桐野作品、「夜のたにをいく。」にふれ!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 桐野夏雄の「夜の旅を行く」の本に触れ

就職して間なしの1972年

当時の人は労働者までテレビにくぎ付けにさせられた

赤軍派による仲間のリンチ殺害事件に始まり

浅間山荘事件へと事件は展開していきます。

 そのリーダーがなんと女性の長田洋子子には驚きを

禁じ得なかったことを記憶に鮮明に覚えています。

 長田は「バセドウ氏病」であったこともあり

精神の均等型漏れなかったのかとも、妄想してもいました。

 本当に優秀な能力を持ちながら仲間のリンチ殺害事件に展開する様子に

仕事まで手につかなかったことが思い出されます。

 新聞紙面もそのせいさんなるニュースが目を奪うほどの凶悪さに

目を伏せながらもニュースにくぎ付けになっていたことを、思い出してしまいます。

 人間業とは思えないほどの凶悪さに

「なぜこのような行動に出たのだろう」と疑問符の日々が続いたのはみな同じ感想であったと思

います。夜の谷を行く

39年前、西田啓子はリンチ殺人の舞台となった連合赤軍の山岳ベースから脱走した。5年余の服

役を経て、いまは一人で静かに過ごしている。だが、2011年、元連合赤軍最高幹部・永田洋子

の死の知らせと共に、忘れてしまいたい過去が啓子に迫ってくる。元の仲間、昔の夫から連絡が

あり、姪に過去を告げねばならず、さらには連合赤軍を取材しているというジャーナリストが

現れ − 女たちの、連合赤軍の、真実が明かされる。(「BOOK」データベースより)

永田洋子が亡くなった今、そして、東日本大震災が起きた今、君塚佐紀子は何を思っているのか

、どうやって周囲の人間と折り合っているのか、会って話したかった。それは、まるで噴き出

す間歇泉のように、突然湧いて出た強い衝動だった。

千代治からの電話で突然開いた穴。鬱陶しいだけだった風穴が、この日だけは、新鮮な風を運ん

でくる開け放した窓のように思える。啓子は震えるような渇望を覚えた。

君塚佐紀子、熊谷千代治は共に元連合赤軍のメンバー。佐紀子と啓子はかつて山岳ベースにおい

て、補助としてではあったもののリンチ殺人に加担しています。「総括」を怖れるあまり二人

して脱走、その後逮捕、そして服役。以後、二人は一切の連絡を断っています。

啓子は、ある日突然掛かってきた千代治からの電話に驚きます。かつてのメンバーとは二度と関

わらないと誓い、身を隠すように生きてきたのに、千代治は啓子へ、時を同じくして死亡した

軍の最高幹部・永田洋子を偲ぶ会への参加を促します。

連合赤軍について調べているというライター・古市洋造と会い、(今に至る心境を)話してみて

はどうかと持ちかけます。啓子の元恋人・久間伸郎が、酷く困窮しているのを伝えます。千代

治のせいで、清算したはずの過去の自分に、啓子はまた引戻されてゆくのを感じています。

真っ暗な夜の谷を、担架の脇に付いて歩く夢だった。もちろん山中に道などないが、何度か通っ

たために雪を踏み固めた跡が残っている。その道なき道を、担架と五人の男女がゆっくりと下

って行く。

枝を組み合わせて作った急造の担架は、遺体の重みできしきしと音を立てる。寒さで体の感覚は

失われていたが、臭覚だけはしっかりと、遺体から漂う凍った糞便の臭いを嗅ぎ分けていた。

「ほいさ、ほいさ」− おどけた掛け声をかけているのは、男の兵士の三上だった。前方を歩く

茂山は、終始無言で闇を見据えている。もう一人は、確か唐沢。唐沢は痩せていて喘息持ちだ

ったから、担ぐのも大儀そうだった。

女は啓子と君塚佐紀子の二人。二人は担架の脇を歩きながら、全員分のスコップを持たされてい

る・・・・

啓子は63歳になっています。元は小学校の教師。活動家になった後、親戚からはつまはじきに

され、両親は早くに亡くなり、今はスポーツジムに通いながら、一人細々と暮らしています。

かろうじて妹の和子と、その娘・佳絵との交流だけはあるのですが、佳絵には過去の自分のこと

を言わずにいます。佳絵が結婚するとわかり、啓子は、これを機会に昔あった自分のことを佳

絵に話そうと決心します。

ところがこの告白が仇となり、逆に関係はぎくしゃくし始めます。さらに佳絵が望むサイパン

の結婚式へ行くとなると、入国の際、アメリカ政府に拘束されてしまう恐れがあるのが分かり

ます。

かつて啓子は、革命左派時代、米軍基地にダイナマイトを持って侵入し、小火騒ぎを起こしたこ

とがあります。それは罪に問われて当然の行為であり、時効がなく、一度起訴されるとそのま

まずっと起訴状が残っているアメリカでは、今でも逮捕されるのではないかと。

直前になり、啓子はやむなく、行けなくなったと和子に伝えます。啓子は、5年余の服役を終え

たことで罪は償ったと思っています。それが今に至り、巡り巡って、啓子はまた元に戻ってい

るような不思議な感覚にとらわれます。

月明かりの下、遺体の埋葬場所が見えてくる。あの土饅頭の下に、すでに四体は埋まっている。

今担いでいる五体目は、遠山美枝子だ。小嶋和子に次ぐ二人目の女性兵士の死者は、遠山美枝

子。あの遠山美枝子がとうとう亡くなったのだ。

啓子は残念な思いでいっぱいだった。なぜか、永田洋子がライバル心を剥き出しにして、革命左

派の仲間の前で、悪口を言い募った相手。(中略)その遠山美枝子が冷たい骸となって、同志

に担がれている。いや、遠山にとっては、革命左派の、まして啓子や君塚佐紀子など、同志で

も何でもなかったはずだ。

床下に置かれた凍り付いた顔と体。瞼をしっかり閉じているが、その瞼は無惨に腫れている。自

己批判しろ、自分の顔が綺麗だと思っているのなら、自分で自分を殴れ、と言われて従った。

腫れた顔が痛々しい。遠山の顔が、一瞬、透き通るような白い顔に変わって見えた。少しエラ

の張った四角い顔 −

− と、これは佳絵。啓子は、はっとして目を覚まします。久しぶりの深酒に、啓子は悪い夢を

見ていたのだと思います。時間はまだ午前五時のことです。

 赤軍派事件の記事サイトです。

この本を読んでみてください係数 85/100

あさま山荘事件 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%

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国会森友でどれだけの時間を消費するのか??

