糖尿病。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

琵琶湖毎日マラソンの歴史が閉じられました。

富士通の鈴木選手は日本記録を残しての着地にエールです。

 落下星のブログは糖尿病による失明を意識させられた瞬間でもありました。

右目はは真っ赤に見え、眼底出血の瞬間でもあったけれど

アルコールに勝る結果は得られなかった。た

なくなられても今なおこのぺージが読み継がれている瞬間でもあります。

 糖尿病は不健康の最たるものと言われても、今なお読み継がれていることの意味を問

いたいもの。

 糖尿病は、認知症にもかかりやすいとも提唱されてもいます。

り、毎日薬を服用して定期的に医師の診察を受けるようになったが、自覚症状は薄く、

不健康な生活が改まる気配はなかった。冒頭の引用はその果てに起きた“入り口”の出

来事といえる。右目失明。運転免許を返納し、視力回復に望みをつないで2年ほど通院し

て検査したがよい兆候は現れなかった。それどころか、数年と経たないうちに神経障害

や腎臓障害など、糖尿病でよく起きる複数の合併症が頭をもたげるようになってきた。

理由は本人もよくわかっている。右目の視力を失ってから、「つぎは足にくるな」と思

っていたのですが、私は足が壊疽(「えそ」と読みます。腐ってくる事。)を起こす恐

怖よりもアルコールの魅力の方が強かったので、食事は注意していたのですが、飲酒は

やめられませんでした。(^_^;)(落下星の部屋?「右足切断」より)右足にも異常

が現れた引用タイトルにあるように、次に異常が現れたのは右足だった。少し長いが引

用を続ける。ある日、右足の親指の付け根附近が痛み出しました。体重をかけたり、飛

び跳ねたりすると、ちょうど打ち身やねん挫のような痛みがあります。「まさか壊疽…

…」と、恐る恐る右足を見たのですが、外見上はなんの異常もありません。マッサージ

をしてみても、強く揉まない限りさほど痛くはありませんでした。「しらない間にどこ

かにぶつけたのかな?」と、ひとまず安心してしまいました。もしもこの時点で医者に

行き、詳しく検査してもらえば、右足の切断にはならなくて済んだ可能性が強いのです

。しかし、私はそのまま忘れてしまったのです。(^_^;)それから4~5日もたった

頃でしょうか。だんだん痛みがひどくなりました。入浴したついでに、親指を見ると、

つめの下の部分が真っ黒に変色しています。「うわあぁぁ~~~っ、やったなっ」それ

までも毎日入浴はしていたのですが、目が悪いせいか、気が付かなかったのです。それ

でも、歩かないと痛みはありません。糖尿病から来る神経障害のせいです。本当に手後

れになるまで痛みを感じないので困ったものです。そのまま病院に直行し、2週間の入院

で血行の回復を模索したが断念。ひざ下からの切断手術を受け、そのまま義足作りとリ

ハビリのプロセスに移った。翌月には身体障害者手帳の交付を受ける。1995年。40代半

ばの出来事だった。翌年には腎臓障害が悪化して腎不全となる。数日ほど胸焼けすると

感じていたら夜中に突然吐き気が襲い、息がほとんどできなくなって救急車を呼んだ。

そこから週に3度の人工透析が始まる。動脈から血液を採りだし、ろ過装置(ダイアライ

ザー)を通して静脈に戻す。前準備や透析後の止血の時間を含めると1回当たりおよそ5

時間。透析外来を怠ると待っているのは死だ。その数年後には、うおのめが元で壊疽が

始まり、左足も切断する手術を受ける。やっと入院したと思ったら、さっそく左足を膝

下から切断することになりました。これで両足が義足となりなす。なんか、生きたまま

ユウレイになる気持ちです。(だってユーレイには足が無い。あははは。)(落下星の

部屋?「左足切断」より)身体障害者手帳の障害名欄には、「疾病による両下肢機能の著

しい障害(両下肢欠損含む)(2級)」と「糖尿病による自己の身辺の日常生活活動が極

度に制限されるじん臓機能障害(1級)」の文字が並んだ。失明や両足切断は行動の制約

を生み、週3回の透析外来は働く時間の制約に直結する。長年勤めていたプラネタリウム

からも身を引くしかなくなり、職場を依願退職した。以来、職にはついていない。重度

の障害により受け取れるようになった生命保険の保険金が生活をつなぐ命綱となった。

