施設職員はまるでコンビナートなみ!!

  

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 わが父もトイレ中の事故で、入院後まもなくなくなりました。

 兄は夫婦で年末に見舞っていたにもかかわらず

父の世話を施設職員にまかせっきりで

父の自室で待機していた時の出来事となりました。

 年末で職員はたぶんお正月シフトで

職員も不足気味であったのか

父をトイレに座らせ「職員が来るまでじっとしていて」といわれていたにもかかわらず

 父は兄夫婦が来ていることで、気配りして、自分で自室に帰ろうとして

転倒しそのまま意識不明状態で一週間後に亡くなりました。

父は兄夫婦が来ていなければ、職員の言われることは守っていたのだと思います。

そのような父でもあったのです。

 兄は施設を訴えると憤りをあらわにしましたが

みこちゃんがそれを止めました。

 職員の気持ちも理解でき、兄夫婦がいながら

「なぜに、付き添わなかったのか?」と

自己反省が欲しかった点もあります。

 みこちゃんが父の介護を12年にわたりしてきましたが

兄が見てくれたことは一度もなく

父も態度にこそ示しはしませんでしたが

兄夫婦には好意はよせてはいませんでした。

 それに毎日のように家に帰りたがった父の気持ちを

神様が穏やかにしてくださったのだと思ってもいます。

父も喜んで両親のもとに旅立てたのだと解釈もしています。

 「ねえお父さんそうだよね」とがっしょうひとつ。

「みこちゃんがいくまでもう少し待ってね」!

施設はお風呂の日もなるとまるでぴすとん作業そのもの!

施設の流れはゆとりのないコンビナートのようにそのときはすぎていきます!

   アサヒコムより。

通所介護施設で96歳溺死・名古屋 入浴時に職員離れ

 名古屋市北区鳩岡町1丁目の社会福祉法人「愛生福祉会」(増井勇夫理事長)が運営

する通所介護施設で1月末、96歳の女性利用者が入浴中に溺れて死亡する事故が起き

ていたことが、法人などへの取材で分かった。法人は愛知県警や名古屋市に事故を届け

出た。

 事故があったのは、名古屋市東区筒井1丁目の「デイサービスセンター筒井」。法人

や施設によると、女性は1月31日正午前、職員の介助で、車いすに座った状態で利用

できる浴槽に入った。入浴の際は職員が付き添わなければならなかったが、他の利用者

も気になって浴室を離れたという。

 別の職員が約2分後に浴室を見たところ、女性は顔が浴槽内のお湯につかった状態で

、ほぼ意識がなかったという。女性は搬送先の病院で死亡した。

 事故当時は女性を含め27人が施設を利用し、国の人員基準を満たす職員6人で対応

していたという。施設長は取材に対し、「少しなら目を離しても大丈夫だろうという過

信が職員にあった。大変申し訳なく思っている」と話した。

 愛生福祉会は、名古屋市や東京都品川区、横浜市特別養護老人ホーム通所介護

設、薬局など20施設を運営している。法人事務局財務・経理部の石川新二課長は「大

切な利用者に対し、あってはならないこと。リスク(危険性)への意識を高めるよう各

施設に指示した」と話した。(嶋田圭一郎)

   我が心のエッセンス。

己の欲のためだけに生きると人はどうなるでしょう?」

上杉景勝「信長の惨めな最期を思い出してみよ。死に方は、己の生き様を映す鏡。己に

恥じぬよう、生きるのみじゃ。」

日本における防衛関連のサイバー危機管理、どうなっている??

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 日本の危機管理はどうなっているのだろうか…?

素朴な疑問を抱く人は少なからずあるはず!

 アメリカから、不良品の防衛機器をまるで無条件で購入する日本にあって

では国の通信上における危機管理は今どのような

水準にあるのだろうかはごくごく当たり前の疑問です。

 この通信障害が起きればライフラインはもとより

日本丸ごとブラックoutもないとは言えない未来!

政府直属のもとに、この防衛危機管理センターなるものは

存在はしているようだ。      

 防衛機器より大切なのが通信さいばー攻撃!

