東京人作家が描いた「宝島」が直木賞に!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

真藤さん この度の直木賞に選ばれた「宝島」の作家

社会派の作品が選ばれたことには驚きを禁じ得ない。

東京育ちであるにもかかわらず日本人として沖縄に関心を寄せてほしいとの

強いお気持ちも作品に胸熱く織り込まれてもいます。

宝島を書き進めるにあたり、思いの表現に胸つまり書き進める

ことができなかったとも語られています。

アメリカと日本のふたつの国からどんな理不尽な目にあっても、裏切られても、打ちの

めされても、故郷を愛し沖縄人としての魂を守りぬいた彼らの物語に、心をかき乱され

苦しめられながらも熱く熱く胸を打たれた。戦後から本土に返還されるまでの沖縄で本

当は何があったのか。もちろんそれだけではなく「戦果」の謎解きで物語としてもの面

白さもある。沖縄返還当時はまだ子供だった遠く離れた本土に住む私にとっての記憶と

は見えてくる風景も色彩も全く違った沖縄を知った。直木賞受賞も納得の良書。。

沖縄の芥川賞作家が、普天間問題にも関心を寄せ自ら

基地問題とかかわり続けておられる

熱い作家もおられます。

【海なりの島から】のブログを配信されておられます。

海鳴りの島から

今や沖縄には政治は届かないのか?

https://blog.goo.ne.jp/awamori777

真藤さん直木賞 文学で直視する「

      東京新聞からの引用です。沖縄」 (1月19日)

 沖縄の戦後を描いた小説「宝島」が直木賞に決まった。東京出身ながら「沖縄問題」

を直視し、日本人全員が自らのこととして捉えるべきだと説く作者の真藤順丈(しんど

うじゅんじょう)さん。受賞を祝福したい。

 物語は戦後の一九五二年、米軍統治下の沖縄を舞台に始まる。主人公は、生きるため

に米軍基地から物資を奪う孤児たち。ある時、リーダーがいなくなり、残された三人は

警官や教師、テロリストとして別々の人生を歩み始める。

 三人が織りなす鮮烈な青春の群像。その行動と心情を、時には霊媒師のように、時に

は「島唄」のように伝える語りの巧みさ。

 文芸評論家の清水良典さんが「戦後沖縄を描く社会派小説の構えでありながら、神話

叙事詩のような格調を帯びる」と評する通り、これから読む人には沖縄への先入観を

排し、まずは文芸作品としての魅力を味わってほしい。

 しかしながらやはり、本作の真価は、沖縄の戦後史を真正面から見すえる点にあると

いえよう。

 教師になった主役の一人が勤め先で遭遇する米軍機の墜落と子どもたちの悲惨な焼死

は、一九五九年に実際に起きた宮森小学校米軍機墜落事故が下敷き。また米兵による六

歳女児の暴行殺害事件(五五年)や、米軍基地の毒ガス漏れとその隠蔽(いんぺい)(

六九年)など沖縄の辛酸を象徴する史実が、主役たちの人生にからめて詳述される。

 作中の人物が憤るのは、米国に沖縄を差し出して「追従を重ねるだけの日本(ヤマト

ゥ)」だ。「沖縄問題」とは実は「日本の問題」なのだと気づかされる読者もいるだろ

う。

 「沖縄にルーツを持たないことに葛藤があり、途中で書けなくなった」と振り返りつ

つ「批判が出たら矢面に立とうと覚悟を決め、全身全霊で小説にした」と語る真藤さん

。熱意が実っての受賞だ。これを機に、沖縄の出身ではなくともその歴史と現状に目を

向ける作家や表現者が続いてほしい。

 また、本作を読んだ人はこれを機に、いずれも芥川賞受賞者の大城立裕、又吉栄喜

目取真俊の三氏ら沖縄の作家の創作も読んでみてはいかがだろう。

 特に目取真氏はカヌーで辺野古(名護市)の海に出て、埋め立て工事に体を張って抗

議している。自身のブログ「海鳴りの島から」は、住民の反対を圧殺する政府への鋭い

批判に満ちている。沖縄戦の死者をめぐる「水滴」など優れた小説と合わせ、現実と格

闘する作家の精神に触れてみてほしい。

沖縄は沖縄県民だけの問題にされてはなりません。

   わが心のエッセンス。

万策尽きたと思うな。

自ら断崖絶壁の淵にたて。

その時はじめて新たなる風は必ず吹く。

     デフレ脱却はだんだん遠くなる!

      ご機嫌いかがでしょうか。 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今の社会においてインフレーションの経験者は

どれほどおらりょうか。

それほど長い間経済の健全なる成長を体験できていない。

 景気の拡大は最長ともいわれますがどれほどの人が

享受できているのであろうか?

