皇太子さま、視覚障害マラソンの伴走体験!!

 皆様、お世話様でございます。

ブルーベリーの木の葉っぱが真っ赤に色づいています。

春には花を、初夏には実をいろんな季節を与えてくれるブルーベリーです。

今日は秋空のもと、サツキの伐採に余念がありません。

サツキの間に竜のひげが我が物顔で根を増やしております。

 パソコン初心者の練習について行けたならと報告を

楽しみにいたしております

文章の入力も、かーそるだけでも見えたら簡単とは思うのですが

私は同程度のお方にお付き合いいただき

メール交換いただき、ご指摘いただいたことで

どれ程すくわれたかわかりません

一行分はいつもあっちこっちと暴れまくっていました。

それは今も名残を残してもいます!

 この度パラリンピックの銀メダリストの

道下さんが、皇太子さまのサポートを受けながら

皇居で伴走の体験をなさいました。

 よろしかったらその記事に振れてみてくださいませ

どこにごえんが在るやら判りませんね。

皇太子さま、お忍びでパラ選手の伴走 動画サイトで準備

http://www.asahi.com/articles/ASLBV0VG1LBTUTIL070.html

     外交の脅威はちゅうごく!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

今日も快晴、ブルースカイ blueday。

イ この時期を 上手に活用したいものです。

 中国問題が国会で取り上げられなかったことはとても残念です。

 日本は経済大国中国に長年にわたり経済支援し続けてきました。

中国はたいこくしゅぎをとなえ、世界とはなじみにくい国独特の思想間を独走させ

世界を震撼させています。

目新しいことは少なかったともいわれるが、日中関係が改善され、多くの協力案件を進

ることが合意されたのは安倍訪中の成果だ。

市場経済原理に忠実な日本企業と、そうでない中国企業との間で、協力が成り立つか、

そもそも問題がある。たとえば、第三国で日本と中国の企業が協力するといっても、実

際には意見が分かれたり、現地の政府と中国の企業が投資は適切だと判断しても、市場

の論理と現実を厳格に見る日本企業は同意できなかったりすることがある。今回の合意

では、タイの高速鉄道建設プロジェクトなど協力が困難と目される案件は初めから除外

されていたようだが、52の合意プロジェクトについても日本の企業が不利な立場に置か

れる危険があ

る。

貿易交通路でもある海洋問題が「かたられなかったのかどうか」?

 中国会談が行われた矢先に

中国軍機、対馬海峡の上空飛行…自衛隊が緊急発進 首相訪中終えたばかり (2018年10

月29日)

 防衛省統合幕僚監部は29日、中国軍機1機が東シナ海日本海を飛行し、航空自衛

隊の戦闘機をスクランブル(緊急発進)させたと発表した。

日中関係が改善され、中国が前面に出したのは李首相というカード 安倍訪中で「協調」演

じた日中会談の淡い成果

http://toyokeizai.net/articles/-/246163

     本日のスタートメニュー。

 ごはん、白菜上げわかめねぎの味噌汁

鶏のから揚げと生野菜トマト添え、小松菜の卵とじ

ヨーグルト、バナナ

     ではごきげんよろしゅうに・・・。

日中関係が改善され、

     積み木くずしが語りたかったもの!

          ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今日も穏やかな日差しに合唱♪

早起き鳥たちは5時を待つかのように「ぴーちくぱーちく」

たのしげにだんしょうしながらえさをついばんでいます。

なぜかしら!

ナンテンの実には寄り付きもしないのです。

[積み木崩し]の著者であります穂積 隆信さんがご逝去されました。

 まさに穂積家は積み木くづしそのものであったのかもしれません。

 積み木くづしは著者が俳優でもあり

当時は非行少女も多く社会現象にもなっていたような気がします。

  副題に「親と子の200日戦争」に衝撃を受けた人はおおかったはず!

