ブログの 表部分の詳細につきまして

竹内先生、お世話になります。

下記のURLの収入部分お教え願えれば幸いです。

この部分のガイドがありません。

此れは表になっているからでしょうか?

2019年6月度 家計簿締めました!■2019/06/25 15:50:00

https://ameblo.jp/hinatabokko-2011/entry-12485652896.htmlこれはaiということでしょうか食べた皿、カメラで自動計算 スシローが人手不足対策 (6/25)

 回転ずしチェーンあきんどスシローが、店員が皿を数えなくても自動的に勘定を計算するしくみを導入する。

続けてほしい夜間中学。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今日もさんさんと照り付けてる太陽…

健康のためにも直射日光、たばこ、お酒、ピロリ菌

に気配りしながら健康年齢のキープに努めたいもの

 庭の伐採に精力を集中するあまり

日差し対策もなく、真っ黒け担って、ふんとうちゅう!

背中は焦げるのではないかと思われるほどの強い日差し。

 がん対策としての日差し対策も必要不可欠。

 だけど、残り10900日元気とは言えないまでも

なるべく公開の少ない、さりげない思いの簡潔に向け

一歩前進、仁保交代の日々です。

 中高年層の引きこもりは61万人ともいわれますが

この把握には届きにくいかなりの数値があるようにも思えています。

 学童時、就職における対人関係から「引きこもり秒」に陥る

傾向にあるのでしょうか

おかれた環境からの逃避が「引きこもり病」の手段としての

賢明なる方法に繋がっているのでしょうか?

 ニュースの記事に夜間中学の実態を知り

いろいろな環境下の元必要に迫られて

この中学の門をたたき、年齢も国籍も幅広い中での

人との出会いは同じ目線で語れる気軽さが

人の心の結び目をほどく良き出会いの場ではなかろうかと

強い興味を持ったみこちゃんでもありました。

同じ目線の出会いが一番…

 中高年齢の引きこもり病がどこでも語られ

一つの社会現象として引き寄せて考えられる今回の事件を

よい機会にしたいもの。

 何より引きこもりの子供を持つ親が気楽に話せる

駆け込み寺のようなものが欲しいもの…!

 これからも夜間中学の応援を心静かに関心を持ち続けていたく思います。

産経新聞がこの記事にこだわり続けておられることは

とっても嬉しく感謝の一語です。

   産経よりの引用。

【夜間中学はいま(10)】いじめで引きこもり ここからやり直せる (2019年06月07

日)