これは日本はかなり遅れているとも聞かされています。

日本にもとうとうやって来た、サプライチェーンに関わるサイバー防衛

 昨年の12月10日に、政府はサイバーセキュリティ対策推進会議を開催し、各省庁の情

報通信機器の調達に関する新たな指針を決めています。まだ、政府からの正式な発表は

出ていませんが、安倍首相の発言では「サイバーセキュリティを確保する上で、情報の

摂取、破壊、情報システムの停止等、悪意のある機能が組み込まれた機器を調達しない

ようにする」 としています。

20181217HUAWEI-1

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3872805010122018MM0000/

: 「特定の企業、機器を排除することを目的としたものではない」と言っていますが

、を念頭に置いていることは間違いありませんね。

タイミングとして、中国通信機器最大手、ファーウェイ(華為技術)社の副会長兼最高

財務責任者(CFO)が米国の要請に基づいてカナダで身柄拘束されたすぐ後ですし、トラ

ンプ大統領が、12月2日の米中首脳会談の後、中国のサイバー攻撃や知的財産保護に大き

な懸案を示してもいます。同盟国としても、その動きに同調せざるを得ません。

: この調達制限の動きは、政府のシステムだけではなく、日本の産業活動を支える重

要インフラにまで広がっていますね。以下が、その14分野ですが、どれも我々の生活に

は必須です。

20181217infrastructure

http://www.police.pref.hyogo.lg.jp/seikatu/cyber_defense/index.htm

 政府や自衛隊のシステムだけではなく、これらの分野は日本の経済を支える最重要イ

ンフラです。サイバー防衛の観点から、このインフラに対するセキュリティリスクを最

小限とするというのは、当たり前の話です。

: ここで制限対象と想定されているファーウェイ社あるいは同じく米国が対象として

きたZTE(中興通訊)社は、次世代移動通信規格「5G」では、世界をリードする技術を持

っています。米国とすれば、セキュリティの観点もありますが、技術戦略という観点で

も、守らなくてはいけない分野ですね。

。前回もお話ししましたが、サイバー防衛およびそれを下支えするITインフラは国防の

重要な柱の一つ、それを同盟国以外に押さえられるというのは、防衛上避けなくてはい

けない話です。

米中間のサプライチェーンに関わる攻防の歴史

: 今回は、国内の調達に大きな影響を与えるということで、日本でも大きなトピック

スとして取り上げられていますが、米中間では、すでに数年前からサプライチェーン

対する攻防が激しく繰り広げられていたそうですね。

元々は、米国が中国に課していた中国製情報機器の輸入制限があります。現在大きな問

題となっている両国間の貿易摩擦も原因にはあるでしょうが、それとは別次元で以前か

ら、情報機器にバックドアが仕掛けられているなどの疑惑がありました。実際、中国製

のPCやNAS(ネットワークストレージ)にはそのような問題が見つかっています。

: そのような機器が、米国内、特に政府や軍のシステムに入っていたら、それはサイ

バー防衛上、大きな問題ですね。

そのため、オバマ政権の時から、対象となる中国企業を名指しで示し、政府関係のシス

テムでの購入禁止や、米国企業での使用中止の勧告を行ってきていました。5年前、米国

議会下院では、すでに以下のようなレポートを出して、今回大きな注目を浴びている中

国のファーウェイ社とZTE社の両社の製造する通信機器の使用に対する警告を出していま

す。最近では、2018年8月に2019年度国防権限法(NDAA2019)で、米政府機関とその取引

企業に対し、両社の機器を使うことを禁止しています。米国にとっては、以前から行っ

ている「サイバー戦争」がそのまま続いているということでしょう。トランプ大統領

、その動きを加速しているように見えます。

20181217NDAA2019

https://intelligence.house.gov/sites/intelligence.house.gov/files/documents/hua

wei-zte%20investigative%20report%20(final).pdf

 前回は、米国、中国、それぞれ自国内での監視の話を扱いましたが、当然それと同じ

ことを相手国でも行うことが安全保障上大切ですね。これが諜報活動というものです。

相手国の機器を排除するというのは、それを防ぐためのまずすべき対策です。ところで

、米国のこのような対応に対し、中国ではどのような対抗策を講じてきたのでしょうか

: 中国では、2012年から2015年にかけ、CISCOIBMMicrosoftなど、米国を代表する

IT企業の大手の製品を重要なシステムから排除することを進めて来ました。例えば、銀

行基幹系ではIBM製コンピュータが使用禁止となっています。また、2014年10月には、「

テロ対策法」の中で、IT企業に暗号の解読方法の開示などを求めています。これは、IT

企業のノウハウを丸裸にするリスクがあり、知的財産の保護の観点から当時のオバマ

権から批判を浴びています。

同盟国での同調の動き

 この米国の動きは同盟国に対して大きな影響を与えていますね。

 米国が、諜報活動や安全保障活動を共同する同盟国として、「ファイブ・アイズ」と

いうのが有名です。オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、英国、米国の5か国か

らなり、UKUSA協定とも言われます。

: 米国と英国が主導して作られた協定ですね。1948年にカナダが、そして1956年にオ

ーストラリアやニュージーランドが参加し、現在の姿になったと聞いています。

また、米国は認めていませんが、存在が噂されている諜報システム「エシュロン」は、

この協定が諜報活動に用いているコンピュータネットワークです。この同盟国では、日

本に先んじて中国製機器に対する制限を実施しています。オーストラリア、ニュージー

ランドでは、5Gへの参入を認めていません。英国では通信大手のBTグループで使用しな

い方針を出しています。

危機意識に乏しかった日本

: この動きが日本にも波及し、現在の状況につながっているのですね。ファーウェイ

社の調達問題があり、このサプライチェーン問題にようやく日本でも大きな関心がもた

れていますが、今まではどのような対応だったのでしょうか?

: 全く、お寒い限りでした。皆様の記憶から消えかけているかもしれませんが、2013

年12月に、政府内でも使用されていた中国製日本語入力フリーソフトで、入力した日本

語が意図せずソフト提供元のサーバ送信させていることが発覚した事件がありました。

その提供元は変換効率を上げるためで悪意はないというコメントを出していますが、職

員の使用が確認された外務省はこれを「意図せぬ情報漏洩の情報セキュリティインシデ

ント」に登録し、対策が講じられています

 これも、基本的にはサプライチェーンに関わるセキュリティですね。国産技術に固執

するというのはもちろん問題ですが、少なくとも官公庁は最大限の注意を払うべきでし

た。最悪は国家機密の情報漏えいにつながっていたわけですからね。

: 米中両国で見られるサイバー空間での安全保障戦略、調達戦略から考えると、やは

り、日本は脇が甘かったということは、認めざるを得ませんね。私は数年前からこの問

題を話してきていましたが、今回の件があってやっとサイバー防衛に与える影響の大き

さが強く認識されたと思っています。

「日本のサイバー環境は恵まれています。停電が起きることはないし、欲しいソフトウ

ェアや機器もすぐに手に入る…インターネットが全然使えなくなるということはほとん

どないですから。そういう環境が整っているからこそ、技術力が他国に比べて高いのは

当然ではないかと思う」

個人の技術力が評価されているというのは、別の外国人専門家の口からも聞いたことが

あったので、その点は間違いないと言えそうだ。では国家としてはどうなのか。

日本人の多くは、政府がどんなサイバーセキュリティ政策を実施しているのか、あまり

よく知らないだろう。そもそも、日本のサイバー戦略は世界に伍できるのかーー。それ

もよくわからない人が多いはずだ。そこで今回は、日本の国家としてのサイバーセキュ

リティ対策を見ていきたい。

日本サイバー史の夜明け

まず少し日本のサイバー史をさかのぼりたい。日本が初めてサイバーセキュリティ対策

に乗り出したのは、2000年のことだ。

当時の背景を少し説明すると、米国では1980年代半ばには、米軍などがすでに国外から

ハッキング被害を受けている状態だった。有名なケースでは、1986年にドイツ人ハッカ

ーが米軍から核・原子力、さらにはスターウォーズ計画(米戦略防衛構想)などの軍事

機密を盗み、ソ連に売っていたことが判明している。この事件は、後に『ザ・カッコー

ズ・エッグ』(カッコウはコンピュータに卵を産む / 草思社)という本にまとめられたが

、これこそが国際的な「サイバー紛争の始まり」となる出来事だったと見る欧米専門家

は少なくない。

さらに、1990年代にインターネットの商業利用が広がっていくようになると、1994年に

は米大手金融機関シティバンクがロシア人によってハッキングされる事件が発生、1000

万ドルが盗まれる強奪事件が話題になった。こうしたケースを受けて、民間でもサイバ

ー空間の脅威が認識されるようになる時期だった。

内閣府庁舎

国家のサイバーセキュリティ戦略は内閣官房の配下組織によって議論されている(写真

内閣官房の入居する内閣府庁舎)