 センセーショナルな副題と、当時は子供と向き合う父親は少なかったような気がする

。   そんな社会に一つの衝撃が走り300万部を売り出すほどの現象を招いた

これによりテレビか、映画化と話題が沸騰しました。。

幼少期に重病を患う。職業柄、父が不在がちに加え、母から溺愛を受けたことなどもあ

り、幼少期には内向的で、我が儘な面がみられた。公立の中学校に入学。剣道部に所属

していたこともあるが、病気で赤く変色した髪を理由に、他校の生徒に因縁をつけられ

、負傷させられたことをきっかけに非行化。不登校・別の公立中学校への転校の末に家

出・シンナー吸引・集団暴走行為などにのめり込んでいく。竹村からのカウンセリング

を受けた直後、両親の態度が変化したことに戸惑い、家庭内暴力に及んでしまう。のち

に窃盗で警察に逮捕され、裁判を受けた直後に自らの意思で暴走族を脱退し、短い時間

ではあるが登校するようになる(ラストの場面では、再び不登校となり、シンナーを再

開したという文字が表記されている)。

香緒里の父で俳優。香緒里の教育などを妻の三枝子に任せっきりにしてしまったり、世

間体を気にする面はあるものの、家族への愛情は持ち合わせている。1話目で髪を黒く染

めたいと言った香緒里の希望を却下。時折、お芝居の稽古をしながら、セリフを自身の

状況と重ね合わせる場面がみられる。

警視庁本庁内に所属するカウンセラー。相談者である穂高夫妻のみならず、香緒里に対

しても「近所を担当する警察官が持参した」という形で出頭命令を出し、指導を行う。

幼少期の香緒里の言動を見て心配していた。のちのちも時折、穂高家を訪れ、三枝子の

相談に乗る。

香緒里が中学入学直後に親しくなった友人。香緒里と共に家出騒動を起こしたこともあ

る。

香緒里に対して因縁をつけ、顔に負傷させる。のちに香緒里とマミから報復を受ける。

香緒里が転校した中学校の不良グループのリーダー。香緒里に因縁をつけるが去られて

しまう。

「ブラックエンジェルス」という暴走族のメンバー。脱退を申し出た香緒里にヤキを入

れ、負傷させる。

香緒里とは遊び友達だったが、次第に恋愛感情を抱くようになり、暴走族を脱退後にト

ラックドライバーとして働き始める。

香緒里が入学した中学校の教諭。香緒里の問題行動を理由に、親友のマミとクラスを別

にすることを提案。

出頭して来た香緒里を保護。事情聴取ののち、家に電話をするが、迎えに来ない母に疑

念を抱く。

本人役。5話で穂高家を訪問した際に、香緒里から借金を申し込まれる。最終回でコンサ

ートに訪れた香緒里から花束を受け取る。

香緒里の母。病弱な香緒里に対して負い目を持ち、甘やかしてしまっていた。竹村から

アドバイスに戸惑いながらも、香緒里を更生させるべく立ち上がる。

 みこちゃんには子供はいません。

したがって子供のことを理解することはかなわないと思います。

 親の愛の形にもいろんな形があることでしょう。

親の愛が重すぎて子供に負担になる場合もあるかもしれません。

またその逆もありえるでしょうか?

こんな家族がといったようなマニアルはどこにもありません。

お互いに真実の愛にであいたいものです!

 またひとの関係は一言で疎遠になったりとまるで積み木くずしのようにもろく

はかないものなのでしょうか?