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 森友問題は国会で論議を繰り返すには長すぎます。

これは事件性を伴う事件として警察にお任せしてはと思います。

 これ以上、国会が空転するような事態は避けてほしいものです。

 森友問題はそもそも疑念のさなかではあります。

総理夫人が校長に就任するなど

行政のトップのする行為を逸脱してもいます。

承認関門に出るのは当然の責務です。

 森友の土地に関する交渉者がなぜにじさつにおいこまれたのか?

国会空転させた総理の責任は甚大です。

許されるわけがありません。

国政を預かる者としての原点に立ち返っていただきたいものです。

     アサヒコムより。

は森友と財務省 問われる立法府の監視 (3月9日)

国会の調査要求に、財務省はまたも「ゼロ回答」で応じた。

森友学園との国有地取引をめぐり、財務省の決裁文書の内容が書き換えられた疑いが出ている問

題で、財務省はきのう参院予算委員会の理事会に、文書のコピーを提出した。

文書は、これまで国会に示されたのと同じ内容だった。財務省幹部は「現在、近畿財務局にある

コピーはこれが全て」と説明したが、他にも文書があるか否かは「調査は継続中」と明確にし

なかった。

与野党の要求で国会議員に示された財務省の公文書が、書き換えられていた可能性がある。

問われているのは、立法府と行政府の関係の根幹である。

権力の乱用を防ぐため、国家権力を立法・行政・司法の三権に振り分け、チェック・アンド・バ

ランスを利かせる。

事実究明に後ろ向きな財務省の対応は、三権分立に背くと言わざるを得ない。立法府による行政

府への監視が機能するか否かが試される局面である。

その意味で、理解に苦しむのは、きのうの参院予算委の審議をめぐる与党の対応だ。

財務省の不十分な調査報告を受けて、自民党の委員長が野党の反対を押し切る形で委員会を開会

。これに抗議した多くの野党が席に着かなかった。

本来なら、与党も含め立法府をあげて、誠実で迅速な調査を財務省に、さらには安倍内閣に迫る

べきではなかったか。

財務省は、自らの調査が、国有地の売却問題を調べている大阪地検の捜査に影響を与えてはなら

ないと繰り返す。

だからといって、国会の行政監視機能が萎縮していいはずがない。

「両議院は国政に関する調査を行い、これに関して証人の出頭、証言、記録の提出を要求するこ

とができる」

憲法62条はこう定めている。

立憲民主党共産党など野党6党は、それを具体化するための国会法104条に基づく国政調査

権の発動を求めている。衆参いずれかの委員会で過半数の議決をへて発動すれば、政府は必要

な報告や記録を提出しなければならない。

与党は応じようとしないが、このままでは国民の不信は膨らむばかりではないか。国会が国民の

負託に応え、信頼を取り戻す責任は与野党双方にある。

学園への便宜を否定する国会答弁を重ねてきた佐川宣寿(のぶひさ)・前理財局長(現国税庁

官)の国会招致も欠かせない。

国権の最高機関である国会の存在意義が問われている。

     では、ごきげんよろしゅうに・・・。

犯罪少年も大切な国の宝です。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 最近では少年の再犯率が増えているともいわれています。

それは、昔のように街にグループでたむろしたり、コンビニ周辺に集まったり

暴走化することが少なくなっているといいます。

 これはとりもなおさずSNSでつながっているようです。

 私の義妹もかつて、少年見守りたいとしてボランティアを

していたことがあります。

 みんなが避けたがる不良少年も、甘えられる場所があるならば

とてもあどけない態度で接触してくるのだと言っていました。

 義妹の息子も両親共働きで、特に母が帰宅が遅くなる職場でもあり

一時期中学の時不良仲間に入り

警察のリストに入っていたこともあり

とても苦しく多難な時をを過ごしてもいました。

何日も家に帰らないときは、寒い深夜も家の外で何時間も待ち続け

一生分の涙をどれほど流したかしれません。

家を引越しすることも何度も考えたといいます。

 でもそれはやめよう逃げてはいけないと感じ向き合うことで

元から断ち切る選択肢を決めてからは

真正面からグループ仲間を探し当て、その子供たちと向き合ってきたといいます。

 今ではその子も3児の父となり

母親が頼りになる優しい家庭づくりができています。

平成25年には85,000人(成人を含む)が保護処分を受けており、家庭裁判所から保護観察処分

を受けた「保護観察処分少年」は約41,000人、家庭裁判所から少年院送致となり、その後少年

院から仮退院となった「少年院仮退院者」は約8,000人となっています。

さらに、警察庁平成26年度「少年非行情勢」によると、少年の再犯者率は33.9%で年々増加し

ており、少年の再犯者の人口比は成人の3.1倍に。少年法改正による厳罰化も、あまり意味がな

いようです。

保護観察所の保護司の問題点は?