 小学校入学と同時にいじめが始まった。次第にエスカレートし、ついに中学1年の夏

、学校に行けなくなる。それから10年余り、自宅から一歩も出なかった。再び社会と

関わるようになると、簡単な計算ができず、漢字も書けない事態に困り果てた。「夜間

中学に行ってみては?」。友人がそう勧めてくれた。

 ■現実からの避難

 引きこもりから脱し、大阪府東大阪市立意岐部中学校夜間学級に通う大野典子さん(

45)。3年目に入った夜間中学生活を「同級生と触れ合うことで少しずつ自分を出せ

るようになりました」と語る。

 アクションゲーム「マリオブラザーズ」に夢中になったファミコン世代。おとなしく

て引っ込み思案の子供だった。小学校でいじめの標的にされた。「ばい菌扱いされて『

近づくな』と言われたり、ランドセルを廊下に蹴り出されたり、上靴を隠されたり…」

 中学校では他の小学校出身の生徒たちもいじめに加わった。小学生の頃から休みがち

ではあったが、保健室登校、遅刻、早退を繰り返すようになった。中学入学から2、3

カ月でとうとう通えなくなった。

 「学校に行かないといけないという気持ちはありましたが、行けばいじめられるので

行けない」。終わりのない葛藤。「ずっと罪悪感がありました。それが一番苦しかった

」。家からも出なかった。「どこで同級生と会うかわからない。怖くて出られませんで

した」

 テレビを見たり、ラジオを聞いたり、本を読んだりの日々で、話をするのは家族だけ

。着替えもせず、風呂にも入らず、髪も伸ばしっぱなしだった。「外に出ないので気に

しませんでした」

 引きこもりは学齢期を過ぎても続き、10年以上に及んだ。「なぜなのか、今も自分

でもわかりません。あの頃は時間の感覚がなかった。昼も夜もない、一日が長いも短い

もない。というか、関係なかった」

 親がいつまでも生きているわけではないのに、どうするつもりなのか-。こうした問

いがしばしば引きこもりの当事者に投げられるが、「当人からするとそういうことを考

える、考えないではなく、考えが及ばない。抜けているという感じです」と当時を振り

返る。「現実がつらいから、現実を見られない。引きこもりは現実からの避難でした」

 大野さんが再び社会と接点を持つようになったのは24歳頃だった。

 ■病気が転機に

 ある日、耐えられないほどの息苦しさに襲われ、救急搬送された。甲状腺の機能が低

下する病気で、定期的な通院が必要となった。結果的に、それが引きこもりから抜け出

すきっかけになった。

 ほとんど動かない生活だったので筋力が落ち、少し歩くだけで足が痛む。我慢して近

所を散歩し、徐々にならしていった。闘病中に友人もできた。「一緒にお茶をしたり、

買い物に行ったりして、生きるって、こんなに楽しいんだと思いました」。止まってい

た人生の時計が動き出した。

 「色鮮やかな外の世界」を満喫する中で、大野さんはこれまでほとんど学んでいない

ことを思い知らされる。買い物に行っても計算ができず、書類にも簡単な漢字が書けな

い。誰にも言えないまま、長い歳月が過ぎた。思い切って友人に悩みを打ち明けると、

夜間中学への入学を勧められた。

 平成29年4月、夜間中学生となった。

 ■弱み話せる仲間

 「お年寄りが通う学校というイメージがありましたが、全然違っていて驚きました」

。入学したときの東大阪市立長栄中学校夜間学級(再編整備で今春閉鎖)にはベトナム

やネパールなどの生徒が多く、現在通う意岐部夜間中学は中国残留孤児の関係者が多い

。多国籍の生徒がいる特色は授業などにも生かされ、「それぞれの国の文化や風習や言

葉を教えてもらうのは楽しい」と笑顔で話す。

 少人数で学ぶ方式も大野さんに合っていた。「分からなかったことが分かるようにな

り、勉強が楽しい。ここでは、一つ一つ学んでいくことができます」

 夜間中学に大野さんをいじめる人はいない。いや、むしろ、大野さんと同じようにつ

らい経験をした人たちばかりだ。「お年寄りも外国人も他の人も、みんながいろんな背

景を持っていて、苦労をしてきた仲間。だから、自分の弱さも含めて何でも話せる。の

びのびできる。人と会うことすら怖かった私が、一緒に学ぶことを楽しんでいます」

 いじめを引き金に、長期間にわたった引きこもり。前向きになれた今、「いじめや引

きこもりで悩んでいる人たちに、いくらでも取り返せる、やり直せると言いたいです」

 夜間中学は、時代状況を反映しながら学びを必要とする人たちを受け入れてきた。大

野さんは言う。「私のように義務教育を十分に受けられなかった人はいっぱいいる。夜

間中学の存在をぜひ知ってもらいたい。ここは決して勉強だけをする場所ではありませ

ん。私は、夜間中学に来ることができて、本当によかった」

◇    ◇

 「夜間中学」に関する体験談やご意見、ご感想を募集します。

 住所、氏名、年齢、電話番号を明記していただき、郵送の場合は〒556-8661

(住所不要)産経新聞大阪社会部「夜間中学取材班」、FAXは06・6633・97

40、メールはyachu@sankei.co.jpまでお送り下さい。

令和元年 沖縄戦没者慰霊祭。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 山里の朝のさわやかな空気に触れ

今日の静寂を受け、先人たちの苦渋の上に

今日あることに改めて感謝の気持ちで祈りたいものです。

 美空ひばり没後30年。

平成の申し子たちには、美空ひばりの存在など知らない。

 戦後の混乱期 少女歌手として「悲しき口笛」が

そこここの街に響いた。

  死の直前の舞台に立つにあたり

親友「中村めい子」に、深夜に一本の電話があったという!

 メイコ、布団の中でリンゴ追分を歌おうとしたら

声が出ない、だから入院するよ」が

生前に交わした最後の言葉であったといわれています。

川の流れのようにを堂々と歌い上げたあのプロ魂の影に

どれほどの人が闘病の最後の苦しみを想像しただろうか…?

最後の舞台で歌い上げた川の流れのようには時空を超えて

きっと残り続けることでしょう。

 6月23日は、令和元年全戦没者慰霊祭が、総理大臣の出席の元

厳かに挙行されました。

 総理大臣あいさつの中で、慰霊の式典における

やじだけは決してあってほしくはありませんでした。

 高齢にもかかわらず式典に参列されたご遺族も

少なくはなかったはず… …

式典にはどのような思いがあろうと

政治的色彩だけは無縁であってほしかった。

 安倍総理の脳裏に去来するものは何でしょう?

 沖縄との信頼関係がなければ

人を不幸に向けるだけではないのか?

 亡き小渕がサミットを沖縄で開いたように

どこか信頼の入り口がなければ

すべての言葉にハートも温度もまったくの取ろうそのもの!

 沖縄の戦争は、決して集結し、穏やかな平和の日々かといえば

それはNoだ!

 安倍総理は、沖縄に寄せている本心を、沖縄県民に語るべきではないのでしょうか。

『できうることはすべてする』とは、すでに県民に背中を向けているといわざるを得ない。

 地位協定の改定、辺野古フルの問題も丁寧に説明する総理たる義務もあるはずだ!

 まるで沖縄を無視したかのような独走態勢…

 沖縄は、多くの犠牲者を生むことすらなかったような結末!

 総理の式典のあいさつは「とってもお上手」

 人の心に響く言葉はどこをとっても見つけようもない

20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から74年。沖縄は23日、令和になって初めての「慰霊の日」を迎え、最後の激戦地となった沖縄県糸満市では、戦没者追悼式が開かれました。

太平洋戦争末期、昭和20年の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が犠牲になり、沖縄県民の4人に1人が命を落としました。

沖縄県は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」としています。最後の激戦地となった糸満市摩文仁平和祈念公園で開かれた沖縄県主催の戦没者追悼式には遺族などおよそ5100人が参列し、正午に1分間の黙とうをささげました。

このあと沖縄県の玉城知事は、「平和宣言」の中で、沖縄の方言と英語を使って「いつまでも平和で安心した世界をみんなで築いていかなければならない。県民の皆さんとともに努力していく」と述べました。

一方、アメリカ軍普天間基地の移設計画をめぐり、ことし2月に行われた名護市辺野古沖の埋め立ての賛否を問う県民投票で、投票した人の7割以上が「反対」の意思を示したことを踏まえ、「結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をもないがしろにするものだ。政府には、県民の大多数の民意に寄り添い辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望する」と述べました。

また、安倍総理大臣は「引き続き、『できることはすべて行う』、『目に見える形で実現する』との方針のもと、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしていく」と述べました。

首相あいさつ中にヤジ 「帰れ」「辺野古反対」…

戦没者追悼式では、事前に式典の間は声を出さないよう呼びかけられていましたが、安倍総理大臣があいさつをしている際、会場からは、「帰れ」とか「辺野古反対」、「うそつき」などといった声が上がりました。

安倍総理大臣が沖縄の基地負担の軽減について触れた際には「ことばはいらない」などと声を上げる参列者もいました。一方、こうした声に対し「黙れ」などと叫ぶ参列者もいました。

 平成天皇初めての沖縄訪問。昭和50年7月17日 初めての沖縄ご訪問の折、ひめゆりの塔で火炎瓶事件があった夜に

県民に対して発表されたメッセージ(当時は皇太子殿下)

「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、

ともどもに力をあわせて努力していきたいと思います。払われた尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、

人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。」

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

諸君!2008年7月号

平成皇室二十年の光と影

■琉歌四十首のノート 外間守善(ほかましゅぜん) (沖縄学研究所所長)