 穂積家は崩壊の中からいろんな学びと良くも悪くも葛藤の日々であったことだけは確

かです。

子供に向き合いすぎていたのかもしれません。

子供の見守りも立派な愛のカタチです。

 穂積家は懸命のあまり判断力まで見失い

母の離婚そして自殺,娘の若すぎる死と

その姿はまるで柱を失ってしまってもいました。

 [積み木崩し】23年たった都市に復刻版が出版されました。

 著者はそのあとがきで述べてもいます。

その冒頭[意志の戒めと悔恨の書である」と

そして神は私に娘は刑務所に、そして私は野良犬のごとく

広野に放り出された。

だからこそ著者は娘に哀惜の念が生まれ娘はそんな著者に振れ

父を許し本当の優しい娘になれたのだと結んでおられます。

 みこちゃんが『香りさんだったなら、あまりにも?が

多すぎるのだと」言いたいものです。

家族の形はどうあれ、真実の愛こそが人を育むのではと考えるばーばです。

この書がなぜにベストセラーまで生んだのか今だに??、

     ではごきげんよろしゅうに・・・。

     中国問題 強硬姿勢で!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 天高く馬肥ゆる秋

柿がおいしい季節となりました。

なんと烏はまずい柿は知らんぷりします。

  日中会談は7年ぶりに開催されました。

 尖閣問題と歴史認識の相違に対し冷え切った関係

正常化する模索は一歩たりとも譲るべきではない。

中国からの学習は後退すべきでない!

中国の二枚舌は今に始まったことではない。

総理の常とう手段をちゅうごくにあてはめればよいだけのこと!

 安倍首相の訪中で日中両国は、民間企業による第三国でのインフラ事業を推進することを確認したほか、今後五年間で計三万人の青少年相互交流を目指すことでも一致。海難事故の際の協力体制を定めた「海上捜索・救助協定」を締結したほか、朝鮮半島の非核化に向け緊密に連携していくことでも合意した。

 安倍総理がお使いの国会対応が中国マニアルになるのではありませんか?

 日中会談は世界の関心事ともなっている!

 中国も米中貿易の仲介者としてのにほんのいちづけをりようしているともいえるのでは?

安倍晋三首相の中国公式訪問で問われたのは、この一点に尽きる。

 だが、習近平国家主席李克強首相との会談の成果とする関係改善は、日本が目指すべき対中外交とは程遠い。むしろ誤ったメッセージを国際社会に与えた。

 安倍首相は、中国の近代化を四十年にわたり資金面で支えた政府開発援助(ODA)

今年で終了することを伝えた。

 だが、日中間の不信の元凶となっている領土主権、歴史問題の解決はこれからである。中国公船は今年に入っても、十月下旬までに二十回近く、尖閣周辺の日本領海侵入を繰り返している。

日中首脳会談 新たな関係への一歩に (10月28日)

http://www.asahi.com/articles/DA3S13743636.html?ref=editorial_backnumber

     本日のスタートめにゆー

     鮭とこぶの焼きおにぎり 卵スープ

シューマイ 春雨ときゅうりの酢の物 ばなな、ヨーグルト

ではご機嫌ヨロしゅうに…。

     ねむの木学園50年に寄せて!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 ねむの木学園が50周年を迎えた。宮城さんは福祉の何たるかも知らない中から

夢中で駆け抜けられた50年ではなかったろうか?

共に暮らしてこられた作家の吉行準之助さんは

宮城さんの借金漬けの人生をいつも案じられていたと

どこかの本で読んだことがあります。

それくらい無我夢中でこの事業を信仰され続けてこられたのだと敬服あるのみです。

 宮城真理子さんは障碍者の傍らに常に寄り添うことのできる

真実の愛を傾けることのできる存在であると思っています。

真実の愛は、言葉がなくても通じ合えるものが

そこにちゃんとあることを 実証されてもいます。

 真理子さんの『お母さん』の本に振れさせていただきました。

 学園の二人の男性との手紙のやり取りが本のベースとなっています。

 みこちゃんがその中で印象に残ったのが「黄色い道」の手紙でした。

イチョウの葉が黄色くなってイチョウの木も黄色そして道も黄色に染まっているよ。

イチョウの葉が重なって「カサコソカサ」とイチョウの葉の言葉で話しているよ。

その上をたくさんの人たちが通り過ぎてゆく。

歩いた人の数だけ音楽が生まれ耳に優しく聞こえてる。

深い秋から冬への初めに色と音楽

イチョウの葉っぱ、木を染め道を染め冬の風となって

大空いっぱい、青空を染めて飛んでいくよ。

この詩に対し

真理子さんの優しく体をいたわるお気持ちと、夜の23時までホールでピアノに向かう

彼の背中を案じながら堆積されるお姿に感動しました。

 まるで詩は生まれたまんまの何色にも染まることのない美しい心の

ハーモニーそのものです。

本当に感動に震える内容でした。

                                      