保護観察は更生保護法48条に基づいており、保護観察中の取り決めは、更生保護法50条に規定

されています。保護観察中の少年に接するのは、保護観察官と保護司。保護観察官は全国に1,0

00人程しかいないので、日常的に地域で指導を行うのが保護司なのです。保護司は実質的には

ボランティアで、元校長や会社経営者など地域の名誉職的側面がありました。

近年、保護司の高齢化と人材不足が深刻な問題に。2016年の調査では、保護司の年齢は70歳以

上が28.4%、60歳〜69歳が51.7%と、8割が60歳以上となっています 。また、保護司の知名度

不足や、仕事から受けるストレスなどにより、なかなか人材が集まりません。2016年6月に導入

された「刑の一部執行猶予制度」により、保護司確保が急務。少年犯罪の多い都市部ほど、人材

不足が深刻です。

さらに問題なのが、非行少年の質的変化です。昔の不良少年はグループ化し、繁華街やコンビニ

の前などにたむろしていました。しかし現在は、少年がLINEなどのSNSで繋がるようになり、地

域の見守りを担当していた保護司にも、その動向が分かりにくくなっているのです。LINEでは

新しい仲間がすぐにでき、少年の行動範囲も地域に留まらなくなっています。

【参考】SNSが少年犯罪を見えにくくする?LINEで子供がネットいじめに

まとめ

保護司さんのことは、今まで詳しくは知りませんでした。そういえば近頃、暴走族を見かけなく

なりましたね。少年犯罪にもLINEなどSNSが影響していると分かり、子供の世界も変わったなと

思いました。

     アサヒコムより。

「下町のすごい保護司」と「更正カレー」 120人の不良を更生させた「中澤さん」の流儀

改造したバイクにまたがり、爆音を轟かせながら信号無視や蛇行運転を繰り返す。暴走行為のほ

か、対立するチームと抗争を起こし、ときには一般人にさえ襲い掛かる。暴走族の少年たちだ

。中には暴力団とネットワークを持ったり、薬物を乱用したり、殺人などの重罪に手を染めた

りする者もいる。近年は人数もグループ数も減少しているが、それでもまだ全国に5200名以上

がいる(「平成29年版 犯罪白書」より)。

遭遇してしまったとき、できればかかわり合いになりたくない、と多くの方が思うであろう。筆

者もその一人だ。しかしひるむことなく、暴走族をはじめとした120名以上の非行少年・犯罪者

と向き合ってきた人がいる。世話を焼くのが大好きで、困っている人を見ると助けずにいられ

ない性分。“下町のおばちゃん”という表現がぴったりの、保護司・中澤照子さん(75歳)だ。

犯罪や非行に走った人を支える「保護司」という仕事

そもそも、保護司という言葉はあまり聞きなれないかもしれない。簡単に言うと、犯罪や非行に

走った人を更生させ、社会復帰の支援をする人たちだ。

主な役割として、保護観察がある。犯罪や非行をした人と定期的に面接し、更生のための約束事

を守るように指導や、生活上の助言や就労の手助けを行うことだ。

そのほか、生活環境調整といって、少年院や刑務所に収容されている人が、スムーズに社会復帰

を果たせるよう、釈放後の帰住先の調査、引受人との話合い、就職の確保などを行う。また、

地域の犯罪予防活動も行っている。法務省が依頼する極めて重要な仕事だが、後述するように

すべてボランティアで行われている。

筆者は中澤さんの自宅を訪ね、テーブル越しに向き合っていた。小柄で、70歳を超えている中

澤さん。武道の達人でもない。血の気の多い暴走族たちとかかわって、危険はないのだろうか

??尋ねると、「20年も保護司をしているけど、無傷よ。身の危険を感じたことなんて一度もあ

りません」と返ってきた。

「こないだなんかね、私が見ていた対象者(保護観察をしていた方)で、今は20代後半になっ

た子から電話がきて、中澤さんを温泉に連れていきますって言ってくれたの。その気持ちだけ

で私は幸せだからいいよ、って答えたんだけど、みんな本気なのね。それで、その子の仲間た

ち6人で長野の温泉に連れてってくれたの。諏訪湖とか善光寺も回って、すっごく楽しかった。

みんな元暴走族だから、車の運転がうまいしね(笑)」

中澤さんによると、非行少年たちは最初から悪だったわけではない。仲間や地域が好きで、たま

たま加わったグループが暴走族だった。集団になると勢いがつき、結果的に非行に走ってしま

った少年が多いという。

とはいえ、反社会勢力である彼らとどのように接し、どのように心を通わせ、更生させてきたの

だろうか。そこには、生まれ持った中澤さんの性分と、信念と、日本人なら誰もが好きなある

メニューの存在があった。

保護司は自分の天職だと感じた

中澤さんが保護司になったのは1998年。友人から「保護司になったら?」と勧められたのがき

っかけだった。当時は保護司という言葉すら知らなかったが、詳細を知ると、これこそ自分の天

職だと感じた。

「私は文京区で生まれたんだけど、小学校の頃から人の面倒を見るのが好きだったの。いじめら

れている子を見ると助けたりね。19歳から新宿のジャズバーに通うようになって、そこに来る

ゲイや風俗で働く女性の相談に乗っていました。結婚して江東区に引っ越してからも、近所のト

ラブルや夫婦間のもめごとまで、相談されたら何でも聞いていましたね」

街で不良少年を見かけると、「何してんの??元気?」と声をかけることも当たり前だったとい

う中澤さん。そんな性格を熟知していた夫は、保護司になることに賛成したが、娘は猛反対だ

った。当時、対象者と面談を行うのは、保護司の自宅がほとんど。非行や犯罪に走った人を家

にあげて、暴れられたり、逆恨みされて殴りこまれたりしたら……家族がそう心配するのも無

理はない。しかし中澤さんは、家に招くことが、更生への第一歩だと考えていた。

「対象者たちは、家庭のぬくもりを感じないで育った子が多いんです。そういう子を『よく来た

ね』と最初に受け入れることが大事。信用しているから家にもあげるんだよ、と感じてもらえ

れば警戒もされない。心を開いてもらいやすくなるんですね」

ちなみに現在は、更生保護サポートセンターという施設が全国に設置されている。そのスペース

を使って、対象者と面談ができるようになったのだ。しかし、家庭と比べると堅苦しい雰囲気

のため、同施設での面接を嫌がる少年は少なくないという。そのため中澤さんも、自宅に招く

ことにこだわり続けている。

何とか娘を説得し、保護司としての活動を始めた中澤さん。受け持つ対象者の70%は未成年だ

という。犯罪歴は傷害、窃盗、薬物乱用などさまざまだ。

初めて担当した少年のことを、中澤さんはよく覚えている。その彼は当時17歳の暴走族で、と

にかく両親を嫌っており、まったく言うことを聞かなかった。保護司には事前に、対象者の犯

罪歴や生い立ち、家族構成、家庭環境など詳細に書かれた資料が渡される。最初の面談は少年

の家で、両親同席のもと行うことになった。中澤さんがまずしたのは、書類の内容を丸暗記す

ることだった。

「だって、書類を見ながら話すと、向こうが緊張するでしょう。ここに僕のことが全部書いてあ

