【AID児】としてのたんじょうによるくのう・・・。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 【AID】は全く知りませんでした。

でも、非配偶者制度についてはおぼろげながらの知識はありました。

 生みたくても梅内川の違憲ばかり聞いていたように思います。

不妊治療に多くの時間と経済をかけて

妊娠を願った両親の苦悩も感じています。

あらゆる治療を経て最後の希望として【AID】の選択を決断せざるを得なかったとは思いますが

やはり生まれてくる子供の側に立って選択すべきです。

 みこばあちゃんとしては倫理的にも「どうなんだろう」と思わざるを得ません。

まったく他人の父親であったなら

生まれたくはなかったと思える人は少なくない。

 子供の誕生を夫婦であるならば望みたいのが当然です。

だけれど誕生により苦しむ行為はなされるべきではありません。

やはり自然にお任せすることが望まれるように思います。

     東洋経済より。

自分は「後ろめたい技術」で生まれたのか 父親は誰?「AID」で生まれた38歳女性の叫び

AIDって何?聞いたことがない…という方が多いかもしれません。これは、夫以外の第三者の精

子を使った人工授精のこと。男性側に不妊の原因がある夫婦などが子どもを持ちたいとき、この

方法を選ぶ場合があります。

さまざまな立場にある子どもから話を聞く本シリーズ「子どもの気持ち」。今回登場するのは、

そのAID(非配偶者間人工授精)によって生まれた子どもである、石塚幸子さん(38)です。

AIDは、日本では1948年に初めて、慶応義塾大学病院で実施されました。それから約70年、国内

でAIDによって生まれた子どもの数は、推計で1万〜2万人といわれていますが、正確な数は国も

日本産科婦人科学会も把握できていません。

また石塚さんのように、自分がその技術によって生まれたことを知り、かつそれを公にしている

当事者は、ごくわずかです。

AIDで使われる精子は、親族などが提供するケースや、学生ボランティアが提供するケースが昔

からあるほか、最近では、海外の精子バンクを利用する例や、国内の個人ボランティアなどから

譲り受ける例もあります。

これまで日本でAIDによって生まれた子どもたちは、精子提供者、つまり血縁上の父親がわから

ないケースが大半です。

AIDは「隠すべきこと」なのか?

子どもが欲しいのに持てない人たちにとって、AIDは救いの技術のひとつです。しかし日本では

、「わが子と血がつながっていないことを世間に隠したい」という親の思いが働くためか、AID

は「隠すべきこと」のように扱われてきました。

そのため、いまだにAIDにおける親子関係を明確に定める法律もできていませんし、子どもが自

分の遺伝的な父親を知る権利についても、近年までほとんど考慮されてきませんでした。

実際にAIDによって生まれた子どもの立場である石塚さんは、この技術に複雑な思いを抱いてい

ます。

自身がAIDで生まれたという事実を知ったときは、これまでの人生が覆されるような衝撃を受け

たといいます。

「それを聞いたのは、いまから15年前、23歳のときです。父親が遺伝性の難病を発症し、私に

も遺伝の可能性があるかもしれないと思って調べていたとき、母から『実は、父とは血がつなが

っていない』と知らされたのです。

最初は病気が遺伝していないことにホッとしたのですが、仲の良かった母親が、そんな重要なこ

とで私にうそをついていたというのが何よりショックでした。たぶん父親の病気のことがなけ

れば、一生言わずに済ませていたはずです」

養子や継子の立場の人からも、ときどき聞く話です。大人になってから突然「親だと思っていた

人と、実は血縁関係がない」と知らされるのは、どんな思いか。経験がない筆者には、想像し

きれないところがあります。

自分は「後ろめたい技術」で生まれた子なのか

親は一生隠し通すつもりだったのかもしれませんが、子どもは人から聞いたりして、大体どこか

の時点で事実を知ることになります。隠し通すことは、現実問題かなり困難なのです。

幼少期から聞いていれば「そういうものか」と思い、事実を受け入れやすいのですが、ある程度

の年齢になってから知った場合は親子の信頼関係が崩れ、子どもは大きなダメージを受けるこ

とが少なくありません。

石塚さんにとっても、それは大変つらいことでした。当時は大学院に通っていましたが、通学途

中など一人になると涙が止まらず、「このとき、一生分の涙は使ったかも」と思うほど泣いた

といいます。

「家では、母が『その話題に触れてくれるな』という雰囲気を出しているので、その話には触れ

られません。

でも、隠そうとすることから、母親がこの技術を後ろめたく思っていることが、伝わってくるわ

けです。『母が隠したいと思っているようなやり方で、自分が産まれてしまった』ということ

が嫌だったし、悲しかったですね」

これは、離婚家庭の子どもがよく「親から『かわいそうな子』扱いされるのが嫌だった』という

話と、少し似ているかもしれません。

もし「かわいそうな子」と思うなら、そもそもそんな状況に自分を置かないでほしいし、もしそ

の状況が避けられないなら、ポジティブな態度であってほしい。親の思考と行動の矛盾に、子

どもは怒りやいら立ちを感じるのです。

これと同様に、自分の生命の根本にある技術を母親が後ろめたく感じているというのは、子ども

の立場からすれば、納得しがたいことでしょう。

後ろめたいなら、なぜそんな技術を使ったのか。技術を使うと決めたのに、なぜそれを肯定的に

とらえないのか。石塚さんは、母親の態度にいらだちを感じていました。

「もっとあっけらかんと『私が産みたかったから、AIDで産んだのよ』って言ってくれたらよか

った。隠すのではなくて、うそでもいいから『あなたを望んだから、その方法で産んだのよ』と

言うべきだったのではないかな、と思います」

泣き暮らす日が続くなか、あるとき石塚さんは母親から「なんで、そんなに悩む必要があるの?