     産経よりの引用です。

ねむの木学園50周年 道を開き続けた「母ちゃん」の愛 (2018年10月26日)

 日本で初めて体が不自由な子供のための養護施設として設立された「ねむの木学園」(静岡県掛川市)が今年創立50周年を迎え、28日に記念式典と運動会が開催される。「障害を持つ人のために学びの場をつくりたい」。この一心で運営の最前線に立ち続けてきた女優、宮城まり子さん(91)を訪ね、半世紀の足跡を振り返った。(加藤聖子)

                   ◇

 パワフルに準備

 少し汗ばむくらいの秋晴れの日。豊かな自然に囲まれた「ねむの木学園」では間もなく迎える本番に備え、子供たち、教職員が総出で記念式典や運動会の練習を行っていた。色とりどりのリボンが青い空に映える。「きれいでしょ。万国旗じゃなくてリボンにしたの」と、宮城さん。

 子供たちの衣装や、式典・運動会の内容、演出の全てを宮城さんがプロデュースしているという。予行演習中は音響、立ち位置、出入場のタイミングまで細かく指示を飛ばしていた。年齢を感じさせないパワフルさだ。

 ゼロからの出発

 人気女優だった宮城さん。昭和30年に歌謡曲「ガード下の靴みがき」が大ヒット、舞台やテレビにもひっぱりだこだった。そんな中、脳性まひの子供を演じたことが契機となり、障害を持つ人への思いを深めていく。

     ではごきげんよろしゅうに・・・。

 昭和30年代は、障害を持つ人が学べるような福祉の制度がほとんど整備されていなかった時代だ。宮城さんは土地や教職員探し、資金調達や役所への届け出などに奔走し、昭和43年、ついに浜岡町(現・御前崎市)で開園にこぎ着ける。「正直、こんなに大変だとは思わなかった。何度厚生省(現・厚生労働省)に通ったことか」と笑いながら振り返る。 

     戦災孤児が語る人間模様!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 シリアは今なお紛争の真っただ中です。

この国会で、憲法9条改憲論が出ています。

数の論理で強硬することがあってはならない!

 日本の戦災孤児は12万6000人とも言われています。

この数値については、不確かに思えたりもします。

この算定方法が難しく思えるからです。

皆が共にその日暮らしのため、一つのぱんを分け合う気持ちの

ゆとりもない時代でもあったのだろうか?

そのような人間模様を 神様はどのようにごらんであったろうか?

戦争犠牲者は限りなく多くいる。

今なお、被爆者の悲劇は永遠です。

兄弟は他人の始まりは、このじだいにうまれたことばなのでしょうか?

 亡き父の話として

近所に大阪から疎開した小学生の兄弟がよくいじめられ

ご飯を食べさせてもらえなくてよく我が家に来ていたという。

近所のおじさん、おばさんはよく知るが

そのようなことをする人にはとても思えない。

地域の中では暮らし向きはよいほうでもあった。

そのおじさんはどういうわけか晩年は、お苦しみの病でお気の毒としか言えなかった。

思いやりというのは、損得なしに心から人の為を思って生ずる純粋な優しい精神のこと

です。それは言葉であったり、行動であったりと形は様々ですが、何の見返りも求めな

い自然な思いからくるものが本当の思いやりです。ただ押し付けることは思いやりでは

ありません。

人間て不可思議そのものです。

人の心理行動のなんてうつろではかないものかと思い資留美子ちゃんです。

でもいぶし銀のような人もどこかにおられるし

自分もそうでありたいものだと心の片隅に

そっとそっと止めおきたいものです。

 飽食の時代に合って、人が助け合わなくても身近にお金で

解決できると思い込んでいる人はなんとおおいいことだろうか?