るんだ、って。私だったら嫌ですね。そうならないよう、書類の内容を全部覚えたんです。順

番に言葉にするのではなく、頭の中でミキサーにかけて、滑らかに話せるように」

緊張しているのは両親も同じはずだと中澤さんは感じていた。少年が逮捕されてから、ホウムシ

ョウ、サイバンショ、ホゴカンサツなど聞きなれない言葉が飛び交うようになったはず。そこ

へ堅苦しい雰囲気の保護司が来て、事務的に話をしたら、委縮するだろうと思ったのだ。

「最初に垣根を取っ払おうと思って、『何かあればいつでも行きますし、うちに来てもらっても

いい。気軽に電話してくださいね』と言ったんです。最初から肩に力を入れて、『一緒に更生

しようね!』『まっとうな道に行かせるからね!』って熱くなると、煙たがられちゃいますか

ら」

保護司は未知の生物ではなく、どこにでもいる気さくなおばさん。自分の敵ではなく、寄り添っ

てくれる味方。中澤さんの姿勢を見て、少年も両親もそう感じたようだった。それから少年・

両親それぞれと面談をするようになり、少しずつ本音が語られていった。

少年が両親を嫌っていた理由

少年はなぜ両親を嫌っていたか。実は、彼が小学校2年の頃、一家は中国から日本に引っ越して

来たのだった。父親は日本語がしゃべれず、母親がつくる料理は餃子ばかり。少年は本当は日

本食が好きなのに、冷蔵庫を開けるとストックされた数百個の餃子があり、見るたびに苛立っ

ていたという。それを聞いた中澤さんは、なんと母親を自宅に招いて料理を教えることにした。

息子の好物は、鶏肉のソテー、アジの干物、ホウレン草のお浸し。息子が面と向かって言えなか

った本音を母親に伝えながら、料理を教えていった。

一方で息子と面談した際は、「お母さんはあなたのために一生懸命料理の勉強しているよ。可愛

くて仕方ないのに、心を寄せてくれないって泣いてたよ」と、母の気持ちを伝えた。親子の関

係性は、目に見えて改善していった。

そして、保護観察の最終日。最後の面談を終え、少年の家を出ようとする中澤さんに、彼は丁寧

に礼を伝え、「バイクで送りましょうか?」と言った。暴走族にとってバイクは宝物。ピカピ

カに磨かれた400ccのそのバイクは、誰にも触らせたことがないという。少し考えて、中澤さん

は迷わずバイクの後部座席にまたがった。

「保護司が暴走族のバイクに乗って、もし事故に遭ったら……って思ったけど、ここで断らない

のが見せ所かなと。真冬の寒いときに、風を切って走ったんです。私を乗せてくれた彼の気持

ちが伝わってきて、言葉じゃ言い表せないほど幸せな気持ちでした」

その後も交流は続き、中澤さんが「美味しい!」と言ったことから、母親は手作りの餃子を家に

届けてくれた。少年も更生して社会に出て、結婚して子どももでき、幸せに暮らしているとい

う。

中学生の頃から暴れん坊だったある少年は…

中澤さんが保護司を始めた1998年、暴走族の数は2万5000人以上(「平成29年版 犯罪白書」よ

り)。現在の約5倍と、比べ物にならない規模だった。中澤さんの地域にも暴走族は多く、更生

させたケースは数えきれない。

ある少年は、中学生の頃から暴れん坊だった。駅前のロータリーに友人たちとたむろし、同級生

にプロレス技をかけている様子を、中澤さんはたびたび見かけていたという。彼は高校に進学

するも、結局退学。暴走族に入り、中澤さんが担当することになった。いつものやり方で距離

を縮め、本音で話してくれる信頼関係ができた後、こんなやり取りがあったという。

「その子はケンカが好きで、運動神経もいいから『そのエネルギーを生かす方法はないかね』っ

て話したんです。そうしたら、『将来プロレスラーになりたい』と言うので、やればいいじゃ

んと。両親が元気で働いてくれているうちに、やるだけやってみなよって」

すっかりその気になった少年は、早速プロレス道場に入門。どこまで続くのか、半信半疑だった

中澤さんの予想を裏切り、彼は海外修行にも行くなど、本格的にプロレスにのめりこんでいっ

た。そしてついに、プロレスラーとしてデビューしたのだった。デビュー戦に、暴走族仲間た

ちと応援に駆け付けた中澤さんが、「行けー!」と声を張り上げたのは言うまでもない。

最初は大人を警戒し、敵視すらしていることが多い不良少年たち。彼らと心を通わせるために、

中澤さんはどのようなことを意識しているのか。まずは、頼られたらどんな状況でもないがし

ろにせず、受け入れることだという。

「対象者から電話があったら、どんなに忙しくてもまずは話を聞きます。そうして受け入れて、

安心感を与えてから、『いつなら相談に乗れるよ』と。『今は忙しいから』って電話を切るよ

うなことは絶対にしません」

相談したいと連絡を受けたとき、時間さえあれば、食事中でも箸を置いて駆け付けるという中澤

さん。彼らは切羽詰まっているから電話をかけてきているはず。そのときに支えてあげないと

、悩みや苦しみがさらに広がってしまうからだ。

また、相手を褒めることも心掛けている。これまで怒られてばかりきた不良少年たち。いいとこ

ろを探して褒めることで、彼らは自信がつき、面談もスムーズに進むという。

「うちに呼んで面談するときも、機嫌良く迎えて、気分良く帰すの。説教ばかり垂れて帰したら

、『保護司のところに行ったら頭来た』となるでしょ。けれど褒めて気分良く帰せば、また次

も行こうって思うだろうしね。褒めるところがなければ、歯並びいいねとか」

そして最後は、聞き手側に回りつつ、言うべきことはしっかり言う。面談のとき、自分が話すの

は2〜3割。相手に不満や思いがあれば思う存分吐き出してもらい、それに耳を傾ける。ただし

、再び悪事を働かないよう、釘を刺すことは忘れない。相手の感情の動きを見ながら、絶妙なタ

イミングで「最近は人様のものに手を出して(盗んで)ないよな」と差し込むのだ。一歩間違

えれば機嫌を損ねたり、席を立たれたりしかねないが、中澤さんにはその瞬間がわかるという。

「話していると、相手の心のドアがさっと開くのがわかるわけです。そのときに、風をおくりこ

んじゃうっていうね。そこまでは時間がかかるけれど、ドアさえ開けばこっちのもの。あとは

強く出ようが、乱暴な言葉を使おうが、向こうは受け入れてくれるんです」

中澤さん特製のカレーライス

そういった心掛けや工夫のほかに、少年たちの心と胃袋をつかんだものがある。中澤さん特製の

カレーライスだ。対象者を自宅に招くたびに、「おなか減ってるでしょ?」と手料理をふるま

いながら面談を行ってきた中澤さん。スパゲッティや豚汁などさまざまなメニューを出してき

たが、圧倒的に人気なのがカレーだった。“更生カレー”と呼ぶ人もいるという。一体、どん

なカレーなのだろう。筆者もお願いして食べさせてもらった。

ルーはやや甘めで、優しくて懐かしい家庭の味。肉やジャガイモが大きく切られているのは、食

べ盛りの少年たちに食べ応えを感じてもらうためだという。一人暮らしで、家庭料理をあまり

食べる機会がない筆者は、たちまち平らげてしまった。「お代わりいるかい??コーヒーは??