By Yuukokusya [CC BY-SA 3.0 ], from Wikimedia Commons

こう見ると、2000年に日本でもサイバーセキュリティが議論されるようになったのは当

然のことだった。その年、内閣官房に情報セキュリティ対策推進室が設置され、日本と

してサイバー脅威とどう向き合い、どうサイバー対策を実施するのかが議論されるよう

になった。そして2005年になると、それまでの内閣官房情報セキュリティ対策推進室は

内閣総理大臣の決定により、内閣官房情報セキュリティセンターに組織を改編した。

内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)誕生

日本にとって大きな契機となったのは、2014年に制定された「サイバーセキュリティ基

本法」だ。この法律に伴い、それまでの内閣官房情報セキュリティセンターは、内閣サ

イバーセキュリティセンター(NISC)に変わった。また「サイバーセキュリティ戦略」

閣議決定された。

現在は、このNISCが日本におけるサイバー対策の司令塔的な役割をしている。ではNISC

は、日本のサイバーセキュリティのために、一体何をしているのか。

NISCの役割 ~省庁横断の司令塔~

NSCの公式サイトによれば

閣議決定された「サイバーセキュリティ戦略」は、我が国のサイバーセキュリティに関

する国家戦略です。NISCでは本戦略に基づき、サイバーセキュリティ政策に関する総合

調整を行いつつ、「自由、公正かつ安全なサイバー空間」の創出に向け、官民一体とな

って様々な活動に取り組んでいます。

出典:内閣サイバーセキュリティセンター

という。

NISCは、敵対国とサイバー戦を戦ったりしないし、調査のために敵国にハッキングする

こともない。とにかく「総合調整」を行なっているというイメージが正しい。

例えば、政府機関がサイバー攻撃を受けて機能が麻痺するのを食い止めるため、NISCは

省庁などを日常的にチェックしている。基本的に日本の省庁は、各省庁ごとにサイバー

攻撃対策やシステム構築を行なっている。そこでNISCは省庁に対してヒアリングを行な

ったり、事前に知らせた上でペネトレーションテストなども実施している。

日本がサイバー攻撃を受ければ、様々な機関が対策などに関与する。例えば銀行やクレ

ジットカードなど狙うサイバー犯罪が起きれば警察当局が捜査に乗り出し、ケースによ

っては金融庁なども動くことになる。通信インフラが攻撃されれば担当の総務省も動き

、IoTなど電気機器が狙われれば経済産業省も動く。原発などが攻撃されれば、経産省

エネルギー庁などが対策に関与する。NISCはそうした政府機関や当局にも、サイバー対

策をきちんと行うよう指示を出す役割を担うのだ。

NISCの役割 ~民間との連携~

NISCが対象としているのは、何も政府機関だけではない。サイバーセキュリティ基本法

の枠組みの中で、例えば民間の社会インフラ事業者、サイバー空間管理事業者などがセ

キュリティ対策をしっかりと行なっているのかを監査し、事故が起きた場合は勧告も行

う。通信会社や金融機関、交通機関、電気ガス、医療機関などが重点的なチェックの対

象になっている。そうした分野の業界団体とつながって、情報を交換したり、セキュリ

ティ対策を促すのだ。

サイバー攻撃 官民の連携で防御態勢を築け宇うう https://www.yomiuri.co.jp/editor

ial/20190317-OYT1T50211/

教頭先生 弱りゆく姿を生徒に公表!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

広島において、弱りゆく難病、「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の診断を受けた。

教頭先生が生徒に病魔の進行そのものを

学んでほしいとあるがままを公表されました。

 病魔はいきなり健康をも奪い去るあまりにも過酷すぎる

人生が待ち受けているなんて誰もがじゅようなどできない!

教頭先生が病魔のある姿を学んでほしいと生徒に寄り添われています。

  祖母たちとの弱りゆく姿に触れることのない生徒にとって教頭先生がその姿を公表

誰にでも置きゆく病魔に触れ、思いやりであったり

誰にでも訪れる病魔の姿を

我がこととして知ってほしいと公表されたのだと思います。

今ここに、生かされている幸せを知ろう。

 ALSとは。

随意筋を支配する神経を運動ニューロンといいます。「ニューロン」というのは「神経

細胞」のことです。

 運動ニューロンは、歩いたり、物を持ち上げたり、飲み込んだりするなど、いろいろ

な動作をするときに、脳の命令を筋肉に伝える役目をしています。

 この運動ニューロンが侵されると、筋肉を動かそうとする信号が伝わらなくなり、筋

肉を動かしにくくなったり、筋肉がやせ細ってきます。ALSはこの運動ニューロン

侵される病気です。

正常な運動ニューロンと筋肉・ALS患者の運動ニューロンと筋肉

感覚や自律神経はどうなるの?

 ALSでは運動ニューロンは侵されますが、知覚神経や自律神経は侵されないので、

五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)、記憶、知性を司る神経には原則として障害は

みられません。あなたがだれかに皮膚をつねられたとき、痛いと感じ、つねられた手を

ひっこめるでしょう。痛いと感じるのは「知覚神経」、手をひっこめるのは「運動ニュ

ーロン」の働きです。ALSになると痛いという感覚はありますが、手をひっこめるこ

とができなくなります。

ALSの発症原因は解明されていません。

 「

   アサヒコムよりの引用。

弱っていく姿を見てほしい」 難病の教頭、命の授業

 体の筋肉が動かなくなる進行性の難病で、広島県内の自宅で闘病生活を送っている高

校の教頭がいる。発病後は、生徒たちに病気のことや命の大切さを語ってきた。昨年の

卒業式は生徒が調達したロボットを使って自宅で「参列」、この春は2年ぶりに出席し

、教え子たちの門出を祝った。

 広島県尾道市の県立御調(みつぎ)高校。電動車いすの長岡貴宣さん(56)=同県

三次市=は体育館の最後列から、証書を受け取る生徒たちの姿を見守った。教え子たち

にとって最後の校歌斉唱。大きな声を出すのが難しくなった長岡さんも、口ずさむよう

に歌声を合わせた。

 広島と故郷・静岡の高校で、剣道の指導に打ち込んできた。2015年春、御調高に

教頭として着任。学校運営や進路指導に意欲を燃やした矢先の夏、剣道の防具を着けよ

うとして、背中に左手が回らないことに気がついた。

 半年後の16年3月、「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の診断を受けた。「人工呼

吸器を使わなければ、余命は2年から5年」。最後は自分で呼吸もできなくなると聞か

された。

 薬を飲みながら勤務を続けたが、両足が動きづらくなった。17年春には杖が必要に

なり、夏からは電動車いすに。

 「弱っていく自分の姿を見てほしい」。1学期の終業式で、生徒たちに病気を打ち明

けた。病気を抱える人たちへの理解を深めてもらいたいと考えたからだ。

 病状は進み、17年末に教頭として在籍したまま休職。看護師の妻と長女の支えもあ

り、「これも一つの生き方だ」と受け入れられるようになった。心残りは、進路指導し

てきた当時の3年生が巣立つ姿を見届けられないことだった。

 その気持ちをくんだのが2年生だった柴川綾捺(あやな)さん(18)と松木綾香さ

ん(18)。遠くにいてもタブレットを介してマイクやカメラで会話ができ、腕を動か

して気持ちを表すこともできるロボットを、開発元の企業に掛け合って貸してもらった

。長岡さんは壇上の演台に置かれたロボットの「目」を通じ、証書を受け取る3年生た

ちの様子を自宅で見守った。

 くすぶりがちだった気持ちが勇気づけられた。同じ病気の患者団体に加わり、自治

の職員や医療・介護関係者に病気と向き合う心情などについて語り始めた。御調高でも

文化祭や特別授業で講演してきた。

 余命宣告から2年半が過ぎた昨年10月。長岡さんはずっと迷っていた人工呼吸器に

よる延命措置を、「その時」が来れば受け入れる決心をした。自力で動けず、家族やヘ

ルパーによる24時間のケアが必要になる。しかし今は、日々のリハビリや団体の活動

を精いっぱい続けている。

 長岡さんの自宅には、柴川さんらから活動を引き継いだ後輩たちが毎月通ってくる。

今年の卒業式は「休んでいても先生は学校の一員」と参列するよう誘ってくれた。

 柴川さんは春から、病気や障害のある人たちが過ごしやすい地域のあり方について、

県外の国立大で学ぶ。「社会に参加できない人ほど強い思いを持っているはず。一歩踏

み出す手助けをしたい」。長岡さんからそう学んだ。元々看護師を目指していた松木

んも進路を変え、介護や福祉について学ぶことにした。

 卒業式を終えた2人に長岡さんは一言、「ありがとう」と声を掛けた。2人から花束

を受け取り、「10年後、また会えたらいいな」。照れ臭そうに笑った。(橋本拓樹)

   我が心のエッセンス。

親の病に触れ

自分の体を大切に思いましょう!