」と聞かれます。つらさを理解してもらえないばかりか、「悩むことさえ許されないのか」と

思い、苦しさはさらに増したのでした。

事実を知った翌月、石塚さんは家での生活に耐えきれなくなり、一人暮らしを始めました。日々

、AIDに関することを調べていましたが、15年前の当時は今よりももっと、情報がありません。

そんなとき厚生労働省で、生殖補助医療に関する法律をつくるための審議会が行われていること

を知ります。

「議事録が公開されていたので読んでみたら、驚くような内容でした。委員のなかには小児科医

などもいたんですけれど、その人たちは誰も、その技術によって生まれた子どものその後につ

いて、追跡調査はしていないんです。なのに産婦人科の医者などが『子どもには秘密のままや

っているが、それでうまくいっています』みたいなことを普通に話して、みんなそれを信じて

いる。『この人たち、何を言ってるんだろう』と思いました。

私は苦しいし、うちの家族も大変な状況にある。それはやはり、医療のあり方に問題があると思

ったんです。医者は『とにかく患者が妊娠して子どもが生まれれば成功』と思っているかもし

れないですが、それは違います。生まれた後のことまで考えてくれていたら、うちの状況もも

っと違ったかもしれません」

「あぁ、私も怒っていいんだ」

そのしばらく後、石塚さんは初めて新聞の取材を受けました。自分の経験や思いを語ったところ

、記事を読んだ別の当事者と初めて会うことができ、大きな転機になったといいます。

「連絡をくれたのは、私より6歳上の男性ですが、彼も怒っていたんです。怒鳴るとかじゃない

んですが、親にだまされていたことや、提供者がわからないことに、怒りの空気を発していた

。それを見てようやく『あぁ、私も怒っていいんだ』と思えたんです。

その人の紹介で、ある小児精神科の先生と出会えたことも大きかったです。その先生は私の話を

聞いて『あなたは親に文句を言っていいわよ』と言ってくれて。やっと悩むことを許された気

がして、ラクになれました。

それまでは、怒るとか悲しいとか、親に対してマイナスの感情をもつことはいけないと思ってい

たんです。母親は私が悩むことを嫌がっていたし、いろんな人から『あなたは望まれて生まれ

てきたはずだ』とか『育ててもらったことを、もっと感謝しなさい』とか、“親の立場に立っ

た善きこと”ばかり言われていたので」

いわゆる「ふつうの親子関係」にある人は気づきにくいと思うのですが、この社会には「子ども

は親に対して、つねに感謝しなければいけない」という暗黙の圧力のようなものが、強く働い

ています。

でも親との関係がうまくいかない人にとって、それはとても苦しいことです。石塚さんも親に感

謝はしていても、許しがたい部分もあるのは事実で、その気持ちを押し殺すのはつらかったで

しょう。

それまで「まあまあ優等生で生きてきた」という石塚さんにとって、「親に怒っていい」という

気持ちを自分に許すのは、とても大変なことだったのです。

AIDにおいては「出自を知る権利」についても問題になります。

「出自を知る権利」とは、子どもが自らの遺伝的ルーツ(この場合は精子提供者)を知る権利の

ことです。日本も批准する「子どもの権利条約」でも、「児童はできる限りその父母を知り、

且つその父母によって養育される権利を有する」ということが、うたわれています(第7条)。

しかし実際のところ、「出自を知る権利」はまだ日本ではあまり浸透していません。AIDだけで

なく、養子縁組においても「子どもには出自を知らせなくていい(隠したほうがいい)」という

昔ながらの考えが少なからず残っているのです。

それでも「一度は会ってみたい」

石塚さん自身は、提供者を知ることにあまり興味がないものの、それでも「一度は会ってみたい

」といいます。

「私は『母親と精子で自分が産まれている』というのが、すごく不安定な感じがして、嫌なんで

す。モノとしての精子ではなく、ちゃんと『人』が介在していたということを実感させてほし

い。だから、一度は会ってみたいと思います。

ただ、私はほかの当事者と比べると、そんなに『提供者を知りたい』という情熱はないんですね

。一時期は探していたこともあるのですが、どんな人が出てくるかわからないじゃないですか

。それに気づいたときに怖くなって、探すのをやめてしまいました」

もし提供者を探すとしても、多くの場合、手掛かりはほとんどありません。最近では“オープン

ドナー”といって、生まれた子どもが求めた場合に個人情報を開示する前提で精子提供をする

人もいますが、数十年前の日本では、そうしたやり方は皆無でした。

またそもそも、親が子どもにAIDで生まれたことを告げていなければ、オープンドナーであろう

と、そうでなかろうと、子どもは提供者を探すことすらできません。

残念なことに、日本産科婦人科学会は今でも「提供者のプライバシー保護のため精子提供者は匿

名とする(ただし記録は保存)」という見解で、告知を義務としていません。また国において

、「出自を知る権利」を守るための法律を制定する動きも現在のところありません。

このように不妊治療の技術だけが進む現状について、石塚さんは「方向が間違っている」と感じ

ています。

不妊のいちばんのつらさって、本当は社会的なつらさだと思うんです。特に、母が私を生んだ

30〜40年前は、『子どもが産めないこと=女の人の責任』とされていました。当時は男性側に

不妊の原因があることはほとんど知られていませんでしたし。

『家を守る』という意識もまだ強かったですから、うちの母親は“長男の嫁”として、子どもが

できないことで相当肩身の狭い思いをしたのではないかと思います。だから母がAIDのことを私

に教えなかったのも仕方ないのかな、と思うところもなくはない。

もっと社会全体で議論したほうがいい

でも、そこでAIDを使って子どもを産んでも、子どもを持てない女性たちが抱える根本的なつら

さは解消されないと思うんですよ。不妊という社会的なつらさを、AIDという医療によって解決

しようとしているところがあると思いますが、それはおかしい。生殖技術が“ふつうの家族”を

つくるために使われている気がします」

少々補足すると、今の社会では「お父さん・お母さん・血のつながった子ども」こそが「ふつう

の家族」と認識されており、人々はその「ふつうの家族」を実現することを、人生の目標のよ

うにとらえがちです。

もちろん純粋に子どもを望み、その手段としてAIDを選択する人も多いでしょう。でも、自分の

意思というより「子どもを持つべき」という周囲の空気を受けて、「ふつうの家族」を装うため

の手段としてAIDが使われてしまっている場合もあるのではないか、と石塚さんは指摘します。

確かに、それはうなずけます。

「だから本当は、社会を変えることが必要だと思うんです。いまは、『子どもがいないとダメ』

と感じさせる社会に収まるために、医療でサポートする、みたいな面もあると感じますが、本

当はそうではなく、この息苦しい社会を変えるほうに、エネルギーを注いだほうがいい。

社会全体で、そういうことを一回ちゃんと議論したらいいと思うんです。

この技術を使うのはどうなのか。家族ってどういうものなのか、血縁なのか、それとも養子や子

どもがいないのもありなのか、シングルや、同性カップル、AIDもアリなのか、とかね。

それを話し合って、『家族は形じゃない』という方向性を社会に浸透させたうえでなら、ちゃん

と技術を認める法律も作ればいいし、いっそ国が本腰を入れて精子バンクをつくるくらいのこ

とまでしたほうがいい。根本的な議論を避け、目先の技術についてだけ議論している現状が、

よくないと思うんです」

筆者はこれまで何度か石塚さんのお話を聞かせてもらってきたのですが、「みんなで一度、ちゃ

んと議論しよう」というところに、彼女のいちばん強いエネルギーを感じます。

「意見が分かれる話だから」といって、そのまま野放しにするのでなく、その技術の是非をみん

なで話し合い、使うなら使う、使わないなら使わないと方針を決めたうえでルール(法律等)

を作り、それに則っていくこと。

それをしないかぎり、この技術で生まれてくる子どもたちをはじめ、不妊治療の当事者みんなが

本当の意味で幸せになることは、できないのではないでしょうか。

考えておきたい癌告知。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 二人に一人は癌リスクはあるといわれています。

これの「告知」の在り方についてはケースバイケースということにもなります。

 癌が発症しても早期発見による5年以上の生存保証も

その高度医療により延命治療は悲観的要因ばかりではないと思います。

ドクターのお話は一方的な説明に終始することが

つうれいではないのでしょうか?