ケーキもあるよ」と、優しく声をかけられ、気づけば心も胃袋もつかまれていた。

中澤さんは地域活動として年に2回ほど、近所の人々の協力のもと、「カレー会」を開催してい

る。多い時は400食も作り、集まった人々にふるまうのだとか。「カレー会にはね、良い子も悪

い子も普通の子も関係なく集まるの。その親たちやボランティアの大学生も来て、全部で百何

十人はいるかな。垣根なく、みんな来られるのがいいよね」。

平成29年現在、保護司は全国に4万8000人弱いる(全国保護司連盟ホームページより)。人によ

ってやり方は十人十色だが、中澤さんほど労力を注いで、対象者や家族に接している人は多くな

いだろう。「私は私。皆さんは皆さんのやり方があっていい」と涼しい顔で言うが、その言葉

の節々から使命感がにじみ出ている。

法務省からは、もし危険な目に遭ったら、警察を呼んでくださいと言われているんです。けれ

どこっちは、警察が入り口で保護司が出口だと思っているわけ。また警察に戻してどうするん

だい、ここで私が踏ん張らないと、という感じで。真っ白にならなくてもいい。けれど、預か

ったときより少しでも白に近づいて、社会に出てもらいたいですね」

保護司はボランティアのため、給料や報酬は出ない。面倒見がいいという性分はあるにせよ、労

力や時間を注ぎ込んで、20年も保護司を続けている原動力は何なのだろう。尋ねると、中澤さ

んは目を細め、「人を喜ばせようと思って保護司をしているわけじゃないんです。けれど、自分

のしたことが喜ばれると、私も一緒に嬉しくなっちゃうの。おまけがついちゃったみたいなね

」と説明する。

保護観察期間が終わった後、中澤さんと少年、その家族との関係が続くことは多い。冒頭で紹介

した、温泉旅行に一緒に行った暴走族やプロレスラーをはじめ、何もなくてもカレーを食べに

来たり、結婚式に来てほしいと誘われたり、子どもが生まれたから見に来てほしいと言われた

り、何かあるたびに連絡が来るという。

「私のようなやり方していると、つながりは必要以上に濃くなるよね。当時はみんな悪ガキだっ

たのに、大人になって会うと『中澤さん、面倒くさがらずにかかわってくれましたね』『俺な

んかのために時間割いてくれてありがとうございました』と言ってくれたり。私のうわさを聞

いた人から『息子を担当してください』って指名されたり。それがまた喜びだったりするんで

す」

中澤さんのような活動はそうそうまねできない。では、誰にも簡単にできる、ちょっとした社会

活動はどんなことだろう。その問いに、中澤さんは「声がけです」と答える。

「エレベーターを降りるとき、ドアを押さえてくれた人に『そういう気づかいがさっとできるの

は素晴らしいわね』とか、髪形をばっちり決めてる人に『決まってるわね、美容院行ってきた

の?』とかね。私は誰にでも言っちゃうの。すると、5分でも10分でも気分が良くなってくれる

かもしれない。みんなが声掛けをすればもっと長くなるし、自分を気にかけてくれる人がいる

と思えば、地元で悪いことをしようなんて思わなくなるしね」

一般人がいきなり保護司になるのはハードルが高い。であれば、保護司ではなくて、“保護司み

たいな人”が町にいっぱいいてくれたらいい、と中澤さん。ボランティアという肩書を掲げな

くても、一人ひとりが声掛けするだけで大きな社会活動になります、と笑顔で訴えた。

75歳の定年後に描く新しい「夢」

ライフワークとして保護司の活動を続けている中澤さん。しかし今年、引退を迎える。保護司の

定年である75歳になったからだ。これからはどうするのか聞くと、「すぐ近くで喫茶店をやろ

うと思っています」と即答する。実はもう物件の契約もし、内装工事も進めているという。

「保護司が終わった後、どうしたら自分の人生を使いきれるのかって考えたとき、居場所づくり

をしたいなって思ったんです。喫茶店なら、子どもたちとかその親とか保護司仲間とか、みん

ながいつでも集まれるでしょ。私の居場所にもなるしね」

ねえ、お店の名前、どんなのがいいと思う??カレーライスは出したほうがいいかしら??中澤

さんは楽しそうに話す。20年間の保護司生活は、まもなく終わる。しかし、そこから生まれた

“つながり”という宝物はなくならない。保護司、いや、中澤のおばさんは、これからもすべて

の人に心を開き、受け入れ、そして明るい方向へ導いていくのだろう。

どうなっている、地方創生。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 都会では火葬場が7日待ちもあちこちあるという。

