沖縄県民の明日を考えたいものです!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 前回の沖縄本土復帰から46年となっています。

前回には45年と記載してしまいました。

お詫びして、訂正します。

 沖縄の基地問題普天間問題につき、県の反対まで押し切って

政府は強硬に事業を実施している強引なすすめに

国民としての政治が息づいているなどとはとても思えない行動に

怒りマークが禁じ得ない。

 まるで沖縄のあきらめを待っているかのような県民無視の行動に

わが身における現状としてのにんしきがなぜにもとめられないのか??

 県民の所得が、なぜに毎年最低にらんくされているのかのにんしきはあるのだろうか?

 地理的に米軍拠点としての役割を、政府として認めているのであれば

それなりのたいしょさくもあってよいはず!

政府が沖縄に日参するくらいの気持ちの配慮と

沖縄を目にすることで

東京では感じえないものの把握もぜひとも体感していただきたいものです

沖縄の現状を把握することで、憲法問題にも

配慮願いたいものです。

     アサヒコムより。

沖縄復帰46年 許されぬ再びの捨て石 (5月15日)

 憲法が適用されない米軍統治下から沖縄が日本への復帰を果たして、きょうで46年になる。

 だがこの地では、憲法の精神を踏みにじるような出来事が、日常的に起きている。

 たとえば名護市辺野古。米軍普天間飛行場を移設するための埋め立て工事が急ピッチで進む。海を囲い込むように伸びる護岸は、新たに背負うことになる基地の重荷を、目に見える形で地元住民に突きつける。

 工事は、埋め立て海域内にあるサンゴを移植したうえで行うという県との約束を破って、昨年4月に始まった。県は沖縄防衛局に対し、工事を中断して話し合うように、くり返し行政指導してきた。しかし防衛局は聞く耳を持たない。

 また最近になって、工事区域の地盤が予想以上に軟弱だとわかり、そばに活断層が存在する恐れも浮上した。そうであれば大幅な設計変更が必要だが、政府から詳しい説明はない。

 他の都道府県で大型の公共事業を進めるときも、同じ態度で臨むだろうか。

 国が約束を無視し、地元と協議すること自体を拒む。それが2018年の沖縄における民主主義や地方自治の現実だ。「沖縄差別」という受けとめが、県民の間に広く、深く浸透する。

 辺野古だけではない。この1年に限っても、オスプレイや軍用ヘリの事故、トラブルが県内で頻発した。

 昨年12月に米軍ヘリの窓が校庭に落ちてきた普天間第二小学校では、今も米軍機が近づくたびに子どもたちは校庭から屋内に避難する。今月8日までに367回もあったという。

 本土では考えられない話だ。平時に米軍に飛行ルートを守らせることすらできず、何が「沖縄の方々の気持ちに寄り添い、基地負担の軽減に全力を尽くします」(1月の安倍首相の施政方針演説)だろうか。

 辺野古への基地移設反対を訴えてきた翁長雄志知事は、県内の首長選で支援する候補が相次いで敗れるなど苦境にある。11月に予定される知事選までに埋め立て工事を進めて既成事実を積み重ねれば、氏の求心力はさらに低下し、県民のあきらめムードを誘うことができる――。政府の最近の動きからは、そんな狙いが透けて見える。

 太平洋戦争で本土防衛の「捨て石」となった記憶は、今も多くの県民の脳裏に残る。日本の安全を守るためとして、この島の人々にまたも大きな犠牲を強いることが正義にかなうのか。

 5月15日。改めて沖縄の歴史と未来を考える日としたい。

沖縄復帰46年 許されぬ再びの捨て石 (5月15日)

 憲法が適用されない米軍統治下から沖縄が日本への復帰を果たして、きょうで46年になる。

 だがこの地では、憲法の精神を踏みにじるような出来事が、日常的に起きている。

 たとえば名護市辺野古。米軍普天間飛行場を移設するための埋め立て工事が急ピッチで進む。海を囲い込むように伸びる護岸は、新たに背負うことになる基地の重荷を、目に見える形で地元住民に突きつける。

 工事は、埋め立て海域内にあるサンゴを移植したうえで行うという県との約束を破って、昨年4月に始まった。県は沖縄防衛局に対し、工事を中断して話し合うように、くり返し行政指導してきた。しかし防衛局は聞く耳を持たない。

 また最近になって、工事区域の地盤が予想以上に軟弱だとわかり、そばに活断層が存在する恐れも浮上した。そうであれば大幅な設計変更が必要だが、政府から詳しい説明はない。

 他の都道府県で大型の公共事業を進めるときも、同じ態度で臨むだろうか。

 国が約束を無視し、地元と協議すること自体を拒む。それが2018年の沖縄における民主主義や地方自治の現実だ。「沖縄差別」という受けとめが、県民の間に広く、深く浸透する。

 辺野古だけではない。この1年に限っても、オスプレイや軍用ヘリの事故、トラブルが県内で頻発した。

 昨年12月に米軍ヘリの窓が校庭に落ちてきた普天間第二小学校では、今も米軍機が近づくたびに子どもたちは校庭から屋内に避難する。今月8日までに367回もあったという。

 本土では考えられない話だ。平時に米軍に飛行ルートを守らせることすらできず、何が「沖縄の方々の気持ちに寄り添い、基地負担の軽減に全力を尽くします」(1月の安倍首相の施政方針演説)だろうか。

 辺野古への基地移設反対を訴えてきた翁長雄志知事は、県内の首長選で支援する候補が相次いで敗れるなど苦境にある。11月に予定される知事選までに埋め立て工事を進めて既成事実を積み重ねれば、氏の求心力はさらに低下し、県民のあきらめムードを誘うことができる――。政府の最近の動きからは、そんな狙いが透けて見える。

 太平洋戦争で本土防衛の「捨て石」となった記憶は、今も多くの県民の脳裏に残る。日本の安全を守るためとして、この島の人々にまたも大きな犠牲を強いることが正義にかなうのか。

本日のスタートメニュー。

 ごはん、ジャガイモ、わかめ、あげ、にらの味噌汁。

ワカサギの南蛮漬け、ほうれん草の胡麻和え

 ヨーグルト、バナナ

     ではごきげんよろしゅうに・・・。 5月15日。改めて沖縄の歴史と未来を考える日としたい。

     沖縄返還から45年、思いをはせたいものです。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 アメリカから日本に返還されて45年になる。

 沖縄復帰当時から人口は50万にも増えた。

  いまだ、県民の所得は最低所得を担っている。

経済が育たない。

 沖縄県民は阿部誠二の息遣いをどの程度

教授できているのであろうか。

変換45年に当たってもニュースとしてあまり取り上げられることはなくなってきているのは残念としか言いようがない。

復帰後の経済の上昇も多少はあったにせよ

 経済力もついてはきたが、沖縄県人の胸に去来するものは

本土の生活者には理解できない苦痛も伴っていることだけは確かではなかろうか。

 総理は、戦陣に散った兵隊の霊二はお心を、

お締めしになりますが

無益に散った多くの一般車に対する御霊に

どれほどの御心をおよせになったであろうか?