病巣の説明と治療の選択がとうとうと説明されますが

薬のリスク要因と日常生活の情報まで

丁寧に説明いただけることは少ないように感じます。

ネット情報はたくさんありますがこれも納得するまでには

相当の選択がいることにもなります。 医者と向き合うとうまく思いを伝えられないことも多く

あります。

 当地の病院では、癌末期であっても、

治療の万世紀に至る時点での隊員を告げられ

我が家で苦しい終焉を余儀なくされる例は少なくない。

 個個に最終章の哲学もあるので、なるべくこれに沿っていただけるとありがたいものです。

告知に関しては人生の最終章の在り方もありますので御子ちゃん的には

そのまま伝えてほしいものです。

薬攻めで、食欲を低下させることだけは避けたいライフスタンスです。

胃がんから5年を経過した従妹は

食事はおいしくいただくようなことはないのだといいます。

食事時間も一時間かけて、丁寧に生き抜くためにと努力しています。

 私は体を酷使してまで行きたいなどとは思えません。

痛みの中を、自然史を選択するのだろうと思います。

産経より。

【希少がんと共に生きる】「私、演技します」告知まで知らないふりを貫き通した妻 家族の支

えあってこそ

ステージ4の小腸がんと闘っている産経新聞政治部記者の坂井広志(47)は平成28年12月

13日、約10回にわたり嘔吐(おうと)を繰り返し、同日夜、強烈な腹痛に見舞われた。当

時、水戸支局でデスクとして働いていた坂井は部下に抱えられながら、水戸支局からタクシー

で帰宅した。

実はこの日、庶務の女性は日中の段階で坂井の異変に気付いていた。外出中だった当時の支局長

に顔色の悪さをメールで伝えていたのだ。そのことを坂井は夕方に知ったが、「大丈夫」とた

かをくくっていた。

夜になると坂井の体は限界に達し、痛みのあまり顔をゆがませながら、部下の原稿を見ていた。

部下の1人が支局長に電話をかけ、「デスクの様子がおかしいです」と連絡すると、支局長は

支局に戻り、帰宅を命じた。

坂井は玄関を開けるとすぐに倒れ、動くこともできずに「痛い、痛い」と叫んだ。慌てて駆け寄

った妻、三佐子(42)はすぐさまタクシーを呼び、以前から貧血の原因を調べてもらってい

国立病院機構水戸医療センター」(茨城県茨城町)に向かった。当時の様子を妻はこう振

り返る。

「その日、主人から『昼に弁当を食べた後から体調が悪化し、数回吐いた。何だかいつもと様子

が違うんだよね』という内容のメールが届いたんです。『だったら早めに上がらせてもらえば

』と返信したが、性格的に仕事を途中で切り上げて帰ってくる人ではない。しかし、よっぽど

辛かったのか、午後7時ごろに『今から帰る』とメールが入り、珍しいなと思ったんです。帰

宅した主人を見たとき、コンクリートのような顔色の悪さに『これはただごとではないな』と

直感しました」

そして、顔を見た瞬間、こんな思いが頭をよぎり、その勘は的中した。

「この人は当分、わが家には戻ってこれないだろうな」

× × ×

坂井が水戸支局に赴任したのは27年5月。その前から、妻はことあるごとに「口臭がひどい。

腐った魚のような臭いがする。体の中からくる臭いだから、どこか内科的な病気でもあるんじ

ゃないの?」と語っていた。

とりあえず歯科に行ってみたが原因は歯ではなかった。水戸医療センターの担当医は口臭とがん

との因果関係を否定したが、28年12月19日に手術をした後、口臭はピタリと止まった。

なぜもっと調べなかったのか−。悔やんでも悔やみきれないが、自分ががんにかかるとは思っ

てもおらず、自身の良好な健康状態を過信していたのは間違いない。

気付いたときには、がん細胞は小腸の内側から外側に顔を出し、腹膜に無数のがん細胞が散らば

っていた。切除した検体を病理検査にかけなければ腫瘍が良性か悪性かは断定できないが、執

刀医は悪性、つまりがんの可能性が高いと悟っていたようだ。

約10センチ開腹したが、さらに開腹して腹膜のがん細胞を取ることはしなかった。きりがない

ことと、切除した部分を早期に回復させ、化学療法(抗がん剤治療)をできるだけ早く始める

ためだった。

× × ×

手術から約1週間すると坂井の体から痛みは徐々に抜け、元気になっていった。そんなある日、

巡回にきた執刀医に坂井は「病理検査の結果はまだ出ないんですか? きっと良性ですよね」

と笑みを浮かべながら聞いた。だが、執刀医はにこりともせず、目をそらした。

妻にこのことを話すと「すぐ分かるわけないよ。今、詳しく調べているところなんだから」と受

け流した。だが、妻はすでにこのとき、がんの可能性が極めて高いことを執刀医から聞いてい

た。

手術したその日の夜、妻が水戸医療センターで執刀医に「少し時間をください」と言うと、約2

時間、時間を割いてくれた。今後の夫へのケア、治療方法、私の望みは東京に戻り、東京で治

療をさせたいことなど、自身の思いをすべて打ち明けた。話し合いの結果、がんの告知は退院

日の28年12月28日に執刀医から行われることが決まり、妻は自分に言い聞かせるように

執刀医にこう語った。

「私、演技しますから」

1人で病院にいる夫に退院前に告知したら、精神的に落ち込み、立ち直れないかもしれない−。

退院日の告知を決めたのは、そんな配慮からだった。

× × ×

がんを1人で乗り切るのが困難なのはがん患者であれば多くの人が思うことだろう。家族の支え

があってこそ、前向きに生きることができるのは間違いない。告知を終えると、妻は坂井にこ

う語った。

「実はこの話を(執刀医から)聞くのは2回目なんだよね。もう国立がん研究センター中央病院

(東京都中央区)に通えるように、動いているから」

告知直後、坂井が最初に流した涙は死への恐怖からだった。だが、この言葉を聞いた途端、妻が

必死で夫を支えてくれようとしてくれている姿に再び涙があふれてきた。

このとき妻は「これからどうするか。夢ではなくこれが現実なんだ。ならばその現実をしっかり

受け止め、とにかく主人が生きる力を失わず、しっかり前を向いていけるよう支えてあげるこ

とだな」と心の中でつぶやいた。看護師から「ご主人、大丈夫ですか?」と声をかけられたと

きには「大丈夫です。これは私に与えられた試練です」と気丈に答えた。

退院日の一昨年12月28日夜、水戸医療センターを出ると、すでに辺りは暗くなりつつあった

。土地柄、冷風が吹きすさむ中、妻は駐車場に向かいながら、夫にこうつぶやいた。

「これから闘いが始まるね」

(政治部 坂井広志)

   がん告知の引用文。

三橋 直樹(37歳)埼玉県所沢市・自営業

 癌である事実を、しかも手の施しようもない末期の癌であることを、父に伝えるべきか否か。

それを決めなければならなかった。母と二人の弟、前の年に結婚したばかりの妻、そして、二

十五歳という年齢だった私の五人で。 

 その日、母と私は、父の病状について担当の医師から詳しい話を聞き、外科的な手術によって

も、抗癌剤放射線治療によっても、癌が治癒する見込みはなく、父の余命は三カ月から長く

ても半年だと説明を受けた。 

 「ご本人に告知するかどうかは、医師の判断では難しいところです。ご家族が決めた方針のも

とで、私たちスタッフは最大限の努力をします」 

 私を除く全員が、告知に反対をした。どのようにしても死を免れないのであれば、知らないほ

うが本人の幸せではないか。意見を集約すれば、そういう方向性だった。私もそれに反対する

ほどの確たる見解を持っていたわけではない。 

 しかし、私の心のどこかに、告知すべきだという動かし難い信念があった。告知は父が残りの

人生を有意義に過ごすための不可欠な前提なのではないか。 

 父が不在の家族会議。いつもであれば父が下すはずの最終的な判断は、長男である私に委ねら

れている雰囲気だった。私は自分の意思を通した。 

 翌日、二人だけの病室で、胃潰瘍の可能性があると仮の病名を告げられていた父に、本当の病

名を明かした。父はそれを聞いて、 

 「やっぱりそうか」とだけつぶやいた。 

 日が暮れかけて暗くなった病室のベッドの上に、私の前で涙を流す父の初めての姿を見た。 

 「それで、あとどれくらいだ?」 

 しばらくして父は、普段の威厳を取り戻して訊いた。 

 私は事実をありのままに話そうと心を決めてきていた。だが、その言葉を耳にした途端、気持

ちが揺らぎ、とっさに嘘をついた。 

 「つらいかもしれないけど、抗癌剤放射線の治療を根気よく続ければ、治る可能性が高いっ

て」 

 「わかった」 

 と、父は私の目を見据えて言った。 

 担当の医師とスタッフは、私たちの意をくんで、抗癌剤放射線と痛み止めの治療にあたって

くれた。だがそれも、父が日に日に痩せていくのを、食い止めることはできなかった。もとも

とが頑強な体格だっただけに、誰よりもその変化に戸惑ったのは父だったはず。 

 ところが本人は、そのことに一言も触れることなく、治療の進み具合を私たちに事細かく熱心

に説明し、足腰がよわるのが一番いけないからと言って、毎日一時間近く病院中を散歩した。

退院後に必要になるであろう物を買いそろえておくようにも父は指示した。 

 実際に、長くてと言われた半年を過ぎても父は持ちこたえていた。私たち家族は時折、ひょっ

としたらこのまま奇跡的に治ってしまうのではないかと真顔で話をしたりした。 

 そんな矢先だった。初秋の早朝、病院から電話があり、駆けつけた。 

 ベッドの上の父は呼吸をするのがやっとの様子で、目もほとんど開かないようだった。それで

も喉の奧からどうにか声を出し、母に感謝の言葉をかけると、弟二人には、「お母さんを頼む

」と言った。 

 私の妻には、とぎれとぎれだが、比較的明瞭な声で、「ありがとう。これからも家族で一緒に

」と語りかけた。結婚してまだ日の浅い妻への気遣いだった。 

 最後に私が、枕元で父の手をとった。すると、これが死に際した人の力かという強さで私の手

を握りかえし、一度息を整えるようにしてから、声を落として言った。 

 「お前にはまだ負けない」 

 私は棒で打たれたような気がした。快復に向けた頑なまでの父の態度の理由が、その言葉で一

気に腑に落ちた。まったく父らしいやり方の種明かし。 

 私があの時、とっさについた嘘など、父は先刻お見通しだったのだ。嘘を百も承知で、治るこ

とを信じている自分を淡々と演じていた。演じ続けてくれていた。 

 仮に最初は私の嘘を信じたとしても、次第に頬がこけ、眼窩の落ちくぼんでいく自分の相貌を

鏡で直視して、いつまでも死期を悟らなかったはずはない。 

 父の渾身の演技に、私たち家族は、そうでなければつらく、沈鬱だったであろう看病から解放

された。 

 それにしても、末期癌の痛みに耐えながら、それをおくびにも出さず、一時にせよ快復の可能

性すら家族に期待させた父の意志の力。 

 父から私は、覚悟のありかたを教わった気がする。時間と命をかけた遺言として。  

憲法9条の基本。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 知っておきたい憲法9条の姿。

(教えて 憲法)9条あるのに、なぜ自衛隊が生まれた?