…1975(昭和50)年、沖縄国際海洋博覧会で両殿下が沖縄を初めて訪問されることになったある日、私は東宮御所に呼ばれ、尋ねられた。

戦没者鎮魂のため南部戦跡を訪ねたいのですが、外間さんはどう思いますか」と。

当初の予定には、博覧会場だけで南部戦跡は入っていなかった。これには宮内庁も博覧会委員会も大反対で、一人で悩んでおられたようだ。

南部戦跡が日程に入ることになったのには殿下の強いご意志があったのである。

出発の前日には、殿下が自ら「談話」との一文を書かれた。私は英訳担当の学者と二人、東宮御所で深夜まで検討を重ねた。

帰り際に私が「何が起こるかわかりませんから、ぜひ用心して下さい」と申し上げたところ、

殿下は静かに「何が起きても受けます」とおっしゃった。並々ならぬご決意が伝わってきた。

早朝に御所を出発した両殿下は、沖縄に到着するとまっすぐ南部戦跡に向かわれた。

車が糸満の白銀堂にさしかかった時、白銀病院から爆竹のようなものが車列に向かって投げられた。

幸い事なきを得たが、車はその後訪問した「ひめゆりの塔」で起こった。

慰霊碑に献花をして両殿下が左側に二メートルほど移動した瞬間にガマに潜んでいた犯人が火炎瓶を投げつけたのだ。

火炎瓶は献花台にぶつかって破裂した。警護の人々が両殿下をかばったが、両殿下は前を向いたままだった。

そして、警護の者に押されるような形で車に乗られたという。

もちろん、その後の予定は中止されても当然なのだが、両殿下の予定は一つの変更もなく沖縄師範健児の塔、

島守の塔と参拝なされた。事件後に訪問された各塔でのお出迎えには私の知人が何人もいたが、両殿下は

何ごともなかったかのように自若としておられたという。最後に予定されていた遺族会館では予定に入っていなかった

ひめゆり同窓会の人々をお呼びになって、昼間の事件の心労を慰められたそうだ。

「談話」の一文はその日の夜に発表された。

私は事件を東京で知った。南部戦跡めぐりに賛成しない方がよかったのか、と気をもんでいるところに八木侍従から電話あった。

殿下はその時、屋良知事たちと夕食中だったが「外間さんが心配しているだろうから」とわざわざ電話をかけるよう指示なさったらしい。

沖縄から帰られてすぐに殿下から「琉歌になりますか」と二首の歌を見せられた。

ふさかいゆる木草 めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて

花よおしやげゆん 人知らぬ魂 戦ないらぬ世よ 肝に願て

無名戦士の塔に詣でて、戦争のない世界を祈願なさったであろう両殿下のお姿が髣髴として私には万感胸にせまる思いがあった。

玉城知事の平和宣言、沖縄言葉と英語交え 政府へは批判

http://www.asahi.com/articles/ASM6R36DDM6RTPOB003.html

ますます増える孤独死。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 この時期、孤独死の発見が多いい時期とされています。

 決して他人事とは思えません。

単身者であれば、だれもが該当者ともなりうるわけです。

 唯一、コープの宅配とかかわっていることと

ゴミステーションのボランティアをしていることで

異常があれば連絡不能ではないのだと思っています。

医者嫌いでもあるので、この孤独死には極めて

神経質にならざるを得ません。

家がいつの間にか“ゴミ屋敷”になる。

皆さん、ひと事だと思わないでください。」

各地で相次ぐ孤立死

社会問題化するゴミ屋敷。

実はほとんどが、ごく普通の生活をしていた人たちです。

ちょっとしたきっかけで生活や健康が極端に悪化。

それでも周囲に助けを求めない「セルフ・ネグレクト」と呼ばれる状況に陥っているのです。

セルフ・ネグレクトを経験した女性

「生活するだけでいっぱい。

情けない。」

専門家

「ごく普通の方でも、高齢になって心身機能が低下してくるとか。

非常にショックな出来事があると、セルフ・ネグレクトに陥る。」

阿部

「『セルフ・ネグレクト』とは、生活環境や栄養状態が悪化しているのに、それを改善しようという気力を失い、周囲に助けを求めない状態を指します。

“ゴミ屋敷”や“孤立死”の原因とも言われます。」

和久田

「『セルフ・ネグレクト』に陥るきっかけは、配偶者や家族の死。

そして、自分の病気や仕事を辞めるなどさまざまで、年齢に関係なく陥ると考えられています。

社会問題となっている孤独死やゴミ屋敷の背景には、高い割合でセルフネグレクトの傾向が確認されているという。しかも、これは決して特殊な話ではない。病気や失業などをきっかけに、誰もがそのリスクに直面することがありうるのだ。

もし、自分や家族がセルフネグレクトになってしまったらどのような結末が待っているのか、解決策はあるのか。最前線で日々奮闘している特殊清掃業者や、家事代行業者の現場を追った。(ノンフィクション・ライター 菅野久美子)

●「ついにこの季節がやってきた」

「毎年ついにこの季節がやってきたか、って思うんですよねぇ。孤独死の件数ってゴールデンウィーク明けに増え始めるんです。理由は簡単。気温が上昇して腐敗が進みやすいから、近隣の人がその悪臭に気付いて通報するんです」

プルプルプルプル――。そう話す間にも、特殊清掃会社「マインドカンパニー」(本社・東京都大田区)代表の鷹田了さんのスマートフォンには引っ切りなしに依頼の電話がかかってくる。相手は懇意にしている不動産会社からだった。この夏、鷹田さんは不動産会社や遺族から殺到する依頼を受け続け、ほとんど休みなくフル稼働で現場を飛び回った。

その大半が部屋の中で孤独死した人の清掃だ。ピークを迎える夏は、1日2~3件、現場を飛び回ることも珍しくない。そのくらい孤独死現場の依頼が多いということだ。

2011年に民間のシンクタンクニッセイ基礎研究所」が発表した調査結果によると、日本では年間約3万人が孤独死孤立死)している。そして、孤独死はこれからますます増えていくと予測している。この調査結果では、孤独死の8割がセルフネグレクトだと結論付けている。