 国の象徴である天皇様も11買い物沖縄訪問を

重ねておられます。

総理就任以来、一度も沖縄を訪れた記憶はございません。

沖縄と手、そのぎせいしゃのおもみは広島、長崎にもひってきするのではないのか?

    今なお米軍基地が沖縄に全体の7割を占め

県民の苦しみを強いてもいます。

県面積の10%以上も米軍基地があるとしたら

 我々であればどのようにかんじるでありましょうか?

せめて沖縄に祈りと穏やかな日の訪れを

願うばかりです。

     産経より。

沖縄きょう復帰の日 野中氏の思い胸に刻む (5月15日)

 沖縄に思いを寄せる政治家がまた一人この世を去りました。自民党幹事長や官房長官を務めた野中広務さん。その半生は沖縄の苦難の歴史と重なります。

 今年一月二十六日、九十二歳で亡くなった野中さんが初めて沖縄の地を踏んだのはまだ三十代だった一九六二年。京都府園部町長としてパスポートを携えて米軍統治下の沖縄を訪れたのは、宜野湾市の「嘉数の丘」に、京都府出身の戦没者を慰霊する「京都の塔」を建てるためでした。

 米軍普天間飛行場を望む高台は太平洋戦争末期の沖縄戦の激戦地。京都府出身の犠牲者二千五百四十五人のほとんどが、この高台で亡くなりました。

◆妹失った県民の叫び

 那覇から嘉数の丘に向かう途中で、野中さんが生涯、胸に刻み続けた出来事に遭遇します。タクシーが宜野湾に差し掛かると、サトウキビ畑の中で急停車し、運転手が肩を震わせて叫んだのです。

 「お客さん、あそこで、私の妹は殺されたんです。アメリカ軍にじゃないんです」

 それは、野中さんも属した日本軍が、沖縄県民の殺害に関与していた衝撃の事実でした。

 野中さんの生前の回想によると運転手は一時間ほど、ハンドルに泣き崩れたままだったそうです。

 ようやく涙が収まったとき、野中さんはその運転手に「気の毒でしたね。ひどいことが行われたんですね」と声を掛けるしかなかった、といいます。

 沖縄は日本国内最大の地上戦の戦場でした。当時六十万県民の四分の一が犠牲になり、親しい人を失った悲しみと、今もなお米軍基地の負担と重圧に苦しむ県民の苦悩が、野中さんを沖縄と深く結びつけることになります。

 野中さんはその後、京都府府議や副知事を経て、五十七歳で衆院議員に当選します。

◆軍靴で踏みにじるな

 国会議員としては遅咲きですが「政界の狙撃手」と呼ばれる辣腕(らつわん)ぶりで、田中派から橋本派へと続く当時の自民党最大派閥の中で実力政治家として頭角を現します。

 初めて閣僚に起用された村山富市内閣の自治相として阪神大震災オウム真理教事件に対応し、政治手腕をいかんなく発揮します。

 しかし、沖縄のことが頭から離れることはありませんでした。

 九七年のことです。野中さんは楚辺通信所(読谷村)の使用期限切れを契機に、期限後も米軍用地の暫定使用を可能にするための改正米軍用地特別措置法案を審議する衆院の特別委員長でした。

 委員長は委員会での審議結果と経過を本会議で報告します。通常は用意された文書を読み上げるだけですが、野中さんは壇上で突然脳裏に蘇(よみがえ)ったタクシー運転手の叫びを紹介し、こう続けたのです。

 「この法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にならないようにしてほしい。そして、多くの賛成で可決されようとしているが、『大政翼賛会』のような形にならないように若い方々にお願いしたい」

 この発言は特措法改正のために当時第一党と第二党だった自民、新進両党が手を結んだことを、大政翼賛会にたとえてけん制したものでした。批判勢力を排除し、沖縄に安全保障の負担を押し付ける政治の在り方が、戦前・戦中と重なったのでしょう。

 沖縄県はきょう本土復帰から四十六年を迎えました。苛烈な米軍統治は終わりましたが県内には在日米軍専用施設の約70%が残ります。米軍による訓練や運用中の事故や騒音、米兵らの事故や事件も後を絶たず、県民は重い基地負担を強いられています。

 危険な普天間飛行場返還のためとはいえ、名護市辺野古という同じ県内への移設では県民の基地負担は抜本的には軽減されません。

 米兵らの特権的な法的地位を定めた日米地位協定の存在は、日本国憲法が沖縄では厳格適用されていない、との疑念も生みます。

 沖縄では今もなお「戦争」は身近な存在としてあるのです。

◆遺骨の一部を沖縄に

 野中さんは生前、本紙の取材に「沖縄を忘れることは第二次世界大戦を忘れることだ。戦争の恐ろしさを忘れないためにも、沖縄のことを絶対に忘れてはいけない」と語っています。

 自分の子どもたちには「私が死んだら、遺骨の一部を嘉数の丘の慰霊塔に納めてほしい」と託しました。ゆかりの人たちが沖縄を忘れないために、だそうです。

 時を経るにつれ、戦争体験世代は政界を去り、沖縄に思いを寄せる政治家も少なくなりました。自衛隊の増強が続き、安倍晋三首相自らが平和憲法の九条改憲論を提唱する時代です。

 「いつか来た道」を再び歩まないためにも、野中さんの思いを私たちも胸に刻まねばなりません。

    自衛隊員募集人員をしたまわる。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 自衛官になりたい人は、だんだん縮小傾向にあるようだ

 少子化も寄与しているのかもしれないが

国内における、災害などの人員確保の問題を含め、

これからの時代背景の中における自衛隊員の確保問題は国会においても早急に

自衛隊員の高齢化も進みつつもあるようです。

 これで憲法改正により、自衛隊の戦地支援などが決まるようなことにでもなれば

自衛隊への志願者はへるばかりとなるであろう!

 阿部総理は、国難を前提に防衛機器の購入を

増やしているがこれらの危機管理な

どの隊員の確保はどのようにくりやーできているといえるのか?

 政府は実態と会わない政策で

現場に負担がかかりすぎているようなことはないのだろうか?