教えて!憲法 基本のき:6

 二度と戦争をしない――。日本国憲法の三大原理の一つ、平和主義をうたった前文の理念を実

際にかたちにしたのが9条だ。1項で「戦争の放棄」を、2項で軍隊を持たない「戦力の不保

持」と交戦権をみとめない「交戦権の否認」をさだめる。

〈特集:教えて!憲法

 こうした条文にかかわらず、日本は自衛隊を持つ。防衛費(軍事費)は年5兆円を超え、世界

十指に入る「軍事大国」だ。政府は軍事用語をなるべくつかわず、歩兵を普通科、軍艦を護衛

艦などと呼ぶが、潜水艦をはじめ、装備面で最新鋭のものも少なくない。

9条があるのに、なぜ軍隊のような自衛隊が生まれたのか。

戦争に敗れた日本は、戦勝国から武装解除をせまられ、軍をなくした。ところが、朝鮮戦争が1

950年にはじまると、連合国軍総司令部(GHQ)の要求で警察予備隊をつくった。朝鮮半

島に送られる駐留米軍の穴をうめるためだった。

警察予備隊を警察をおぎなう実力組織と位置づけつつ、強力な武器を持たせた。後に保安隊をへ

て、1954年に自衛隊となった。軍隊でも警察でもないながらも、国防を主な任務とする組

織ができた。

当時の政府の説明は、憲法で戦争を放棄したが、国際法でみとめられている「自国を防衛するた

めに必要な一定の実力を使う権利=自衛権」は持っている、というものだった。戦力は「自衛

のための必要最小限度の実力を超えるもの」と定義。自衛隊は、憲法で持つことが禁じられた

戦力ではないとの立場をとった。

しかし、戦力と実力の境目は「必要最小限度」をどうとらえるか次第でかわり、あいまいだ。結

果的に自衛隊が活動範囲をいたずらに広げる歯止めになってきたとの見方もあるが、初めから

憲法論争の中心だった。

戦争のきずあとが生々しく残るなか、国会では、9条などの改憲をかかげる自民党政権に対し、

9条の徹底と非武装中立を主張する社会党が立ちはだかった。このため、歴代の政権は改憲

必要な議席数を得られず、自衛隊の活動範囲を広げるたびに、「自衛隊=合憲」の理屈を考え

た。

たとえば、1990年代には、国連の平和維持活動(PKO)に参加するため、海外での武力行

使に歯止めをかける「参加5原則」をつくった。2000年代には、イラク戦争後の復興支援

にたずさわるため、戦闘が起きる可能性のない「非戦闘地域」という理屈を持ちだした。

直近では、14年に安倍政権が集団的自衛権を一部とはいえ行使できる、と9条解釈を変えた。

集団的自衛権は、同盟国が攻撃された場合に、共同して防衛に当たる権利のことで、歴代政権

が9条のもとでは行使できないと解釈してきた。

安倍晋三首相は昨年5月には、自衛隊の存在を9条に明記するよう提案。現在の憲法論議につな

がっている。(二階堂勇)

自衛隊〉 1950年の警察予備隊、52年の保安隊を経て54年7月に発足した。省庁の一

つである防衛省に、陸海空の3自衛隊と、運用を統括する統合幕僚監部が置かれている。自衛

隊法の規定で、首相が「内閣を代表して最高の指揮監督権」を持つ。内閣の一員である防衛相

が常時、自衛隊を統括する。

防衛省の文官は「背広組」、自衛官は「制服組」と呼ばれる。主な任務は「我が国の平和と独立

を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛すること」。殺傷能力を持つ武器を合法的に使用

できる国内最大の実力組織だ。

防衛省によると、2017年3月末時点で、背広組が約2万人、制服組が約22万4千人。国家

公務員全体の約4割をしめる。

〈防衛費(軍事費)〉 2018年度予算案では6年連続で増額し、5兆1911億円。16年

度予算で初の5兆円を突破し、4年連続で過去最高を更新した。

スウェーデンシンクタンクストックホルム国際平和研究所」(SIPRI)がまとめた16

年の世界の軍事費動向(米ドル換算。推定値を含む)によると、日本は上位8位で、ドイツ(

9位)、韓国(10位)を上回っている。

防衛費をめぐっては、1976年に三木武夫内閣が、国民総生産(GNP)の1%以内におさえ

る方針を閣議決定したが、中曽根康弘内閣が87年度予算で「1%枠」を突破。その後は国内

総生産(GDP)比1%弱で推移してきた。民主党政権の2010年度予算では1%を超えた。

安倍晋三首相は国会答弁で、「GDP1%枠というものがあるわけではなく、防衛関係費をGD

Pと機械的に結び付けることは適切ではない」などと述べ、枠組みにとらわれない考えをしめ

している。

〈国連平和維持活動〉 国連決議に基づく、国際的な平和や安全を維持するための活動。略称は

PKO(Peacekeeping Operations)。日本では1992年にPKO

協力法が成立。カンボジアへの自衛隊派遣を皮切りにはじまった。派遣にあたっては「参加5

原則」を設け、内容は、①紛争当事者間の停戦合意②紛争当事者の受け入れ同意③中立的立場

の厳守④以上の原則が満たされない場合は撤収⑤武器の使用は必要最小限――とした。

PKO活動では、主に武器の使用基準が変遷をたどった。98年の法改正で、武器使用は個人判

断ではなく原則上官の命令に。2001年の法改正により、武器使用の防護対象を「自己の管

理下に入った者」に拡大した。15年には、安全保障法制の一つとして法改正され、新任務「

駆けつけ警護」などが可能になった。例えば、宿営地から駆けつけ警護に向かう途中、任務を

妨害する勢力を排除するためにも、武器が使用できるように拡充された。

外務省によると、17年12月末現在、国連PKOは、15ある。このうち、日本は、唯一参加

する南スーダンPKOの自衛隊部隊を同年5月に完全撤収させた(司令部要員は派遣中)。P

KOは、情勢により危険をともなう任務もあり、日本が今後、どのように関与するかも議論と

なりそうだ。

(教えて 憲法)9条あるのに、なぜ自衛隊が生まれた?

教えて!憲法 基本のき:6

 二度と戦争をしない――。日本国憲法の三大原理の一つ、平和主義をうたった前文の理念を実

際にかたちにしたのが9条だ。1項で「戦争の放棄」を、2項で軍隊を持たない「戦力の不保

持」と交戦権をみとめない「交戦権の否認」をさだめる。

〈特集:教えて!憲法

 こうした条文にかかわらず、日本は自衛隊を持つ。防衛費(軍事費)は年5兆円を超え、世界

十指に入る「軍事大国」だ。政府は軍事用語をなるべくつかわず、歩兵を普通科、軍艦を護衛

艦などと呼ぶが、潜水艦をはじめ、装備面で最新鋭のものも少なくない。

9条があるのに、なぜ軍隊のような自衛隊が生まれたのか。

戦争に敗れた日本は、戦勝国から武装解除をせまられ、軍をなくした。ところが、朝鮮戦争が1

950年にはじまると、連合国軍総司令部(GHQ)の要求で警察予備隊をつくった。朝鮮半

島に送られる駐留米軍の穴をうめるためだった。

警察予備隊を警察をおぎなう実力組織と位置づけつつ、強力な武器を持たせた。後に保安隊をへ

て、1954年に自衛隊となった。軍隊でも警察でもないながらも、国防を主な任務とする組

織ができた。

当時の政府の説明は、憲法で戦争を放棄したが、国際法でみとめられている「自国を防衛するた

めに必要な一定の実力を使う権利=自衛権」は持っている、というものだった。戦力は「自衛

のための必要最小限度の実力を超えるもの」と定義。自衛隊は、憲法で持つことが禁じられた

戦力ではないとの立場をとった。

しかし、戦力と実力の境目は「必要最小限度」をどうとらえるか次第でかわり、あいまいだ。結

果的に自衛隊が活動範囲をいたずらに広げる歯止めになってきたとの見方もあるが、初めから

憲法論争の中心だった。

戦争のきずあとが生々しく残るなか、国会では、9条などの改憲をかかげる自民党政権に対し、

9条の徹底と非武装中立を主張する社会党が立ちはだかった。このため、歴代の政権は改憲

必要な議席数を得られず、自衛隊の活動範囲を広げるたびに、「自衛隊=合憲」の理屈を考え

た。

たとえば、1990年代には、国連の平和維持活動(PKO)に参加するため、海外での武力行

使に歯止めをかける「参加5原則」をつくった。2000年代には、イラク戦争後の復興支援

にたずさわるため、戦闘が起きる可能性のない「非戦闘地域」という理屈を持ちだした。

直近では、14年に安倍政権が集団的自衛権を一部とはいえ行使できる、と9条解釈を変えた。

集団的自衛権は、同盟国が攻撃された場合に、共同して防衛に当たる権利のことで、歴代政権

が9条のもとでは行使できないと解釈してきた。

安倍晋三首相は昨年5月には、自衛隊の存在を9条に明記するよう提案。現在の憲法論議につな

がっている。(二階堂勇)

