令和の時代は人が尊ばれる時代でありますように… …。

              

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 ソメイヨシノも終わり、桜の時期としては後半に

御衣黄が里ザクラとして淡い緑から黄色、やがて

花の中心が赤くなるといった特徴のある清楚な里さくらです。

 みこちゃんの桜の最後はこのぎょいこうが見納めとなりました。

今なお鮮明に心の片隅で、そっと思い起こしながら

懐かしむひと時の今日のひと日でもあります。

 今では、公園の桜の若葉を時おり、塩漬けにして桜の香りを堪能しております。

照り付ける太陽、木陰の優しい風のささやきに癒されてもおります。

 生活の基本は家庭にあり!

 令和の時代は、家族にシフトする人間構成が構築される時代にと変革を

遂げる時代にと移行してほしいものです。

 家族ノカタチの基本はどんなに貧しくても、食卓に由来するもの♪

言えば、朝食こそが大切にされる過程こそは

よい家庭づくりの良いモデルになるのではないだろうか…!

 人が人として尊ばれ、温かい手のぬくもりが

行きかう支えることが自然の営みとして

あふれる令和

そのような時代が待たれもします。

  高齢者負担の在り方を 論じるのではなく

共に暮らせる人間作りの基本である

家庭づくりこそが次世代の一歩となりますように… …。

 皇后さまのご提案で月に一度の予定で天皇陛下を囲む会が

模様され三社が忌憚のないご意見を交わされてきたと報道されていました。

 それなりに親子の関係を大切に思われた天皇ご一家の努力の足跡を

思わずにはいられません。

二種類の「家族」

自分が生まれ育った家族

ほとんどの人にとって、自分の家庭を持つまでは「家族」という言葉は、生まれ育った

家庭のことを指すと思います。生まれた時から決まっていて自分で選ぶことはできませ

ん。

血がつながっているから一緒にいて当たり前という感覚からなのでしょうか。どんなに

ひどいことを言ってもやっても関係は崩れないという甘えでしょうか。

コミュニケーションがないがしろになってしまうことがあります。家族であっても考え

方や志向が違うことがあるということが見えなくなりがちです。

子供の頃は知っている世界が自分の家族だけなので、何も疑問に思わないのかもしれま

せん。

でもある程度大きくなると外の世界も見えるようになり、自分なりの考え方を持つよう

になります。それが家族の形と必ずしも同じではないんですよね。

それを理解してもらえないことが私のつらいことの一つでした。私の家族は父のトップ

ダウンスタイルだったので、違いを尊重し協調して家族生活を送るのではなく、異なる

考えは抑圧される感じでした。

自分で作る家族

しかし結婚して子供もできた今、自分で結婚相手も選び、この先どういう家族でありた

いか自分たちで選べる自由ができました。

自分で好きなように家族を形作れるというのは魅力的ですが、他人同士が集まって家族

として一からスタートしていくので、「大丈夫だろう」という甘えは通用しません。家

族としてうまくやっていけるように努力し続けなければいけません。

家族のあり方を話し合うことの難しさ

とはいえ、なかなかそういうことをを一から話し合うのって難しいです。理由は二つ思

い浮かびます。

1.「家族」という言葉が意味するものが誰にとっても大体同じだろうと感じているため

、わざわざ話し合わなければいけないものだと思わない。「家族」にいろんな形がある

ということ自体をあまり想定していない。

2.「家族の在り方」は形に見えないものだから、すり合わせが必要であるということ自

体に気づきにくい。

その点は私たちはラッキーなのかもしれません。

夫と私は国も文化も言葉も違う中で今まで生きてきたので、ひとりにとっての当たり前

が相手にとってはそうではないことがあります。

言葉が指すものや前提となるものが違う場合があるので面倒なくらいいちいち話し合い

ます。

家族の在り方についても同じです。

本当は国・文化・言葉が同じであっても人それぞれ、言葉の意味するものが違うことも

あると思うのですが、背景が同じであるためにその違いが見えずらくなってしまいます

よね。

形の見えないものについて話し合うのはとても難しいことです。

私たちの考える家族のあり方

家族もコミュニティ

夫はよく「家族は最小のコミュニティ」と言います。

これは私の中にはない考え方でした。きっと私の生まれ育った家族が私のイメージする

「コミュニティ」とはかけ離れたものだったからなんじゃないかと思います。

一方で夫の家族は、まさに「コミュニティ」という言葉がぴったりの家族です。近所の

人や親せきがふらっと立ち寄ってご飯を食べながらおしゃべりして帰って行ったり、パ

ーティをするのにテーブルが足りないからと、お隣さんからちょっと借りてきたり。

同じ「家族」でも、ここまで違うものに囲まれて生きてきたんですね。

私も「家族=コミュニティ」という考え方はいいなと思いました。自分が作る家族は、

「ノージャッジメント」で何でも話し合ったり協力したりできる場所にしたいと考えて

います。

   わが心のエッセンス。

家庭は日本人最大多数に取りては幸福なる処ではなくして忍耐の所である。

子らは人々の住家なり。妻は最上の友なり。