黒田日銀になってデフレ脱却は足踏み いや遠のいているのかもしれません。

今年度は潜在成長率(年率プラス1.0%)を上回り、マイナスのギャップを解消できるか

どうかは不透明である。また、2019年度は世界経済の成長鈍化による外需の低迷、消費

税率引き上げによる消費下押しなどが想定され、潜在成長率を下回る可能性が高い。

社会福祉にも安心安全が期待できない今の政策が

継続されることが想定されるなら

少しでも老後対策にと、我が財布まで締まり気味!

ないない貯金にまで拍車が掛かろうというもの!

「デフレ脱却宣言」は「4つの指標」から絶望的 -

https://toyokeizai.net/articles/-/260177

デフレってなに?物価が下がって何が悪いの?

欧米が次々に金融緩和縮小の動きを見せるなか、日本は未だに大規模な

金融緩和が続けられています。 アメリカは慎重ではありましたが着実に

利上げを続け、

4月まで2か月続けて物価上昇率が2%に達したこと、トランプ大統領の大

型減税の効果で

景気が目に見えて回復しており、利上げも加速するのではと言われてい

ます。 欧州で…

 

www.keizai-arekore.com

そのため、このデフレの兆候やデフレそのものが発生すると国はお金の流通量を増やす

ことによって(金融緩和)お金の価値を下げ、賃金の上昇、物価の上昇をさせようとし

ます。

この金融緩和によってリーマンショック以降停滞気味であった経済が正常化しつつあり

ます。アメリカでは慎重ながらも着実に利上げが行われ、ヨーロッパの緩和の縮小ムー

ドが進んでいます。

これは長年金融緩和を行った成果と言えるでしょう。

ところが

この流れに取り残されている国があります。それが日本です。日本も欧米と同じように

金融緩和を長年行ってきました。2013年に黒田東彦さんが日銀の総裁になるといままで

より倍近いお金を流通させる異次元の金融緩和まで行っているのにも関わらずです。

他国より強力な金融緩和を行っているにも関わらずなぜ日本はデフレを脱却できない、

どころかその糸口すらつかめずにいるのでしょうか。今日は日本のデフレについて考え

ていこうと思います。

日本のデフレは過去に例がない

もう日本人のほとんどが忘れかけているリーマンショックですがこれは実に大変なもの

でした。

このリーマンショックで世界の投資熱が冷める、つまり投資する、お金を使うよりお金

を守る(リスクオフ)の流れが世界中で広まり、世界的にお金の価値がぐんぐんあがり

、世界的なデフレが発生しました。これによって先進国の金利はほぼ0になりここから世

界のデフレとの戦いが始まったわけです。

そして現在2018年、ようやく抜け出せそうな気配になってきたわけです。ここまで約10

年。あの世界恐慌と同じ期間です。

いかに大変なことだったかわかると思います。

しかし実をいうと日本はそのはるか昔からデフレと戦っていたんです

だってみなさん。日本が好景気だって話聞いたことありますか?ドラマを見てもニュー

スを見ても近所の噂話を聞いても「今は不景気だから」

こればかりです。

日本はバブル以降好景気を経験してないのです

言い換えるとバブルが崩壊してから日本はずっとデフレなわけです。

日本のバブルがはじけたのは1991年のことですのでここから考えると実に四半世紀以上

日本はデフレが続いていることになります。

こんなことは世界を見渡しても例がないのです。そしてこれだけ続いたデフレ効果によ

って通常のデフレでは起こらない問題が起きていてその問題こそが日本がデフレを脱却

できない要因となっているのです。

物価の上昇に慣れていない

1991年と言えば私はまだよちよち歩きの時です。経済の「け」の字すら知らない時です

。バブルを楽しんだ世代はどんどん高齢化し、いなくなっていっているわけです。

つまり今の社会人は物価の上昇、インフレを経験していない人が多いということです。

四半世紀もの長期的なデフレから日本の今の大企業はデフレありきで成長してきました

。通常、商売は安く仕入れて(作って)高く売るが基本です。

しかし日本はデフレが慢性的でしたのでこのセオリーは通用せず、成功できたのは高い

ものを安く売れた人たちでした。

質のいいものをいかに安く売るか。こんなことを考えるのは実は日本人くらいです。先

ほど言ったように商売のセオリーは安く仕入れて(作って)高く売る。質のいいものな

らなおさらどれだけ高く売れるかを考えるものです。

より安く、より安く。すっかりデフレに浸りきった日本人はこの考えが染みついていま

す。そんな今の日本社会で物価が上がったからと言ってすぐに値段を上げたらどうなる

でしょうか。誰も買わなくなってしまいます。

これのいい例が1998年のマクドナルドです。