     新聞記事より。

自衛官採用数、4年連続計画割れ 国防力確保に不安、少子化も背景 (5月13日)

 自衛隊の主力隊員になる「自衛官候補生」の入隊が4年連続で採用計画人数を下回っ

たことが13日、分かった。2017年度の採用では計画8624人に対し、試験を経

て入隊の意思を示したのは6852人(18年3月31日現在)だった。少子化などが

背景。防衛省幹部は「任務はきついかもしれないが、国防を担う人員確保は喫緊の課題

だ」と不安感を強めている。

 防衛省は毎年、退職者数などを勘案し、防衛力を維持できるよう採用計画を立てる。

うち自衛官候補生は18歳以上27歳未満が対象。新規採用  全体の半数以上を占め

、入隊後、約3カ月の基礎教育を受け、正式に自衛官に任命される。

階級が高ければ高いほど、給料も増えてきますし、給料が増えるとその分年収も増える

仕組みになっています。

この章では、一般的な自衛隊員の階級と、具体的な給料と年収についてご紹介します。

1.「経験年数」と「階級」で自衛隊員の給料と年収が決まる

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

一般的に、外国の軍隊では軍人を「士官」「下士官」「兵」の3つに区分しています。

同様に、自衛隊では階級を「将」~「2士」までの16階級に分けています。

このうち、外国の軍隊で言う「士官」が「将」「佐官」「尉官」であり、「准士官」が

「准尉」、「下士官」が「曹」、そして最下級の役職が「兵」、自衛隊では「士」と呼

ばれるようになっています。

一番最初に入隊したときは「士」から始まるものと思いますが、防衛大学校などの士官

を養成する機関へ入隊し、その後正式に各部隊に配属されるコースをたどると、入隊時

の階級が「尉」や「佐」から始まることもあります。

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もちろん、給与面では「将」が最も高くなります。

2.最下級の「士」は自衛隊員の中でも最も給料が安い

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

自衛隊で最も下になる階級は「士」です。

自衛隊においては、「士」階級のことを、任期制隊員と呼びます。

また、士階級の中でも、2士・1士・士長の3つの階級に分かれていて、最も階級の高

い役職は「士長」となります。

給料ですが、それぞれの階級で次のような給与になっています。

・士長 月額24万円程度

・1士 月額19万程度

・2士 月額17万円程度

ボーナスも加味すると、士階級の場合は年収400万円から300万円程度は確実に年

収を得ることができると考えていいでしょう。

ちなみに、高卒(18歳)入隊であれば、何事も無く職務に精勤していれば、2年後の

20歳で士長になることができます。

3.中級の階級である「曹」は一般企業の会社員並みの収入が得られる

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

自衛隊では、下士官と呼ばれる階級のことを「曹」と呼びます。

先ほど紹介した士階級と同じく、曹階級も4段階に分かれていて、曹長、1曹、2曹、

3曹の4つの階級があります。

こちらも同様に、それぞれの給料を確認してみましょう。

曹長 月額22万円から43万円程度

・1曹 月額22万円から42万円程度

・2曹 月額21万円から39万円程度

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・3曹 月額19万円から31万円程度

曹階級の場合は、曹長で長く勤務していた人ほど多くの給料をもらえる仕組みになって

います。

特に、経験年数が多ければ多いほど、階級が下であっても基本給料がアップする仕組み

になっているので、階級が下の人間でも給料は上官より高いと言う減少も起こりえます

一般的に、曹階級の自衛官は、ほとんどの人が1曹か曹長で退官するのですが、定年間

際の年収は600万円~700万円の間になります。

4.尉官級の自衛官は出世次第で給料アップのチャンスがある

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

自衛隊では尉官と呼ばれる幹部自衛官がいます。

正式には、3尉、2尉、1尉の3階級に分かれています。

それぞれの給料は以下のとおりになっています。

1尉 月額27万円から46万円

2尉 月額25万円から45万円

3尉 月額23万円から44万円

ちなみに、防衛大学校の卒業者、一般幹部候補生入隊の自衛官は、3尉から部隊勤務と

なります。

3尉や2尉であっても、20代の若手幹部の場合は、勤続年数が少ないので、階級が下

であるはずの「曹」階級の隊員よりも、給料や年収が低くなることがあります。

一般的に、定年時の階級は1尉前後となる人が多く、その場合、定年間際の年収は70

0万前後となっていることが多いです。

自衛隊員の年収と給料を決める意外な基準3つ

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

年収や給料に影響を及ぼす基準といえば、やはり「学歴」です。

一般的な企業では、最終学歴により給料の額に差が生じ、高学歴であるほど基本給や給

料が高くなっていく仕組みになっています。

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しかし、自衛隊員の場合は、学歴による給料の差は存在しません。

