を告げた(※1)。

 《朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇(ソ)四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ》

 《交戦已ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス 戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦(また)我ニ利アラス 加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而(しか)モ尚交戦ヲ継続セムカ 終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ》

 《惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス》

 《宜シク挙国一家子孫相伝(あいつた)ヘ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民 其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ》……

 初めて耳にする昭和天皇の声。それを国民は、涙で受け止めた。

 「熱涙滂沱(ぼうだ)として止まず。どう云ふ涙かと云ふ事を自分で考える事が出来ない」(随筆家、内田百●=ひゃっけん ●は門構えに「月」の字)

 「戦争終結をよろこぶ涙ではない。敗戦の事実を悲しむ涙でもない。余りにも大きな日本の転換に遭遇した感動が涙を誘つた」(元国務相秘書官、中村正吾)

× × ×

 このほか、当時の文筆家らは、こんな日記や手記を残している。

 「警報。ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおつしやつたら、みんな死ぬわね』と妻が言つた。私もその気持ちだつた。十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であつた。遂に負けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉(せみ)がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」(作家、高見順

 「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない」(詩人、伊東靜雄)

 「足元の畳に、大きな音をたてて、私の涙が落ちて行つた。私など或る意味に於て、最も不逞(ふてい)なる臣民の一人である。その私にして斯(か)くの如し」(作家、徳川夢声

 もっとも、誰もが涙に暮れたのではない。

 「菅原氏曰(いわ)く君知らずや今日正午ラヂオの放送、突如日米戦争停止の趣を公表したりと。恰(あたか)も好し。日の暮るゝ比、三門祠畔に住する大熊氏の媼(おうな)、鶏肉葡萄酒を持ち来れり。一同平和克複の祝宴を張る」(作家、永井荷風

 「(駅のプラットホームで)初めてきく天皇の声は、雑音だらけで聴き取り難かった。それが終戦を告げていることだけはわかったが、まわりの連中はイラ立っていた。突然、僕の背中の方で赤ん坊の泣き声がきこえ、頭の真上から照りつける真夏の太陽が堪(たま)らなく暑くなってきた。重大放送はまだ続いていたが、母親は赤ん坊を抱えて電車に乗った。僕も、それにならった」(作家、安岡章太郎

× × ×

 一方、栃木県奥日光のホテルの一室では、学習院の制服姿の少年が一人、ラジオの前に正座し、両手の拳を握りしめながら、玉音の一言一句に耳を傾けていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)玉音放送 ポツダム宣言受諾による日本の敗戦を、昭和天皇が国民に直接告げたラジオ放送。前夜に昭和天皇が音読し、録音した「大東亜戦争終結に関する詔書」(終戦詔書)が、昭和20年8月15日、国内だけでなく外地の在留邦人、日本軍将兵に向けて流された。当日は朝から「正午に重大放送がある」「天皇陛下が自ら放送される」「国民は必ず聴取するように」などの予告がラジオや新聞の特報で告げられ、多くの国民がはじめて昭和天皇の声を聞いた。その一方、戦時下における劣悪な放送環境により、「雑音がひどかった」「あまり聞き取れなかった」とする証言も多い。放送後、積極侵攻作戦中止の大陸令、大海令が発せられ、当時国内に計370万人、国外に計360万人以上の兵力を有していた日本軍は一夜にして銃を置いた。その影響は大きく、公式の戦争終結は降伏文書に調印した9月2日だが、玉音放送が流れた8月15日をもって終戦の日と記憶されることになった

【参考・引用文献】

宮内庁編『昭和天皇実録』34巻

○内田百●『東京焼盡』(大日本雄弁会講談社

○中村正吾『永田町一番地』(ニュース社)

高見順『敗戦日記』(文藝春秋新社)

桑原武夫編『伊東靜雄全集』(人文書院

徳川夢声夢声戦争日記』5巻(中央公論社

○永井壮吉(荷風の本名)『永井荷風日記(断腸亭日乗)』7巻(東都書房

安岡章太郎『僕の昭和史(1)』(講談社