当時急激に進んだ円高の影響で日本は物を安く海外から買える状態にありました。つま

り円の価値が急速に上がる、デフレが大きく進行している時期です。

そこに目を付けたマクドナルドは当時120円程度だったハンバーガーを半額の60円程度ま

で値下げし、ハンバーガーは飛ぶように売れました。

しかし、急激に進んだ円高が一服し、円安が始まると材料を今までのように安く仕入

ることが出来なくなり、半額で売ると赤字になってしまいます。そのため値上げ、とい

うより価格を戻そうとしたわけですが値上げしたことによって売り上げは激減しました

不思議なことに価格を下げる前、120円で売っていた時よりも売り上げが落ちてしまった

のです。

原価が上がったので商品の値が上がる。これは至極当然のことなのですがデフレに慣れ

てしまった日本人は「値上げ」を親の仇のように扱います。例え物価が上がっても安く

提供し続けるとここそが優良企業という歪んだ考えが定着してしまっているところがデ

フレ脱却の重い足かせになっているのです。

「おばあちゃんの手みたい」と悩む

方が使ってみた、特殊ハンド…

北の快適工房

収入が増えても消費に回さない

私たち世代は物心ついたころからずっとデフレです。好景気なんておとぎ話としか思っ

てません。

そんな私たちには一時的に景気が上向いても「どうせまた下がるんでしょ?」という思

いがどこかにあるものです。

そのため、お金が増えてもお金を消費せず貯蓄する傾向が強いのです。なのでお金の流

通量が増え、企業業績が改善しても社員への還元や設備投資というよりも有事に備え貯

めこむ企業が多いのです。

日本企業のROEの低さが時折取りだたされますが、それは長期のデフレを経験しているこ

とが大きな理由だと思っています。

また、ベースアップ、ボーナスのアップなどで社員の給料が増えてもバブル崩壊を経験

した両親に育てられた悟り世代は無駄遣いせず貯蓄する傾向があるのです。

これでは社会人の貯蓄額が増えるだけでお金の流れは個人口座でせき止められ、お金が

流通しません。

これでは物は売れませんから物価が上昇しないわけです。

まとめ

これが日本が世界と同じように金融緩和を行ってもデフレを脱却できない理由です。

日本は長きにわたりデフレを経験し過ぎました。お金はとっても大事なもので無駄遣い

をするのは悪いことだし、お金がたくさん入ったからといってすぐ使ってしまう人はダ

メな人というふうに教え込まれています。

私の母なんかは団塊の世代ですのでお金を使うことが社会のためになるということをい

くら説明してもわかってもらえません。

もはや洗脳されているのでは思うほどです(笑)

お金は使ってこそ役に立つ。使いもしないお金を大量に塞き止めておくことは経済にと

っては悪影響なのです。

金は肥料のようなものだ。

ばらまけば役に立つが、

一ヶ所に積んでおくと

ひどい臭いがしてくる。

     今日の一言。

   人生あればこそ

「人生は恐れなければ、とても素晴らしいもの。人生に必要なもの。それは勇気と想像

力、そして少しのお金です。」

 今日のもたらすご縁に感謝できたなら♪

    仮面女子、「まさか」からの再出発。

     ご機嫌いかがでしょうか。

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 まだ記憶に新しい自民党の元幹事長

谷垣貞一その人が趣味としていた

自転車事故で頚髄損傷を発症されました。

日本の政界にとってまだまだ不可欠のお人柄でもあった。

その人があったなら阿部暴走も

ぶれーきにもなっていたはず??

ロシア問題の独走も日本そのものの歴史観まで変えようとしています。

 スプーンで食べることもできなかった現実をどう受け入れ

どう前向きに歩をすすめておられるのだろうか?

 愛妻家でもあった奥さんを亡くされたばかりの出来事に

神様の無常を突き付けられたかのような思い出もあった。

 どのような人でも思いがけない事故はどこにでもある。

受容しなければ明日はない。

誰も手を伸べてくれることなどない。

せきそんのけあーもたいへん!

きれいごとだけでは語れない現実が立ちはだかっています。

どうか生き抜くためのランドマークを見つけ

ひたすらそれに向かいたいものです。

 老いることだってそうです。

できないことばかりを数えていたなら

両手があっても足りはしません。

 できないことに終始することなく工夫あればこそと奮起したい。

人に頼ればずるずるできないことばかりで埋め尽くされてしまう。 

     東洋経済からの引用。【負けるもんか】ステージに挑む姿、誰かの勇気にな

る 事故で車いすに    アイドル「仮面女子… (2019年01月13日)