『私は、人の想いというものが言葉に変わることで無駄になっているように思います。

人の想いは皆、結果をもたらす行動に変わるべきだと思います。』

   ナイチンゲールの名言。

コンビニは、もはやブラック起業か… …?

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 コンビニといえば、今では巷では【ブラック企業】と

揶揄されている実態が表面化しています。

 公共手続きから、宅配の受け取りまでにと

新サービスがまるでまるちなみ!

フランチャイズが、どこまでも便利を追求するために

それに対応しきれない店長の悲鳴も聞こえてきています。

 またメディアでは、コンビニ24時間体制についてのアンケートも掲載され

深夜営業の反対は62ぱーせんと!

もはやこれを無視することはコンビニの営業に危険信号が

点滅サインがでていることのあらわれ!

 かつて、ヤマト運輸の従業員が自殺したり、従業員二人が

もはや、ヤマトでは働けないと退職した事例が浮上しました。。!

これは従業員が「もうこれ以上運べません」といった悲鳴でもありました。

 これによりヤマト運輸も改善せざるを得ませんでした。

それぞれのコンビニ大手がじかくすべきではなかろうか?

コンビニ大手が、今までは右肩上がりに成長し

ビジネスモデルの見直しを検討することに

ちゅうちょしているのではあるまいか?

  店長であり、従業員がいて初めて、運営が成り立っていることに

大手コンビニは着目しないと、後は破綻しかありえない!

 姪の子供高校生二人は、コンビニでアルバイトをしています。

忙しすぎて、伝票を間違えたこともあるという

忙しすぎて、点検のゆとりまでないのが実態とか?

 それは学費が払えない家庭事情で

姪いわく自立を促しているのだと言いますが

これは親放棄ではないのかとも言いたくなります。

10分以上レジを独占…「過剰なサービス」にコンビニ店員が悲鳴 ブラック企業」は数

多いが、時にそのブラックさは、「過剰なサービス」が要因となっていることがある。

モンスター客や取引先の過剰要求、便利すぎるシステムなどでパンク寸前の現場の悲鳴

に耳を傾けてみた!

◆新サービスがトラブルに!大口客もダメージになる 

24時間営業・年中無休を軸に、もはや便利の集合体と称しても過言ではないコンビニ。

最近は専用車でお弁当やお惣菜の宅配サービスも開始している。 

「特に独居老人は寂しがり屋だからか、何かと長居しちゃう。なかには『盛り付けして

食わせろ』なんて求めてくる方も……。本来は配達の時間帯は決まってたのに、相手の

時間に合わせることも増えてきました」(コンビニ店長) 

また、老若男女に便利なのが宅配便の店頭受け取りサービス。しかし、倉庫にも対応す

る人員にも限りはある。 

「お中元・お歳暮シーズンはバックルームまでパンパン。それに加えてメルカリなどの

フリマアプリブームですね。大量に持ち込まれると、お客さま一人で10分以上レジを独

占されます。入れ替わりの激しいバイトにマニュアルを教えるのも結構な手間です」 

さらに嬉しいはずの大口客も、要求によっては大迷惑となる。 

「運動会などで100個近く買われると、ひとつひとつ袋を分けて箸とおしぼりを入れなき

ゃいけないんですよ。そもそも、おしぼりはフライヤー商品が増えたときにサービスで

入れ始めたのがキッカケ。原価も高いので、すべての商品に入れると月に30万円ぐらい

かかるんです。それがいつの間にか弁当にも入れるようになった」

これに10月からの消費税対策まで

店長の肩にのしかかることになります。

何が何やらわからない顧客が

ポイント還元で時間を取られることも

容易に想像できるのではないのか?

 政府はキャッシュレス化を、消費税対策に絡めようとしていますが

これはあまり効果なく現場に混乱を招くに過ぎない…?

セブン店主ら、「労働者」ではない判断に落胆 -

https://toyokeizai.net/articles/-/271445

   我が心のエッセンス。

文明とは労働の ... 労働はつねに人生を甘美にするが、誰でも甘いものが好きだとは限

らない。 フーゴー 「詩」 ... 自由な労働であるならば、最善のものであり、奴隷的な労

働であるならば、最悪のものである。

うなぎ上りの健保負担金!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 健康保険料は知らず知らずのうちに上がり続けています。

 長寿百年時代を迎えようとしている昨今

保険制度の維持を望むのであれば

応分負担は緊急課題です。

 高齢者の医療費無料化が始まってから

高齢者の通院は増え続けています。

これも自民党政策として実施されたものです。

スタート時点から破綻要素として、シミレーションは可能ラインでもありました。

 保険制度が維持できているうちに、直ちに5割負担の実施は剣善作ではないのだろう

か?

 大病に見舞われたとき健康保険はありがたい制度です。

 現役時代にその負担額を求めるだけには限界もあるはず!

 高齢者の破綻生活もよく聞かされています。

 だからと言って、医者のはしご者は沢山おられます。

 少々の風、、でも医者に依頼している人も数多くおられます。

大病のためにも医療の利用の仕方、健康維持の防止予防

これは個人の意識レベルの努力で医療費の節約はできるはずです。

日頃動かすことの目標値もいるのかも…。

高齢者の医療費の抑制には、乱暴ながらまどぐちのねあえがなにより!