「私を『おろかなやつ』と笑って結構です。」「落下星の部屋」を立ち上げたのは退職

から1年近く経った頃だ。当初からコンテンツは糖尿病関連の記事が中心で、天文関連は

日記でたまに言及する程度にとどまる。相互リンクも同病を患う人が中心だ。天文への

関心が尽きたわけではないし、過去と隔絶したいわけでもない。けれど、積極的に取り

上げるつもりはなかったようだ。サイトのコンセプトは「人工透析」の締めの文章から

読み取れる。現代の医学では糖尿病はなおせません。進行を遅らせるだけでせいいっぱ

いなのです。厳しい言い方ですが、それが現実なのです。これ以上悪くしないために、

日々努力を重ねる覚悟でいないと……私を「おろかなやつ」と笑って結構です。でも、

あなた自身は絶対に同じ道をたどらないと約束してください。本当にお願いいたします

。(落下星の部屋?「人工透析」より)自分の自堕落ぶりや甘さも含めて包み隠さず伝え

ることで糖尿病の怖さを伝えたい。そのワンテーマに絞って淡々と更新していたから、

その後も病気関連以外のコンテンツを大幅に増やした痕跡はない。当時、掲示板等で落

下星さんと交流していたある男性はこう述懐する。「落下星さんと知り合ったのは状態

が悪くなったあとです。亡くなることも覚悟していたので、自分の悪かったことも躊躇

なく語っていたと記憶しています。自分の半生をほかの患者に知らせることで、自分の

ようにならないようにと言っているようでした。しかし、卑屈になっているのではなく

、強い方だなと思っていました」さらし者になっても誰かの状態の悪化を食い止めたい

という自己犠牲的な精神。それでも文章全体からどこかのんきな雰囲気が伝わるのが落

下星さんのユニークなところだと思う。その時々で楽しめることを見つけられる性分サ

イト立ち上げの3カ月後、左目から眼底出血した際の日記も“らしさ”がよく出ている。

うーん。いくら脳天気な私でも、そろそろ最悪のシナリオに対して策を考えておかない

といけないな。とはいっても、昔買っておいた「ドキュメント・トーカー」という音声

読み上げソフトをインストールして悦にいってるんじゃ、あんまり深刻になっていると

はいえないな。(^_^;)性格異常なのかもしれないけど、そのときどきで楽しめることを

見つけられるから落ち込まないですむのかもしれない。(^_^)しかし、悔いが残るのは買

ったばかりのデジカメ。1枚も撮影しないうちに使えなくなってしまった。いや、やっば

り目をなおさなくちゃ。一瞬、ここまで来たらアルコール解禁にしようと思ったがデジ

カメを使えるようにしなければ……(落下星の部屋?「左目も眼底出血」)最終的に左目

の失明は免れたが、書いているときは結果を知る由もない。それでも終始この調子を貫

いている。それが表現上だけの強がりではないことは、この数カ月後に仲間と連れだっ

て沖縄旅行に出かけたことからもわかる。旅行先で透析外来を受け付けてくれる病院に

予約を入れ、ガラスボートに乗ってきれいな海を眺めたり、琉球ガラスのジョッキに注

いだビールで乾杯したりした。オフ会もたびたび企画し、頻繁に遠方に出かけて親交を

温めたりもしている。現状を受け入れて「その時々で楽しめることを見つけられる」性

分なのは間違いなさそうだ。その楽しさが治療や健康とバッティングしたときも、デメ

リットを承知したうえで楽しさをとることが多かったのかもしれない。アーカイブに残

された日記の断片を探っているとこんな記述をみつけた。ところで、昨夜、NHKで老人の

リハビリに関する番組をやっていた。歩ける可能性のある老人から、車椅子を取り上げ

る。すると、しかたなく歩くようになり、生活そのものがリハビリになって、回復が早

まると言う内容。卒中で麻痺していたのに、再び歩けるようになるのはよいことだが、

老人にとって楽なのは車椅子のはず。残された人生、辛いリハビリに耐えて歩くか楽し

て寝たきりになるか、本人の選択に任せるべきじゃないかと思った。寝たきりになるの

が、必ず不幸とは限らないのではないか。(落下星の部屋 2002年3月12日の「日記」よ

り)「☆賞味期限;2020年頃までかな?」もちろん病状は悪化させたくないし、できる

限り摂生に努めたい。実際、「食事療法」のページからは病状悪化を抑える食生活へま