 想像もしていなかった。平成30年4月11日午後1時過ぎ。東京・秋葉原の劇場に

向かって文京区の湯島聖堂脇を歩いていたときだった。この日は都心で最大瞬間風速2

3・2メートルを観測するなど、強風が吹き荒れていた。

 風に逆らうように進んでいる頭の上から、影が迫ってきた。聖堂の縦2・8メートル

、横3・5メートルもある木製案内板が、自分に向かって倒れ込んできた。避ける間な

どなかった。

 痛みは感じず、ただただ苦しかった。「どうなっちゃうんだろう」。誰かが呼んだ救

急車のサイレンが近づいてきた。

 運び込まれた病院で医師から「脊髄が損傷している。足の感覚がどれだけ戻るかは個

人差がある」と言われたが、頭には入ってこなかった。痛み止めの副作用もあり、吐き

気や体のだるさにさいなまれ、自分と向き合う時間はなかった。

 体調が回復してくるにつれ、自分でも脊髄の損傷がどんな意味を持つか、インターネ

ットで調べるようになった。「歩けなくなる」と書いてあることも多かったが、「奇跡

的に回復した」という書き込みもあった。「どこか人ごとのような、深刻に捉えられず

に自分は『大丈夫、治るんだ』と思い込んでいた」

 見舞いに来た両親や兄、姉とも話をした。治ったらあんなことがしたい、こんなこと

がしたい。元通り動けるようになることを前提に希望を口にしたとき、家族の表情に、

ほんの少しだけいつもと違う気遣いを感じた。

 その違和感は徐々に蓄積されていった。「治らない可能性が高いの?」。意を決して

家族に尋ねた。「うん」。言いにくそうな答えが返ってきた。

 ■ ■ ■

 アイドルになりたいと思ったのは、小学生の頃。テレビで活躍する「モーニング娘。

」に憧れた。ただ成長するにつれ、「そうは言ってもなれるものじゃない」と、考える

ことをやめていた。

 再燃したのは、人生の壁にぶつかった就職活動のときだ。専門学校で栄養士などの資

格を取ったが、就職したかった小学校には行けなかった。思い出したのは子供の自分。

「アイドルになろう」。仮面女子の門をたたいた。

 26年5月から芸能活動を始め、下積みを続けながら29年2月、仮面女子の一員に

なった。ようやくつかんだチャンス。これからというときに事故は起きた。「なんで私

なの」。嘆いても答えはなかった。

 仮面女子はライブパフォーマンスを楽しみにしているファンが多い。「踊れなくなっ

た自分に需要があるのか」。所属事務所は支援を申し出てくれたが、自問自答は続いた

 心が暗くなったときに思いをぶつけるように書き込んだノートは、どんどん進んでい

った。絶望の中でも不思議と「仮面女子を続けたい」という思いは変わらなかった。

 昨年5月7日、自身のブログを約1カ月ぶりに更新し現状を告げた。ファンがどう思

うか、不安は尽きなかったが、ブログのコメント欄は応援メッセージであふれた。

 事故で初めて知ったという人や、同じような境遇にある人からも次々にメッセージが

届いた。《勇気づけられました》《ずっと応援します》。海外から英語のメッセージも

あった。

 「車いすでも誰かの希望になれるよ」。家族の言葉が後押しした。「またステージで

踊りたい」。退院したら作詞をしたい、大好きな野球に関わる仕事をしたいと、自分に

できることは何なのか、考えてはノートに書き連ねた。

 ■ ■ ■

 8月26日、退院を待たずに活動を再開し、リハビリを続けながらできる限りステー

ジに立った。応援、喝采、全てが力になった。

 新たな視点も加わった。

 自動改札機の狭さ、事故に遭うまで気づかなかった街中の少しの坂、段差…。狭い廊

下では、方向を変えるのも簡単ではない。「車いすで引き戸を開けるのがこんなに大変

だなんて」

 だから、こうした現状を伝えようと、講演活動にも挑戦する。競技は決まっていない

が、来年の東京パラリンピック出場も目指そうと思うようになった。

 「突然の不幸があると、下を向いてふさぎ込んでしまうと思う。私が活動することで

誰かの勇気になるなら、いろんなことに挑戦していきたい」。その目に強い光が宿った

。(橋本昌宗)

 いがり・ともか 平成3年12月9日、埼玉県生まれ、27歳。専門学校卒業後の2

6年5月、アイドル活動を始め、29年2月に仮面女子に。30年4月に強風で飛来し

た案内板の下敷きになり、両下肢まひになったが、8月に復帰を宣言。車いすでのライ

ブパフォーマンスや、各地での講演なども行い、32年の東京パラリンピック出場も目

指している。子供の頃からプロ野球埼玉西武ライオンズのファンで、球場でビールの

売り子や売店の販売員などアルバイトをしていたこともある。

    ◇

 平成がまもなく終わりを告げる。何かにつまずき、転びながらも、立ち上がって前に

進もうとしている人たちから、新しい時代を生き抜く知恵を探る。=随時掲載

     ほらどこからか、聞こえてきそう  「日本昔話」

   

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 市原さんと言えばドラマなどの想像性をはるかに超える

キャラクタの持ち主でモラルジーの世界観はまるで宇宙空間そのもの!

日本昔話はそのナレーターを聞くだけで

昔話の物語の中にいつしか自分までも同化するほどの

ナレーションに好感をもたれた人も多かったはず!