鷹田さんも、「孤独死される方は、セルフネグレクトの方ばかりですね」と、実感している。

「今年の孤独死の清掃も、ほぼすべてと言っていいほどセルフネグレクトのお部屋でした。物を片付けられないごみ屋敷だったり、酒浸りだったり、インスタント食品が転がっていたりとか、そういう不摂生な生活であることが部屋に入った瞬間にすぐに分かります。

意外に思われるかもしれませんが、孤独死される方って、40代後半から50代がすごく多いんですよ。性別でいうと、男性の方が多いです。健康に不安がある高齢者とは違って、まだ本人も元気だと思っていて安心しているというのもあるかもしれません。属性を細かくみていくと、離婚歴がある方が目立ちますね」

孤独死現場に共通しているもの

鷹田さんは、これまで手掛けてきた孤独死案件の現場写真を見せてくれた。

東京都東久留米市の1Kのアパートには、うず高く積もったコンビニとスーパーのごみの山で、窓の外が半分しか見えなくなっていた――。住人の男性(40代)は、食べ物の袋や雑誌などのごみの下に埋もれて息絶えていたのだという。また、東京都江東区の1DKのアパートでは、布団の周囲に鍋や酎ハイの缶などがこれでもかと積み重なっていて、故人の男性(50代)が寝ていた布団は、赤黒い体液でぐちゃぐちゃになっていた。

この男性は、いずれもセルフネグレクトの特徴を示していたという。

「どこか体を壊している人が多いんです。顕著なのは足腰ですね。つい最近手掛けたのは、一人暮らしの男性の賃貸アパートでの孤独死だったんですが、ロフトだけで生活していたみたいで、ロフトの上に大量のペットボトルがあるんです。

ペットボトルの中身は全部尿です。便も垂れ流し。ロフトから降りるのがきつかったみたいで、最後はトイレに行くのも苦痛だったんだと思います。部屋の中に尿を溜めこんでいる人は多いですね。寝ている範囲から動きたくないんだと思います。

亡くなる場所は、布団だったり、ベットだったり様々ですが、玄関で亡くなる方も結構いらっしゃるんですよ。それは、やはり外まで這って行こうとして、力尽きて亡くなったんだと思います。苦しくて外に助けを求めようとしたんのでしょう。あと、孤独死する人は、社会的に孤立している人が多いと感じます。人との繋がりが感じられない人がほとんどですね」

孤独死が起きると・・・

一度孤独死が起こると、近隣住民、遺族には多大なる負担となる。鷹田さんによれば、今年の夏は、発見まで1~2週間かかったケースが多かったというが、それでも短期間の間に階下まで体液が染みてしまうという。

費用はケースによって異なるが、鷹田さんの会社では、純粋に汚染箇所の特殊清掃のみだと、1Kで約25万~30万(遺品整理は除く)。下の階まで体液が漏れ伝うなどすると、その2倍~3倍の費用がかかってくる。

埼玉県の分譲マンションで起こった孤独死のケースでは、死後1か月が経過していた。体液が下の階にまで漏れ伝わったため、階下の年配の夫婦は2週間以上のホテル住まいを余儀なくされたのだそうだ。

たまたま、住民が孤独死の特約が付いた火災保険に入っていたため、費用は全額保険会社の負担となったが、階下まで被害が及ぶとなると苦情は必至だろう。警察は、ほとんどのケースで遺族を探し出すが、肝心の遺族は、その費用ですらまともに支払うことができなかったり、相続放棄して拒否するなどして、トラブルに発展することも珍しくない。

このように、様々な問題を引き起こす孤独死であるが、それを防ぐには、やはりその前段階のセルフネグレクトに目を向ける必要がある。

後編(ゴミ屋敷に埋もれた「大切なメッセージ」…孤独死防止へ「御用聞き」が心の大掃除 →https://www.bengo4.com/internet/n_6714/)では、実際に家族がセルフネグレクトに陥ったらどうすればいいのか、「片付けられないお部屋」と真っ正面から向き合っている、ある家事代行業者の取組みから解決策に迫る。

【著者プロフィール】

   

孤独死した40代女性「社会的孤立」が招いた悲劇 -

http://toyokeizai.net/articles/-/287355

母として、あなたに会えた喜び…!

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

  一日で4時からの時間はとっても貴重な時間

 白湯をいただきながら、「そよ風のささやき」の調べを聞きながら

今日の一日に思いをはせる。

 死に仕度の一つとして、今庭木の伐採に余念がありません。

どのようなときも、見守り続けてくれた植木達

良くも悪くも気持ちを和ませてくれた

山茶花沈丁花モクレン、難点

花見月、多くの五月達、カエデなどなど、

やりきれない気持ちまで、そっと包み込んでくれてもいた。

 そんな植木を始末することには、一抹のこみ上げるものがあります。

  みこちゃんには、お母さんになることで人は大きく育てられることを

同級生であったり、いとこであったり、多くのお母さんから

その成長過程の一部でしょうが知らされても来ました。

 もはや墓場を直前にしながら わが身の幼さが

恥ずかしいほどにあふれかえっております

 義理の姉の子育ても苦難坂そのものでした。

  甥が幼いころから、「精神力を鍛えなければ」とのコンセクトの元

毎度嫌がるお糸30分ほどの格闘の末

剣道にやっと防具をつけ引っ張るように連れて行っていました。

そんな状況ですから進歩の家庭も答えは皆無でした。

 遅い仕事から帰った姉が、宿題の点検と

塾の予習まで甥がこっくり状態の中

まるで「ママゴン」そのものの子育てであったように思います。

 甥兄弟たちは夏休み、冬休み、春休みをわが家で過ごしていました。

 みこちゃんも仕事をしていましたがせめて我が家だけでも思いのままに過ごさせてや

りたかったので

帰宅すると家は散乱状態!

