希少癌を生きる産経記者の手記!

ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 産経新聞記者大腸がん手術から二年目の酒井記者の手記。

 最初の記事には確か、病魔に恐れおののき市に対する不安と

壮絶とも思える抗がん剤治療のお苦しみ、がん体験者からの励みなど

その狼狽ぶりが赤裸々に語られていたような気がしています。

 そのような酒井記者も二年を過ごすうちに

病魔との戦い方を獲得されたかのような文面に触れ

心和む思いでございます。

真正面から命に向き合ってくださるdoctorとの出会いは

運としか言えない出会いでもあります。

 大阪のいとこも胃がんからすい臓がんと生命の保証もないくらいのステージではあり

ましたが、医者に止められていた山登りを 中断することなく今もって癌を受け入れな

がら

山登りを 通じて苦しみに戦う極意を

培っても来たのだろうと、遠隔地より

静かなるエールを 送っているところです。

癌からの贈り物により、人の在り方に触れ、お人あればこそ二

お元気を頂かれた酒井記者、もう五年はすぐそこです。

どうか生きて生きて生き抜いてくださいませ。

     産経よりの引用です。

【希少がんと共に生きる】手術から丸2年 筆者が得た「キャンサーギフト」とは  (2

018年12月22日)

 12月19日、小腸がんの手術から丸2年を迎えた。平成28年12月13日、水戸

支局でデスクをしていた筆者は何度も嘔吐(おうと)を繰り返していた。当時の様子は

今でも鮮明に覚えており、思い出さない日はない。今改めて、怒濤(どとう)の2年前

を振り返ってみたい。

× × ×

 吐き気は13日朝からあった。前夜、取材先の県議と焼き肉を食べたことを思い出し

、「食べすぎたかな。二日酔いかも。徐々に吐き気はなくなるだろう」と高をくくって

いた。だが、一向に吐き気は収まらず、トイレに何度も駆け込んだ。後に分かることだ

が、腸閉塞(へいそく)を起こしていたのだ。

 様子がおかしいと感じた庶務の女性は、外出中の北村豊支局長(当時)に、状況をメ

ールで送信。夕方、取材先から支局に戻ってきた鴨川一也記者(現在、写真報道局所属

)は、腹部に激痛が走り苦痛の表情を浮かべながら仕事をしていた姿を目の当たりにし

、北村支局長に電話で「支局に戻ってきてほしい」とSOSを求めた。

 忘年会シーズンとあって得意先と会食していた北村支局長は慌てて支局に戻り、帰宅

を命じた。自宅に戻るなり、玄関先で倒れ込み、茨城県茨城町国立病院機構「水戸医

療センター」にタクシーで直行。CT(コンピューター断層撮影)検査を行い、そのま

ま緊急入院となった。支局のメンバーには心から感謝している。

× × ×

 6日後の19日。開腹手術で小腸にあった腫瘍を摘出したが、ことはこれで終わらな

かった。小腸は破れ、がん細胞は内臓を包み込む腹膜に散らばっていた。執刀医は退院

日の28日にステージ4であることを告知し、当時46歳だった筆者にこう語った。

 「坂井さんは若いし、将来がある。いずれ東京に戻るんですよね。すぐに東京に戻り

、症例の多い都内の病院で抗がん剤治療を行うことを勧めます。紹介状なら今すぐ書き

ます」

 そう言って執刀医が席を外したとたん、筆者は号泣した。この涙は死への恐怖から流

れ出たものだが、実は、必死になって患者を救おうとしてくれている執刀医に心を打た

れたからでもあった。ただ、泣いてばかりもいられない。本社の上司に電話をすると、

上司は東京への異動を即決してくれた。

× × ×

 現在、国立がん研究センター中央病院(東京・築地)に通院している。担当医からは

ステージ4の小腸がんの5年生存率は10%程度といわれたが、まだ2年とはいえ、生

きながらえていることに自分でも驚いている。もっとも、それは、担当医による懸命な

治療、周囲の激励、会社側の理解があったからこそ。

 人間は1人では生きていけないことを痛感し、今では、何事に対しても謙虚さと感謝

の気持ちを忘れないようにしている。「キャンサーギフト」(がんがくれた贈り物)と

いう言葉があるが、短気な自分がそんな心掛けをするようになったのは、がんのおかげ

だ。

 そのがんは筆者に、ある使命を与え、筆者はその使命を果たすことに生きがいを見い

だしている。これもキャンサーギフトといえよう。

 この連載を続けているのは、自身の経験を社会の役に立てたいという思いに駆られた

からだ。希少がんのため情報は少なく、本屋で小腸がんを専門に取り扱った書籍を見た

ことがない。インターネットで出てくる情報は古いものばかり。ネット検索をすればす

るほど不安に陥ったのは筆者だけではあるまい。

 小腸がんにはどのような症状が出るのか、どのような治療が行われるのかなど、新聞

記者ががんになった以上、自分の体験を伝えることは使命だと感じている。ステージ4

でも仕事と治療の両立に励み、前向きに生きている姿を知ってもらうことで、他のがん

患者を励ましたいという気持ちも強い。

× × ×

 今後、がん細胞がおとなしいままでいてくれるのか、他の内臓に転移したり腹水がた

まったりするのかは、神のみぞ知る世界だ。そんな中、担当医から最近、来年から抗が

ん剤をいったんやめて、経過観察にしてみてはどうかと提案された。

 回答は保留している。抗がん剤をやめたとたんに、がん細胞が暴れ出すのではないか

という恐怖があるからだ。ただ、このまま続けると体内に薬が蓄積し、副作用である手

足のしびれや感覚まひが治らなくなるかもしれない、という懸念があるのも事実。手足

が副作用によって乾燥し、皮膚が切れるため、常にクリームを塗っているが、それでも

すぐに乾燥し、残るのは徒労感だけ。特に冬は地獄だ。そんな生活におさらばしたいと

いう思いもある。

 結局、年明けにCT検査をし、その結果を見て決めることになったが、どうしたもの

かと現在、悩み中だ。

× × ×

 最後に一言。前日本対がん協会常務理事、元みずほ信託銀行副社長の関原健夫氏が1

1月24日に73歳で虚血性心不全のため死去した。

 関原さんは39歳のとき、日本興業銀行ニューヨーク支店で営業課長だった当時に大

腸がんを告知された。その後、肝臓や肺に転移し、受けた手術は実に計6回。著書「が

ん六回 人生全快」を通じ、何度励まされたことか。関原氏とは電話でしか話したこと

がなく、「いつか会いましょう」と言われていた。会おう、会おうと思いつつ、会えな

かったことが悔やまれる。来年2月1日には有志による「関原健夫さんを送る会」が都

内で開かれる。

 ご冥福をお祈りいたします。天国から見守ってください。

(政治部 坂井広志)