凡人には計り知れない世界観でもあります。

 敗戦の混乱期を体験された故の戦争に対する思いは孤児のお話の読み聞かせなどを通

してその悲惨さをライフワークとして伝え続けてこられた朗読奉仕者でもありました。

 もっと前から市原さんのブログを知っていたならと

残念に思えるみこちゃんでもあります。     中国新聞よりの引用です。

市原悦子さんの問い掛け

2019/1/16 テレビの「まんが日本昔ばなし」で慣れ親しんだあの声だ。うれしくなって

思わず取材の手が止まる。だがその声が鬼気迫るものになると聞き手は一気に空襲によ

る劫火(ごうか)の世界に引き込まれる

かつて市原悦子さんの講演を聞いたときのことである。悲報を受け、当時の臨場感がよ

みがえってきた。講演の主題は市原さんの役者人生だったと記憶するが、そちらは正直

あまり思い出せない。市原さんもそれは織り込み済みだったかもしれない

昔話のゆったりとした語りや、ドラマでのコミカルな役どころでお茶の間を楽しませて

きた。その傍ら、ライフワークとして、戦争の記憶を後世につなぐ朗読活動を30年以

上も続けていたのだから

原点には空襲や疎開を体験した少女時代があるようだ。いたいけな命を奪う戦争には黙

っておられなかったのだろう。あまんきみこさんの「ちいちゃんのかげおくり」といっ

た子どもを描いた物語を好んで読んでいた

ちいちゃんがどうして死ななきゃならなかったのか。著書には、朗読を通して伝えたい

こととして次代へそんな問い掛けを残していた。私たちは答えを考え続けなければ。戦

争の記憶を「昔ばなし」にしないために。

やる気という枯渇性天然資源のマネジメント - 市原えつこ 公式ブログ

http://blog.etsuko-ichihara.com/post-856

     本日のスタートメニュー。

 牡丹餅三つ、豆腐、上げねぎの味噌汁こうや シイタケ ひりょう図の炊き合わせ  ぶっろっこりーの胡麻図和え

リンゴ、ヨーグルト

 心のひとさじは【柔軟性あればいつまでも若くいられるのでは・・・

。】

どうか穏やかなひと日でありますように・・・。

 足るを知る日々の営み

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 「あなたのリードが好き」と語る野村克也

なんとびっくり感心しきりでもありました。

 人生のマネージメントまで「サッチーでよかった」と

野村さんの本の中で語られていました。

監督の幼少期のころ父が亡くなり

父を奥様に求めていたともいわれていました。

 女らしいことはしてもらわれていなくても

夫婦に漂う空気感が監督にはちょうどほどよいやすらぎの場であったのだろうか?

恐れ入りましたとの一語に尽きます。

幸せであればそれでよい。

                                       

 【何もできない夫が妻に先立たれたら」の本の

一説にこの詩が乗っていて「なるほどがってん」させられた詩です。

人生はかくあるべきと思っています。上所重助さんの詩です。夏が来ると「冬がいい」

と言う

冬が来ると「夏がいい」と言う

太ると「痩せたい」と言い

痩せると「太りたい」と言う

忙しいと「暇になりたい」と言い

暇になると「忙しい方がいい」と言う

自分に都合のいい人は「善い人だ」と言い

自分に都合が悪くなると「悪い人だ」と言う

借りた傘も 雨が上がれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる

所帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満の明け暮れ

隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか

静かに考えてみるがよい

一体自分とは何なのか

親のおかげ

先生のおかげ

世間様のおかげの固まりが自分ではないか

つまらぬ自我妄執を捨てて

得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

「俺が」、「俺が」を捨てて

「おかげさまで」、「おかげさまで」と暮らしたい

     本日のスタートメニュー。

鮭と梅のおにぎり三つ、豆腐わかめねぎの味噌汁

おでん 小松菜の煮びたし

デコポン ヨーグルト

    今日のひと日少しでも幸せ感じる時でありたいもの。

ヘレンの格言。

もしも、この世が喜びばかりなら、

人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう。

   

   メモ人生は我が身を磨く宝。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 いつ何時だってメモることの大切さは仕事を

してきた人にとっては必要アイテムです。

 たとえテレビを見ていて記憶に止めおきたいことなども

メモを習慣にしたいものだ。

 ばばメモも、一日の作業効率までもわかろうというもの!

これも脳トレ化も!

