ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのミコばあちゃんです。
昨日の日差しはとても暖かく本当に穏やかな一日でした。
東日本大震災が何年か前の本日おき,身体がよじれるほどの惨劇が、起きたなんてとても想像な
どできようもありませんでした。
あの東日本大震災から早6年になろうとは驚きです。
まだ日常を取り戻せないお方も多くおられます。
ミコばあちゃんの気がかりは、視覚障害の単身者がどのようにお暮らし化
とても気がかりでなりません。
私自身は自然災害に対し、無防備です。
避難などといったことは考えるべくもないと思っています。
当事者自身の実さえ、生活確保は困難であろうと思うにつけ
そんなお方に御すがり使用などとは思えません。
家から出ようとなどとは考えてもいません。
だけど今この東日本大震災で、被害者としてお暮らしの
視覚障碍者を、お一人くらいであれば、御一緒の生活も可能ではないかと甘いこと
考えているところです。
朝日コムより。
「あの悲しみ、無力さ忘れない」 追悼式で佐藤昌良さん
東京都千代田区の国立劇場で11日午後にあった政府主催の追悼式で、宮城県の遺族代表、佐藤
昌良さん(57)が述べた言葉は次の通り。
〈秋篠宮さま「進まぬ帰還、心痛む」震災追悼式〉
〈「災害からは逃れられない」追悼式で千葉陽さん〉
〈「川内村の姿、以前とほど遠く」追悼式で石井芳信さん〉
〈特集:被災地にエール!ふるさと納税〉
〈特集:あのときのラジオ〉
〈特集:3.11震災・復興〉
◇
震災時に1・2メートルの地盤沈下を観測した牡鹿半島に住んでいた両親と連絡が取れなくなり
、東京で勤めておりました私は妻と2人、40時間かかって故郷にようやくたどり着きました。
両親は行方不明と聞かされ、実家は跡形もありませんでした。その日から県内各地を捜して回り
、1カ月後、金華山沖より収容された母が確認され、その翌日、偶然がれきの中から父を発見
することができました。
震災前の父は、石巻の四季を便りにつづり、母は、三陸の海の幸に少しだけ手を加え宅配便に詰
めて、全国の親族友人に届けておりました。「年を重ねた者の楽しみだ」「石巻の自慢だ」と
話しておりましたが、全て津波で消え去りました。
避難所の方々や、不眠不休で活動している自治体職員の皆さんから情報を頂きながら両親を捜す
中で、故郷の温かさ、底力を感じ、相互互助精神の真の姿に折れそうな心を支えて頂きました。
過酷な経験を後世に色あせることなく語り続けるため、
あの悲しみを忘れません。
あのつらさを忘れません。
あの無力さを忘れません。
あの寒さを忘れません。
両親の無念の思いに応えるため、火葬を済ませてすぐに東京の職を辞し、父の背中を追い、現在
は地域建設業の経営者として復興の最前線に立っております。全国から頂いた善意の力を借り
ながら空から見えるいい仕事をして故郷の復興を必ず成し遂げてまいります。安らかに天から
見守ってください。
謹んで東日本大震災で亡くなられました御霊(みたま)にお誓いし、追悼の言葉といたします。