 生活の豊かさの中、思いやりなど育ちにくい現実はしっかり

覚悟と厳しさを生きる姿勢だけは身に着けたいものです。

社会の余剰者には、生老病死がある限り

誰でもが病人として人の手助けがいる存在になりうることだけは

押さえておきたい課題でもあります。

言論の自由の中、差別解消を高らかに訴えることも

あってよいのか悪いのか複雑な思いです。

 防衛費の拡大は、多くを悲しませることにはなりはしないかと

危惧するみこちゃんでもあります。

思いやりは育ってほしいとは思いますが、期待しようとは思えない私です。

   戦災孤児の引用文です。

12歳男(小6年)

両親を失ったたあと親戚へ預けられたが、嫌がらせをうけ、いたたまれずに家を出た。

行く先はなく寝るところも食べ物もない。

上野地下道には自分と同じ弧児たちが大勢いたので仲間になった。

浮浪児と呼ばれ「近づくな、目を合わせるな」と、世間の人たちは汚物を見るような目

で遠巻きにして眺めるだけ。

食べ物を恵んでくれる人はいなかった。

 なにしろ腹がへる。10日も食べられない日もあった。

盗んで食べるより仕方なかった。

盗むと大人から殴る蹴る、コン棒でメチャクチャに叩かれた。

それでも盗む。盗みが成功したときは食いだめをする。

そのせいか腹をこわすし胃拡張になり、常に飢えていた。

死んだ子は大勢いる。餓死や凍死、変死した。自殺した子もいた。

 「刈り込み」で捕まり板橋養育院へ入れられた。

子どもの死体がごろごろ廊下にまでころがっているのを見て、いずれ自分もあのような

姿になると思い、逃げないよう鉄条網で張りめぐらされていた塀を夢中で乗り越え逃げ

た。

 それからお台場へいき盗みをした。

台場は当時は離れ小島だった。

台場にはアメリカ占領軍の食料倉庫があり、食料は驚くほど豊富にあった。

そこで水上警察に捕まり「東水園」という孤児施設に入れられた。

施設は水上警察が見るに見かねてつくったのではない。浮浪児を持てあましていたのだ

昭和21年9月に東水園が設立され、最初は14人が入所、自分はその内の一人だ。

東水園で生活したのは22年9月ごろまで1年足らずだった。

そこでの生活は海にもぐり、B29の残がいを引き揚げてくる作業だった。

遺骨も海底にあった(空襲死者の遺骨か?)。

大人でも大変苦しい仕事を子どもにやらせるのである。

あまりにも苦しく辛い作業に、隙をみて逃げたが、また捕まった。

 東水園では勉強はしなかった。

水上警察署の職員は我々子どもに非常に冷たかった。

殴る蹴るは日常茶飯事であった。子どもに配給される米を横取りしていた。

 その後キリスト教の「あいりん会」が経営する「若葉寮」に入った。

ここは軍隊の馬小屋を孤児施設にしたところである。

施設長がいい人だったので逃げなかった。