病気年齢が女性で12年平均とか。

一年でも多く健康年齢でいたいものです。

近頃ではそこに置いたものさえ忘れるのは当たり前。

これもあの世に分割して送られているのかもしれませんね「トホホ」

メモルだけで気持ちがシャキッとします。

仕事等の依頼を受けた時やアイディアを思いついた時、あと回しにせず、まずはその場

でメモを取る習慣を付けたいものです。そのためには、デスクの上にメモとペンがすぐ

に取り出せるように、まだ移動中でもすぐにメモとペンが取り出せるようにしておく、

という工夫も必要となります。

 報告書を作成する際も、メモ一つあるのとないのとでは、その作成時間に大きな差が

生じます。メモがあることで報告書作成のヒントが得られるため、業務効率アップのた

めにも、必要不可欠の存在と言えます。

 中には暗記力に自信がある方もおられるでしょうが、相手を安心させるという観点、

またその後の業務効率を考えれば、どんな時でもメモは必ず取るようにするのがオスス

メです。どんな時でもスグにメモが取れるように、日ごろから準備はしておきたいもの

ですね。

野村克也「メモを取る習慣が弱者を強くする」 -

メモによって一軍定着かつて私が著した『野村ノート』(小学館)は、50年にわたる野

球界での生活の中で蓄積してきた私なりの考えを1冊にまとめたものだ。実はこの本のベ

ースとなったのが、現役時代から私が毎日のようにつけてきたいくつもの「メモ」であ

る。

京都の峰山高校から契約金なしのテスト生として南海ホークスに入団したのが1954(昭

和29)年のこと。プロ1年目は代打などで9試合に出場したものの11打席ノーヒットに終

わり、2年目も一軍に上がれないままファーム暮らしで終わってしまった。

「来年こそクビになるのでは?」そんな不安をつねに抱えていたが、努力だけは怠らな

かった。試行錯誤を続けながらほかの選手の3倍、いや4倍は努力していたと思う。その

結果、私はプロ3年目にしてようやく一軍に定着することができた。

私がメモを取るようになったのはちょうどこの頃のことだ。

メモを取るようになったのは誰かの助言などがあったからではなく、あくまでも自主的

に始めたものだった。私は頭が悪いうえに、人一倍不器用である。そんな私が相手チー

ムの打者や投手の情報を頭に入れ、攻略の糸口を見つけていくにはメモを取るしか方法

がなかった。そんなわけで、生きていくうえで必要だったから、私は自然とメモを取る

ようになったのである。

ロッカールームなどで私が始終メモをつけているものだから、周囲の人たちは私を「メ

モ魔」と呼んだ。メモしていたのは、主に相手打者の特徴(長所・短所)である。試合

のあった日はロッカールームや帰りの移動バスの中で、その日対戦した打者の対戦結果

をひもときながら、その打者の長所(好きな球種、コースなど)や短所(苦手な球種、

コースなど)を記していった。なぜヒットを打たれたのか、あるいは抑えることができ

たのかを考え、それらを克明にメモし、家に帰ってからそれらをノートにまとめた。

人間とは不思議なもので、1晩経つと前の日にあった細かいことのほとんどは忘れてしま

っている。私の場合、1試合マスクを被れば、どんなに少なくても約30回は相手打者と対

戦するわけで、その1打席1打席、1球1球を毎日脳に記憶し続けることなど到底不可能で

ある。だから私は、その日あったことはその日のうちに必ずメモするようにしていた。

夜中、メモを書き記しているうちにゲーム中の興奮がよみがえって眠れなくなってしま

い、気がつけば夜が白々と明けていたなどということもしょっちゅうだった。

毎日毎日、ちょっとずつメモを取っていく。これは実に地道な作業であり、根気を要す

ることだ。でも、こういった小さな積み重ねがあったからこそ、私は後に選手として301

7試合に出場することができ(日本プロ野球史上2位)、さらに監督として通算1565勝(

同5位)という成績を収めることができた。

メモは学びの宝庫だ

3年目に一軍に定着してからというもの、私はシーズン中はメモを取り続け、就寝前にノ

ートにまとめ、その積み重ねによって正捕手の座を獲得することができた。しばらく経

ってから以前書いたメモを読み返してみると、「あ、こんなことがあったのか」とか「

この時の自分はこんなことを考えていたのか」などと改めて気づくこと、反省すること

が出てきたりするから、そういった意味でもメモは「学びの宝庫」であるといえるだろ

う。

思えば学生時代、授業中に取っていたノートこそ、学びの原点である。私はそれほど優

秀な生徒ではなかったので、ノートをこまめに取るようなタイプでは決してなかった。

でも、大人になり、プロの世界に入ってから始めた「メモを取る」という作業はさほど

苦ではなかったし、メモを取れば取るほどその大切さを思い知った。

メモが学びの宝庫であることは、キリスト教の『新約聖書』や儒家の祖である孔子の残

した『論語』といった、先人たちが残してきた偉大な書物を見ても明らかである。『新

約聖書』は、イエス・キリストが布教活動の中で発した言葉を弟子たちが一冊の本にま

とめたものであるし、『論語』も孔子がその弟子たちと交わした問答が記録されている

。『新約聖書』は2000年、『論語』は2500年の歳月を経てもなお、人々の間で読み継が

れているのだから、私はその事実を目の前にして、メモの大切さを改めて思い知るとと

もに、メモが学びとなり、人を育てるのだと確信している。

現役時代、ほぼ毎日メモを取り続けていた私だが、ではいったいどのようなメモを取っ