むしろ、自衛隊員において重視されるのは「経験年数」です。

例えば、同年齢で高卒直後に入隊した人と大卒直後に入隊した人とで給料を比較すると

、高卒で入隊した人の方が多く給料を貰っている場合もあるのです。

その他、意外な要素が自衛隊員の年収や給料を左右することもあることを、この章でご

紹介しましょう。

1.階級を上げていけば学歴は年収や給料に関係なくなる

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

先ほども申し上げたように、自衛隊の世界では、給与を決めるのは「学歴」ではありま

せん。

どんな状態で入隊したとしても、その後の勤務状況や昇任試験での成績によって、階級

が上がっていけば、その分年収も給料も上がっていく仕組みになっています。

例えば、高卒で入隊した場合、一般的に上り詰める階級は2佐程度ですが、2佐になっ

ていれば、年収800万円程度までアップします。

一方、大卒で入隊した場合、一般的に上り詰める階級は1佐程度ですので、同様に考え

ると、年収は1000万円程度となり、高卒の入隊者よりも200万円程度差が生まれ

ます。

でも、あくまで確実に階級が上がっていけば、の話です。

高卒だから階級が上がりにくい、ということは自衛隊においてはありません。

逆に、大卒だから階級があがっていくということでもありません。

すべては経験年数と昇任試験の成績が左右することになります。

2.配属地によって金額が違う「地域手当」もある

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

自衛隊員はみなさんもご存知のように「特別国家公務員」であり、いわゆる国の公務員

でもあります。

国の公務員は、当然全国各地で勤務をする必要がありますが、その勤務地によって物価

の高い場所や安い場所などがあることから、それらの格差を調整するための「地域手当

」という仕組みがあります。

一般的に、物価の高い東京や大阪などの都市圏では、地域手当も高くなります。

ですので、結果的に自衛隊員は配属されている基地の所在地によって、地域手当が異な

り、年収や給料にも差が生じていることがあるのです。

3.入隊時に任期が決まっている場合は年収や給料にも格差が生じる

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

自衛隊に入るといっても、入隊の方法はさまざまなものがあります。

例えば「自衛官候補生制度」は、入隊時に任期を定めて、決まった期間だけ自衛隊員と

して入隊する、契約社員と同様の制度があります。

期間中は自衛官として働き、任期が終われば退職になりますが、その分応募条件は「1

8歳以上27歳未満」だけで、学歴や性別等は問われませんから、自衛隊に入隊しやす

い方法の1つでもあります。

ですが、この制度で入隊した人は、どんなにがんばっても昇給するのが「士長」までに

なるので、年齢や経験年数がどんなに経過しようとも、士長の上限値までしか年収も給

料もアップしないのです。

一方、もう1つの入隊方法として「一般般曹候補生制度」で入隊した場合は、「士」階

級からスタートして、「曹」階級になる事が前提となっています。

また、この制度では入隊任期の定めはありません。

ちなみに、この制度で入隊した人について、給与面では自衛官候補生とまったく変わり

ませんが、入隊任期がないので、昇任試験を受けて階級を上げれば、年収や給与をアッ

プさせることは可能です。

自衛隊員の年収や給料は任務で異なる?実際にあった実例3つ

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄今まで、自衛隊員は

、入隊の経緯を踏まえて、任務を精勤に務め、かつ昇任試験を経ることで、技能や経験

に即した給与が支給されるということは、わかっていただけたでしょうか?