 健康制度の弱体を防ぐためにも今の現行制度の維持のためにも

健保の現状をしっかり把握したいものです。

   産経寄りの引用。

【ビジネス解読】「見えない増税」 健保組合の保険料、10年で10万円アップ (201

 日本の医療保険制度を支える健康保険組合の経営悪化が進行している。健康保険組合

連合会が昨年末に発表したデータによると、平成29年度は加盟約1400組合のうち

4割以上が、支出が収入を上回る赤字状態となった。背景にあるのは高齢者向け医療費

の慢性的な増加で、健康保険に加入する現役世代が高齢者の医療費を支える構図が強ま

っている。こうした中、加入者が負担する保険料はこの10年で10万円も上がり、手

取り収入は押し下げられる一方だ。日本経済は緩やかな回復基調が続いているというが

、消費者(加入者)の負担感は当面拭えそうにない。

 「国民皆保険の存続すら心配している状態だ」

 健保連の田河慶太理事は日本の医療保険制度の現状に警鐘を鳴らしている。

 健康保険組合は規模の大きい企業や職種ごとに組織され、従業員や家族らが加入する

。中小企業の従業員らが入る協会けんぽや、自営業者らが入る国民健康保険などとなら

び、日本の医療保険制度を支える柱の一つだ。

 その健保が経営に苦しんでいる。29年度に赤字となった健保は全体の42%。28

年度の39%から状況が悪化した。こうした中、約50万人が加入する人材派遣健康保

険組合などが今年3月末の解散を決めた。

 解散した健保の加入者は協会けんぽに移るため、医療保険が使えなくなるわけではな

い。しかし健保の経営状態の悪化や解散について、健保連は「現在の日本の医療保険

度が立ちゆかなくなりつつあることの表れ」と危惧している。

 ■高齢者支援が重荷に

 健保が窮地に追い込まれている背景には、健保に加入していない高齢者の医療を支援

するため、巨額の負担を求められているという事情がある。健保が29年度に支払った

経費のうち、約3兆5千億円は高齢者支援のための拠出金で、加入者のための医療費支

払額の約4兆円に迫っている。個別の健保でみれば、高齢者支援のための拠出金が加入

者のための支払いを上回っている組合も多い。

 健保連によると、健保の経営悪化が進んだきっかけは、20年度に政府が高齢者の医

療費を支える仕組みを見直したことだ。

 政府は20年4月に75歳以上が加盟する後期高齢者医療制度を設立。あわせて65

~74歳(前期高齢者)の加入割合が多い国民健康保険の負担を軽減するための仕組み

も導入した。こうした仕組みによる29年度の健保全体での拠出金額は制度導入前(1

9年度)の約1・5倍となっている。

 これらの拠出金の負担は国からの請求書が回されるようにして各健保に割り振られる

健保連の田河氏は「現役世代からみれば、拠出金負担は非常に厳しい」と話す。

 ■知らないうちに負担増

 こうした拠出金の増加は健保の保険料の値上げにつながっている。加入者の収入に占

める保険料(事業者負担分を含む)の割合を示す保険料率は、健保連加盟組合平均で、

29年度は約9・2%。10年前の約7・3%から大きく増加した。一人当たりの年間

保険料額でみても29年度の約49万円は、10年前から10万円も増えている。

 健保の保険料率は個別の健保が財政状態などを考慮したうえで決める。しかし、多く

の会社員は「知らない間に保険料率が上がっていた」というのが実情だろう。

 保険料率の引き上げは「見えない増税」とも位置づけられる。大和総研は昨年10月

、各家庭の実質可処分所得が7年前よりも数十万円少なくなっているとの試算を発表し

た。実質可処分所得とは給与から所得税や住民税のほか、健康保険や公的年金などの社

会保険料を差し引くなどした「手取り収入」だ。

 片働き4人世帯で年収500万円の場合、7年前なら税金や社会保険料を引かれた後

でも434万円が手元に残っていたが、30年では408万円しか残らない。共働き4

人世帯で年収1千万円なら、手取り収入は818万円だったはずが、780万円にまで

減ってしまった。社会保険料引き上げや26年4月の消費税増税、「子ども手当」の縮

小などが影響した。

 ■見えない増税

 会社員の多くが加入する厚生年金保険の保険料率は法律で定められた段階的な引き上

げがすでに終わっており、これ以上の引き上げは予定されていない。また消費税率は今

年10月に10%まで上がる予定だが、さらなる引き上げを検討するだけで政治問題化

することは確実だ。

 こうした中、今後も拡大が見込まれる医療費のツケは、健保に回される可能性が高い

との見方は多い。見えない増税はこれまでも大きな政治的議論になることなく進められ

ており、健保の保険料率はこれからもじわじわと上がり続けていくおそれがある。

 健保連後期高齢者医療機関で支払う窓口負担を増やすなど、「高齢者にも応分の

負担を求めることが必要だ」と主張。さらに税制の見直しなどで、医療費負担に必要な

財源を国民全体から集める必要があるとしている。

 給与からの天引き額が知らぬ間に引き上げられることを避けるためにも、国民的な議

論が必要といえそうだ。(経済本部 小雲規生)

   我が心のエッセンス。

笑いというものは人の目に輝きを増させ、発汗を増させ、肺活量を増させ、結局は健康

を増進させるものだ

栗原勇一郎 その人とは…

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 菜種梅雨の中、菜の花が食卓に

春を添えています。

なぜか心愛ちゃんの幸いが天国にしか

なかったのだろうかと春霞にひとことぼやいてみる!

 栗原心愛ちゃんが父親に必要以上の

家庭内暴力を受け亡くなり両親が逮捕されています。

 父親の多重人格を思わせるような行動に

なぜ救えなかったのかと無念でなりません。

まだ取り調べの域は脱してはいませんが

まるで【サイコパス】ではなかろうかとも

一部報道されています。

 まさにこの症状そのもののような気さえしてしまいます。

サイコパスの原因も不明ではありますが

染色体異常のケースもあり先天性ではないのかとも言われていま す。

 心愛ちゃんが生前、あちこちで「助けて」サインを出し続けていたにもかかわらず

その言葉が大人に届くことはありませんでした。

いや無視されてきたのかもしれません。

  心愛ちゃんの暴力されている状況が

スマホに保存していたとはまさに

精神異常そのものです。

職場を7回も変わること自体異常行動です。

なぜ回りがこの異常にきづけなかったのでしょうか?

 サイコパスの発症行動も

結びつく接点はあるような気もします。

 

栗原心愛(みあ)さん(10)が自宅で死亡した事件で、また新たな証言が出てきまし

た。

母親のなぎさ容疑者(32)が、心愛さんが昨年12月下旬に親族宅から自宅に戻る際

両親の前で「帰りたくない」などと泣いて訴えていた、という趣旨の供述をしているこ

とが、捜査関係者への取材でわかったそうです。

県警は父親の勇一郎容疑者(41)がこうした言動に立腹し、再逮捕容疑となる暴行に

及んだ可能性があるとみています。

こんなにはっきりと、自分で訴えていた心愛ちゃん・・・。

心愛ちゃんはいつでも必死に、周りの大人に訴えていました。

なのに・・・。

何人もの大人が関わっていたはずなのに助けられなかったというのは、本当に問題だと

思います。

そして今回、栗原勇一郎の生い立ちや経歴、両親の職業などが週刊文春により明らかに

なりました。

その内容を抜粋してお届けしたいと思います。

1 栗原勇一郎は職業変わりすぎ!ニート時期も。時系列

1.2 2.ガスや電気工作機器などを販売する会社の営業職

1.4 4.那覇空港売店

1.6 6.新石垣空港の旅客カウンター業務

1.8 8.OCVB東京事務所嘱託職員

2 栗原勇一郎の両親の職業は?