自衛隊〉 1950年の警察予備隊、52年の保安隊を経て54年7月に発足した。省庁の一

つである防衛省に、陸海空の3自衛隊と、運用を統括する統合幕僚監部が置かれている。自衛

隊法の規定で、首相が「内閣を代表して最高の指揮監督権」を持つ。内閣の一員である防衛相

が常時、自衛隊を統括する。

防衛省の文官は「背広組」、自衛官は「制服組」と呼ばれる。主な任務は「我が国の平和と独立

を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛すること」。殺傷能力を持つ武器を合法的に使用

できる国内最大の実力組織だ。

防衛省によると、2017年3月末時点で、背広組が約2万人、制服組が約22万4千人。国家

公務員全体の約4割をしめる。

〈防衛費(軍事費)〉 2018年度予算案では6年連続で増額し、5兆1911億円。16年

度予算で初の5兆円を突破し、4年連続で過去最高を更新した。

スウェーデンシンクタンクストックホルム国際平和研究所」(SIPRI)がまとめた16

年の世界の軍事費動向(米ドル換算。推定値を含む)によると、日本は上位8位で、ドイツ(

9位)、韓国(10位)を上回っている。

防衛費をめぐっては、1976年に三木武夫内閣が、国民総生産(GNP)の1%以内におさえ

る方針を閣議決定したが、中曽根康弘内閣が87年度予算で「1%枠」を突破。その後は国内

総生産(GDP)比1%弱で推移してきた。民主党政権の2010年度予算では1%を超えた。

安倍晋三首相は国会答弁で、「GDP1%枠というものがあるわけではなく、防衛関係費をGD

Pと機械的に結び付けることは適切ではない」などと述べ、枠組みにとらわれない考えをしめ

している。

〈国連平和維持活動〉 国連決議に基づく、国際的な平和や安全を維持するための活動。略称は

PKO(Peacekeeping Operations)。日本では1992年にPKO

協力法が成立。カンボジアへの自衛隊派遣を皮切りにはじまった。派遣にあたっては「参加5

原則」を設け、内容は、①紛争当事者間の停戦合意②紛争当事者の受け入れ同意③中立的立場

の厳守④以上の原則が満たされない場合は撤収⑤武器の使用は必要最小限――とした。

PKO活動では、主に武器の使用基準が変遷をたどった。98年の法改正で、武器使用は個人判

断ではなく原則上官の命令に。2001年の法改正により、武器使用の防護対象を「自己の管

理下に入った者」に拡大した。15年には、安全保障法制の一つとして法改正され、新任務「

駆けつけ警護」などが可能になった。例えば、宿営地から駆けつけ警護に向かう途中、任務を

妨害する勢力を排除するためにも、武器が使用できるように拡充された。

外務省によると、17年12月末現在、国連PKOは、15ある。このうち、日本は、唯一参加

する南スーダンPKOの自衛隊部隊を同年5月に完全撤収させた(司令部要員は派遣中)。P

KOは、情勢により危険をともなう任務もあり、日本が今後、どのように関与するかも議論と

なりそうだ。

どうぞご家族の元、輝かしい命、燃えつくしてくださいませ。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 31歳を目前としたときお医者さんから余命5年との宣告を受けたという。

人生の坂道を登り始めて間なしの病魔にどれほど驚き、悲しまれたことでしょう。

骨髄異形成症)との診断んそれも健康診断によるいきなりの発症と

28歳の時「ホームページの作成会社を立ち上げ

やりがいを持って過ごしておられたことでしょう。

 それからは過呼吸、めまいと症状に悩まされ入退院を繰り返し

改善されないまでも安定期の中職場復帰を成し遂げられる。

 余命診断ののち教員であるご主人に巡り合い結婚。

素晴らしい人には素晴らしい出会いがあるものだと神様に合掌。

ブラックホールを感じながらもお優しいご家族に囲まれ、また良き友人に恵まれ

病魔にかかったことは不幸ではありますが

家族が病魔に寄り添い応援し続けていただける幸せは

そうどこにでもあるとは思えません。

 

お人の愛こそが何よりの妙薬。

本当に家族は宝です。

家族が家族としてその機能を果たし

どれほどの家族が一家だんらんを味わい深く過ごされておられるでしょう。

家族はお互いに育みあう中から

家族の在り方がなくてはならないものに

はぐくまれていくのだろうと思っています。

 家族有ればこそ。

こころのよりどころはかぞくから・・・。

     アサヒコムより。

31歳目前に「余命5年」 大切なもの知った女性経営者

約3年前、病気で突然の余命宣告を受けた30代の女性経営者が、外見では分からない病気や障

害があることを周囲に知らせる「ヘルプマーク」の普及に取り組んでいる。家族らの支えに幸

福を感じながら、「今日一日を大切に」との思いを胸に前へ走り続けている。

「余命は5年です」

2014年8月18日、三重県四日市市の小崎麻莉絵(こざきまりえ)さん(34)は医師から

告げられた。骨髄異形成症候群。血液が正常につくれなくなる病気だ。完治にはリスクが高い

骨髄移植と抗がん剤治療が必要と告げられた。

31歳の誕生日を迎える前日のことだ。「どうやって伝えればいいんだろう」。最初に思い浮か

んだのは両親の姿だった。「やっぱコワイ」。その晩、泣きながら日記を書いた。

四日市市出身。県内の大学を卒業後、複数の会社を経て、28歳の時に名古屋市でホームページ

制作会社を設立。久々に受けた健康診断で異常が見つかった。

入院後、トイレに行くだけで息切れするようになり、過呼吸が頻繁に起こった。診断が下ったの

が約1カ月後だった。

「地獄ですよねー。もうびっくりしましたけど。あはは」。時折、笑顔を見せながら当時を振り

返る。

医師の言葉が強く心に残った。「泣いても笑っても同じ5年。できるだけ笑っていきましょうね」

診断の翌日、友人が次々と誕生日を祝ってくれた。母親は「死ぬわけないやん」と励まし、父親

はシュークリームを持って毎日見舞いに来た。骨髄を提供できないことを知った弟は悲しそう

だった。「本当に大切なものは何か。強く感じるようになった」

ある日、計算した。余命を日数にすると、1825日。5年で死ぬなら最後の300日は闘病で

大変なはず。「それまでの1500日は何かにすがったり、悲しんだりする時間じゃない。私

の今日がどれだけ素晴らしいかを感じたい」

約1年4カ月、入院と自宅療養を繰り返して病状が安定し、職場復帰した。

かつては東京で大きなオフィスを構えることを夢見ていた。睡眠は1日約3時間。朝早く出社し

、夜は経営者の会合に足を運んだ。「自分をいかに大きく見せるかに注力していた」

復帰後、心の鎧(よろい)を脱ぎ捨てた。勤務時間を午前10時半〜午後3時に抑え、体調を崩

して休むこともあるが、業績は落ち込まなかった。「病気でできないこともある」と伝えると

、近くまで出向いてくれる顧客も現れた。「大事な人と長く付き合えば、仕事はそんなに減ら

ない」と気づいた。

今、力を入れるのが「ヘルプマーク」の普及だ。小崎さんも電車で優先席に座ると、お年寄りか

ら「若いのによくそんなところに座るな」と言われた。

そんな時、東京都が12年に導入したヘルプマークを知った。病気を伝える文章とマークを添え

た自作のプレートをかばんにつけると、高齢の男性から「頑張ってな」と言われた。

フェイスブックで体験を公開すると、切実なメッセージが来た。「満員電車で押されて人工関節

が砕けた」「視覚障害だけど誰も気づいてくれなかった」

昨春、約20人で普及活動の会を発足。寄付を募ってマークをあしらったパスケースを配り、署

名活動でマークの導入を働きかけた。三重県、愛知県、名古屋市が普及へ動き出した。

一昨年、中高一貫校教諭の田中紘成(ひろなり)さん(36)と結婚した。病気になった後で知

り合い、最初は交際を断った。でも「今日一日が大事と言う麻莉絵ちゃんが、一緒にいる時に

笑顔なのがうれしかった」と話す紘成さんに心を動かされた。

今もめまいや過呼吸に襲われることがあり、昨年末には白血球の値が急に下がった。「そういう

日が来るかも」という覚悟はある。

それでも、病気になってから幸せを感じることが多くなった。「命が続く限り、世のため人のた

めに動き、巡り巡って自分がもっとうれしく過ごしていけたら、すてきだと思います」(堀川

勝元)

一総理により変えようとされている『専守防衛』。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 気が付けば国家予算の防衛費は5兆円をはるかに超え

目指すは6兆円も至近距離と言わざるを得ません。

世界ランキングにおける防衛費と名の付く軍事費は8位に上昇しています。

これではまるで軍事大国をじしょうしているようなものではありませんか??

安倍総理以来防衛費は膨張に次ぐ膨張です。

これはじょうせいききといわれるのかもしれませんが・・・?

でも憲法の名のもとに防衛費のこのような不確実な拡大は許せない現状です。

専守防衛の観点の解釈も変質拡大の元

防衛機器の購入には余りあるものがある。

日本が武器を持つことは、戦線参加とみなされても仕方がない。

 同盟国の意見に従うようなことになると

せかいききにあぶらをそそぐようなものではないのか?