この章では、一般的な階級や基準だけでは判断されない、レアなケースにおいて、実質

的に年収や給料がアップする実例をいくつかご紹介します。

1.特に危険を伴う任務の際には手当がアップする

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

意外なことですが、自衛隊員も一般の企業や公務員と同様で、ボーナスや扶養手当など

といった様々な手当が付きます。

特に、自衛隊員は災害時の救援活動や、諸外国での平和維持活動など、危険な業務も伴

っているため、他の企業や公務員よりも手当が充実しているのが特徴です。

特に、危険を伴う手当については、次のようなものがあります。

・爆発物取扱作業等手当

・航空作業手当

・異常圧力内作業等手当

・落下傘降下作業手当

災害派遣等手当

・除雪手当

・夜間特殊業務手当

海上警備等手当

・夜間看護等手当

感染症看護等手当

・海外派遣手当

・南極手当

危険な任務に就くことは、その分必要な手当を支給してしかるべき、というのは自衛隊

員、というよりは国家公務員の基準として当然と考えられています。

ですので、危険な任務を遂行している自衛隊員は、同じ階級であっても手当が多いため

に、年収や給料は異なるというケースが出てきます。

2.海外派遣された自衛隊員は年収や給料がアップしている

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

自衛隊員は、PKOやPKF活動のために、海外派兵されることも多くなっています。

最近では南スーダンアフガニスタンイラクなどに自衛隊員が派兵されていました。

これらの任務に就く自衛隊員は、当然「危険手当」や「海外派遣手当」などの手当が手

厚く支給されますから、当然年収や給料もアップして当然です。

そして、派遣から帰国したのちの昇任試験においても、海外任務の経験が加味されるの

で、昇任試験に合格しやすいのも事実です。

海外派兵イコール年収や給料のアップが見込める、と考えてもいいでしょう。

3.年収や給料は低くても勤務地次第で貯金も可能である

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

常に危険と隣り合わせの仕事でもある自衛隊員ですが、平時のときの仕事は、やはり万

事に備えて訓練にいそしむことが仕事と言えます。

実は、自衛隊員はずっと駐屯地にいることが義務づけられているわけではありません。

自衛隊員であっても、結婚すれば駐屯地外に家を購入したりアパートを借りて住むこと

もできますし、休みの日は一般の企業に勤めている人となんら変わりない生活を過ごし

ているのです。

ただし、訓練期間中は話が変わってきます。

訓練期間中は施設で生活をすることになるのですが、期間中には食事は支給され、移動

も専用の車両で移動するので、交通費も一切かかりません。

もちろん、制服や作業服も支給、洗濯やクリーニングも無料となれば、訓練期間中の生

活費はほとんど必要ないと言えます。

つまり、年収や給料がどんなに低くても、用意されているサービスや、支給される食事

等を利用すれば、収入の過不足を一切気にしなくて済むというわけです。

また、ケガや病気になった時は「自衛隊病院」を受診することができ、自衛隊員が受診

した場合や検査を受けた場合、見つかった病気の治療の費用まで無料になるので、これ

またお得な環境といえるのです。

これらの福利厚生は、階級や勤務年数は関係なく、すべての自衛隊員が利用できるので

、上手く利用すれば年収や給料に換えがたいメリットを受けることができます。

まとめ

自衛隊員の年収はどれくらい?自衛隊の給料に関係する10の事柄

自衛隊は、国内のみならず、海外へもさまざまな災害救助活動や平和維持活動を行って

おり、その活躍の場は大きく広がっています。

そんな自衛隊を支える隊員の給与は、その任務の危険性などを考慮しても、やはり一般

の企業などに比べたら、高額です。

むしろ、国民の生命と財産を守るという役割を遂行するために、優秀な隊員を育て、組

織を維持していく必要がある以上、自衛隊員になりたいという人々を増やすための努力

が必要です。

その努力の1つが、今回取り上げた「年収」と「給料」であるともいえます。

自衛隊員になるには、年齢次第ですが、若ければ若いほど入隊のチャンスもあるし、昇

任のチャンスもありますから、興味がある人は、ぜひ自衛隊入隊を検討してみてはいか

がでしょうか。

 自衛隊員の給与には諸手当は含まれていません。

      膠原病とともにに・・・。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 宝塚朱出身の「安奈淳」さんの

18年もの不治の病との壮絶を乗り越えて

今歌える喜びをひしひしと感じておられます。

 何度絶望感を味わい

何度地獄のような環境の元お過ごしであったろうと

想像するに余りあるものを感じないわけにはいきません。

  病と言ったトンネルはあまりにも暗く長く、孤独の中を

息も絶え絶えにお過ごしになったのであろうかと妄想します。

 でもこの病にかかって嘆き苦しんでも

翌日の朝はやってきます。

やはり、心穏やかに保つためにも

病との共生力はいるのだろうと感じています。

苦しく乗り越えないと思えばそれだけで

精神はやんでしまいます。

病をありのままに受け入れて、うまく矯正

することが最もこの病をやり過ごせる誘因にもなるのでしょうか。

身近にともあれば、それだけで半分以上の力は整えられもする。

 膠原病を生きる引用文です。

茨城県新治村・会社員

 予期せぬ結果に思考が停止し、激しい脱力感と共に、世界が音を立てて崩れていく感

覚に襲われた。その直後、ならくの底に沈んでいく自分の姿がはっきりと見えた。まさ

に絶望の淵に立たされたのだった。 

 これは三年半前に、それまで十年間近く苦しんできた病気が判明した時の、私の偽ら

ざる心象風景とでも呼ぶべきものです。その日、医師から、「全身性エリテマトーデス

(SLE)」という難病の膠原病と言われた時、私は生きる意欲を完全に喪失し、死を

明瞭に意識し始めました。「自殺」という文字が脳裏で徐々にリアルさを増してきたの

でした。 

 ところが、そんな私は現在、毎日仕事をしています。しかも、極めて穏やかな精神状

態の中で、元気に生きています。振り返ってみて、あの時の自分からは、とても想像で

きません。あの時は、難病になった自分の運命を嘆き悲しみ、死をも覚悟したのですが

、それが今ではうそのようです。この変化をもたらしたものは、決して自分一人の力で

はありません。家族の存在は元より、それに加えて、入院した病院の主治医K先生と、

同病のSさんとの出会いがあったからです。K先生は三十歳過ぎの若い医師ですが、私

の苦悩を真正面から受け止めて下さいました。そして、真摯な助言を下さったのです。

Sさんは同病の先輩として、十年を超える自らの経験を話しながら、私を励ましてくれ

ました。Sさんは五十歳前後と覚しき女性ですが、難病とは思えないほど、とても快活

な方でした。 

 お二人には共通する考え方がありました。それは、「病気との共生」というものです

。この考え方に私はとても新鮮かつ強烈なインパクトを受けました。というのも、その

時までの私は、病気は体にあってはいけないもの、排除すべきものという考え方をして

いたので、病気と共生することなど想像もできなかったのです。まして不治の難病との

共生など、しょせん不可能であると、あきらめてもいたのです。仮にそれが可能であっ

たとしても、難病を抱えて生きることにいかなる意味があるのかと、懐疑的でもあった

のです。 

 ところが、K先生もSさんもそれが充分可能であり、そうして生きる人生に大きな意

義を見いだすことも可能であると、おっしゃったのです。K先生は、この病気特有の禁

忌事項により、生活上少なからず制約が課されるので、これまでとは違う生活の仕方が

必要になってくる。また、それを実行するためには、おのずとそれに合わせた意識の変

化が伴わなければならない。それさえできれば病気との共生は可能です。そのためには

まず、現実を受け入れる勇気と強い希望を持つことが肝要です、とおっしゃいました。

SさんはK先生の言葉を実証してきたのでした。彼女の顔には難病との共生を苦痛と感

じさせるような様子は、少しも見られませんでした。逆に生きていることの喜びと感謝

の念が、ありありと見て取れました。ちなみにその時のSさんは、膝の骨折のために入

院していたのです。 

 お二人との出会いによって、私は病気と真正面から向き合う勇気と、生きる希望を得

ることができたのです。あれから三年半経ちますが、お二人の助言や励ましによって共

生の道を選んだことに、多いに満足しています。種々の制約は伴うけれど、決して苦に

はなりません。むしろ病気との共生は、私に次のような事実を教えてくれたのです。 

 この病気にはストレスが最も悪いものの一つとされています。それは、非肝要な心的

態度、現代社会にはんらんしている欲望に振り回されて自分を見失うこと、そして、ス

ピード化された社会での焦燥感からくるようです。これらからいかにして自由になるか

が、この病気との共生の正否の鍵です。いま、私の病気はとても安定しています。共生

が順調なのです。これは私がストレスをためる諸原因から、かなり解放されていること

を証明するものです。先に、穏やかな精神状態にあると書きましたが、これがその証左

ではないでしょうか。確かに、病気との共生を始めてから、自分が変わったように思わ

れます。体から余分な力が抜けて、とても心地良い状態です。 

 K先生がおっしゃっていた、意識の変化が伴うとは、こういうことなのかも知れませ

ん。私は病気との共生を経る中で、知らず知らずのうちに自分を変えてきていたのです

。そしてそれは、自分の生き方に最も適したあり方なのです。 

 こうして考えてみると、この難病が、本当の自分のあり方を考える契機を与えてくれ

たのかも知れません。当初この病気は、憎悪の対象でしたが、今は、友人のような存在

に変わりました。もちろん病気であることは、決してうれしいことではないけれど、病

気によって自分の人生を見直し、生きることに喜びを感じる自分に出会えたことに、感

謝しています。  

日本医師会ホームページ http://www.med.or.jp/

 

     山系より。

【ゆうゆうLife】病と生きる 女優・歌手 安奈淳さん(70) 危機を乗り越え

達観 歌える喜び世に還元 (2018年3月29日 15:13)

 昭和50年代、社会現象にまでなった宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」で、2代目オ

スカル役としてブームを牽引(けんいん)した一人、安奈淳さん。退団後もミュージカ

ルやテレビに活躍の場を広げ、多忙を極めた。しかし平成12年、膠原(こうげん)病

により生死のふちをさまようことに。以来、病と生きて18年。だからこそ、歌える喜

びをしみじみと感じるという。(聞き手・服部素子)