ていたのか、ここで具体的にご紹介したいと思う。

先述したように私がメモしていたのは主に相手打者の長所、短所、そして投手のクセと

いったものである。とくに「投手のクセ」は短期間で変わる(その投手がクセを見破ら

れていることを察し、フォームを変える)ことが多く、メモを見直してはその都度、変

更点を書き込むようにしていた。

ある投手のクセとして当時の私はこんなことを書いている。

ワインドアップで帽子のマークが見えないとストレート、見えるとカーブ。

ワインドアップとは、投手が投球動作に入る前に両腕を頭の上に掲げるフォームのこと

で、この時、ボールの握り方によって両腕の開き具合にちょっとした差が出る。私はそ

ういった投手のクセに気づくたび、メモを取るようにしていた。ちなみにその投手に関

しては後日、メモに赤字で「ワインドアップでのクセは修正されている」と記している

。このように私は投手のクセの変化を見逃さないよう、つねに細心の注意を払って観察

し、新しい情報を得るとすぐに書き直していた。

投手のクセはフォーム以外にも、捕手の出したサインにうなずくときの「うなずき方」

などにも表れた。元読売巨人軍西本聖投手は切れ味鋭いシュートで打者を打ち取る好

投手だったが、その球種に人一倍自信があるものだから捕手がシュートのサインを出す

といつも以上に深くうなずくことが多かった。

プロセスを大事にする人はメモを残す

投手によっては自分が不得意な球種、あるいはその日の調子がイマイチな球種を要求さ

れた際に「自信のなさそうなうなずき方(あいまいなうなずき方)」をする投手もいた

。私は肉体的な変化に加え、そういった「投手の性格」も把握しながらクセを見抜くよ

うにし、それを毎日メモしていた。

手前みそだが、私は投手のこうしたさまざまなクセを見破るすべに長けていたのだと思

う。だからこそ、戦後初の三冠王や通算本塁打657本、通算安打数2901本(ともに歴代2

位)という好成績を収めることができたのだろう。

ヤクルトスワローズで監督をしていた時の正捕手の古田敦也、さらに楽天イーグルス

代の正捕手・嶋基宏、この2人に私はいつもベンチで語りかけていた。守備から帰ってき

た彼らに対し、「あの時投げさせた球種、コースの根拠は何や?」と。

捕手が配球を考えるとき、選択肢は大きく分けると次の形になる。

・高めか??低めか?

・ストレートか??変化球か?

・ストライクか??ボールか?

捕手が「投手に何を投げさせるか?」を考えるのは、これらを組み合わせた16種である

。ゲームはいま何イニング目か??点差は??ボールカウントは??アウトカウントは??

さらにその打者は前の打席でどのような対応をしたか??あるいは前の投球にどのように

対応したか??ベンチからのサインは??捕手はそういったことをすべて考慮したうえで

、投手に「次はこのボール」とサインを出すわけで、そこには確かな根拠がなければな

らない。

だから私が古田や嶋にその根拠を問うたとき、彼らが「直感で……」とか「何となく…

…」というような返答をしてきたときには「何を言っとるんだ!」と叱りつけることも

たびたびあった。

結果よりもプロセスが大事

私は現役時代から捕手としてつねに「結果よりもプロセスが大事」と思ってやってきた

。適当に出したサインで相手打者を抑えたとしても、次に生かすことのできない根拠な

き配球では何の意味も持たない。根拠のある配球なら、たとえ打たれたとしてもその失

敗を次に生かすことができる。

これは野球に限らず、いろいろな仕事においても同じことが言えるのではないだろうか

。「結果を出せば何をしてもいい」とばかりに仕事をしていても、そのような適当なや

り方では長く結果を残し続けることは決してできない。

プロセスを大切にしたいなら、常日頃から「〇〇とは?」と問題意識を持って考え、自

分なりの答えをメモし続けることが重要である。

毎日、何でもいい。「この仕事の意味は?」「利益を上げるには?」「どうやったら相

手に喜んでもらえるか?」そういったことを問い続け、自分なりの答えをメモしてみた

らどうだろう。同じ質問でも、時が経てば答えが変わることもある。その変化を「自分

の成長」として確認できるのも、メモの大きな利点といえよう。

長く結果を出し続けている人、あるいは社会から評価される成功者たちは皆つねに「〇

〇とは?」と根拠を問い続けている。皆さんにもぜひ、そんな「プロセスを大切にする

生き方」をして             ほしい。

     アライグマ、名古屋の都会におお邪魔!!

       ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 名古屋においてあらいぐまがしつぼつ!

なんとそれも町の中心地で猫ちゃんのキャットフードの感を開けて

失敬するなんてびっくり仰天!

聞けばアライグマは手をこするような動作でもあり、手が非常にきようとか?

また家の屋根裏を居住地にもするとか?

家のものが気が付くのは、アライグマのふんだめが原因とか?

 みこちゃん地区も、動物にもはや接見されてもいます。

統治においてはイノシシを見かけただけで皆我が家に大急ぎで

走りこみます。

 今ではえさを求めて動物たちも山から里にと生活エリアを

移動しています。

 まるで今では人間が折に入る時代となりました。見

生態系を破壊する恐れもあったために、外来生物法により「特定外来生物」に指定され

ています。

現在ではアライグマの飼育・譲渡・輸入は禁止されています。

アライグマの大きさや特徴は?

