、限りある命の言葉。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

今朝は今年一番の冷え込み。

やせ我慢して、深部の布団を薄いまま就寝

寒くて寒くて眠れませんでした。

日本で一番、星の観測がきれいな村として 長野県阿智村の富士見台が

人口6000人の村をにぎわしているとか…

 みこちゃんの従妹69歳で乳がんにより、壮絶な苦しみの中、夫でなく実の姉の介護を

希望して終焉を迎え、その時介護した姉が我が家にきて、その時の様子を話して聞かせ

てくれた。

 姉も家族でなく「なぜに私なのか」と、その時の当惑ぶりを

隠さずと弄してくれた。

 見た目には夫婦仲良くともに行動し

定年後も 豪華客船で世界旅行を計画していたのにと話す。

 最後だけはわがままを言わせて」と息を引き取るまで

話すことなく旅立ったのだと聞き,彼女の思いに想像を巡らせ

苦しい胸の内を 抱えたまま旅立った気丈な彼女の

天国への思いはいかばかりかと胸詰まる思いでもあった。

 日航機事故から早35年、もうこんなにも経過したのかと

驚きを禁じ得ない。

テレビの画像に釘付けとなり見入っていた時代背景に

ただただ胸詰まる思いしか頭には浮かばない。

 ご遺体の発見に手間取ったことも、その事件の壮絶さを物語ってもいる。

 このような事故は二度と報道されたくはありませんが

風化されることもあってはなりません。

 事故機内に同乗していた個客の手帳に残された

死期を感じつつ書き残された記事が人の一層の涙を誘った。

河口博次さんの手帳に残された「遺書」

「本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」。乗客乗員520人が犠牲となった

1985年8月12日の日航機墜落事故で亡くなった河口博次さん=当時(52)=が

、機内で手帳に記した「遺書」。事故を直接知らない世代も増えたが、切迫した中で書

かれた家族への思いは、今も読む人それぞれに強烈な印象を刻む。「事故が忘れられな

いように」。遺族は実物を多くの人に見てもらえるよう、日航などへの貸与を検討して

いる。発生35年を機に、長女で立教大特任教授の真理子さん(59)に話を伺った。

◇   ◇

<「遺書」の抜粋>

どうか仲良くがんばってママをたすけて下さい

パパは本当に残念だ

ママこんな事になるとは残念だ

さようなら

子供達の事をよろしくたのむ

今6時半だ

飛行機はまわりながら急速に降下中だ

◇   ◇

ボールペンで殴り書きされた二百十九の文字。もう助からないという恐怖の中で、家族

への思いを記した手帳が遺体の背広のポケットに奇跡的に残されていた。事故後から報

道され、日航の安全啓発センターに写真が掲示されている。

名前を記された家族の人生にどう影響を与えてきたか?。この三十五年間、繰り返し取材

などで尋ねられてきたが、真理子さんは「父の言葉は、父の言葉。そこに私たちの人生

を重ねる物語のように扱われるのは違和感があった」と、冷静に話す。

ただ、「この文が人の心に強い印象や、影響を及ぼしてきているとすれば、ありがたい

こと」と優しげな表情を見せた。

家族を守る大切さ。妻への思い。最後に「幸せだった」と伝えられるか。受け止めても

らえるか。読む人の年代や家庭環境によってさまざまな思いが心に宿る。

手帳は実家に残されているが、今後事故を伝える資料として、日航上野村への貸与を

検討し始めた。「実際の筆圧などコピーや写真では伝わらない点もある。事故の風化を

防げるのであれば、父も喜ぶでしょう」

亡くなった父の年を既に超えた真理子さん。「今見れば、父は立派なことを書いたなと

思う。もう、上司みたいな目線になってしまいますが」と話し、ほほ笑んだ。