                  ◇

 大病院なら、いまはどこでも膠原病科がありますが、当時は「膠原病です」と言うと

みなさんに「高原病?」って言われたぐらい認知度が低かった。膠原病は、原因不明の

自己免疫疾患。その中でも関節、筋肉、腎臓、心臓、肺など全身の臓器が障害を受ける

難病の「全身性エリテマトーデス(SLE)」が、私のかかった病気です。

 緊急入院したときのことは、ほとんど覚えていないんです。覚えているのは、ベッド

に寝かされ、背中に管を入れられて、ベッドの横にあった大きなビーカーみたいなもの

にどんどん黄色い水がたまっていったこと。看護師さんに「あれは何ですか?」って聞

いたら「尿です」と言われて…。その後、10日間ほど記憶がありません。

 少しずつ体にたまった尿が肺に届き、心臓の外側にもたまりだしていたそうで「(私

の)余命が3日」と言われた友人たちは、お別れの会をどうしようって、右往左往した

らしいです。

 なんでそこまで我慢したんでしょうね。「なんてバカな」って思いますよね。

 後から主治医が、「こういうひどい状態の患者は診たことがない。いい研究材料にな

りました」って。その言葉を聞いて「医学の助けになったのかな」とちらっと思いまし

た。

                 ■ □ ■

 治療は、ステロイドの大量投入。それで危機は脱したんですが、多臓器不全という状

況になり、今では考えられない、ステロイドインターフェロンの筋肉注射を併用する

という治療法で一命を取り留めました。

 ただ、薬が効くということは副作用も壮絶で、目が見えなくなり、耳も聞こえなくな

って、幻聴・幻覚、味覚障害。食べられない。そして重度の鬱。入院したとき60キロ

を超えていた体重が、水を抜き終わったときは37キロほど。骨と皮で、友人は「人体

模型」みたいって言ってました。

 主治医に言われて印象に残っているのは「膠原病は難しい病気だが、珍しい病気では

ない。完治は望めないが、薬でコントロールできる」という言葉です。もともと過去を

ひきずらない性格なので、「なりたくってこの病気になったわけじゃない。『まな板の

上のコイ』の心境で、めげないで生きていこう」と決めました。

                 ■ □ ■

 難病なので完治はしませんが、数値はよくなって、肝臓も肝硬変寸前だったのが、新

薬のおかげで治りました。

 2年前には、腎臓がんの手術もしました。数年前に心臓弁膜症と言われ、「膠原病

心臓に、がん!」って思いましたが、早期だったし、転移もなくて、主治医から「腎臓

がんは、卒業です」と言われています。

 そんなふうに何回か危篤状態を乗り越えてきたことで、ある意味、達観したというか

、欲っていうものがなくなりました。

 昨年、古希のコンサートをさせてもらったし。18年前を知っている友人たちは、い

ま、私が歌を歌ったりしながら普通に生きているのが信じられないと言います。

 コンサート活動のほかに「朗読ミュージカル」にも取り組んでいるんですよ。宝塚の

先輩で、童話作家の山崎陽子さんが脚本と演出を手がける文学と音楽、演劇を融合させ

た独特の世界観の舞台です。ステージには、ピアノ1台と演者1人しかいないんです。

 今度、4月21日に大阪の大丸心斎橋劇場でさせていただくのは「樫(かし)の木の

下で」という、幼稚園の先生が数十年を経て卒園生と再会する、すてきな物語。私のほ

かに、俳優の宝田明さんら3人もそれぞれの物語を演じます。

 振り返れば、あっという間に70歳。生きて、歌える幸せを、世の中に還元していく

のがこれからの私の役割だと思っています。

                  ◇

 【プロフィル】安奈淳

 あんな・じゅん 昭和22年、大阪府出身。40年、宝塚歌劇団入団。花組星組

トップスターとして活躍。代表作に「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」など。5

3年、同歌劇団退団後は、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」「レ・ミゼラ

ブル」など多くの舞台に出演。現在は、コンサートを中心に活動。著書に「安奈淳、膠

原病と闘う」など。

     がんをいきるには・・・?

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 女優の古村比呂さんの癌をあるがままにうけいれて

生きる姿勢に感銘いたしました。

誰もが癌の洗礼を受けても当たり前の時代を迎え

 その日々の病気との向き合い方が問われてもいます。

 癌と向き合うことは多くの制限と、苦しみの中からの

自らの生きざまを 見いだしそこからの出発は相当の強い

意思と覚悟がなければ過ごすことは皆無であろうといつも感じています。

 加齢による体力の低下に加え病魔、プラス医療費の負担は

あまりにも過酷としか言いようがない。

 近頃ではがんがすぐに死に直結するものではないので

ある程度の治療後は我が家で過ごすことが定番のようになってもいます。

食べずらくなった時の食事管理と身辺の暮らしのサポートをどのようにするかなど

考えるだけで疲れ切ります。

 ある程度のモデルケースがあると助かりますけど

不安を払しょくするためにはどのようにプランニングしてゆけばよいのか

様々のケースに接しながら、不安を一つ一つなくする知識は持ちたくは思っています。

 癌の暮らしはそれだけで、壮絶なる暮らしだけは想定できます。

     アサヒコムより。

あるがまま、がんと歩む 古村比呂さん「心の持ちよう」 (3/27)

がんの再々発について話す古村比呂さん=東京都中央区、池永牧子撮影

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 子宮頸(けい)がんの2度目の再発を2月に公表した俳優の古村比呂さん(52)。

2017年11月末に肺とリンパ節への転移が分かり、抗がん剤治療を受けていると言

います。病と向き合う日々についてお話を伺いました。

感情がフリーズ

 ――再々発を告げられたときは。

 ショックでした。感情がフリーズしました。言われていることを受け入れたくないと

いう気持ちがあったのでしょう。感情が入ると、先生の話をきちんと聞けないからとい

うのもありました。

こむら・ひろ

北海道美幌町生まれ。1987年、21歳でNHK朝の連続テレビ小説チョッちゃん

」のヒロインを演じ、その後も舞台やテレビドラマに出演。2011年に子宮頸がんが

分かり翌年手術。17年3月に再発、同11月に再々発が分かり通院治療中。離婚後、

シングルマザーとして息子3人を育てる。リンパ浮腫に悩む人の交流の場「シエスタ

会」を15年夏に始めた。

 1度目の再発が分かったのは、子宮の全摘手術をしてからちょうど5年たった昨年3

月。その後1カ月間は集中的に抗がん剤放射線で治療して、夏にはどうしてもやりた

かったテレビドラマ「トットちゃん!」出演の仕事もできて、さあこれからというタイ

ミングでした。

 その1カ月の集中的な治療では、吐き気やだるさの副作用がきつかったので、再々発

と言われて「またあれをやるの?」と恐怖をおぼえました。吐き気止めの薬を変えて良

くはなったんですが、次に味覚障害が出て何を食べても金属的な味になり、食欲が落ち

ました。言葉は悪いけれど「えさ」を食べているような状態。治療の後、味覚が元に戻

ったときはほっとしました。そういう記憶があったので怖くなったんです。

がんの再々発について話す古村比呂さん=東京都中央区、池永牧子撮影

 ――現在はどんな状況ですか。

 1月から新たな抗がん剤の治療を受けていて、しびれが少し出ていますが、体調は良

いと思います。以前はとにかく「がんを消そう」ということばかりで余裕がなかったの

ですが、今回は体がどう反応しているかとか、どうしたら気持ち良く過ごせるかとか、

冷静にパターンを見ています。

 食事はこれまでいろいろ試して、自分なりにベストコンディションになるものを探し

てきました。完全な玄米食は消化がうまくできなくて合わないとか、脂や甘い物をとり

すぎないようにするとか。大好きなアイスクリームもセーブしています。

がんの再々発について話す古村比呂さん=東京都中央区、池永牧子撮影

 でも食事って楽しむのが一番。外でだれかと食べるときは、あまり気にせず楽しく食

べます。

心の持ちようが大きい

 ――再々発を公表した2月の時は「気持ちの整理がついていない部分がある」とおっ

しゃっていましたが、その後どうですか。

 開き直ったんですかね。なるようにしかならないと。長いスパンの目標に向けて今、

何をするかと考えるより今を楽しむ。その積み重ねで、結果として何かを成し遂げられ

ていたらそれでOKという気持ちです。

 「闘って頑張る」という姿勢は、短期集中ならばなんとかなるけれど、ずっとスイッ

チオンだと私は疲れちゃうんです。体が硬くなる。いま起こっていることと対峙(たい

じ)してうまくやっていこうという方が、体が緩んで調子も良かった。

     ではごきげんよろしゅうに・・・。

 私は1人でぼーっとしている時…

     桜井よしこ。(美しき日本へ)