これからは人口問題は、待ったなしの対策でもあります。

政府は、「地方創生」の旗振りをしながらその成果と言えば

労働人口は都会地にと一局集中に歯止めが利かない。

東京などの流動人口は増えるばかりである。

 中央省庁の移転問題も一時クローズアップされたものの

その成果が成果に結びつくことはない。

保育士の待機問題などの観点からも、人工の分散化が

うまく機能すればその対処も道筋も付こうというもの。

 地方に企業誘致が行われることで、労働にも歯止めも聞こうというもの。

また、地震災害対策としての企業対策も一考察ではないのか。

地方の利用は、地方の活性化とともに

豊かな日本の自然が保たれ、豊かな心の安定の意味合いからも

荒れ地にしてしまうことはとても残念です。

わが市町村は、人工の多くを高齢者で絞めています。

あるといえば、老人施設ばかりで

産業誘致などはなく貧困化するばかりです。

     東京新聞

週のはじめに考える 人口減の先を見据えて

将来の日本の人口維持をうたって政府が旗を振った「地方創生」の五年計画が折り返しの時期を

迎えました。狙い通り、流れは変わるでしょうか。

わたしたち一人一人の体重が同じと仮定したとき、日本全体でバランスを保てるようになる場所

を「人口重心」といいます。

最新、つまり二〇一五年に行われた国勢調査の結果から総務省が算出したところ、今回は岐阜県

関市、武儀(むぎ)東小学校から東南東へ約二・五キロの地点となりました。

◆思うに任せぬ地方創生

五年ごとの国勢調査のたびに発表される人口重心は、一九六五年には長良川の西側、岐阜県美山

町(現山県市)にありました。おおむね東南東方向へ毎回数キロずつずれており、この五十年

の間に長良川を渡って都合二十七キロも動いたことになります。

そのベクトルの向かう先は、もちろん東京です。

「二〇六〇年に一億人程度の人口を維持する」ことを目指し、政府が「まち・ひと・しごと創生

総合戦略」、いわゆる地方創生の五年計画を策定したのは一四年の年末でした。

掲げられた大きな目標が、少子化の背景となっている東京一極集中の是正です。

東京五輪が開かれる二〇年には地方から東京圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)への転入

者と、東京圏から地方への転出者を均衡させる。具体的には、地方への新たな人の流れをつく

って転出者を四万人増やし、転入者を六万人減らす。こうして一三年段階で年十万人を数えた

転入超過を解消させる構想でしたが…。

総務省が公表した昨年の人口移動報告を見ると、東京圏は、前年より千九百人ほど多い約十二万

人の転入超過。つまり、思惑とは逆に、東京圏への転入超過が拡大してしまったわけです。

◆冷厳な事実を直視せよ

地方創生の具体策として、例えば政府は中央省庁の地方移転を打ち出しました。でも、京都への

全面移転を決めた文化庁を除けば、総務省統計局や消費者庁の一部移転にとどまる腰砕けとな

りそうです。そんなことで、地方への新たな人の流れは生まれますか?

総合戦略には「希望出生率一・八の実現」も掲げられました。

一人の女性が一生に産む子どもの平均数を示す合計特殊出生率は現在、一・四前後。若い世代の

結婚・子育ての希望がかなえば一・八程度の水準まで改善する。その実現に向けて出産・子育

て支援を充実させる、というわけです。

子どもを産みやすい、育てやすい環境整備が急務であることは、今さら言うまでもありません。

大いに力を入れるべきです。

しかし、たとえ出生率が一・八以上に改善しても、人口減に歯止めは掛かりません。その冷厳な

事実から目をそらすことは許されません。

厚生労働省が公表した人口動態統計の年間推計によると、昨年、国内で生まれた赤ちゃんは九十

四万人余。二年連続で百万人を下回ることになりました。

この先、百万人を回復することは、恐らく、ありません。

出産可能年齢にある女性が当面減り続けることは、既に確定しています。だから、狙い通りに出

生率が改善しても、計算上、出生数が増加に転じることはない。

つまり私たちは、出生数の減少が続くことを受け入れて社会の将来像を考えるしかないのです。

二〇二五年には、人口ピラミッドのピークを形成してきた団塊の世代が皆、七十五歳以上に。介

護施設、高齢者施設の不足が言われます。

日本社会は、団塊の世代の成長に合わせて教室を増やし、雇用を創出し、住宅を確保し、都市空

間を整備・拡充させてきました。その最終段階にして正念場が迫ってきた、と見ることもでき

ます。

ここをしのげば、その先、さらに大きな器が必要になる世代は存在しません。

つまり、私たちの社会は、容量不足の恐怖から解放される、と考えることができるはずです。

◆大きな器は持て余す

広がりきった戦線を縮小し、いかにコンパクトな社会につくり直すか。大きな器を目指しても、

持て余すばかりでしょう。

ひたすら成長を追い求めてきた社会観や経済観から離れ、戦略的に小さくなる発想が求められる

はずです。大型開発などを持ち出す前時代的発想とは決別しなければなりません。

先を見据えてコンパクトな社会を目指すなら、財政健全化に背を向け、次世代に残す借金を積み

増すことなどもっての外。加速する人口減に追い詰められてから社会をつくり直すのではなく

、先手を打って前向きに縮小の展望を切り開きたいところです。

ビキニ環礁における水爆実験は確認のために実施されたのでは・・・?

ビキニ環礁

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 アメリカにおいて水爆実験が秘密裏に実行され

日本政府もこれを黙認し前面公開などなされてはいない。

日本において原爆投下されていながら

さらに人体実験がなされた行為だけは許されるべきではない。

あまりにも愕然とさせられる行為である。

このような大量殺略の行為が公的に実施されてきた歴史は思い。

内容は、ビキニ環礁にて1954年〜63年にかけて6回行われた水爆実験。

被曝したので有名な第五福竜丸ですが、被曝したのは他にも多数で、北海道から九州まで日本各

地の太平洋側から出航した漁船数十隻以上のマグロ船が被曝していた事実がわかりました。

しかも公にしたのは最初の水爆実験の方だけで、放射能の怖さを知らされず現場から何十〜何百

キロ離れていたのに多くの船と船員が被曝していた事。

そしてアメリカ政府と日本政府との密約で、賠償金わずか数億円にて解決した事に。

更に怖いのは、水爆実験をやる一年前から、日本を含むアジア、太平洋上、アメリカ本土の西部

寄りに、およそ120ヶ所に放射線観測装置を設置していた事。まさに確信犯的な水爆実験..。

原水爆実験をやればどうなるのか? というより爆破実験をやれば恐らくこうなるだろう、を確

認する為の原水爆実験。

この1954年〜63年まで行われた原水爆実験により、被曝したのは船と船員だけではなく、その

後日本を含むアジア各地と太平洋上の島々、アメリカ西部の一般市民の数多くが放射性物質

より被曝しました。

とくに始めの頃は被曝マグロを廃棄処分しましたが、後半の原水爆実験で被曝したマグロを日本

政府は安全だ、とウソをつき被曝マグロを市場に流通させていました。

日本人は、ビキニ環礁での放射性物質を、1954年から思いっきり浴びて、さらには被曝マグロ

を1960年頃から普通に食べていたのです。

と、放送の内容はここまで。

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日本やアメリカ、その他の世界各国にてガンや皮膚病、腎臓病、糖尿病などの内臓疾患、原因不