じめに取り組む姿勢がうかがえるし、病院から下肢を切断した患者にリハビリを勧める

ように頼まれるなど模範的な患者の一面もあった。かつてあったプロフィールページに

は生年月日欄の直下に「☆賞味期限;2020年頃までかな?」との記述も見られる。サイ

トを立ち上げた頃は70歳頃まで生きる意識を持っていた可能性がある。であるならば、

「亡くなることも覚悟していた」のと同時に、長く生きる希望も抱きながらサイトを更

新していたのではないか。しかし、2002年の秋頃にはそんな長期的な展望が見えなくな

ってしまったのかもしれない。ところで、やっぱり「酒」もやめられない。(^_^;

)酒の悪い事は十分承知しているのだが、そして、この数年、なにか特別な日にしか酒

を飲むことはなかったが、今日は飲みたくて我慢できなくなってしまった。言い訳すれ

ば、いろいろ言えるだろうが、結局は意志が弱いだけなのだろう。ウイスキーを買って

来てしまった。もう、やめられないだろうなぁ(落下星の部屋 2002年9月28日の「日記

」より)最後の日記は現在も読める。亡くなる半月ほど前、2002年11月3日にアップされ

たものだ。昼食を食べに出かけたら、たょうどマンションを出たところで町内子供会の

おみこしパレードをやっていた。かわいいね。5分ばすかり、セニアカーを止めて、見と

れてしまった。(^_^)(落下星の部屋 2002年11月3日の「日記」より)楽しいこと

と健康。短期的な最優先と長期的な最優先。ある程度の範囲でバランスがとれていれば

何の問題もなかっただろう。しかし、そうでなかったから病気になり、病状を悪化させ

てしまった。それは「意志が弱い」からかもしれないが、それを真正面からさらす姿勢

には逆の印象も受ける。「人工透析」ページの末文をもう一度引用したい。私を「おろ

かなやつ」と笑って結構です。でも、あなた自身は絶対に同じ道をたどらないと約束し

てください。本当にお願いいたします。複数のミラーサイトを経て、無料ホームページ

サービスへ落下星さんの死は掲示板の投稿により読者の知るところとなった。サイト上

でも交流していた幼なじみの男性による書き込みだった。当時の「落下星の部屋」は落

下星さん宅のネット回線を提供しているプロバイダーのホームページサービスを利用し

ていたため、遺品整理の過程で回線契約を終了した時点で消滅する運命にあった。しか

し、この男性がサイトの内容を丸ごとコピーし、自らのホームページに使っているプロ

バイダーのスペースに移管したことで生き残る。そのサイトも今は存在しない。調べて

みると、男性自身のサイトが姿を消したのと同じ時期にURLが失効となっている。現在閲

覧できる「落下星の部屋」はその後に再移管されたものだ。場を提供しているのは無料

で利用できるホームページサービスで、現在まで運営が続いている。男性とは連絡がと

れなかったため想像の域を出ないが、おそらくは何らかの事情で自身のプロバイダー契

約を終了することになったときに、「落下星の部屋」の命運を無料ホームページサービ

スに委ねたのではないかと思われる。自分の手元にあれば確実に消滅するが、無料ホー

ムページサービスに移したらもう少しは生き延びられるかもしれない。その可能性にか

けたのではないか。実際、そうした意図で無料ホームページサービスに移管するパター

ンはほかにも見られる。それでも多くはホームページブームの終焉とともに、無料サー

ビス自体の撤退とともに姿を消してしまうが、現在まで残っているサイトもごくまれに

ある。そのごくまれな存在に「落下星の部屋」はなっている。運はもちろんあっただろ

う。ただしそれだけでなく、サイトが持つ力も今の結果に寄与しているはずだ。体の機

能が失われていく過程をさらしきった文章に多くの読者が引き寄せられ、その力は死後

も続いた。その継続的な反響が、管理を引き継いだ男性に無料サービスに命運を託すと

いう行動を促したところはあると思う。落下星さんは何年先までの読者を想定していた

のだろう。生前までか、プロフィールで自身の「賞味期限」としていた2020年頃までか

、あるいは何十年ももっと先までか――。とりあえず、2021年2月時点では誰でも読める

状態が維持されている。古田 雄介さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロ

ー)