中学、高校へ通い、あいりん会の職員になって夜間大学へ通った。

K Hさん、14歳男(中学生)広島原爆孤児

 原爆でたったひとり残された。

東京へ出てきたが、行く先がなく上野地下道で浮浪児に。

浮浪児の生活はMとまったく同じである。

明日は生きていないかもしれないと思う日々だった。

また、なんらかの形で、大人は孤児を利用しようとした。

ひどい仕打ちをうけてきた。

子どもは訴えられない。

大人は自分に都合のいいことしか言わない。

人間扱いされなかった。

二度と思い出したくない。

Mとは東水園、若葉寮と一緒だった。

金田メモ

 1999(平11)年戦後54年目、ある映像会社がお台場で生活した孤児の放映を

計画、上記2名に取材を申し込んだが拒否され、「金田さんなら取材に応じてもよいが

、氏名、顔写真は出してはならぬ」という条件つきで、私が千葉県まで取材にいき話を

聞いた。

 当時のお台場には数千人の浮浪児がいたといわれているが、東水園へ入所しても逃げ

出す子が多かった。台場で生活した孤児2名だけが現在判明した。他は不明である。

山本麗子さん、9歳女(小3)東京空襲訴訟の原告

 1945(昭和20)年5月24日の空襲で父死亡、母も同年11月に病死。

3人の子どもが残され孤児になった。

3人は別々の親戚へ預けられた。

私は叔母宅へいき、学校へは通わせてもらえず、海水から塩をとる作業をさせられた。

昼は山へいき薪を背負い海岸へ運び、夜は薪を一晩中燃やしつづける、昼夜別なく働い

た。

9歳では重労働だった。

 2年後、弟の具合が悪いと叔父から呼ばれた。いってみると弟はやせ細り、馬小屋に

寝かされ、うどんのような回虫を吐き「おかあちゃん」と呼びながら死んだ。

その弟の姿を見て私は叔母宅へは戻らず、静岡から東京へ徒歩できた。

行く先はなかった。

 上野で浮浪児になった。

喪失感からぼんやりと過ごし、2日に1回おにぎり1個をくばってくれるおばさんを待

つ日々だった。

刈り込みで捕まり、トラックに載せられ、山奥へ棄てられた。

(後で考えると茨城の土浦方面だったと思う)子どもたち同士で声をかけあい、山を下

り、上野へ戻り、また浮浪生活を数年した。

生きているのが不思議に思う。

 働ける年代になって寺の茶坊主になり、20歳前に東京へ出て料理店で働くようにな

った。

学校は小学3年で止まった。

11歳の兄とは両親死亡後あっていない。

行方不明になったままである。

金田メモ

 山本さんは病気療養中にもかかわらず、高額金が必要な訴訟の原告になった。(原告

は国へ納める印紙代5万円その他が必要、敗訴になれば更に1、5倍の費用がかかる)

それでも控訴に加わった。国からゴミとして棄てられた彼女の無念、怒りが訴訟へ駆り

立てたと思う。生きてきた最後の叫びだ。

金子トミさん、15歳女(中学生)

