韓国留学生であった李秀賢さんの功績!!
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
気が付けば、はや6月の水無月。
水辺には花しょうぶが涼しげに微笑んでいることでしょう…
まぶたの奥の薄れゆく記憶が
体感ごよみとしてなんとなくぼんやり語り掛ける。
い色彩などない環境にすがるかのように
記憶の色をまさぐろうとしている自分に気づき
ふと青空に気持ちを漂わせてみる、弱い自分もいます。
大輪を咲かせる花しょうぶ。
その感想までも見る人それぞれにいろんな花として、思い思いに優美であったり、うつろであったりと
また抑圧的に心をかき乱すことだってあることでしょう!
「畑にはゆすら梅がそっと実をつけているのかしら」?
隣国でありながら、韓国と日本の関係は
経済問題を含め、泥沼化に向かって邁進中…?
東北大震災の時の世界の心遣いに立ち返る努力も不足しているのかも…?
李さんの献身的事故を、思い起こし
20年以上続けてきたごみステーションのボランティア
このところの腰痛症の悪化で終了しようかと思っていましたが
倒れこむその日まで頑張ろうと奮い立たしているところでもあります。
18年前のホーム転落者救助に向かった
天国に召されたニュースは、まるで美学のように
報道されたが、ご両親にとっての一人息子の死は
18年前と変わることはない。
今なお生存されていたなら、44歳とか…?
今の日本人にどれほどの方々が[李秀賢]さんのことを
記憶にとどめておられるだろうか…?
生きておられたならば、きっと日本との良い懸け橋として
ご活躍いただけたことでしょう…
その名前の由来からも、ご両親の一人息子に願う気持ちがうかがえる。
李さんのお父さんのお言葉の一文
「韓国は子供たちを競争の中に追い込むのではなく
温かい心を 養わなければ」との一語が印象に残る!
今は亡きお父さんの東北大震災を受けての記事です。
李秀賢さんの親にしてこの子アリを実感!
東京の新大久保駅で線路に転落した日本人を救って亡くなった韓国人留学生の李秀賢(
イ・スヒョン)さんの善行はいまでも日本人の胸を濡らす。李さんの父の李盛大(イ・
ソンデ)さん(72)は「いまは韓国人全員が日本人と痛みをともにし慰めなければな
らない時だ」と話した。
日本の東北地方を襲った地震と津波の惨状を見て李さんは胸が詰まった。李さんは、「
もし秀賢が生きていたなら日本人を助けると飛び出しただろう。いまは秀賢のような個
人ではなく、韓国人全体が日本人を助けるのに乗り出さなくてはならない」と話した。
14日午後、釜山市海雲台(プサンシ・ヘウンデ)の自宅近くの食堂で会った李さんは
、「たったいま地下鉄に乗ってくる時に隣の客が“小気味よい”と話すのを聞いて気ま
ずかった」と話し始めた。
李さんは息子の犠牲を機に日本人の韓国観が大きく変わり“韓流ブーム”の基礎になっ
たという東京新聞の記事に言及した。この記事は今年初めに秀賢さんの10周忌の際に
新聞に掲載された。李さんは、「秀賢1人の犠牲にも日本人が感動を受けており、韓国
の国民みんなが助けるならばこれから韓日関係も大きく改善されるだろう」と話した。
秀賢さんが亡くなってから10年間に1万人余りの日本人が 「李秀賢アジア奨学会」に
寄付金を出している。ほとんどが一般市民と会社員など平凡な日本人たちだ。この1年
間に768万円(約1億400万ウォン)の寄付が殺到した。奨学会は毎年日本に留学
中のアジア出身学生50~100人に1人当り10万~15万円ずつ奨学金を与えてい
る。
「私に過ちを犯した人が苦しい時に助ければさらにありがたく思うものでしょう」。李
さんは過去の植民地時代の沈殿物だけ考え日本の地震被害に目を背けるのは偏狭だと指
摘した。過去を忘れてはならないが過去に執着してもならないという意味だ。
「少ない金額でも送るつもりです。余裕がある人は寄付を送り、そうでない人は心から
沸き出る慰労を送るのが人間の道理でしょう」
李さんは東日本大地震以後、これまで奨学会を支援してきた日本人らと通話ができず心
配だと話す。秀賢さんの追悼碑がある白石市の被害も気になるが何の情報もなくもどか