冷蔵庫は、食べつくされるほどあきれ返るほどではありましたが

何一つ大声を上げることはありませんでした。

 毎日近所の子供の遊び場となっていたようだ♪

 それが良かったのかどうかは今も答えはありませんが…

 その甥が、母の思い通りにならなくなったのが高校生になってからでした。

暴走グループとの接触から家に帰らなくなったり、不良化するには時間がかからなかっ

たと当時の様子を姉は振り返ります。

 当時県警勤務であった姉の職場も退職もちらつくほどにまで

有名にもなっていました。

 そのような状況にあっては大学進学までも夢のまた夢…。

 そんな甥の転機となったのが24歳の彼女の存在でした。

 二年ほど、安定的な交際もしていたことで

安堵していた矢先、彼女の親の大反対もあり

甥は失恋を受け入れることとなり

その後の生活がどうなるのかとっても心配しましたが

 姉が幼子のように寄り添って眠ることで、老いも母の本気度と信頼が

初めて芽生えたのではと感じています。

 今甥は元、二人の子連れの人と結婚し

我が子も少額一年生を無化へ、幼いころから興味を持っていた

備中神楽を親子で学び人前で披露できるまでになっています。

勤めを終えてからのけいこも好きなればこその楽しみのようです。

 姪が双子を出産した当時 姪はしょっちゅう我が家に双子をあづけて

車で出かけていました。

 その後の双子ちゃんは姪が車で出かけると同時に

お決まりコースのように顔面を真っ赤にして

力の限り泣き叫ぶ様には本当にお手上げでした

しばらく二部合唱は続きますが、ひたすらあきらめるのを待つしかなかったのです。。

本当に子育ての難しさと疲労感を覚えるしかありませんでした。

 みこちゃんのお母さんメール。

 天国のお母さん、お元気ですか。

桜散る小春日和にお別れしてから何年になるでしょう?

 みこちゃんはあなたが旅立った年寄り、14年も長く長く生きてます。

 だけどみこちゃんは、お母さんとお別れした時のまんまの世間知らず。

  お母さん亡き後、初めてご近所のお方から

パワー全開のあなたがそのエネルギーが擦り切れ

田んぼに倒れこんでいたことを初めて知らされました。

毎日作ってくれた食事にも不思議など心寄せることなく

毎日食べていた自分がとっても恥ずかしくちっちゃく思えています。いまだ人の痛みも

わからぬみこちゃんが

この世に踏みとどまっています…

 母の愛は海より不快を、いまさらのように感じています。 まるでマザーテレサのよ

うなお母さんを超えることなんて

100歳まで生きたとしても

お別れした時のままのみこちゃんだと思います。

 あなたが最後の力を振り絞って残してくれた手編みのせーたー!

みこちゃんには、つらすぎて今なお、セーターに手を通すことなどできていません。

 あなたが旅立って、まなしに兄弟、いとこたち6名まで言葉もなく

急ぐかのようにお母さんの元へと旅立ってしまいました。

 みこちゃんもあなたのもとに行きたくて行きたくて

夜ごとさまよいましたがあなたのもとにはいくことがかないませんでした。

お母さん、あいたいあいたい今すぐにでも

 どうか虹の橋で待ち続けていてくださいね

… …あなたと会えたならとオカリナをアカネ空に向かって吹いています。

あなたに、笑われそうな音痴ぶし…

 このメール天国のお母さんに送ります。

今だから分かる、

母の本当のやさしさ

「お母さん」という仕事は、この世で最も大変な仕事の一つだ。休日なし、24時間交代

なし、ときに料理人、あるときはクリーニング屋さん、保育士さん、看護師さん…。一

人何役も同時にこなす気力と体力が求められる。そして、何があっても子どもを守るこ

とが最優先。重大な責任がありながら、当然お給料はない。

でも、お母さんはあなたのことが大好きでたまらない。子どもを守るためなら、それこ

そどんなことだってできる。寝る時間が少なくても、自分がお腹ペコペコでも我慢でき

てしまう。

あなたが笑ってくれたら、たとえ自分のことが上手くいかなくたって、何十倍も嬉しい

。だから大変なことも、辛いことも、あなたに心配かけたくなくて、あなたに幸せでい

てほしくて、たくさん隠してきた。

本当は、あなたに

いっぱい泣かされたのよ

を一生懸命産んだとき、苦しくて泣いた。あなたを初めて両腕で抱きあげたときにも。

ときには幸せすぎて、怖くて、心配で、あなたを心から想うばかりに、いっぱい涙を流

してきた。あなたは気がついていなかったかもしれないけれど、お母さんはあなたの痛

みも喜びも、あなたと一緒に味わい、分かち合ってきたのだ。

最後のひと口、

ママだって食べたかったな

おいしいケーキの最後の一切れ、本当はお母さんだって、ちょっと食べたいなって思っ

てた。でも、あなたの「もう一個ちょうだい」と懇願する大きな目を見てしまったら、

食べることなんてできないでしょ。自分で食べてしまうよりも、あなたのお腹が満たさ

れる方がずっと幸せだと、本能的に知っていたから。

本当は、とっても痛かったのよ

あなたに髪の毛を引っ張られたとき、じつはけっこう痛かったの。小さな爪をたてて、

お母さんの腕をつかんだときも、おっぱいを飲むとき生えかけの歯で乳首を噛んだとき

も、お腹の中からどんどん蹴られたときだって。妊娠中、どんどんお腹が大きくなって

いったときも、そして、あなたがこの世界に出てくるときは、どうやって痛みに耐えら

れたのか、思い出せないくらいに。

いつも心配してたの

守るために全力を注いできた。お隣の子が赤ちゃんのあなたを「抱っこしたい」と言っ

たとき、本当は断りたかった。あなたが彼女にだっこされている間、生きた心地がしな

かったわ。だって、自分の他にあなたを守れる人間なんて、この世に存在しないのだか

ら。

あなたが初めて歩いたとき、嬉しいのと同時に心臓が飛び上がる思いがした。ちょっと

つまずいたり、転んだりすればそばに駆け寄り、悪い夢や突然の熱発におどおどしなが

ら、とにかく必死だった。やがて、成長したあなたが無事に帰ってくるのを毎晩、夜遅

くまで待ち、翌朝あなたを学校に送るために早起きもした。ただただ、あなたが心配だ

ったんだ。

「完璧なお母さん」

なんかじゃない!