明の病気等が多いのは、ビキニ環礁や世界各地で行われた原水爆実験が影響している事は間違

いない事だと思われます。

ビキニ水爆実験の教え 記憶で未来を守れ

六十四年前、ビキニ水爆実験で第五福竜丸をはじめ多くの日本人漁船員や現地の住民が被ばくし

た。苦しみは今も続く。教訓を未来に伝えたい。

第五福竜丸の漁船員らが被ばくしたのは、米国の水爆実験「ブラボー」で、一九五四年三月一日

マーシャル諸島ビキニ環礁で実施された。漁船には二十三人が乗り組んでいて、実験場の

約百六十キロ東にいた。

五月まで続いた六回の水爆実験で、周辺の海域にいた漁船や貨物船などの乗組員約一万人が被ば

くしたとされる。漁船員は帰国後、検査を受けたが、そのデータは長い間、厚生労働省が「な

い」としていた。情報公開請求で開示したのは二〇一四年である。

◆治療はなかった

米国がマーシャル諸島で核実験を始めたのは、四六年七月。五八年までに原爆、水爆合わせて六

十七回に達した。この地域は第二次大戦が終わるまでは日本の委任統治領で、南洋群島と呼ば

れた。戦後、米国が施政権を握り、核実験場にされたのである。

核実験は軍事機密なので、現地ではかん口令がしかれた。米国政府は住民の被ばくを隠す一方で

、専門医らを送って放射線の健康影響調査を進めたといわれる。

たとえば、爆心地から百八十キロ東にあったロンゲラップ島では、ブラボー実験のとき、八十二

人が暮らしていた。島民は下痢や嘔吐(おうと)、やけど、脱毛といった急性放射線障害に見

舞われた。二日後、米軍が別の島にある基地に移送した。そこでは米人医師によって検査や写

真撮影はされたが、特に治療はされなかったという。

米国は五七年に「安全だ」と説明して住民を島に帰還させた。帰還したのは、被ばく者と核実験

時には島にいなかった住民ら約二百五十人。

◆人の顔が見える

人体実験という見方を米国は否定しているが、ブルックヘブン米国立研究所は「もっとも価値あ

生態学放射線被ばくデータを提供してくれる」ことを意義としていた。島では死産、流産

が続き、やがて甲状腺がんが多発した。住民は八五年に再び、島を離れた。

マーシャル諸島は八六年にマーシャル諸島共和国として独立したが、経済は米国に依存している

ビキニ環礁核実験場は「負の世界遺産」に指定されたが、日米で情報が隠されていたことも

あり、実態はあまり知られていない。

中京大研究員の中原聖乃(さとえ)さん(文化人類学)は九〇年代後半からロンゲラップ島住民

の調査を続けている。

先月下旬、中原さんはハワイのカウアイ島にいた。そこではロンゲラップ出身の家族の誕生会が

開かれていた。参加者はマーシャル諸島やホノルル、それに米本土のアーカンソーやオクラホ

マからも来ていて、総勢百二十人だった。共同体はバラバラになったが、住民は今もかつての

生活を取り戻そうとしているという。

ロンゲラップで起きたことを広く伝えたいという中原さんの思いに共感したのが、首都大学東京

の渡辺英徳・准教授だ。インターネットを利用して、重要な記録を保存・活用し、未来に伝達

するアーカイブを作っている。これまでに被爆地の広島、長崎や、東日本大震災の被災地の「

記憶」を継承するアーカイブを構築している。

アーカイブは、写真とCGを組み合わせて、時間や空間を超えて見せる工夫がされている。コメ

ント付きの顔写真もある。白黒写真は人工知能(AI)を使ってカラー化した。カラーになっ

た写真を見て、記憶がよみがえった被爆者もいたという。

渡辺准教授はマーシャル諸島でもアーカイブを作ろうと考えている。「名もなき人々かもしれな

いが、こうすれば一人一人の顔が見える。データが物語るものを伝えたい」と話す。アーカイ

ブがきっかけで、新たな写真などが見つかる可能性もある。

トランプ米大統領は先月、核体制の見直しを発表、小型の核兵器を開発し、非核兵器の攻撃に対

しても使用する可能性を示した。

小型化で使用のハードルを下げる方針だが、核兵器の恐ろしさは「何人が死んだ」という大量殺

りくだけではない。健康被害が長期にわたり、故郷を追われ、家族が離散する。その苦しみは

六十年を越えても癒えることがない。ビキニ水爆実験は、そう教えている。

◆グサッと突き刺す

アーカイブに残したい言葉がある。中原さんが現地の人から聞いたたとえ話だが、米国とマーシ

ャルとの関係をよく示している。

「アメリカ人はな、『ハロー、ハロー』と言いながら近づく。で、グサッとナイフでおなかを突

き刺すんだ。でも顔を見ると、にこにこ笑っているんだ」

小学生にプログラミング教育始まる。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

 生まれたその時から、スマホは当然の生活に馴染んで育つ子供は

すでに2歳になるとスマホも知ってか知らずか、言語のごとく身に着けています。

 そうした中、小学生の強化に「プログラミング教育」が必須科目として

その塾までできているとのことです。

これは考える力を養わせるとのことです。

現代ッ子は歌を歌うような感覚でコンピューターにも反応可能な時代となっています。

機械には思いやりなどは身につきません。

此の思いやりこそが今の子供たちに何より不足している点だと思います。

人と強調したり、大切に思う気持ちが育った利、応用の展開ができたりと

小学生時代であればこそ、身に着けてほしいことは無限大でもあります。

プログラミング商法の誕生もある種の活性化には関与することでしょう。

     産経より。

今から注目「プログラミングトイ」2020年小学校の教育必修化に備えよう

2020年度から小学校での「プログラミング教育」必修化が決まったことから、「プログラミ

ングトイ」への関心が高まっている。遊びながらプログラミングの概念を学ばせることができ

る玩具のことだ。なかでも、20年度に入学を迎える現在3〜4歳に向けた商品の取り扱いが

急速に拡大している。

楽しみながら「プログラミング」を学べる玩具

「コンピューターに意図した作業をさせるには、どのような順序で指示を組み合わせればいいか

」を子供たちに考えさせるのがプログラミング教育。その過程で論理的思考を育み、IT(情

報技術)化社会で活躍できる人材を育成する。

ことし3月に文部科学省が発表した次期学習指導要領に、20年からの必修化が盛り込まれた。

このプログラミングを子供たちが楽しみながら学ぶことができる玩具がプログラミングトイで、

インターネット通販などで販売している。オンライン専門店「ひらめきボックス copor

ii」店長の丸山絢子(じゅんこ)さんは、プログラミングトイとのつきあい方のこつは「ま