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 北朝鮮が突然対話政策に家事を切ったかのように

ここにきて、関係国との友好対話を矢継ぎ早に求め

あたかもこれが成功裏を収めたかのように報じられている。

北における分析は、国々の思惑と相まって

その足並みがそろいにくい状態にもなってきている。

核問題における温度差があることも見え隠れする。

中国の動きこそが驚異ともなるはず

強硬姿勢は中国の独走態勢の脅威に対し、日本がどれほどの外交対処ができるかは

はなはだ疑念が残る。

 ある種北朝鮮と中国は並行して対処しなければならなくなって

来ているのではなかろうか?

 国会が、政府に丸投げするのではなく

中国の独走態勢につき大いに論議を尽くされたいものです。

     産経より。

櫻井よしこ 美しき勁き国へ】北朝鮮を利する「日本は蚊帳の外」 批判より拉致問

題解決へ全政党が知恵を絞れ (2018年5月14日 05:00)

 トランプ米政権が腕力で北朝鮮を動かしつつある。

 外交には対話も必要だが対話の席につかせるためにいまは圧力だ、制裁を緩めるタイ

ミングを間違えれば対北朝鮮外交は必ず失敗するとトランプ氏に説き続けたのは安倍晋

三首相である。5月9日、東京での日中韓首脳会談で中韓両首脳にも同じことを説いた

 トランプ氏とポンペオ国務長官ボルトン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)の

強力なチームは、安倍首相と緊密な関係を保っている。彼らは「リビア方式」と呼ばれ

る妥協の余地のない手法で核全廃のみならず、完全な核廃棄のためには軍事オプション

もあり得るとの構えを崩さない。

 トランプ氏は米朝首脳会談に応じると決定(3月8日)した1カ月後にボルトン氏を

補佐官に就任させ、5日後、英仏軍とともに、化学兵器を使用したシリアに105発の

ミサイルを撃ち込んだ。5月8日にはイランとの核合意からも離脱した。

 米政権の強硬姿勢は朝鮮労働党委員長の金正恩氏に究極の恐怖心を抱かせたことだろ

う。それが3月25日からの北京訪問であり、それまで嫌い抜いていた習近平国家主席

の懐に飛び込んだ理由である。

 中国の後ろ盾を得て、段階的核廃棄説を語る正恩氏に対し、ボルトン氏は4月29日

、米CBSニュースの「フェース・ザ・ネーション」に出演して、北朝鮮問題の解決法

は「リビアモデル」だと明確に語った。カダフィ大佐が全ての核関連施設を米英両国の

情報機関に開放し、3カ月で核廃棄を成し遂げたのがリビア方式だ。北朝鮮に年単位の

猶予期間など与えないという意味だ。

 それだけではない。ボルトン氏は続けて、日本にとっても重要なことを語っている。

 「弾道ミサイル、生物化学兵器、米国人人質、何年にもわたる罪もない日本人および

韓国人の拉致についても話し合わなければならない」

 「家族会」と「救う会」はこれまで6回以上、ボルトン氏を訪ねている。「救う会

代表の西岡力氏は、5月の連休中に拉致被害者横田めぐみさんの弟、拓也氏らととも

にワシントンを訪れ、国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長のポッティンジャー

氏に会った。元記者で元海兵隊員のポッティンジャー氏は拓也氏を抱きしめて語ったと

いう。

 「拉致被害者5人が帰国したが、まだ8人が戻っていない。それ以外にもたくさんの

人たちが拉致されていますね。全員が帰ってこないことにはあなた方の目標は達成され

たといえないのでしょう」

 米国人の人質3人はちょうどこの頃、解放された。それだけに日本人にとって胸の奥

に響いてくる言葉である。拉致被害者全員の一括即時帰国は家族会や安倍首相の主張を

代弁するものだ。

 どの国のどの指導者に会っても、安倍首相は必ず、北朝鮮の国家犯罪である拉致につ

いて語ってきた。日本から遠いアフリカ諸国歴訪でも同様だ。全ての国の指導者に、問

題解決への協力を要請し、北朝鮮に対する道義的制裁の網を国際社会で築き上げた。だ

からこそ、4月の米フロリダ州における日米首脳会談でトランプ氏は次のように語った

のだ。

 「拉致問題解決がシンゾーにとって最重要課題だから、私にとっても大事なのだ」

 南北会談、中朝会談、米朝会談などが続く中で、「安倍政権は蚊帳の外」「拉致問題

を抱える日本への(米国の)配慮は皆無に近い」などという批判があるが、無責任とい

うものであろう。事実に反する政権批判は、政権の足元を危うくし、結局北朝鮮やその

背後の中国などを利する。いまは、日本人は力を集結して国難に当たるときだ。

 トランプ政権内に拉致問題への理解と同情があるとしても、情勢は甘くなく、6月の

米朝会談は日本の岐路となる。中国が北朝鮮の後見国となり、米国人人質を解放し、南

北融和ムードが演出される中で、米国がリビア方式か、軍事オプションかと迫るのは、

より困難だ。

 北朝鮮の非核化が実現したとしても、その後の朝鮮半島に米国が関与し続ける保証は

あるのか。韓国の文在寅大統領の社会主義革命路線を見れば、韓国が北朝鮮に歩み寄っ

て、朝鮮半島から自由や民主主義が失われていく可能性も高い。38度線が対馬に南下

するとき、日本は対処できるのか。

 中国の勢力拡大はこの間も着々と進んでいる。今年3月の憲法改正によって習近平

は終身、国家主席の地位を得た。立法府、行政府、司法、軍、さらにメディアも人々の

生活も宗教も中国共産党の直接支配を受ける。習氏は共産党イデオロギーを国内のみ

ならず、一帯一路を手始めにアジア、アフリカ、欧州にも浸透させるつもりだ。

 すでに台湾、南シナ海で米中対立が顕著になりつつあるように、米国はそのような中

国の世界支配を受け入れはしないだろう。米中の緊張が高まるとして日本には米国との

協調しかない。認識すべきことは、米国の協力なしには日本国民を救出する力さえ、い

まの日本にはないことだ。「蚊帳の外だ」と政権批判する前に、日本国として拉致問題

を解決するには、どうすべきか、国民を守れる国になるにはどうすべきかに全政党、全