こと、あなたの母親として自分自身を振り返るとき、とてつもなく辛口な評価をしなけ

ればいけない。常に母親として欠点だらけだと自覚していて、ときどきそれで自分が大

嫌いになる。あなたには、何ひとつ間違ったことをしたくないから、完璧なお母さんで

ありたいと願ってきた。

でもお母さんだって所詮人間だから、やっぱり間違える。あなたが大きくなった今も、

あのときの間違いをときどき悔やんでいる。できることならあのときに戻って、もう一

度あなたのためにやり直したいとさえ思っている。

でもそれは叶わぬ話。あのときのお母さんは、できる限りの知恵と力を振り絞って、あ

なたのためにベストを尽くしたのだ。それだけは心に留めておいて欲しい。

毎晩のように

寝顔をずっと見てたのよ

ときには、あなたが全然寝付いてくれなくて、「お願いだから眠って」と祈りながら明

け方3時を迎えてしまう日もあった。お母さんは重たい瞼をこじ開けながら、一生懸命子

守唄を唄ったわ。

ようやくあなたが眠りにつき、そっとベッドに寝かせたとき、それまでの疲れがふっと

消え去る瞬間が訪れた。「自分がこんなにも誰かを愛おしく想えるなんて」。まるで天

使のようなあなたの寝顔を見ているだけで、幸せに包まれていたから。

四六時中、ずっと

あなたを抱いていたのよ

する技だって身につけたんだから。あるときは食事をしながら、眠っているときだって

、ちゃんと抱っこしていた。腕はものすごく疲れるし、背中も痛いけどね。

でも、あなたが近くにいたいと願うだけ、お母さんはあなたのことを抱っこしてきた。

ぎゅっと抱きしめ、愛情を注ぎ、キスして、一緒に遊んで。お母さんの腕の中は、本当

に安心できる場所でしょ?だからお母さんは、あなたが必要とするぶんだけ、いつでも

ずーっと抱っこしてたの。

あなたが泣いていると

胸が張りさけそう

お母さんにとって、あなたの泣き声ほど悲しい音はなかった。あなたが顔をくしゃくし

ゃにして涙を流している姿ほど、いたたまれないものはなかった。あなたが泣き止むよ

うに、できることは何だって。それでもあなたの涙が止まらないとき、おかあさんは、

ただ黙って抱きしめてあげることしかできないでいたの。

いつだってあなたが一番

あなたのためなら、自分がごはんを食べるのを忘れてしまう。お風呂に入るのも、とき

には眠ることだって。お母さんはいつもあなたのことが先決で、自分のことは後回し。

あなたのために一生懸命。一日が終わる頃には、自分のことをするだけの体力が残って

いなかった。それでも翌日はまた、あなたのために全力投球。それだけあなたが大事だ

ったから。

いつでも何度でも、

やってあげる

き追い詰められることもあった。泣いて、傷ついて、また挑戦し、そして失敗し、行動

し、学んでいく。それまで思い描いていたものをはるかに超える喜びと、自分の胸に収

まりきらないほどの愛を感じることができる。

辛かったり苦しかったり、夜遅くまで起きていたり、早起きしなくてはいけなかったと

しても、お母さんはあなたのためならいつだって何度だって、力になってくれた。あな

たにはそれだけの価値があるのだから。

 金融業界の信頼性は期待値が薄くなっている。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今日は夏至の日、関西地区ではタコを食べるとか…?

蒸し暑さに吸い付かれたら大変!

 早朝の大地は、ぱさぱさ状態

野菜たちには水やりなどの管理は怠れません。

本当に手間なくしては、店頭に並ぶみずみずしい野菜は

手に入れることなどできないのです。

 老後のわずかな虎の子…

 みこちゃんも騙された一人です。

今では個人年金にすべてシフトしていることで

お金の管理はご無用となりました。

その適正については?

 証券での金融取引に関する手数料の発生には

その一部が営業マンの収益になっています。

ですから営業マンはバックの多いい商品の売り込みに躍起となるわけです。

 働いたお金が瞬時のうちに証券に飲み込まれたのでは悔やみきれない思いに包まれます。

 素人判断として、このように厳しい経済環境

厳しい金融情勢から考慮し、おいしい話白菜と決めつけています。

 あの野村證券ですら不正行為をしなければならない実態!

今ではネットで簡単に開設でき、小額投資ニーサの利用まで自在ではありますが

お年寄りがこれの利用が簡単にできない人もかなりあります。

 郵貯にせよ、証券にせよ

個客優先事業ではないことを、多くの学習量を収めて学ぶこととなりました。

 ゼロ金利の今、運用するより守る体制も必要かも

あの世雪貯金は、必要諸経費です。

主要商品 営業員へのバック

国内株式 最低2600円程度

 米国株式 取引額の約2.5%

(店頭取引の場合)

投資信託 販売手数料:約2.0~3.5%

外貨建て債券 販売手数料:約4.5%

売却手数料:約4.5%

国債 ほとんどゼロ

なかでも、外貨建て債券は、販売時・売却時ともに5%前後がバックされるので、営業員から特に好まれます。

また、米国株式も営業員にとってはオイシイ取引です。

株取引の場合、売買は同時に行うので、往復分の約5%がバックされます。

さらに、債券や投資信託と違って短期売買が可能ですから、値動きが激しい銘柄を一度に販売できれば、営業員はかなり儲かるのです。

一方、営業員へのバックがない国債は、ほとんど勧めませんね。

― 売りはどのようなタイミングで提案するのでしょうか?

営業員の都合です。

顧客の利益とは関係ないタイミングで勧めることがほとんどでしたね。

売買の回数が多いほど、S社も営業員も儲かるので、顧客に商品を長期間持たせることはありません。

たとえば、S社には「投資信託、外貨建て債券は最低1年間保有していただく」という社内ルールがありますが、1年経った途端に売却を勧めていました。

― 顧客が勝手に商品を売ってしまうことはないのですか?

ありますよ。

S社のホームページにログインすれば、自分で売買できますからね。

しかし、営業員は「ご自身で判断すると危険です」などと言って、勝手に売買しないよう促していましたね。

― 営業員の提案に従った結果、顧客の資金がショートしてしまうこともありますか?