しい。追悼碑は日本の篤志家が寄付した土地に建っている。李さんは「助けてくださっ
た方々がみんな無事であることを祈る。今回の日本の地震被害支援を契機に韓日は仲の
良い隣国関係に発展できるだろう」と話した。
李さんは今回を機会に子どもたちに隣人を助ける精神も教えなければなければならない
と強調した。「誰かに言われたからと秀賢のように電車に飛び込むだろうか。子どもを
競争の中にばかり追い詰めず暖かい心を持つよう教えることが必要です」。
産経寄りの引用。
【勇気の系譜 第一部 使命】18年前、ホーム転落の客救助で犠牲に 李秀賢さん(
上)
犠牲や苦境をいとわず、踏み出された勇気がある。人生の決断には勇気が欠かせない
。新たな時代を迎え、世界が混(こん)沌(とん)とする中、私たちはどう生きていく
のか。身をもって示した人物をそれぞれ2回に分けて紹介し、生きることの本質を問う
。
◇
雪が降ると、あの日を思い出します。もう18年の歳月が過ぎたんですね。「なんて
バカなことをしたの」。事故を知った直後は、本気でそう考えました
平成13年1月26日夜、東京・JR山手線新大久保駅。線路へ転落した酔客を助け
ようとして韓国人留学生、李(イ)秀(ス)賢(ヒョン)=当時(26)=は電車には
ねられ、亡くなった。秀賢が通った「赤門会日本語学校」(東京都荒川区)で英語を教
えていた田中展(のぶ)子(こ)(72)の記憶はいまも鮮明だ。
当時は屋内で吸えていたたばこを、休み時間に階段で吸う姿が目に焼き付いています
。母親と同年代の私が話しかけると照れくさいんでしょうね。いつも頭を掻(か)いて
いました。「おいしそうに吸うわね」と言ったときも、そうでしたね。非常に優秀な生
徒で、常に友人たちに囲まれていました
翌27日午前2時ごろ、韓国・釜(プ)山(サン)。1本の電話が未明の静寂を破っ
た。寝付けずにいた辛(シン)潤(ユン)賛(チャン)(69)は不安を覚えながら、
受話器を取った夫、李(イ)盛(ソン)大(デ)を見守った。「え、秀賢が事故に?」
。日本に留学中の一人息子の悲報だった。
あの晩、私は嫌な夢を見たんです。色のない、モノクロームな部屋の中で、見知らぬ
男が私と夫に向かって「これはだめですね」と。今思えば、虫の知らせだったのでしょ
う
一睡もせず、潤賛は盛大と日本に向かった。その日の首都圏は記録的な大雪に見舞わ
れ、成田空港から秀賢の学校の最寄りの日暮里駅まで5時間近くかかった。ニュースで
は事故のことがしきりに流れていたが、母は息子が犠牲になったとは信じなかった。し
かし、警視庁新宿署の霊安室で変わり果てた息子と対面した。
「これは私の息子じゃない」。とっさに出た私の言葉に対し、夫が「秀賢だよ」と。
息子だとは思いたくなかったのですが、手や足の形から、息子だと確信するのに時間は
かかりませんでした。悪い夢を見続けているようで、涙が止まりませんでした
事故の日、秀賢はアルバイト先から、日暮里駅近くの下宿先に帰宅する最中に現場に
居合わせた。酔客が転落したのは新宿方面に向かう線路。秀賢は反対のホームにいたが
、「人が転落した!」との声にとっさに体が動いた。
遺体の首から下は無傷だった。警察の見解では、救助中に退避しようとしていたら下
半身を負傷していたはずだという。遺体の状況から、秀賢が最後まで危険を顧みず、あ
きらめずに救助にあたっていたことが明らかだった。
線路に飛び込んだ息子が私たち両親に残そうとしたものは何か。ずっと問いかけてき
た18年間でした
盛大も同じ思いだった。潤賛と盛大は毎年、命日に事故現場に花を供えていた。だが
今年、盛大は体調不良で参列できず、3月、息子の元へ旅立った。
一人の韓国人留学生の勇気ある行動に、全国各地から弔慰金が寄せられ、両親の意向
で関係者が日本語を学ぶ留学生への奨学金を創設。昨年までの16年間で受給者は89
7人に上る。
ホームドアや転落防止柵を設置する機運も高まり、今ではJRや私鉄の多くの駅に導
入されている。存命していれば、44歳になっていた秀賢。命と引き換えにまいた種は
、実を結びつつある。(敬称略)