政治家が知恵を絞るべきだろう。

 にもかかわらず、18連休して、ようやく始まった国会審議ではまたもや加計学園

題だ。5月10日、元首相秘書官の柳瀬唯夫氏の参考人招致を受けて、立憲民主党の逢

坂誠二衆院議員は、さらなる徹底調査が必要という観点から中村時広愛媛県知事らを国

会に呼ぶ可能性に言及した。彼らの視野に国際情勢や拉致被害者奪還という課題はある

のだろうか。

     山系記者、ステージ4のがんとの闘い

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 この素晴らしい青空の風薫る季節の中において

どれほどのお方が、病に苦しみ明日を迎えるために

壮絶な痛みや、多岐にわたる癌治療により

その副作用と闘い続けておられるのだろうと

想いを致すだけで心が痛み、青空に向かって「神様同化お助けください」と

合掌する毎日です。 そして今ある自分にも合わせて合掌したい気持ちです。

 山系記者(47歳)乗きしょうがんの経過報告を報道されるたびに

癌との戦いの壮絶さとその副作用の何と厳しいことかと

想いを馳せるだけで、その頑張りと生きる大切さを

子供たちにもその背中を見せることで

この上ない体験と家族の強いきづなの構築まで関心をもって

そっと祖っと心を寄せてもいます。

 人生の在り方を提言いただいているようにも解釈してもおります。

気持ちに息切れがきたした時が、戦いのendingを迎えるのかしらと思っています。

それぞれに少しでも穏やかな日のあることを

お祈りするばかりです。

     産経より。

【希少がんと共に生きる】点滴中断「奇跡」の転移なし 生きてこそ…錠剤は継続、副作用対策には依然苦戦  (2018年5月14日 01:00)

 ステージ4の小腸がんと闘っている筆者(47)=産経新聞政治部記者=は、平成29年1月から国立がん研究センター中央病院(東京・築地)で化学療法を続けている。だが、点滴で投与する抗がん剤「オキサリプラチン」は副作用が強く出たため、同年4月に中断し、抗がん剤は錠剤の「ゼローダ」だけにしている。あれから1年が経過した。点滴をやめても転移はなかった。まさに不幸中の幸いだ。だが、副作用対策には依然苦戦している。

 小腸の一部切除を当時赴任していた茨城県内の病院で行ったのは、28年12月19日。がん細胞は小腸の内側から外側に顔を出し、多臓器を包含する腹膜に散る「腹膜播種(はしゅ)」に見舞われた。手術で撃退するにはきりがないため、29年1月13日から化学療法を開始した。

 あれから1年以上が経過したが、今年4月は筆者にとってもう1つの節目だった。オキサリプラチン中断から約1年が経過した今年4月20日、CT(コンピューター断層撮)検査を受けた。検査結果を筆者の前でじっくり眺める担当医の口から出た言葉は「転移はしていませんね。腹水もありません」。ホッとすると同時に、うれしさのあまり涙がこぼれそうになった。

 昨年4月にオキサリプラチンの投与を中断したのは理由がある。

 手足のしびれや喉が締め付けられるような感覚異常、吐き気などの副作用が激しく出たことが大きい。その分、効果は大きく、腹膜にあった約1センチのがん細胞を見事に小さくしてくれた。そんな効果てきめんのプラチナ製剤をやめてもいいものか-。当時、逡巡したのはいうまでもない。

 ただ、希少がんという性格上、2次治療薬はない。オキサリプラチンが効かなくなる「薬剤耐性」が出てくる前にやめなければ、がん細胞が腹膜で大きくなったり、臓器に転移したりした場合、対応は困難になる。このことは生命に直結するため、恐る恐る点滴はやめ、その代わり朝晩6錠ずつのんでいた錠剤を7錠ずつに増やした。

 担当医によると、オキサリプラチンをやめた人の多くは半年以内に再発したり転移したりし、中断後1年間、再発や転移がなかった患者はほとんどいないという。つまり筆者が点滴中断後1年間、転移がなかったのは奇跡に近い。

 では、どのような患者が点滴の抗がん剤をやめても小康状態を保っているのか。担当医によると「『大丈夫か、大丈夫か』と様子を見ながらダラダラと錠剤の抗がん剤をのみ続けている患者」だという。

 今年4月20日に診察を受けた際、今後の治療方針を担当医と話し合い、筆者も錠剤の抗がん剤を最低年内は続けることにした。右へならえ、だ。ただ、この決断は副作用と戦い続けることを意味する。それは決して楽ではない。

 具体的には(1)働きすぎて疲労がたまると免疫力が落ち、感染症にかかりやすくなる(2)疲労の蓄積は吐き気を誘発する(3)冬が過ぎ、汗をかくことが多くなったものの、手足は乾燥した状態から脱することがなく、常にステロイド剤や保湿剤を塗っていなければ皮がむけたり、切れたりする(4)爪が変形し割れる(5)顔のシミが増えたり、皮膚の色が黒くなったりする-などが挙げられる。

 3月下旬には足の指に従来以上の激痛が走るようになり、1センチ程度の水疱が複数できた。歩行は困難になった。ただ、歩行をやめてしまうと、足腰が弱り、体力が落ち「死」に近づいてしまうという恐怖心もあった。些細なことではあるが、精神的に余裕がなくなり、イライラしやすくもなった。

 風呂で髪の毛をぬらしたくない時や、ヘアトリートメントの効果をアップさせたい時などに使う「シャワーキャップ」を足にかぶせ保湿することを試した。しかし、保湿させてしまうと、乾燥させることによって治っていく水疱はなかなか治らない。しかも、気づくとシャワーキャップが靴下の中で取れていたこともあった。結局、シャワーキャップを使うのを断念した。

 手には使い捨てのビニール手袋をして保湿させることを思いついたが、暑くなる時期を迎えるにあたり、出勤や取材の際、人目が気にならないといえば嘘になる。しかもビニール手袋をしながらだと、ノートパソコンで打ち間違いが頻発した。記者として致命的だ。そこで今では大きめのキーボードを購入し、ノートパソコンに接続して原稿を書いている。

 事ほどさように、抗がん剤治療を開始して1年以上が経過してもなお苦戦続きなのだ。それでも、錠剤までやめる勇気はない。生きてこそ-。この思いがついえることはない。 (政治部 坂井広志)