もちろんあります。

たった半年で2,000~3,000万円の資金がゼロになった方もいましたし、借金を抱えた方もいますね。

特に危ないのは、信用取引です。

信用取引をすれば、持っている資金以上の金額を投資できますが、リスクも大きいです。

ですから、「アリアリ」の顧客が信用取引を始めると、「あとどれくらいの命だろうね」

と営業員同士で噂することもありました。

   アサヒコム寄りの引用

入金2350万円が残高5万円に 東郷証券の被害者語る

 「高齢者がためた大切な金を食い物にしていた。営業実態を隠すために損失補?(ほてん)していたのではないか」。幹部らが逮捕された東郷証券について、捜査関係者はこう指摘する。

東郷証券取締役を損失補てん容疑で逮捕 東京地検特捜部

 関東地方に住む主婦(71)には2016年9月、社員から突然電話がかかってきた。「サポートがつくので安心」とFX投資を勧められ、入金に応じた。

 その後、毎日のように入金を勧められ、11月中旬までに計約2350万円を入金。だが1200万円以上の損失が生じ、ショックで食事もとれなくなった。口座の残高は5万円だった。

 翌17年4月、弁護士に相談した。だが同社の代表取締役常務から「弁護士に任せるのは良くない。全額返すから誰にも言わないで」と言われたという。手続き書類を送ると言われた直後の今年2月、同社に監視委の強制調査が入った。

 「サポートを信じ、だまされてしまった。許せない」。女性は5月、同社に1375万円の損害賠償を求め東京地裁に提訴した。代理人の本杉明義弁護士は「高齢者にハイリスクなFXを勧誘し、全財産をつぎ込む取引をさせ、損失補?すると述べる手法は詐欺的だ」と批判している。

  わが心のエッセンス

お金を獲りに行くと、お金は逃げる

信頼を獲得すると、お金が集まる

お金は信頼、信用が大好物

 中年の引きこもり体験から!

  

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今日のスタートも4時。

田舎の暮らしは、この時間帯は誰もがお決まりの散歩であったり

草刈り機のエンジン音が心地よく耳元に届いています。

朝の気温はすでに23度、湿度も79パーセント

蒸し暑い一日になりそうです。

 外出といえば一週間にせいぜい一度

一日人との会話もない日だってあります。

 これってひょっとして、ばーばの引きこもりモデルなのかも…

唯一独り言を、畑周辺の小鳥たちに

思い切り、ぼやくはぼやく!

これって、唯一のストレス解消法!

 仮面家族形態も少なくない現代傾向の中

食卓の役割は大きいと思うものでもあります。

せめて夕食だけでも家族そろって

楽しい食卓にしてほしいものです。

幸せは気づくもの

家族のオアシスとしての役割がどれほど担われているのでしょうか?

 大人の引きこもりは、61万人ともいわれていますが

数え切れていない人数をたどれば有に100万人は超えているのではないだろうか?

 引きこもれる唯一の最後の砦は過程でしかありません。

 気持ちのストレスが両親に向かうしかない心の闇は

果てしなく遠く、家族の心身の疲労もピークに…

社会でどうにか支え、社会への一歩の礎があったならと思えるものでもあります。

引きこもり体験者の手記。もりから脱出し、社会復帰を果たした若者の手記を掲載しています。現在引きこもりで悩んでいる方、                              またそのご家族にとって、少しでも参考になれば幸いです。

事例1:Aさんの手記

1 自己紹介

私は現在40歳の男性です。30歳からおよそ10年間、仕事もなにもしていませんでした。2017年の5月から、ハローワークの紹介で、若者サポートステーション(以下「サポステ」と表記。)に参加するようになりました。2017年の10月から、公共施設で清掃のアルバイトをしながら、介護の資格をとる勉強をしました。資格がとれた今は、清掃のアルバイトは続けたままで、週に2回ほど、福祉施設で介護職員としても働いています。

2引きこもりに至った経緯

高校を卒業して専門学校に進学しましたが、クラスメイトとの人間関係がうまくいかなかったのと、車で大きな事故をしてしまったのが重なって、気持ちが疲れてしまい、専門学校を中退したあとは、アルバイトを転々とした、フリーター生活をしていました。

学生時代から仲が良かった友人も何人かいましたが、僕以外の友人達はみんな、高校を卒業してすぐに就職し、親元から離れてしっかりと自立していきました。そんな友人達に置いていかれないよう、自分なりに必死で友人達の背中を追いかけていました。昔は一緒に冗談を言い合って笑っていた友人達も、次第に会話の内容が仕事や、恋人、結婚や、将来の家庭の話題ばかりになっていき、いつまでも学生時代の気分でいた僕は、友人達の中でも明らかに浮いた存在になっていきました。

僕と友人達との生きている世界の違いに長い間ずっと負い目を感じていたのと、その当時にしていたアルバイトでパワハラ的なことを受けていたのもあって、僕の居場所はもうどこにもないと、強く感じるようになっていました。完全に気持ちが折れてしまった僕は、アルバイトも辞めて、友人はひとりも居なくなり、他人と関わるのが怖くなって、家族以外とは会話をしなくなりました。

3 引きこもり期間、何をしていたか、何を考えていたか

引きこもっている間は、ハローワークに行ったり、専門家に相談したりといった将来に向けての行動は何もしないで、眠くなるまで起きていて、目が覚めるまで寝ていて、お腹が空いたら何かを食べて、という感じで、時間の流れに浮いているだけの毎日でした。引きこもりだしたころは、自分を受け入れてくれない、迎えてくれない、認めてくれない、優しくしてくれない社会や世の中に、とてもイライラしていました。でも、しばらくしたら、このまま働きもせずに親に甘えていてはいけない、でも今さら自分には何もできないし、こんな自分を働かせてくれるところもないし…と、だんだんと自己嫌悪が大きくなっていって、この世から消えてしまいたいと思うようになりました。でも5年ほど経過したらもう、悩んだり落ち込んだりするのにも飽きて、社会生活や人間関係の方法をすっかり忘れてしまったころには、気持ちが晴れて、開き直ってしまいました。そうなってくると逆に引きこもっていることが楽しくなってしまって、引きこもり生活から抜け出せなくなっていました。