     東京新聞より。

週のはじめに考える 「専守防衛」変質への憂い

専守防衛」は戦後日本の基本方針ですが、安倍内閣の下で変質しつつあるようにも見えます。

専守防衛とは何か、原点に返って考える必要があります。

専守防衛とは、日本独特の用語です。二〇一七年版防衛白書は次のように記しています。

「相手から武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限

にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に

則(のっと)った受動的な防衛戦略の姿勢をいう」

つまり国連憲章で認められた自衛権のうち、個別的自衛権しか行使しない、というものです。

◆軍事大国にならぬ誓い

日本には、先の大戦の反省から戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法があります。その下でも、火

力を有する自衛隊の存在を正当化するための便法でもありました。

先制攻撃をしたり、必要以上に相手に打撃を与えることがなければ、憲法が禁じる戦力には当た

らない、という理屈です。

専守防衛という言葉を国会で初めて口にしたのは会議録を検索する限り、一九五五(昭和三十)

年七月の杉原荒太防衛庁長官自民党が誕生する保守合同前の鳩山一郎民主党政権でした。

「わが国防衛の建前はあくまでも受身で、侵略を受けた場合に守る。名目のいかんにかかわらず

、外に出て行って侵略することでない。言葉は少し固苦しいかもしれないが、専守防衛、専ら

守る、あくまでも守る、という考え方だ」

五五年といえば自衛隊創設の翌年。国内外に多大の犠牲を強いた戦争の記憶も生々しいころです

専守防衛自衛隊創設に当たり、再び他国に脅威を与えるような軍事大国にはならないこと

を誓い、国民の反発を避けるために生み出された政治用語でもありました。

◆戦後日本の基本方針に

その後、主に自民党が担ってきた歴代内閣も専守防衛政策を継承し、日米安全保障条約とともに

、戦後日本の安全保障政策を形成する基本方針となっていきます。

一三年十二月、安倍内閣が初めて定めた国家安全保障戦略は「専守防衛に徹し、他国に脅威を与

えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守る」という戦後日本の平和国家としての歩み

は国際社会で高い評価と尊敬を得ており、より確固たるものにしなければならない、と記して

います。

専守防衛は日本国民の血肉と化し、これまでも、そしてこれからも守り続けるべき「国のかたち

」になった、ということでしょう。

気掛かりなのは安倍政権の下、専守防衛の中身が変わりつつあるのではないか、ということです。

例えば、一五年九月に安倍政権が成立を強行した安全保障関連法です。この法律により、日本は

直接攻撃された場合だけでなく、日本と密接な関係にある国への攻撃が発生した場合でも、武

力が行使できるようになりました。

日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険

がある、という条件付きですが、これまで憲法が禁じてきた集団的自衛権の行使に該当するも

のです。

さらに、自衛隊保有する防衛装備の「質」も変化しつつあります。これまでは専守防衛を逸脱

する恐れがあるとして保有が認められてこなかった装備まで持とうとしているのです。

代表例はヘリコプター搭載型護衛艦の「空母」化構想と、一八年度予算案に関連費用が計上され

た長距離巡航ミサイルの導入です。

防衛省はいずれも離島などの自国防衛が目的だとしていますが、打撃力である空母や、射程の長

巡航ミサイル保有することは、海を越えて外国の軍事基地などを攻撃できる能力を持つこ

とにもなります。

自衛のための必要最小限のものという範囲を超えれば、歴代内閣が憲法上禁じてきた「敵基地攻

撃能力の保有」につながります。

◆変更なしと言うけれど

安倍晋三首相は「専守防衛は、憲法の精神に則ったものであり、わが国防衛の大前提だ。この点

には、今後ともいささかの変更もない」と語り、自らが主張する自衛隊の存在を明記する憲法

改正が行われても「自衛隊の任務や権限に変更が生じることはない」と強調しています。

しかし、歴代内閣が堅持してきた政府の憲法解釈を一内閣の判断で変え、集団的自衛権の行使を

可能にした安倍内閣です。専守防衛は変わらないと言いながら、その中身を徐々に変質させて

いくとしたら、国民を欺く行為にほかなりません。断じて許されない。

専守防衛は二度と戦争をしないという決意表明です。為政者の言動に惑わされず、専守防衛の本

来の意味を、国民一人一人が確認し続けなければなりません。

シリア戦地より、ツイートし続ける少女の生々しい証言。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 シリアにおいては長期にわたり内戦が続き

 武器も平気も持たない一般民が虫けらのようになくなる状況を

スマホを頼りに、戦争の生々しい状況を、少女目線、その感覚でリアルタイムに

その危機的状況を発信し続けている。

 日本も唯一被爆国です

多くの命、多くの被爆者を産んでいます。

二度と戦争などあってはなりません。

弱い声も訴え続けることでどこかに留め置くことでしょう。「私たちを今すぐ助けてください」

とツイートは世界中を駆け巡っています。

     山系より。

【書評】シリアの少女のつぶやきに世界は衝撃を受けた 『バナの戦争』バナ・アベド著、金井

真弓訳

□『バナの戦争 ツイートで世界を変えた7歳少女の物語』

シリアの大都市アレッポに暮らしていた7歳の少女・バナは、降り注ぐ爆弾の恐怖におびえなが

ら必死でスマートフォンを操作し、英語で全世界に向けて発信した。

〈お願いです、今すぐわたしたちを助けて〉

2011年から現在も続くシリア内戦は、私たち日本人にとって、正直なところあまりにも遠い

出来事だ。けれども16年、激しい戦闘地域の内側からバナのツイートがリアルタイムで届き

始めたとき、世界中が衝撃を受けた。彼女は自分で見たこと、感じたことを書いた。食べ物も

水も、薬もないこと。人がハエのように死んでいくこと。

〈わたしたち、死にかけているの〉

バナのメッセージは単純で、だからこそ力強い。その影響力の大きさから政府側に危険人物と見

なされ、身の危険を感じた母親はバナに男の子の服を着せた。同じ年の12月、バナ一家はア

レッポを脱出し、トルコへ避難した。そこでバナはこの本を書いた。

圧倒的な兵力の前で武器を持たない普通の人々、とくに女性や子供が犠牲となる。大国の思惑、

武装テロ組織も入り乱れる内戦の複雑な状況のなかで、少女がどれほど人の心をとらえるメッ

セージを発しても、それで戦争が終わることは決してない。だが−。

バナの母・ファティマは本書に収録された手記で、バナにこう語りかける。

〈あなたは黙ってはだめ。あなたに声をあげさせないことこそ、彼らの望みなのだから〉

バナたちは今もトルコにいて、戦争をやめてほしいと訴え続けている。どんなに無力に思えても

、届くと信じて声を上げ続けることが、バナの「戦争」だ。

家や友人、祖国さえ失っても、人はその絶望を乗り越えて生きていかなければならない。戦闘地

のただ中で、ツイートに対して世界中から寄せられる返信に、どれほど勇気づけられたかをバ

ナは書いている。遠い場所にいる私たちがまずできることは、そうしたごく普通の少女の声に

向き合い、聞き取ろうとすることなのだ。(飛鳥新社・1500円+税)

評・瀬戸内みなみ(ノンフィクションライター)

  シリアにおける戦争状況の引用です。

「6年以上にわたって続くシリアの内戦。

その構図は、複雑化しています。

ロシアが支援するアサド政権と、アメリカなどが支援する反政府勢力。

それに過激派組織IS=イスラミックステートなどが入り乱れて戦闘を続けています。

アメリカは、ISに対して空爆を行う一方、アサド政権への攻撃は行ってきませんでした。

しかし先月7日、アサド政権が化学兵器を使用したことに対する対抗措置だとして、初めて攻

撃に踏み切りました。

トランプ大統領は、シリアのアサド大統領を『殺りく者だ』と強く非難した上で、攻撃について

、『正しいことをした、何の疑いもない』と述べています。

ところが、あの攻撃から1か月余りたっても、トランプ政権は目立った動きを見せていません

。」

増井

「アメリカの積極的な関与を期待した人々の間では、失望感が広がっています。」

米国の空爆から1か月 シリアは今

リポート:森健一記者(カイロ支局)

シリアの隣国ヨルダン。

65万人を超える難民が暮らしています。

シリアから逃れてきた、元運転手のワエル・アブトゥルキさんです。

シリアで受けた砲撃で手にけがをして働くことができず、貯金を切り崩して暮らしています。

トランプ政権のミサイル攻撃を知り、これで戦況が変わると興奮したといいます。

シリア難民 ワエル・アブトゥルキさん

トランプ大統領は、すぐに空港を攻撃し無力化した。

(お祝いに)お菓子を配りました。」

ワエルさんがシリアを離れたのは4年前。

故郷の町で化学兵器による攻撃に遭遇。

仲間とともに救助にあたりました。

シリア難民 ワエル・アブトゥルキさん

「友人17人を失い、一緒に救護していた医師2人も亡くなりました。

一晩中シャワーを浴びても目が腫れ上がったままで、その後、3週間、目が赤いままでした。」

当時、アメリカのオバマ政権は、アサド政権に対し化学兵器の使用を強くけん制しながらも軍事

攻撃には踏み切りませんでした。

これに対し、トランプ大統領は…。

アメリカ トランプ大統領

「野蛮な攻撃によって、かわいい赤ちゃんさえ残酷に殺された。」

化学兵器使用の報告を受けてから、わずか2日で軍事作戦を承認。

ミサイル攻撃に踏み切りました。

しかしその後、トランプ政権は目立った動きを見せていません。

その間、アサド政権は逆に空爆や砲撃を強化。

市民が巻き込まれる戦闘が続いています。

故郷に戻れる日が来るかもしれない…。

そう期待したワエルさんは今、焦りを募らせています。

シリア難民 ワエル・アブトゥルキさん

トランプ大統領がアサドを引きずり下ろすことを願う。

もっと攻撃してほしい。

一度の攻撃では警告にしかならない。」

さらに、アメリカなどの支援を受けてきた反政府勢力も大きな失望を感じています。

自由シリア軍の幹部、イサム・レイス氏。

レイス氏は、アメリカが空軍施設を空爆したあと、即座に歓迎のメッセージを出しました。

自由シリア軍 幹部 イサム・レイス氏

“今回の行動は強力で、勇敢であった。”