ず、親が興味を持ち、面白いと思って遊んでいる姿を見せるのが大事です。慣れてくると、子

供が自ら『こういうことやってみたい』と言い出すので、そのときにサポートしてほしい」と

説明する。

人気は「アンプラグド」

いま人気のプログラミングトイを見てみよう。

「ロボットタートルズ」は、米IT大手グーグルの元エンジニアが自分の子供のために作った。

家族で楽しめるボードゲームだ。必ず大人が関わることを前提に設計されている。

ゲームの“主役”は、カメ型のロボット。子供たちは、このロボットが障害物を回避して宝物に

たどり着けるようにカードを使って「命令」を出す。つまり、このカードがプログラミングに

おける「コマンド(命令文)」に相当する。障害物を回避するために「前進」や「左折」「右

折」といったコマンドカードを使う。

子供が示したカードに基づいてロボットのカードを動かすのは大人、というのがルール。大人は

コンピューターの役なのだ。

この「ロボットタートルズ」のように、パソコンやタブレット端末などを必要としないプログラ

ミング教材が最近の傾向として注目されている。「アンプラグド」と呼ばれている。

アンプラグドの人気商品には米玩具メーカー、フィッシャープライスが販売するイモムシ型ロボ

ット「コード・A・ピラー」や、世界中の教育機関で導入が進む「プリモトイズキュベット」

がある。

アンプラグドの大きな利点は、電子機器の扱い方を習得する前の低年齢児も使えること。「コー

ド・A・ピラー」「キュベット」は、ともに対象年齢は3歳からだ。

手でモノを触って学習するのが大事

「コード・A・ピラー」は、イモムシ型ロボットの頭の部分にモーターがあり動く。体の節ひと

つひとつに「前進」「左折」「右折」「音を鳴らす」といった命令が入っており、それらを連

結させることでスタート地点からゴールまで走行させる。

「キュベット」は、進行方向を指示する命令が埋め込まれた「ブロック」を木製のコントローラ

ーに並べる。コントローラーのスイッチを押すと立方体の木製ロボット「キュベット」が、埋

め込まれたブロックの指示通りに床の上などを動く。

開発した英玩具メーカー、プリモトイズ社はこのブロックを「触って動かせるプログラミング言

語」と表現している。子供の学びにとって、手で触れられる、ということは大きな意味を持つ。

プリモトイズ社の創業者で最高経営責任者(CEO)のフィリッポ・ヤコブさんは、キュベット

を設計する際に「モンテッソーリ教育」の考え方を参考にしたという。イタリアの女性医師、

マリア・モンテッソーリ(1870〜1952年)が提唱した、この教育は、手を使った活動

に重きを置く。手を動かすことで感覚を磨き、頭脳を育む、という考え方だ。

ヤコブさんは11月7日に東京大学で行われたシンポジウム「プログラミング教育の最初の一歩

」で講演。「世界のどこの国、地域でも教室の中で先生たちが文化や言語と関係なく、子供た

ちにプログラミングを教えられる手段を提供したかった。手でモノを触って学習するのが大事

」と語った。

プログラミングを含むデジタル教育の体験型講座などを手がけるNPO法人「CANVAS(キ

ャンバス)」の理事長で、シンポジウムのパネルディスカッションに登壇した石戸奈々子さん

は、「プログラミングは、子供たちにとって、粘土やクレヨンと同じように表現のツールとし

て使えるようになった」と指摘した。

親はどうすればいいか

では、親は何をどう学ばせればいいのか。子供のプログラミング教育に不安を抱いている保護者

も多い。

「ひらめきボックス」の丸山さんは「勉強のように教えなくても、『命令を出したら動く』とい

うプログラミングの概念の中で遊べればいい。この考え方が将来につながる。まずは好きにな

ってもらうことが大事です」と話す。

丸山さんによればプログラミングトイ選びのこつは、就学前なら安全性重視。必ず親が一緒に遊

ぶ。小学校低学年になったらタブレット端末も使えるようになるので、連動するタイプのおも

ちゃも使わせたい。

遊ぶ際は「1日30分まで」「必ず大人と一緒に」といったルールを決める。タブレット端末な

どの使い方も同時に学ばせるのがお薦めだという。

小学校中高学年になったらキーボード、マウスといった周辺機器を含め、パソコンが使えるよう

になる。すでに読み書きを習得しているので、テキスト入力もできる。するとストーリー性の

あるゲームを作れるので、ぐっとプログラミングの幅が広がる。

また、この頃にはSNS(交流サイト)を使い始める子供もいる。プログラマーや学習者向けの

SNSでは、プログラムをダウンロードしたり、自分の作ったゲームを共有したり、技術的な

質問をしたり…と、学習に有益な側面が多くある。併せてSNSのリスクやルール、マナーを

学ぶきっかけにすると良い。

体験イベントを活用

プログラミングトイの多くはオンラインショップで購入する。ただ、安くても5千円前後、3万

円を超えるものも珍しくない。実店舗で実物を手に取って試すことなく購入するには二の足を

踏む価格帯だ。

そこで、体験会などに足を運んで、実際の使い心地や子供の反応を見るのがお薦めだ。CANV

ASやcoporiiのような専門組織のほか、玩具メーカーや輸入代理店などが各地で開催

している。(文化部 松田麻希)

プログラミング教育 コンピューターを動かすための「命令書」を作るのがプログラミング。政

府は2016年4月発表の「成長戦略」に小学校からの必修化を盛り込んだ。コンピューター

に自分が意図する一連の活動を実行させるためには、どのような指示をどのような順序で組み

合わせればいいか。これを考えさせることがプログラミング教育だが、その過程で論理的思考

を育み、IT(情報技術)化社会で活躍できる人材を育成する狙い。

プログラミングトイ 一般の知育玩具とは異なり、コンピューターに命令を与えて制御するとい

うプログラミングのプロセスまたは概念が含まれているものを指す。子供向けのプログラミン

グツール自体の歴史は長い。“パーソナル・コンピューター”の父と呼ばれたアラン・ケイ

77)らが1990年代に子供向けプログラミング言語「Squeak Etoys」を開発

。2000年代に入ると、マサチューセッツ工科大(MIT)の研究所であるMITメディア

ラボが8歳〜10代向けの言語「Scratch」を開発、後にはさらに低年齢向けの「Sc

ratch Jr.」が開発された。

プログラミングトイで古株なのが、ブロックで遊びながらプログラミングを学べる「レゴ・マイ

ンドストリーム」。90年代後半にデンマークの玩具会社レゴがMITと共同開発した。