3 栗原勇一郎の生い立ち

4 まとめ

千葉小4,心愛,みあちゃん,虐待,栗原勇一郎

栗原勇一郎の記事を読んでいると、職業が転々としていることに気づきます。

記事からわかるだけでも7ヶ所。

その理由はほとんどが「自己都合」で、その間、働かずになぎさの貯金を食いつぶして

いた時期もあるようです。

大学卒業後から、追っていきたいと思います。

1.JALの子会社「JALメンテナンスサービス」

大学を卒業した後は、JALの子会社「JALメンテナンスサービス」に就職するも、数年で

退社する。

その後、東京にあるガスや電気工作機器などを販売する会社の営業職に就く。

引用元:週刊文春

後に紹介しますが、父親も母親も空港関係の仕事をしていたようです。

それが理由かはわかりませんが、栗原勇一郎の最初の職業も空港関係。

しかし数年で退社することとなったようです。

2.ガスや電気工作機器などを販売する会社の営業職

「父親の知人の紹介で入社しました。

大田区の営業所に勤務し、営業成績は可もなく不可もなくというレベルだったと記憶し

ている。

3年程働いたが、ある日突然、『仕事の内容が自分には合わないので、とりあえず辞め

たい』と言い出し、2007年に辞表を出してきました。」(会社関係者)

引用元:週刊文春

父親の知人の紹介で入社したという営業所。

3年は頑張ったようですが、やはり続きません。

3.なぎさの貯金を食いつぶす

2011年に離婚するまでの期間についての職業は、詳しくわかりませんでしたが、な

ぎさが独身時代にコツコツと貯めていた貯金150万円程を食いつぶす、という情報が

ありました。

人の貯金を食いつぶす上に、妻にDVをする。

『お前は無能だ。何もできないバカだ。』と罵る・・・。

本当に最低ですね・・・。

そして離婚後も沖縄に居座り、職を転々とします。

4.那覇空港売店

こちらも数年か一年未満で辞めているとのこと。

5.うるま市のコールセンター

こちらも同じく短期間で退職。

6.新石垣空港の旅客カウンター業務

「うちでは搭乗手続きや荷物を預かる旅客カウンターの仕事をしていた。

勤務は2015年10月から2016年2月までと半年にも満たない。

辞めた理由は『自己都合』で、他の会社もそうだったと記憶しています。」

新石垣空港の会社関係者)

引用元:週刊文春

こちらは半年も経たずに辞めてしまったようですね。

嫌だと思ったら辞める、そしてまた嫌だと思ったら辞める、の繰り返しなんですね・・

・。

7.沖縄観光コンベンションビューロー(OCVB)

2016年に沖縄観光コンベンションビューロー(OCVB)に就職した栗原勇一郎。

ですが、2017年に8月に突然退職します。

理由は「自己都合」です。

そしてこの退職後すぐ、入院中のなぎさを置いて、野田市に引っ越しています。

栗原裕一郎の鬼すぎる虐待と性格がヤバい!精神障害の疑いもあるか?野田市へ引っ越

したきっかけ

8.OCVB東京事務所嘱託職員

そして逮捕前の職場がこちらです。2018年4月から勤務していたという栗原勇一郎。

職場ではとても穏やかで、会話も流暢にし、コミュニケーション能力が高いと言われて

いました。

その評判からラジオにも出演。音源はこちらから聞けます。

栗原勇一郎はラジオに出演していた!二面性がヤバすぎる!音源動画あり

栗原勇一郎の両親の職業は?

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1977年生まれの勇一郎は、8歳の時、野田市の現在の実家に引っ越してきた。

「父親は長年、成田空港で飛行機の整備の仕事をしており、定年後はデパートでアルバ

イトをするなど精力的な方です。

母親はキャビンアテンダントだったという話を聞きます。」(近隣住民)

引用元:週刊文春

父親は飛行機の整備の仕事、母親はキャビンアテンダント

栗原勇一郎の両親は空港で出会ったのかもしれませんね。

勇一郎も一度は空港関係の仕事に就きますが長くは続かず。

栗原勇一郎の生い立ち

これまでの情報では、

出身小学校:千葉県野田市立二ツ塚小学校

出身中学校:千葉県野田市立福田中学校

というところまでわかっていました。

「スポーツ好きの父親の影響で、勇一郎君は少年野球団に入っていて、ユニホーム姿で

走って練習に行くのをよく見かけました。」

(近隣住民)

引用元:週刊文春

野球少年だったという栗原勇一郎。

これだけ聞くと、本当に普通の少年ですよね。

ただ、他の情報では同級生をいじめていたという話もありますので、小さい頃からそう

いった一面もやはりあったのかもしれません。

その後は、

地元の中学校を出た勇一郎は、埼玉の私立高校に進学。

引用元:週刊文春

高校名まではわかりませんでしたが、どうやら英語クラスに通っていた模様です。

そして大学に進学。

千葉小4,心愛,みあちゃん,虐待,栗原勇一郎

栗原勇一郎の経歴や両親、生い立ちなどについて調べてみました。

職を転々とする・・・という特徴が見られた結果でしたが、私には仕事内容よりもDVや

虐待することにフォーカスして仕事は二の次な印象に見えました。

そのことだけを生きがいにしている・・・そんな人が本当にいるならば、怖くてたまり

ません。

ちなみに栗原勇一郎は常に黒ずくめ。

普段の服装は黒いジャージか、黒いジャンパーと黒いズボンだったそうです。

全身黒ずくめの人は信用できないとどこかで聞いたこともありますが(これは単なる迷

信かもしれませんね)、常にすべてが黒って、やはりちょっと怖い印象はありますよね

。。

そして、愛車はホンダのファミリーワゴン「N-BOX」。

サイコパス(さいこぱす)とは、反社会性の人格を持った人格障害の1つ。和名では『精神

病質者』といわれています。

病質者と聞くと病気のように思われますが、どこかに不調を抱えているわけではありま

せん。基本的には、一般社会に溶けこみ生活をしていることが多いようです。

また、サイコパスと言えば猟奇的な事件を起こすというイメージをお持ちの方もいらっ

しゃいますよね。

映画やドラマなどでとり挙げられる際は、主に常人にはできないような犯罪を起こすシ

ーンが多く見られます。

『関わらなければ大丈夫」『怖い人には近寄らなければいい」と思うかもしれませんが

、実際にサイコパスだと見極めることは難しいかもしれません。サイコパスは凶暴さな

ど見当たらない、絵に描いたようないい人を演じている可能性があるのです。

こちらも色は黒だったそうです。

これは栗原勇一郎の心の闇を現しているのか・・・?

幼くして父を亡くした子供たちはとってもたくましく優しい!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 家族の大黒柱が、子供が幼くして

亡くなろうものなら、たちまち経済の困窮に始まり

精神的にもゆとりがなくなりお母さんの気持ち一つで

暗い家庭になったり、子供の情緒不安定要素も

ぞうふく家族の健全化が失われるケースもあるように思う…

 子どもたちは、母を助け乗り越えようとする

エネルギーに若いパワーを感じずにはいられない。

 残された母親の心配は経済不安が多かったように思います。

 みこちゃんも今なお貧乏暮らしではありますが

幼いころからお金のない生活が身についていることで

なんだって耐え抜けるたくましさを、身に着けています。

 子どもたちの父親を亡くした苦悩を乗り越えた先の

たくましさに多いに期待したいものです。

心にあふれんばかりのやさしさ、思いやりはこのあまりにも

悲しすぎる体験が子供たちのやさしさを育んでいるのではと合唱。

 どうか天国のお父様、子供たちはきっときっと

お父さんの背中を心の糧に、お母さんを助け幸福の果実を

手にすることができると信じています!