そんな生活でも、僕の場合は、一日に1時間だけでも、絶対に外出するようにはしていました。理由は、昼間に家にいるということにとても罪悪感を感じていて、一日のうちに、少しでも外出しないと、罪の意識に負けてしまいそうだったからです。ただ、外で誰か知ってる人に会うのがとても怖かったので、帽子をかぶり、メガネをして、誰とも目を合わせず、なるべく下を向くようにしていました。

4 引きこもっている間に、してほしかったこと

引きこもっている間は、あくまで僕の場合ですが、家族に「頑張って」と言われるのが、とても苦痛でした。自分なりに苦労して、耐えて、努力して、精一杯頑張ったんだけど、それでもうまく行かなかった結果、引きこもってしまったからです。「頑張って」より「頑張ってたんだね」と、せめて家族からだけでも、自分を認めてほしかったなと思っていたし、それは今でも思っています。そういう思いから、家族でも相談しづらいことがあったので、誰かに、とにかく自分のことを聞いてほしい、知ってほしい、という気持ちが強くありました。

5 働こうと思ったきっかけ

働こう、と思ったきっかけですが、まったく働く気のない僕に、何年も何も言ってこなかった母が、ある日突然に、生活費の相談をしてきました。謝るのは僕のほうなのに、やりくりが下手で申し訳ないと、母は頭を下げてきました。その数分後には、ハローワークに向かっていました。

6 サポステに来た経緯

僕がサポステに来た経緯ですが、僕はサポステより前に、ハローワークに行きました。まず、働く場所ではなく、働くためにはどうしたらいいかを、ハローワークで相談しようと思ったからです。このときはまだ、サポステのことは知りませんでした。

ハローワークで相談してもらってみると、僕の場合は引きこもり期間も10年と長くて、いきなり働き出すのではなく、まずは忘れてしまった社会生活や人間関係の方法を思い出しながら、生活リズムを改善するのから始めてみてはどうか、と提案してもらいました。そこで初めて、サポステを紹介してもらいました。サポステに参加しはじめのうちは、週一回ずつくらい、慣れてきたら週に数回と、僕の場合は、ジョブトレーニングを中心に参加しました。ジョブトレでは、パソコンを使ってアンケート結果の入力や、市役所へ行って、市内に配布する広報の仕分けの作業など、興味はあっても個人ではなかなかできないような事を、実際の仕事として体験しました。中でも農業体験や掃除体験というものが僕は好きで、現場で働いている人が一緒になって、実際の仕事を体験させてもらえるので、より実践に近い環境での仕事を、みんなで楽しく体験することができました。自分の中で、気持ちが少しずつ前進していくのを、実感していました。

7 就活をしていて大変だったこと、苦労したこと

働くために苦労したことですが、まず必要になる履歴書が、僕の場合はアルバイトを転々としてからの長い引きこもり期間があったので、どうやって履歴書を書いたらいいのかが、わかりませんでした。なので、自分で書いた履歴書を、サポステで何度も何度も見直してもらいました。

そうやって苦労して書き上げた履歴書を持って、実際に、とある仕事の求人に面接に行ったりもしました。その面接では、10年間も働かなかった理由、働いていない間なにをしていたのか、前の仕事を辞めたあと、なぜすぐにまた働こうとも思わなかったのか、という感じの質問ばかりされました。

もちろんそういう質問をされるのを覚悟して面接を受けたのですが、そんな質問に答えれば答えるほど言い訳ぽくなってしまい、結局最後まで自分をアピールできずに面接は終了して、その求人は不採用となりました。

8 成功した就活例

具体的な就活としては、サポステに参加して3ヶ月ほど経ったころから、介護の資格をとるための勉強を始めました。

さらに、サポステで参加させてもらった掃除体験がきっかけで、清掃のアルバイトを始めることができました。平日は清掃のアルバイトをしながら介護の勉強をして、去年の12月に資格を取ることができて、今は介護の福祉施設で、介護職員としても働いています。

9 働きだしてから感じたこと

僕の場合は引きこもりだしたのが30歳からで、しかも期間が10年と長く、40歳からの再出発なので、正直なところ、やる気の気持ちに、年齢的な体力がついていってないな、と思うときが、よくあります。とにかく体調を崩さないように、家に帰ってきたらしっかり食べて、ゆっくりとお風呂に入って、家族と会話して、寝る時間と起きる時間を毎日同じにする、という感じで、できるだけ生活のリズムを変えないようにしています

10 みんなへ言いたいこと

僕から言いたいことなんですが、今日まで引きこもっていて、明日から急に仕事をするなんて、とてもハードルが高いことだと思います。なのでまずは、自分の好きなことのイベント、同じ趣味の仲間での集まり、興味のある行事など、なんでもいいので、何かに参加するようにしてみてください。

でもただ参加するのではなく、例えば、週に1回、一ヶ月に1回でもいいです。参加する日にちと時間が、しっかりと決められているのがいいかと思います。それに参加できるようにするには、それまでにどんな準備をして、前の日には何時までに寝て、当日は何時には起きて支度して家を出ないといけないのかな、という気持ちを持つのが、ポイントだと思います。僕はこの、参加する日にちと時間が決められているものが、サポステでした。

実際に働きだしてからのことを想定して、明日はサポステだから、今日は夜更かしせずに、明日は早起きして、朝の9時には家を出なきゃ、という気持ちの生活を、半年ほど続けました。そうやって、じっくりと時間をかけて、気持ちと生活のリズムをしっかりと整えるようにしました。

11 最近の出来事

最近の事なんですが、この前、僕の給料でお母さんに食器乾燥機を買ってあげました。大事に使うよ、ありがとうと言ってもらえて、本当に嬉しかったです。

お問い合わせ

生涯学習生涯学習課青少年の家

電話番号:0566-76-3432  ファクス番号:0566-76-1131

引きこもりを過剰に警戒する人の大いなる誤解 -

http://toyokeizai.net/articles/-/287373