 東京の江東区に住んでいたが、家族揃って母の実家のある山形へ疎開した。

その疎開先で8月10日、家の裏に爆弾が落ち、母と妹が死んだ。

父も後を追うように死んだ。残されたのは私と小学4年の弟と小学2年の妹の子ども3

人だった。

伯父から父の実家へ行くようにいわれたが、母は父方の親戚と付きあいがなかったので

面倒はみてくれない。

 自分が働いて弟妹の面倒をみようと東京へ出てきたが、東京は焼け野原になり廃墟に

なっていた。

東京大空襲のことは何も知らなかった。

結局、上野公園の昔式の便所(畳半分ぐらい)で3人が寝ることになった。

山形を出るとき母の弟が内緒でくれたお金があったので、その金でさつま芋を買い、弟

と妹に与え、自身は食べないときもあった。

昭和20年8月、敗戦後に上野へきて、21年の春先まで上野て浮浪児生活をした。

 おいも屋のおばさんから田舎の農家を紹介され、3人で農家へいった。

その農家では朝早くから夜まで、田んぼ、畑、蚕など働き通しだった。

弟と妹は小さいので仕事が充分できない。

お仕置きをずいぶんされた。たまらなくなりそこを逃げた。

 3人で二晩、山で野宿した。

その後、妹だけを親戚へあずけ、私と弟は別の親戚へいったが、そこで私は女中を紹介

され、弟と別れた。

それから妹や弟は行方知れずになった。

何回手紙をだしても、おじたちから返事がこない。

数年後、八方手をつくして捜し、やっと弟、妹を見つけ再会した。

妹は貰い子になって苦労し、弟は小学校へもいかず働かされ、読み書きができなかった

浮浪児の生活は夫にも我が子にも話してこなかった。

浮浪児狩り

浮浪児

 親戚、知人、養子先を出ていく子どもたち

 心理的虐待をうけた子は、親戚や知人宅、養子先を逃げ出す子が続出した。

とくに男児が多く、親戚に2日いたが追い出された。1年後に出た。2年後と、親戚を

出た時期はそれぞれ違うが、しかし、東京へきてみると、見渡すかぎりの焼け野原。我

が家は跡形もなく、そして浮浪児になっていくのだった。 また、空襲で逃げまどい、

親に死なれ、その日から浮浪児になった子もいた。

「俺たちは野良犬か」の著者、山田清一郎さんは(小4)は父は空襲で焼死、母は焼夷

弾で壕が崩れ、目の前で生き埋めになった。

その日から浮浪児になり、野良犬と同じ、人間扱いされずにきた。

拾うか、貰うか、盗むしか選択肢がなかった。

10歳の子どもが家もなく、食べさせてくれる人もなく、その凄惨さな生きさまには息

をのむ。

一度読んでいただきたい本である。

         議事録二人残業していた仕事を(AI)の処理で一人わずか1じかんでOK!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

今日も秋真っ盛りの晴天、太陽ニコニコdayです♪

 我が家を良くも悪くも春夏秋冬、静かに見守り続けてくれていた

しゅうかいどう もみじ しだれ梅、花見月

そしてさつきたちのみせじまいをしています!

四季折々になごみをくれた植木たちを、伐採することには

いささかの思いも頭をもたげはしますが

これもある字を失った庭木はお隣にご迷惑になるので

仕方ないとの覚悟で落葉樹から

 みこちゃんがぽっちりぽっちり選定に余念がありません。

 徳島においては人工知能【ai】を使って

議事録の六ウォンを、テキスト化することに尽力を注ぎ

この度そのテストケースとして実施したところ

二人で残業していたその作業が、なんとわずか一人1時間でパソコンのテキスト化に成功し、その議事録のアクセス数まで増えたという!

 公的機関、会社にあっても議事録の作業は難題ともいえるのではないだろうか?

中央官庁もこの人工知能で改竄などない議事録の作成を

一国民としては願うばかりです。

これからは人工知能により、事務作業の効率化を図り

現場主義にも思いを傾けてほしいものです。

2人で残業→1時間で完了 AIで議事録、効果てきめん

 徳島県人工知能を使った議事録の音声のテキスト化と要約を、15日から全ての審議会や協議会に広げた。昨年度に知事の定例会見のデータを使って実施した実証実験を踏まえ、本格導入することにした。議事録作成にかかる作業が5分の1に減り、公開までの時間も大幅に短縮されるという。

 行政改革室によると、昨年10月から今年3月に実施した実証実験では、これまで会見4日後だった知事会見のホームページ公開を当日中に前倒しできた。ホームページへのアクセス数も2倍以上に増え、利用者の満足度は9割を超えたという。

 会議データを要約する「AI要約システム」は、当初は不自然な日本語になることもあったが、長い発言には「。」(句点)を入れるなどの工夫で分かりやすい表現になるよう、使い方を改善したという。

 県の審議会や協議会は約130あり、議事録は原則としてインターネットで公開している。これまでは職員が音声データを聞きながら、パソコンで文字起こしをしており、作業に会議時間の5倍程度かかるため、公開が会議の数カ月後ということもあった。

 飯泉嘉門知事は15日の定例会見で、「今後ともAIをはじめとする最先端技術を積極的に利用し、職員の働き方改革の推進、県民サービスの向上につなげたい」と話した。

 この日の定例会見のテキスト化作業をした職員は「手作業では2人がかりでも残業になることもあったが、今日は私一人で1時間ほどで終えられた。早く内容を知ってもらえる

     本日のスタートメニュー。

 ごはん 里芋アゲわかめねぎの味噌汁

焼きサンマ キャベツリンゴレーズンのサラダ  ヨーグルト、バナナ

     では、ごきげんよろしゅうに・・・。

上、他の仕事に充てられる時間が増える」と話している。(三上元)