お父さん、どうかいつまでもお見守りくださいませ。

 子どもたちの経済、心のケアーをあしなが育英ボランティアが

1970年から長きにわたり、支え続けてきておられます。

あしなが育英会から奨学金を受けている大学生とボランティアが一緒になり、街頭に立

ち、募金を集めています。

「学生が学生を支援する」という形をとっています。これは奨学金をうけた学生たちが

次は後輩たちのために、という恩返し運動の体現です。

その恩返しは、交通事故遺児から災害遺児、病気、自死そして世界へとその優しさの輪

を広げてきました。

 この募金協力もきっときっと小さなひとしずく

なりはしないだろうかと思っています。

 父は生前、マッサージ師で家の近くに診療所を開いていた。実は父は目が見えない。

大阪にある盲学校に行ったらしい。私はよく父と母と三人で動物園へ行った思い出があ

る。その時父がいつも口癖のように言っていたのが、「この子の顔が見てみたい。」だ

ったのを父が亡くなった後に知った。私も悔しかった。弟が生まれてからも父はよく遊

んでくれたりした。仕事で本当は疲れている体を押して私達の為に時間を作ってくれた

。その父が体の不調を訴え出したのは、小五の秋だった。もうすでにその時には手遅れ

で、あんまり長くないと言われた。本人には知らせたくないと祖母は父に胃潰瘍だと言

っていたらしい。もちろん仕事なんてできないのに、かわいそうだからと言って診療所

もそのままにしていた。それから十ヶ月後、父は息を引き取った。あの時、冷たくなっ

ていく父の手を握ることができなかった私は、今でも後悔している。あんなに優しかっ

たのに。そして今、私は高校生になった。この四年間本当に色々な事があった。そんな

時、私はいつも父との思い出を振り返る。楽しかったあの頃のこと、大好きだった父の

笑顔を思い出してがんばってきた。父のことを友人に話すのも大分慣れてきた。私は少

し強くなれた。もちろん他の子より父との思い出は少ないけどそれはそれでいい。父が

亡くなって、物質的には何も残らなかったけど、それ以上のもの"楽しい思い出"を残し

てくれたことに感謝している。そしてこれからも家族三人力を合わせてがんばっていき

たいと思う。 

  お父さんの思い出 

高校二年 岡本 彩 

 私のお父さんは、私が中一の時、肺がんで死にました。お父さんは死ぬ数ヶ月前から

入院していましたが、私はお父さんが肺ガンだということを全然知りませんでした。ま

だ中一だったから、おしえられないとお母さんは思ったんだと思います。 

 お父さんが死んだ日、私は何日か前に休んでいた時にあった理科のテストを一人で受

けていました。  すると先生が急いで教室に入って来て、「早く車に乗りなさい」と

言いました。こういう場面は、ドラマとかで見たことがあり、いやな予感がしたものの

、私は、お父さんが、ガンだということを知らなかったので、何が起こったのか分かり

ませんでした。病室に入ると、お母さんが泣いていて、「お父さん、死んじゃった」 

と言いました。私は、わけが分からなかったけど、すぐに涙が出て来ました。 

 お父さんは、血をいっぱい吐いて、死んでいました。その前日、みんなで、お父さん

のお見舞いに来ていました。なのに私は、お父さんとあまり話さず、他のことをしてい

ました。お父さんが死んだ後、そのことばかりが、後悔として思い出されました。「何

であの時もっと話さなかったんだろう。」 

 お父さんは本当に優しい人で、習い事に時間がかかっても、終わるまでまっていてく

れたり、病院から帰ってきている時に、病院がつらかったと思うのに、むかえに来てく

れたり、中学校に入って初めての文化祭を、病院から見に来てくれたり。 

 私は、今まだ家族に何もしてあげてないけど、学校を卒業して、仕事をしはじめたら

、何か、必ず家族のためにしてあげたいと思っています。その時が来るまで、勉強や、

学校生活をがんばっていきたいと思っています。 

  生活の変化 

高校一年 真部 友香理 

 私が中学二年生の夏休みに入ってすぐに、父が入院をしました。検査の結果、頭を手

術しなくてはいけなくなり、母が父に付き添うことになって、私たち姉弟は二人で留守

番をするようになりました。近くに祖父母が住んでいて、助けてはもらったけど、さす

がに夜は怖かったです。 

 父は手術を無事終え退院をしたが、またその冬に二度目の手術を受けました。今度も

成功すると思っていたけど、半身不随になっていました。この時、父は仕事ができない

、生活はどうなるの?学校は?進学は?と、私の頭の中で黒い何かがぐるぐる回ってい

ました。私はどうしたらいいんだろうとか思うことがたびたびありました。でも母が、

「生活は何とかできるし、学校も行けるし、ただ贅沢な生活をしなかったらええんよ。

」と言いました。私は我慢して友達とはちょっと違った生活をしています。でも、こん

な苦しい辛い生活も、後で自分の為になるんだと思いながら今は生活しています。とに

かくこれからも一日一日を大切に私なりに頑張っていきたいです。 

  もっと話がしたかった 

高校三年 川添 尚美 

 私の父は、私が中学二年生の時、肝硬変でこの世からいなくなりました。ここ最近ま

で、死んでしまうほど父がお酒を飲んでいたのはただお酒が好きで、やめられなかった

からだと思っていました。でもあしながのつどいに参加して、父の死について考えるよ

うになった時、お父さんがお酒を飲んでいたのは、本当にお酒が好きだったからだけな

のかな?と疑問を感じるようになってきました。人がお酒を飲む時、ただおいしいから

という理由だけで飲むことは少ないと思うんです。むしろ、精神的に楽になりたい時に

飲むことのほうが多いと思うんです。父にも何かお酒を飲んでいないとやっていられな

いような心配事、嫌な事があったんじゃないか、と今思っています。 

 父がお酒をひどく飲むようになったのは、私が中二の夏頃。一日のほとんどの時間を

父は自分の部屋で過ごし、そこでお酒を飲んでいました。以前は家族みんなで食べてい

た夕食にも顔を出すことが少なくなっていました。その頃に、父の様子の変化にもっと

気を遣い、もっと話しかけていたら、今でも父はここにいたかもしれません。四年後の

今になって悔やまれます。でもその時の私は酔っ払っている父が嫌いで、話しかけるど

ころか父から遠ざかっていました。秋の終わりには容態が悪くなり、病院嫌いの父も入

院することになりました。でもその頃にはもう手遅れだったようです。それでも病院で

の父は、治そうと必死でした。そして何よりも、家にいてお酒を飲んでいた時よりも穏

やかで、生き生きとした顔をしていました。なぜ、その時父の病状にしっかりと向き合

って現状を受け入れ、もっと長い時間を一緒に過ごさなかったのか。もっと話をしたか

った。そして、もっともっと生きていてほしかった。今はもう、そう思うことしかでき

ません。 