アライグマ

大きさ

140cm

生息地によって体の大きさには差がありますが、全長140cm、体重28kgが標準的なアライ

グマの大きさです。体重は個体によって2~14kg程の幅がありますよ。

体はオスの方がメスよりも10~30%ほど大きく、動物園など飼育下のアライグマは大きく

なりやすい傾向がありますよ。

毛は長いです。背面の毛色は銀色で、淡い茶色などがところどころ混ざっています。お

なかは灰色で、目のまわりから口にかけては黒く、鼻面やあごは白っぽいです、一見す

るとタヌキのような外見をしていますよ。

しっぽには黒い輪の模様が数本みられることも特徴の1つです。アライグマは「蹠行性(

しょこうせい)」で、クマのようにかかとをつけて歩きますよ。

アライグマの生態は?

アライグマ

生態

器用な手先

雑食性

タメ糞

アライグマの生態は大きく分けて「雑食性」「器用な手先」「タメ糞」の3つです。

器用な手先

学習能力が高く、手先が器用なアライグマ。前足で物を洗うような動作をすることから

名前がついており、英語ではraccoon(手を擦り合わせる)ことからこの名前がついたそう

です。

ただ近年研究家の間で、野性のアライグマはこの洗う動作をせず人間社会で飼われてい

るアライグマ特有の動作ということが判明しています。

雑食性

アライグマは雑食性で、両生類、爬虫類、魚類、鳥類(卵)、哺乳類、昆虫類、 甲殻類

、その他の無脊椎動物、植物(果実など)と食性が非常に幅広いです。器用に指を使っ

て獲物を捕獲し、そのまま二本脚で巣へと戻ります。

また甘いものが大好きで、農業被害ではミカン、カキ、ブドウ、ナシなどの果物やスイ

ートコーン、スイカミニトマトなどがよく報告されています。

タメ糞

アライグマ排泄は一定の場所にする「タメ糞」と呼ばれる習性があり、悪臭を放つこと

で有名です。

これに対しアライグマと似ているといわれる「ハクビシン」はあまり臭いがしないので

、区別するポイントとなります。

被害件数の多い「問題児」

アライグマ

可愛らしい見た目とは裏腹に、人間界には被害も及ぼしているアライグマ。

野生のアライグマを見かけた際は、感染症などの危険もありますので近づかないことを

おすすめします。特に成長したアライグマは狂暴化するといわれていますので気をつけ

てくださいね。

アライグマ、名古屋の中心に出没 野生化したはずなのに

 野生化したとみられるアライグマが11月以降、名古屋市中心部で目撃されるように

なった。1990年代以降、主に市周辺部で生息していたアライグマの一部が流れ込ん

できたようだ。愛くるしい外見とは裏腹に、様々なトラブルのもとになっている。

 11月24日、愛知県警に市立白山中学校(中区)の西側で「2匹のアライグマが猫

のえさを食べている」という通報があった。付近は飲食店が多くある繁華街の一角だ。

30日夜~12月3日にも、学校近くの建設会社から猫用のえさが持ちさられた。アラ

イグマがえさ保管用の缶のふたをあけて、15個以上あった袋詰めのえさを持ち去った

とみられる。女性従業員は「何往復もして持っていちゃったのかしら。缶のふたを開け

るなんて器用ね」と驚いていた。

 その後、同区新栄1丁目で少なくとも4匹のアライグマが確認された。

 市は4日から、目撃情報が寄せられたビルや公園など4カ所に計10個のわなを仕掛

けた。翌朝にはこの建設会社に置いたわなで、アライグマのメス(体重約5・8キロ)

1匹を捕らえた。

 名古屋市では90年代になってアライグマの目撃情報が寄せられるようになった。水

辺を好むことから、当初は庄内川沿いなどで見られ、畑の農作物を荒らすといった被害

が多かった。2000年代に市中心部で「池のコイが食べられた」「洗濯物が盗まれた

」といった相談がくるようになったという。人が多く住み、生活ゴミなどの多い中心部

に徐々に移動していったとみられる。

 環境省によると、アライグマは雑食で、湿地や農耕地のほか、住宅地など多様な環境

に適応でき、行動範囲は2千ヘクタール以上という。民家の屋根裏を寝床にすることも

あり、たまった糞尿(ふんにょう)で異臭トラブルになるケースもある。また、狂犬病

や、人の皮膚病の原因にもなるアライグマ糞線虫が拡散する危険性もあるという。

 名古屋市では2015年度以降、対策に本腰を入れ、出没情報があった場所にわなを

仕掛けるなどして、捕獲作戦を展開している。最後に目撃された同市中区新栄1丁目付

近での有力情報は途絶えたが、市は広く情報収集を続けていく方針だ。

■「死を無駄にしない」 殺処分…