アサド政権への圧力をさらに強めるよう、アメリカに促す狙いがあったと言います。

自由シリア軍 幹部 イサム・レイス氏

「もっと攻撃してほしい、それが我々のメッセージだ。」

自由シリア軍は今、アメリカが最優先に掲げる過激派組織IS壊滅のため、シリア東部に向けて

、部隊を展開する準備を進めています。

しかしレイス氏は、アメリカの動きが読めない以上、その軍事力を計算に入れることはできない

と考えています。

自由シリア軍 幹部 イサム・レイス氏

「アメリカの姿勢は、トランプ政権でも不透明だ。

いまだにシリアで何をしたいのかが見えない。

現実的な意味で、何も見えない。」

最新状況は

増井

「取材にあたっているカイロ支局の森記者に聞きます。

シリアの、特に反アサド政権の人々の間で、アメリカへの失望が広がっているようですね。」

森健一記者(カイロ支局)

「トランプ政権は前政権とは違って即座に動いた、これが際立って、『何かやってくれるかも

しれない』と期待した分、肩透かしをくらったという受け止めなのだと思います。

シリアの内戦の解決には、ロシアやトルコといった各国が互いに利害を調整していくことが欠

かせません。

しかし、アメリカはその先のビジョンを描くことなく攻撃に踏み切ったと、ここ中東にいる専

門家は指摘しています。」

クドゥス政治研究所 オライブ・レンタウィ氏

「(攻撃後の)次のステップは何なのでしょうか?

今後、シリアで何が起きうるか?

アメリカが明確な展望を持ち、軍事作戦や外交方針とどう結びつけるか理解しているとは思え

ません。」

内戦の見通しは

花澤

「アメリカによる攻撃のあと、シリア内戦の状況はどうなっていますか?」

森記者

「戦闘は悪化したとさえ言える状況のようです。

空軍施設に攻撃を受けても、アサド政権の軍事力が大きく削がれることはありませんでした。

むしろアメリカの攻撃のあとアサド政権は反政府勢力に対して、より強硬な姿勢を強めた。

これに対し、反政府勢力側も応戦しています。

先週、アサド政権と反政府勢力の双方に武器の使用を認めない『安全地帯』というエリアがロ

シア・トルコ・イランの3か国のもとで設けられましたが、そこでも戦闘は止んでいません。

停戦と停戦違反が繰り返されて互いに非難し合う、もはやお決まりのパターンに陥っています

。」

米国の空爆から1か月 シリアは今

増井

「トランプ政権はあの空爆をきっかけに、もっとシリアの問題に関与していくのかと思いまし

たが、そういうことでもなかったということなんでしょうか?」

花澤

「それはやはり、IS壊滅が最優先で、それをしないとはじまらないという状況です。

アサド政権を倒してしまっては、その後のシリアはどう安定させるのか、誰が統治していくのか

、その道筋を失ってしまいます。

また、隣国はアメリカと特別な関係にあるイスラエルで、仮にアサド政権が倒れてシリアで権

力が空白になった場合、過激派勢力が拡大する可能性がある。

そうすると、それがイスラエルにとって脅威になるということで、そうした事態を避けたいと

いうのがトランプ政権の考えです。

加えてアメリカの国内世論を考えると、先日のミサイル攻撃、あそこまでは支持したんですが

、それ以上の関与、内戦に巻き込まれていくことには強いアレルギーがあります。

ですから、地上部隊を送るということはできません。

いわば、その代わりとなってISとの地上戦の主力となっているのがクルド人部隊で、アメリ

カはこれに対する支援を強化しようとしています。」

増井

「アメリカは、IS壊滅の先の展望はあるのでしょうか?」

花澤

「アメリカ政府は対IS作戦の現状について今現在は『順調』としていて、IS壊滅後に残る

勢力=アサド政権とクルド勢力、反政府勢力等をどう和平に持ち込むか、それについての協議

はあとにしましょうという考えなんです。

アサド政権については、『政権の組織は残しながらアサド一家だけは排除する』という線でロ

シアと交渉していくことになると思います。

ロシア側もこれを完全には否定していません。

ラブロフ外相は10日に4年ぶりにワシントンを訪問しました。

オバマ政権の後半はずっと関係が冷え込んでいましたから、行っていなかったんですね。

ロシアとトランプ政権の関係はオバマ政権時代ほど悪くないということになります。

IS壊滅を進めながら行われる、アサド政権の扱いを巡る米ロの交渉。

それがシリアの内戦終結の最大のカギを握っています。」

特集ダイジェスト

「小室哲哉」になぜ教官するのか・・・??

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 御子ちゃんも長期化以後に付き合ってきました。

時として疲労困憊することもないではありませんでした。

だけれど、同じ立ち位置で対処することだけはすれバスるほど

「なぜなぜまーく」に四方八方から攻められているような気がして

とってもしんどい思いをしたこともありました。

同じ立場ではなく幼子としての付き合い方にはっきり変えることにしました。

 ジジコちゃんは1時ごろにおやつを干し狩り、それのお付き合いに

ほとほと疲れ切りました。

そこで感触をしながら、ジジコちゃんに童謡を声高らかに

歌い上げるとジジコちゃんは高い音声が苦手なのか

いつものように頭を抱え込むようになり

「じゃあー、お布団に入ろうか」がいつものパターンとなり

やれやれと安堵したものでした。

もう時の概念などすっ飛んだ世界のジジコちゃんになっていました。

 お風呂に入ることを嫌がることもありましたが

そんな時には無理押しなどせず

清拭で「マーいいや」と妥協もしてきました。

 ジジコちゃんと一社に楽しもうと幼児語になってお話しすることで

自分の中でのスイッチを切り替えても来たところがあります。

 ジジコちゃんのために家の前に身に再演を作り

楽しい土いじりの時間を過ごすことが出来たことは

亡きあとにおいても良き思い出となっています。

 夫婦間であればどうだろうと考えますが

やはり不倫は良くないと解釈します。

夫婦であればよい時ばかり共に過ごせるとは言えません。

子供のようになった妻を、介護することは大変とは思います。

でもそれを美化するかのような表現には賛成できません。

 夫婦であれば辞める時こそ、本領

その使途のあるべき姿が浮き彫りになるのではないかと解釈したいです。

一生懸命向き合ってきたなどとはとても思えません。

精神的なケアーが求めたいならそれなりの方法の模索はできたはずです。

 介護職場においても、暴力は報道以外でも山積しているように思います。先の見えない長期化

以後はとてもしんどいことは紛れもありません。

     東洋経済より。

小室哲哉氏に共感するのには理由がある 6年間妻を介護した岩本恭生氏の「壮絶生活」

不倫疑惑報道を受けて1月19日に開かれた記者会見で、小室哲哉は引退を表明した。重い決断だ

ったが、それ以上に衝撃を呼んだのは、彼が妻のKEIKOの介護に疲れ切っていたという事実であ

る。

「看護師のAさんと逢瀬を重ねていたことが報じられたんですが、小室さんは男女の関係を否定

しました。KEIKOさんと夫婦のコミュニケーションがとれなくなり、Aさんに甘えてしまったこ

とは認めています。

介護に苦しんでいたことを赤裸々に語り、精神的に追い詰められていたことを明らかにしました

。真摯な受け答えに共感が集まり、報道した『週刊文春』への批判が高まりましたね」(スポ

ーツ紙記者)