  尊敬できる人 

高校三年 吉田 未央 

 私が小学校三年の時、父はガンにかかっていました。その時はまだ私には理解できず

、入院している父のお見舞いに行きながら、「お父さんは何でずっと病院にいるんだろ

う。早く帰ってくればいいのに。」 

と、思っていました。でも、時がたつにつれ私と二つ上の兄は知り合いの人の家にずっ

とあずけられるようになりました。父はそんなに悪いのか、と分かりはじめました。母

は、ずっと父の世話をしていました。知りあいの人や学校の先生に、お母さんはスゴイ

えらい人ね、とよく言われるたびに何でだろうと思っていました。しんどい思いをして

いるのはお父さんなのに、というふうにしか考えられませんでしたが今になっては、い

くら夫婦とはいえ、なかなかできることではないなと思うようになりました。私はあん

まり覚えてないのですが、母が言うにはお父さんはどんなに痛くてもつらくてもしんど

くても、口には絶対ださなかったそうです。しんどくても、私が人形で一緒に遊んで、

といえば一緒に遊んでくれるような父でした。何回か少しだけ退院したことがありまし

た。一緒にお風呂に入るとお腹に胸からへその下にまでかけて手術のあとが二つありま

した。それが忘れられず今でもはっきりと思いうかべることができます。そんなつらい

思いをしても母や子供の私たちにはとてもやさしい父親でした。父が亡くなったのは母

の誕生日の次の日でした。父は自分でプレゼントを買いにいくことができなかったため

友人にたのみ母へのプレゼントを一週間くらい前に買ってきてもらっていました。私は

それを知ったときとても涙がでました。この父と母の子供でよかった、すばらしい生き

方を習ったなあと思う事ができました。 

 長い年月がたった今、母はたくさんの資格をとり忙しく働いてくれています。兄は医

療の大学にいき、私も医療の勉強をしたいと思い、人の役にたてたらと思います。 

  僕の父 

高校一年 越智 真也  

 僕の父は仕事が好きで好きでたまらない人でした。今こうやって書いている時でも頭

の中には働いている父の姿しか思い浮かびません。会社から帰ったらすぐに田んぼに出

て働きます。忙しい時は、夜中の二時から三時ごろまで働いたいたように覚えています

。だから僕の記憶の中で遊びに連れて行ってもらったことはほとんどないと言っていい

くらいです。でも自然の中で教わったことはたくさんあります。ニワトリの世話をして

何日でヒヨコになるかとか、きじを追いかけてころんで血が出た時はどんな草で止血を

しいたら良いかとか、ウサギはどんな草を好むかとか、椎茸の菌の植え方とか、その他

いろんな事を見てきました。他の子達とは違った父とのかかわりあいをしてきたと思っ

ています。そのおかげで今、ずいぶんと役立つことがたくさんあります。 

 その父が何を思ったのか神戸に旅行に行こうと言いました。父の古くからの友人に会

うためです。その旅行は今までとは違った楽しさがありました。その一週間後に地震

起こって見覚えのある道が壊れてしまったりして、人間の作り出したものは自然の力の

前では何とはかないものかと感じたりしました。 

 その次の年の九月に父は仕事に出ていってそれっきりでした。昼過ぎに母が父に電話

したそうです。あと一分早く切るか遅く切ると事故にあわなかったのにと母はかなり滅

入っていました。思えば運命だったんだと、誰が悪いわけでもないんだと、それは仕方

のないことなんだと、今なら母に言ってあげることができます。 

 父は、何かの予感がして、あの旅行で僕たちに何か思い出を残したいと思ったのかも

しれない…。 

  私の自慢、そして決意 

高校一年 永田 真理 

 私のお父さんが死んでから、もう十三年ほど経ちます。まだ私が小さかった頃の事な

ので、お父さんとの思い出は、ほとんど覚えていません。話を聞いていても、何の事だ

かさっぱり分かりません。でも、私が小さかった頃のお父さんとの思い出は、今となる

と、私にとっては自慢です。写真には、いつでもどこでも私とお父さんが写っていまし

た。話を聞くと、私はお父さんにいつも甘えてて、お父さんもどこかに出かける時は私

を連れて行ったりしてた、と聞きました。こういう話を聞くと、いくら私が小さかった

とはいえ、お父さんは自慢です。その反面、とても悲しく感じます。ほんの少ししかお

父さんと接する機会がなかったからです。もっとお父さんに長生きしてほしかったし、

いっぱい思い出をつくりたかったです。何かお父さんと一緒にやり遂げたかったです。

お父さんが死んでからの年月、お母さんが一人で育ててくれ、とても感謝しています。

これまで、お母さん一人で、とても苦労をかけたと思います。これからは、今まで迷惑

をかけた倍くらい、お母さんを助けていこうと思います。 

  父が車椅子になってから… 

高校二年 山中 晶江  

 私の父は、私が中学校二年生の時に動脈瘤の手術をしました。父が、 

「胸が痛い」 

と、言って病院に行ってから三日目の夜に手術をしました。手術をするまで病院を二回

移り、三回目の病院でやっと手術をしてくれるようになりましたがその時にはもう、と

ても危険な状態でした。手術が終わるのを待ってる間「お父さんが死んだらどうしよう

」と。ずっとそんな事ばかりが頭の中をグルグルして、とても不安でした。手術は思っ

ていたよりも早く終わり、父も助かりました。しかし、病院に行ってから手術が終わる

までの時間がとても長く感じました。 

 父の命は助かりましたが、手術が遅れたため、車椅子での生活になりました。父は一

生懸命リハビリをし、車椅子のまま仕事が出来るようになり、父の車椅子の生活が始ま

り私も一緒に出かけたりします。そんな時に思うのが、車の駐車場についてです。車椅

子専用の駐車場に車椅子でない人が当たり前のように停めているのです。私は驚きまし

た。専用駐車場というのは実際には、名前が書いてあったりスペースをとっているだけ

のように思えました。父が車椅子になる前まではそんな風に考えませんでしたが、車椅

子になってからは、もっとまわりに目を向けるようになり、考えるようになりました。

そうすると、他にも私たちは当たり前のようにやっていた事が、たくさんありました。

例えば、眼の不自由な人のための道を、端ではなく真中を歩いたりしていました。 

 父が車椅子で生活を送るようになっていなかったら、きっとこんな風に考えたりして

いなかったと思います。私は、父が車椅子になってから、いろんな所に遊びには行けな

くなりましたがもっと大事な事が分かったと思います。それになにより父の命が助かり

生きていてくれる事が、とてもうれしいです。世の中には両親ともいない人や、片親だ

けの人もたくさんいます。それに比べて私はたとえ父が車椅子でも両親ともいる事がと

ても幸せです。 

 これから先、家族を大切にし、もっとまわりの人に目を向け現状を見ていきたいです

。