小室は会見の最後に発言を求め、介護への理解を求めた。高齢化社会に向かう中で、誰もが直面

する問題である。

タレント・岩本恭生が語る壮絶介護の経験

タレントの岩本恭生は、2008年から半身麻痺の妻を介護した経験をもつ。2014年に亡くなるま

で、小室と同様に妻を支え続ける日々だったと語る。

「妻は左半身が麻痺してしまって歩行ができず、車イス生活でした。手も使えず、左目が内転し

ているような状態。嚥下機能も麻痺しており、食事も飲み込めませんでした。リハビリでわず

かに話せるようになりましたが、満足には聞き取れませんでしたね」

妻の恵美さんに脳腫瘍が見つかり、2008年に手術を行ったが失敗。神経の一部を切断してしま

い、麻痺が残った。岩本は“主夫”として子どもの世話をしながら妻の介護を行うことになる。

「左半身に麻痺が残っている状態でも、“リハビリを頑張れば、半年後、1年後には……”と希

望を持っていました。それを望みに介護に向き合っていたんです。介護の本を何冊も読んで、

介護される側も気持ちよく過ごせるように、と考えたものでした。でも、現実は違います。人

間にはやはり許容範囲というものがありますよね」

手術後に恵美さんは性格まで変化してしまう。我慢強いタイプだったのに、ちょっとしたことで

ヒステリックな反応を見せるようになった。

「僕の気持ちが折れてしまっているときに妻の機嫌が悪いと、ののしりあいのケンカをすること

もありました。“どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないんだ”と思うこともありま

したね。

でも本人がいちばんつらいこともわかるんです。今まで普通にできていたことができなくなって

、迷惑をかけてしまうと思い込んでしまいますから」

介護が始まった当初は、毎週のように衝突を繰り返していたという。

考えを切り替えるも壮絶介護は続く

「介護をしている僕は、彼女に“ひと言でも感謝の言葉を言ってもらえたら……”と、求めてし

まう部分もありました。でも、何も言ってくれないんです。考えてみれば、彼女も不自由な生

活でストレスを抱えて、ギリギリの状態だったと思うんですね。でも、介護を始めた当時は、

そう考える心の余裕を持てなかったんです」

溝が深まり、自分も追い詰められていく――。

岩本は、この状況を変えるべく、気持ちと考え方を切り替えることにした。

「妻に接するときは、子どもを見るつもりで接することにしました。子どもたちは彼女を“ママ

”と呼んでいたので、僕は“ママちゃん”と呼ぶことにしました。子どもたちにとっては、僕

もママも同じ親。でも、介護されている状態の彼女は、僕と対等ではないと考えるようにした

んです。

対等な立場だと、どうしても彼女にも感謝の言葉などを求めてしまう。あやすような感覚で接す

ることで、彼女にいろんなことを求めないようにしたんです」

小室は、KEIKOが女性から“女の子”になったと話していた。岩本は、小室が自分と同じことを

感じたのかもしれないという。気持ちを切り替えて新たに介護に取り組んだが、またしても厳

しい現実が明らかになる。

「100パーセント以前の状態に戻るのは無理でも、母親として帰ってきてくれるという希望があ

るうちは、頑張れたんです。

最初の手術から3年後の2011年に2回目の手術を行うと、腫瘍が大きくなっていました。そこで

“失ったものは元に戻らない”という現実を痛感しました。僕たちが夫婦として元に戻ること

もないのだと気がついたんです。希望が絶たれてしまったと思いました」

2012年に実家のある札幌に移住し、岩本の母と同居を開始。生活環境を変えようとしたが、母

も倒れてしまう。

「ストレスが倍になりましたね。6年間、禁煙していたのに再び吸うようになり、量も増えてし

まって。母が倒れたとき、自分は56歳。子どもたちを置いて、北海道から仕事に出かけること

ができるのか。そんな状況で続けられるのか。仕事を減らして、収入がなくなってもいいのか…

…など、60歳を目前にして考えました」

小室も59歳で今回の不倫報道。節目の年を前にすると、考えることはおのずと増えてしまう。

岩本は悩みをひとりで抱え込んだ。他人に打ち明けるのがイヤだったという。

「表舞台に立つ人間という自負がありましたから、笑わせる側の人がつらい話をするのは違うな

、と思っていたんですね。小室さんもそうだったんじゃないでしょうか。ましてや、KEIKOさん

も芸能人の方。

本音を包み隠さず言える相手なんて、周りに少なかったんじゃないかと思いますよ。ブログなど

で“頑張ってますよ”と発信することは多少の気休めになっているのかもしれませんが、同時

に“元気でなければいけない”というプレッシャーにもなってしまいます」

岩本の場合は、子どもが2人いたことが苦しい中での支えになっていた。

市川海老蔵さんは、闘病中の小林麻央さんのことをブログに書いていましたね。お子さんがい

るから、前を見て頑張らなくてはいけないと思えたのでしょう。

僕も2人の子どもに支えられました。介護を始めたときは、小1と小3。子育て、介護、そして仕

事……となると“子どもたちのために!”って自分を奮い立たせるしかなかったんです」

小室には子どもがいない。それが心のすき間を生んだのではないかと岩本は考える。

忙しいことが、むしろありがたかった

「子どもたちという存在がなくて時間に余裕があれば、僕もどうなっていたかわかりません。妻

とは仲がよくて、食事もお酒もゴルフも一緒でした。

でも、妻を対等な関係性で見ることができなくなって“夫婦”とは呼べない状態だったんです。

私も男性ですから、精神的に女性を欲していました。ただ、朝起きると子どもの弁当を作って

送り出したり、地方で仕事をしているときは電話で起こしたり……という生活でしたから」

忙しいことが、むしろありがたかった。それでも頼る人がいない状況が続くと、気持ちが沈んで

いく。

「妻とは“夫婦”としての生活が成立していないと思うんです。夫婦というのはどちらかが弱っ

ていたら、もう一方が癒やしてあげるもの。この思いやりが一方通行になってしまうと、戸籍

上は夫婦でもちゃんと“夫婦”であるとはいえないと考えていました」

介護の疲れから離婚に至るケースは皆無ではない。男女問題専門家で行政書士の露木幸彦氏は、

小室と同様に高次脳機能障害の配偶者を介護する人から相談を受けることがあったと話す。

「怒りっぽくなってしまいトラブルが起きることがあります。入浴を嫌がるので注意すると“風

呂に入らなくても死にはしない!”と逆上されたり、おねしょをするので“おむつして”とお願

いして“バカにしないでよ!”と怒られたりした例がありました」

ストレスを感じながらも、介護中に離婚する事例は少ないという。

「“日常生活に支障がある場合”には、婚姻関係を継続できないと判断されることもあります。

ただ、介護放棄にも見えかねませんし、離婚を決断することは難しいでしょう」(露木氏)

小室は妻との離婚を考えてはいないが、コミュニケーションが成立しない切なさは耐え難いもの

だろう。

岩本は小室にとってAさんの存在が救いになっていたのではないかと想像する。

「KEIKOさんの全快を望みに介護をしていたはずです。それが難しいと気づいたときに、心の支

えにしていたのがAさんだったのでは。彼がやっと手に入れた“心の杖”がなくなってしまった

ら、立って歩けないのでは、と僕は思ってしまいました。

介護をしていた身からすると、見て見ぬふりをしていてほしかったな、と思います」

KEIKOは大好きだった音楽にも興味をなくしてしまったという。再び歌手として歌うことを望ん

でいた小室には、寂しすぎる状況だ。

「彼女本人には、そういった愚痴を言えるはずはないし、以前のような会話もままならない。ど

こかに救いを求めたくなるのはわかります」

岩本が自分を保っていられたのは、介護を助けてくれる存在があったからだ。

何が「救い」になったのか

「介護の大変さをわかってくれる、2つ上の姉がいたんです。一緒に子どもを可愛がってくれて

、妻の入院中に世話を手伝ってくれたりしました。

妻が入院している間は、病院からの帰り道に毎日のように電話して、愚痴を聞いてもらいました

。子どもには聞かせられないような話を姉に聞いてもらうことで、ガス抜きができていた気が

します」

小室は2年前、自らもC型肝炎になっていることを知った。闘病しながら介護を続けるうちに、

弱気になってしまったのだろうか。

「僕が小室さんに共感しすぎて美化してしまっているのかもしれません。でも行動はともかく、

僕は小室さんの気持ちがわかります。

僕の場合は夫婦だった思い出や子どもたちのため、という思いを一生懸命、集めて“自分がかつ

て愛した奥さんではない状態の妻”と向き合っていました。でも、そうするほかない状況だっ

たんです」

KEIKOは、小学4年生の漢字ドリルが楽しいようだ、と小室は話した。大人の女性としてのコミ

ュニケーションはできない。3年ほど前から疲れ果ててしまっていたという小室の告白に、岩本

は共感したという。

「今まで妻だった人が僕の奥さんではなくなるし、子どものお母さんでもなくなってしまう。何

ものでもない存在になってしまうんです。

それほど関係性が変わってしまうので、当たり前の“夫婦”でいることはとても難しいんですよ」

岩本は、姉の支えや子どもの存在があったから、平静でいられた。

前出の露木氏はこう語る。

「介護をしていると、相手に優しくなれない自分を追い詰めてしまうことがあります。万が一、

介護しているパートナーとうまくいかなくても、介護は誰かが継続します。だから、思い詰め

すぎないでほしいものですね」

小室の行為が誤解を招いたことは確かだが、彼は想像もできないほどの孤独と闘っていたのかも

しれない。